かんたんな仏教と現代哲学の対応と比較
かんたんな仏教と現代哲学の対応と比較
・仏教と現代哲学は同じもの
仏教と現代哲学は同じものだ。
仏教と現代哲学を並べて同質性を示す。
・3つの考え方から成り立つ
仏教も現代哲学も3つの物から成り立つ。
仏教は①中観、中、中道、②空、因縁、③色、仮、戯だ。
現代哲学は①ポスト構造主義、②構造主義とそれによる存在論と認識論、③実在論、実体、からなる。
両者の①②③は同じものだ。
・中道、中観、中とポスト構造主義
原始仏教ではお釈迦様は中道という考え方を述べている。
時代が下って大乗仏教の開祖、中観派の龍樹(ナーガールジュナ)は中観という概念を述べている。
中国仏教の中興の祖で日本でも天台宗の最澄でおなじみの天台智顗は中という概念で仏教の中核陽をまとめた。
一方で現代哲学ではポスト構造主義というのがある。
これらが同じものだ。
これらは今の言葉で言い直すとメタ認知ということになる。
認知を超えた視点に立て、ということである。
メタは私が習った田中利光先生の古典ギリシア語の教科書では「の後に」とか「の間に」とか意味があったと記憶するが手元に教科書がない。
メタが「超えて」「高次の」の意味を持つようになったのはアリストテレスのmetaphysics=形而上学からだそうだ。
メタ認知のメタもこの高次の意味で使う。
自分が認知している物を頭の中のメモリーに作動記憶としておいてそれを客観的に認識することだ。
「知らないことは沈黙すべきである」というウィットゲンシュタインの言葉はメタ認知の性質を端的に示している。
論理学上の重要問題である自己言及の矛盾やパラドックスを解消するためにウィットゲンシュタインの師匠のバートランド・ラッセルは論理学のタイプ理論はこのメタ認知を利用している。
論理をクラス=階層に分けてごちゃごちゃにしないということを骨子となっている。
上の階層から下の階層を俯瞰して見下ろし、両者を同一次元で論じないというものだ。
有名なゲーデルの不完全性定理などはこの問題にかかわるものでもある。
仏教の中、中道、中観はメタ認知であるが中という言葉を使うと「中立的に」「中に、中間で」「中心で」と考えるとよい。
階層構造だとツリーの形になり根元から枝葉末節を見る形になるかもしれない。
樹形図ならば起点が中となる。
中心に立つ場合には太陽系の太陽のようにその他の惑星などを見るイメージになる。
中立と考えるとあらゆる認識対象である物事のどれにもよらずに間に立ってみるということになる。
アリストテレスは形而上学を形而下学の後に立ってみるというやはり外部から、あるいは後になって振り返ってみるような意識だったかもしれない。
こう見るとポスト構造主義のpostとメタは同じ意味になる。
実際にポスト構造主義は構造主義の後の思想と考えるよりは構造主義より高次元で構造主義を超えた思想と考えた方が直接の意味が伝わる。
高次元、とか超えた、とかいうのは構造主義をディスってポスト構造主義を持ち上げほめるという意味ではなく、単に両者の関係を示す。
図に書くとクラスが違うという事だ。
平面に一次元加えて立体にして上から平面を見下ろすというイメージにすると単に幾何学的な関係に過ぎない。
中立ならばイデオロギーや思想、考え方があるときにどちらか一方の考え方を肯定して他方を否定するということがないということになる。
どちらも否定するのではなく両論併記だ。
論理学に排中律というのがある。
これはAかAでないかのどちらかしかないという考え方だ。
中の考え方は排中律に対するアンチでAとAでないもの以外にも何かありうるという考え方になる。
ある種の認知障害で中やメタ認知を持てないものがある。
メタ認知の障害、現実見当識の障害、病識の欠如などとして使われる。
白黒思考、0か100か、理想化と引き下ろし、否定か皇帝か、的か味方か、被害か加害かという思考になり精神病圏、精神病水準の思考だ。
思考障害や認知機能障害と呼ばれる。
たとえば妄想と呼ばれる症状がこれだ。
妄想とは修正できないことが特徴だ。
自分がおかしいことを言っている、おかしいことをしているかもしれないという可能性すら考える事が出来なくなる。
逆に精神病圏でこの障害を持つ場合の治療はメタ認知を持ってもらうための心理教育となる。
統合失調症は後天的な疾患なのでメタ認知を持てていた時期がある。
最初から持っていないタイプの統合失調症もあるかもしれないが、発症前にメタ認知を持っていた時期があるならばそれを思い出してもらうことが治療になる。
仏教もポスト構造主義も何に対して中であるべきか、メタ認知的であるべきかは同じものだ。
・空と構造主義
仏教と構造主義が中でありメタ認知べきであると言っている対象は同じものだ。
これは仏教も構造主義も2つある。
仏教では①空、②色、仮、戯という。
①と②の中、中道、中観であれ、というのが仏教の中の考え方だ。
現代哲学では①構造主義、②実在論となる。
①と②に対してメタ認知的であれというのが現代哲学のポスト構造主義だ。
②については後で説明する。
しかし①を説明するために軽く触れておく。
目の前に何か、例えば石ころのようなものを示されたとする。
これの実在を認めるのが実在論だ。
実在論では実体というものがある。
石ころは実体として存在する。
この感じを表現するのに「直感的」とか「自然」とか「自明」とかいう言葉が使われる。
構成主義発達心理学者のピアジェの認知の発達図式で言うとこの石ころを実体として存在すると認識できる段階を直感的思考段階という。
ここに至る前は感覚運動期と言われ要するに赤ん坊のことだ。
つまりこの直感は物心つくと同じことで物心ついたときに身につく。
あるいは物心つくとはこの直感的認識を獲得することを指す。
あるいはこの直感の成立モデルは精神科医で構造主義精神分析家のラカンのシェーマLやもっとさかのぼって精神分析のクライン派のメラニー・クラインの考え方でもある。
普通に生きていると目の前に石ころを出されて「この石ころは実在する」というのは自然なことだが、これが自然に行えない場合がある。
即物的に医学の例を挙げる。
失認という病態がある。
精神科医、脳神経内科医、脳神経外科医では普通に見る病態だ。
例えば認知症ではありふれた病態だ。
赤ん坊でもありふれている。
赤ん坊の場合は生理的で自然な失認と言える。
赤ん坊のころの記憶がない生理的健忘と同じだ。
事故などの脳損傷でも起こる。
高次脳機能障害としてまとめられるものの中には失認が往々に見られる。
一昔前に有名だったモダン・ホラーの帝王と言われたスティーブン・キングの小説に『デッド・ゾーン』というのがあるがこれは失認をモチーフにしている。
認識はしても認識したような気がしないという場合もある。
精神病理学では有名なドイツのブラン兼ブルグという人が書いた『自然な自明性の消失』という本がある。
精神科ではいろんな病気で自然な自明性の消失の症状がみられる。
最近では解離性障害の中で「離人症」や「現実感喪失」として扱われて解離として扱われているものもそうだ。
精神科でなくても普通の人でも常日頃みられるのは新しいことを学習する時だ。
何かの概念を理解しようとするときに学習成功するまではうまく概念を作れない。
学習に成功して作ってしばらく定着していても時間がたてば忘れてしまう時もある。
このような実在の考え方に対して必要ならば「石ころは存在しない」と言える考え方が必要だ。
これが仏教の①空、現代哲学の①構造主義となる。
実在すると思うのはリアリティがあるからだ。
①空や①構造主義を使えばこのリアリティをなくしてしまうことが出来る。
歴史的には仏教でも現代哲学でもまず①空①構造主義が作られてから中、中観、中道やポスト構造主義が作られている。
この①空や①構造主義の面白い所はリアリティをなくしてしまえるのと同じくリアリティを作り上げることもできる点だ。
これを仏教の般若心経では「色即是空 空即是色」という言葉で表している。
お釈迦様が空を見出したのは因縁の発見だ。
正式には十二因縁生気といいラカンのシェーマLに対応する。
無明から有、生、老病死が生成される。
これは空即是色に対応する。
逆に有、生、老病死は無明に解体される。
これはドイツ観念論と一緒の考え方だ。
フィヒテのイメージと重ねてほしい。
現代哲学では「脱構築」や「構築」という言葉で表している。
・仏教の初期の目標
仏教の初期の目標は苦しみを終わらせること。
苦しみを終わらせるためには輪廻転生をどうにかしないといけない。
輪廻転生がある限りたとえこの世では苦しまなくても将来生まれ変わったときに苦しまない保証はない。
幸いなことにインド文化圏では修行をすれば解決できるのではないかという希望があった。
多分初期には人間を超えた超人になることを想像していたのではないか。
南伝仏教は今でもこの考え方だ。
しかしおそらくお釈迦様が至ったのはおそらく超人ではなく哲学だった。
哲学なら勉強すれば誰でも理解できる可能性がある。
それでもお釈迦様の死後は教えは失われたと思われる。
お釈迦様が布教活動していた時も理解していないという感じがしたのだろう。
自分が死んだら教えが失われると言っている。
ギリシアもインドも古い時代の大切なことは口伝らしい。
ギリシアは知らないがインドは実はこの時代文字があったと聞いた。
それはともかく部派仏教時代に有力だったのは説一切有部でこれはお釈迦様の悟りとは異なるものになっている。
最近、ギリシア系王朝のミリンダ王の問いというのを見かけたがやはり輪廻転生の結論がおかしくなっている。
仏教を復興したのはおそらく龍樹(ナーガールジュナ)でこの人は大乗仏教の開祖とともに仏教復興を果たした中興の祖であると思われる。
龍樹ナーガールジュナ以降は空や中観の考え方は途切れていないと思われる。
・現代哲学の初期の目標
現代哲学の場合は多分ブレークスルーは複数だと思われる。
とするとお釈迦様もいろんなところで修行しているのでよく考えれば思想的ルーツをたどるのは面白いかもしれない。
最後のブレークスルーはラカンのシェーマLモデルの構築だと思う。
実は現代数学が先に同じことを成し遂げていたがそれがどの程度哲学に影響を与えたか分からない。
哲学の文脈で重要なのはニーチェの次は時代をあけてデリダだと思う。
その間は哲学というより現代思想というより広いくくりの中で様々な思想活動が営まれたようである。
デリダを一応哲学者という分類にしているが思想家と言ってもいいかもしれない。
そういうのをひっくるめて近代西洋哲学は現代哲学をもって完成したので高校の倫理のように倫理学というくくりでまとめてしまうのが適当かもしれない。
ラカンは精神科医で精神分析家でもあった。
ラカンやクラインなどは統合失調症に対する精神分析を臨床上試みているはずだ。
これは往々にして患者の精神症状を悪化させる。
精神病圏には適用外というニュアンスを込めて精神分析は神経症の治療とする風潮がある。
というかアーロン・ベックなどの戦略的な認知行動療法などの普及により現在は精神分析の影は薄い。
見方を変えるとフロイトの理論は神経症にはよかったが統合失調症には向いていなかったと言えるかもしれない。
早発性痴呆という病名を統合失調症に変えたブロイラーはどっちかというと連合心理学の連想の障害という意味でジャネの解離理論の方の影響を受けてschizophrenia=分裂性精神病=精神分裂病=統合失調症という名前を付けたと思われる。
分裂したり統合失調するのは連合と連想なのだ。
ラカンの理論は認識論についての精巧なモデルと言える。
それには構造主義が使われている。
この認識論によれば実在は必要ない。
近代哲学の2本柱は認識論と存在論だ。
この2つは相互に関係している。
存在論より認識論が優位だ。
認識論から存在論は導き出せるが逆は困難だ。
カントなんかは認識論は詳しいが存在論は物自体で片付けている。
だから実質的な西洋近代哲学の完成系はドイツ観念論と言える。
マルクス主義は経済学では古典派の、社会主義では空想的社会主義の、哲学では近代哲学を継いでいる。
どれも古いから現代からみるととても古臭い理論の寄せ集めではある。
しかしマルクス主義を含めた近代哲学、あるいは近代思想、モダニズムは圧倒的なパワーを持った。
現代哲学は近代哲学やモダニズムへのアンチテーゼと言える。
しかし近代哲学をある意味では否定しているが否定というよりは拡張一般化している。
モダニズムの実在論は否定していないからだ。
むしろ実在論をメタ認知で見ている。
中立的観点で見ている。
何に対して中立化というと構造主義による認識論と存在論だ。
そしてもう一つは実在論だ。
実在論と構造主義的認識・存在論をどちらに対して中立的に観よと言っている。
構造主義をメタにみよ、というのがメタ構造主義、あるいはポスト構造主義となる。
メタ認知はポスト認知と言ってもいいかもしれない。
モダニズムは実在論が必ず混じっていて実在論から離れられない。
完全に実在論から離れた見方として構造主義が作った。
・色、仮、戯と実、実在、実体
お釈迦様が菩提樹の下で悟ったのは無我、無常、そしてそれ故に輪廻転生はないことだ。
我がないのだから何が輪廻転生しているのか分からない。
分からないというか輪廻転生している物はない。
そういう結論になる。
我も他者も輪廻転生している生命体のパーツもない。
仏典ではお釈迦様が十二因縁生起を悟ったことが記される。
その後布教の段階で中道を説いている。
確かに無明から有や生や老病死の認識が生じ、有や生や老病死の認識は無明に還元、或いは解体されるのかもしれない。
しかしこれは一つの理論であってそうでない可能性もある。
やはり我はあって輪廻転生もあるのかもしれない。
我は霊や魂と書いても構わない。
それに伴わず因縁理論では全ての認識される対象が構築もされ脱構築もされる。
単に輪廻転生する何かを扱ったものではない。
輪廻転生するものが何であれ構築も脱構築もされる。
全ての認識できる物事は構築も脱構築もできる。
それくらい理論の拡張性、汎用性、一般性がある。
全ての物事に対する認識論と存在論である。
それに対して悟らなくても自然に持っている直感的な事物に対する考え方と認識がある。
これを色、仮、戯という。
天台智顗は中、空、仮=戯の3つとその関係を三諦論としてまとめた。
これはお釈迦様や龍樹ナーガールジュナよりよくまとまっている。
学問というのは後の時代の方がよくまとまる。
仏教の教学もそうだ。
現代哲学ではそれより前の思想群を発達過程で身に着ける直感的な認識、認知に支配されていると考える。
実在、実体があるという考え方から自由になれない。
実在論を含む。
構造主義的認識論や存在論は後から身につくものだが実在論を完全に代替できる。
代替できるから言語学や数学の基礎的な学問からあらゆるものを構造主義化するのが流行った。
構造主義が実在論の上位互換と考えることが出来るのは空や因縁が仮=戯の上位互換と見るのに似ている。
しかし両者の関係は対等だ。
どちらが正しいとは言えない。
あるいはどちらも正しいかもしれない。
どちらも正しくないかもしれない。
あるいはそんなこと分からないのかもしれない。
あるいはまったく別の第3の理論も成り立つのかもしれない。
ということでどちらに対しても中立的であるべきであるというのが正確な考え方になる。
これを表すうまい言葉が実は日常言語にはないようだ。
不可知論とも違う。
相対主義とか言えばやや近いかもしれない。
中立主義と言ってもいいかもしれない。
しかし既存の言葉を代用しても誤解を生む。
そしてこれは大変重要で有用な概念である。
というわけで新しい言葉を作ったのが中やポスト構造主義だ。
実際にはどちらも使いこなせるようになるべきだ。
実在論や色、仮、戯の概念は直感的で反応が早い。
目の前の石ころが消えてしまうことはない。
量子力学のようなこと、例えばアインシュタインの月やシュレディンガーの猫のようなことは考える必要はない。
しかし精神科診療や複雑な議論、文献テキスト読解、言語理解、数学などではなくてはならないものとなる。
ということは現代社会をきちんと理解しようと思えば構造主義は欠かせない。
哲学では長い間の存在論や認識論の問題を解決に導く。
ICTも自然科学を土台とした工学もこれを基盤としている。
社会問題の議論や社会的イデオロギーを考える時にも素朴な実在論ではそもそも議論や相互理解が不可能になりやすい。
わざと対立を吹っかけているならともかく意思伝達を意図して達成できず軋轢を生むのは不毛だ。
・実在論的認知がないと
実在論的認知は物心がつくのと同じだ。
幼児の認知だ。
しかし幼児の認知は大切だ。
高等教育を学ぶと初等教育で教えている内容は嘘や見立てが多いことが分かる。
しかし嘘や見立てが大切だ。
そもそも実在論的認知を省いて構造主義的認知を得るのは不可能だ。
後者は前者の土台の上に成り立つ。
高等教育を受けるためには初等教育を身につけなければならない。
実在論的認知の基礎的能力がないとそもそも言語を覚える事さえできないだろう。
言語に関係なくとても低いIQになるはずだ。
先天的なら重度のmental retardation精神遅滞、知的障害、知能障害、知的能力障害、知恵おくれ、白痴と言った。
重度とはIQ30未満だったと思う。
精神障害や老化、意識障害、その他で後天的に対象認識や対象にリアリティが感じられなくなることもある。
これを知っていると現代哲学や仏教が理解しやすくなる。;
だから精神科医に現代思想家が多いし、現代思想には精神科の表現が多い。
更には現代思想家には精神科的な病的体験を経験した人が多いかもしれない。
精神障害に苦しんだり精神疾患で自殺しりした現代思想家がいることは知られている。
仏教の方でも禅病というものが知られる。
そもそも幼少期から仏門に入れば統合失調症の前駆症状であるARMSは思春期に見られ、発症年齢は20台前半が多い疾患だ。
そもそも統合失調症に限らず精神科疾患の障害罹患率は10%以上でその4分の3が成人以下で何らかの兆候をきたすという研究がある。
お寺というのは昔は精神障害者の療養施設として使われた。
曝滝治療というのがある。
滝に打たれて精神疾患の治療をする。
京都の実相院や東京の高尾山が有名だ。
ただ自身の精神病体験や精神病者の観察が空の理解に役に立ったのかなどは全く分からない。
南伝仏教はある種の精神体験を重視している。
北伝仏教でも三諦論を保っていない宗派はあるように見える。
宗派で保っていても修行者や信者で三諦論を身に着けた人は少ないのではないか。
日蓮のように三諦論復興運動をした人はいるようだが教えの焦点がわきにそれている人も多いかもしれない。
・仏教の現代哲学の影響
2つくらいの例がある。
ニーチェは仏教や東洋思想の影響を受けていた。
日本の精神分析学の大物小此木啓吾先生の確か現代思想という雑誌に書かれていたものの中にあったのが、ラカンのパリフロイト派が危機の時に同じく日本の精神分析の大物古澤平作先生に東洋思想を知っている日本人なら自分の正しさが分かるはずだと援助を求めたとの記載があったと記憶している。
別に現代哲学以前には仏教以外にも現代数学や言語学をはじめ様々な現代哲学と同質の思想があったので仏教から影響を受けなくても別の思想から影響を受けたのかもしれないし、それ自体で自発的に成り立ったのかもしれない。
仏教の伝統的な考え方のようにお釈迦様以前にも仏陀いたし、お釈迦様以後にも仏陀は沢山いたのだろう。
現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。