かんたんな個人主義と集団主義、現代哲学と現代思想

かんたんな個人主義と集団主義、現代哲学と現代思想

・個人主義と集団主義

 世の中の主義は2つに分けてみよう。

 個人主義と集団主義、この2つに分ける。

 もちろん他の分け方もいっぱいある。

 いっぱいあるがここでは考えない。

 哲学の歴史とは対象範囲が狭まってきた歴史だ。

 昔は哲学の扱う範囲が広かった。

 今もその名残がある。

 博士号のPh.D.がそれだ。

 医者が医学部出ると勝手にM.D. すなわちメディカルドクターを得られる。

 医者のことをドクターというのはこのためだろう。

 医者なら博士号を持っているのだ。

 ただ当然医学部出ただけでもらえるM.D.の価値は軽い。

 だから医者は医学部の6年に加えてもう4年かけてPh.D. を取ろうとする。

 実は日本ではこのPh.D.も重さが微妙だ。

 京大のように最低限海外の英語雑誌に論文をアクセプトされないとPh.D.を貰えない大学がある。

 他方で4年間医局の雑用をするとPh.D.を貰えてしまう大学もある。

 後者があるからPh.D.の評価は複雑だ。

 後者は医局の労働力だし、最低限の院生がいないと附属病院の病棟、外来が回らない程制度に組み込まれてしまっているのだ。

 京大みたいな研究マインドの高い大学では院生の雑用、病棟業務、外来診療を免除されていて研究だけやっていても良い科がある。

 精神科医がそうだ。

 京大の場合は厳密には精神科神経科という。

 脳神経内科や脳神経外科とは違う。

 脳神経内科は昔は神経内科と言ったが今は名前が変わったようだ。

 京大の全ての医局がそうなっているのかは知らない。

 日本の全共闘運動というのは東大と京大の精神科から始まって1990年頃まで医局が分裂していて博士号も出していなかった。

 その名残かもしれない。

 Ph.D.を取らないといけない場合というのは大学で講師、准教授、教授と進みたい時だ。

 これは普通の大学はPh.D.がないと講師以上には進めない。

 特殊な場合を除いて。

 昔はまだ緩かったかもしれないし、文系の学会は博士号を取るのが難し過ぎて取らないでも昔は教授になれたりした。

 今は知らない。

 ニュートンの大ベストセラーでロングセラーは『自然哲学の数学的基礎』であって自然科学ではなく自然哲学という言葉が使われている。

 現在では自然哲学という言葉自体が死語に近い。

 ドイツ観念論くらいまでは哲学の意味が現在の倫理や道徳、真善美の価値観なども含んだ。

 今はそういったものは倫理学と言って哲学を含めたより大きなくくりになっていたり、心理学や認知科学、神経生理学のなどの担当領域になっている。

 現代哲学に残されたのは存在論と認識論だけだ。

 それももう解決してしまった。

 哲学の担当領域が狭まっていった上にその解答も出てしまったので哲学という学問は研究対象としては終わった学問だ。

 哲学者というものは現在大学にはいない。

 と昔書いたら怒られたが実際そうだ。

 哲学を研究する、という場合哲学史や個々の哲学者の研究をしたり哲学の応用を考えたりしている。

 あるいは教養学部の教養課程で教育するだけだ。

 残された哲学、現代思想は極めて個人的なものになっている。

 あらゆる理論や思想に応用できるし現にその基礎になっているので別になんでも扱えると言えば扱えるのだが、科学に対する工学、応用科学に過ぎない。

 こういうものはどちらかというと現代思想と呼ばれる。

 これは現代哲学を含むより大きなくくりである倫理学の一領域と言えるかもしれない。

 哲学は流行らないが倫理学者というものはそれなりにいる。

 現代思想という言葉は一時流行したせいで逆に廃れ陳腐化し曖昧なものを指す言葉になってしまった。

 あるいは現代哲学と同義語として使われる。

 あるいは死語だ。

 そもそも現代哲学という言葉自体が使われない傾向だ。

・現代哲学の発祥

 現代哲学の発祥はニーチェなどの実存主義、フッサールなどの現象学、精神分析の自己同一性研究などを起源として発展したものだ。

 実存主義では「何か」ではなく「どのように」が問題だ。

 我々自分の望むと望まざるとにかかわらず、いつの間にかこの世界に投げ入れられて生きている。

 投企という。

 実存主義のラテン語はexistentiaだ。

 実存は現実存在の略だ。

 因みに本質存在は実在と訳して差し支えない。

 ラテン語ではessentiaになる。

英語ではexistenceでexistだ。

ex「外へ」sist「立つ」ence「もの、こと」が語源で、「生まれ出て外に立つこと」から「存在」となる。

 我々は自分の望むと望まざるとにかかわらず世界に投げいられててしまった存在だということだ。

 そこは外部と他者の世界だ。

 「他人は自分と同じ、同じ人間なんだもの」

みたいな無邪気な考え方は実存主義にはない。

 実存主義は現代哲学の母体の1つだ。

 特にニーチェの影響が圧倒的だ。

 現象学は哲学を科学化する試みだ。

 科学とは方法の精神だ。

 まず科学としての哲学は扱えるもの、対象と出来るものとそうでないものの境界をはっきりさせる必要がある。

 哲学で扱えるのは現象までだ、というのが現象学の創始者フッサールが見出したことであり、これは現代哲学にも継承されている。

 「扱う対象、扱える対象とそうでないものをきっちり分ける」

 これは現代数学や自然科学の考え方でもある。

 特にフッサールは数学者出身で解析学の帝王ワイヤーシュトラウスや偉大な大数学者、代数学を公理化したクロネッカーの弟子や助手をしていた。

 19世紀数学の一番ホットなところにいた人だ。

 最初数学の基礎を研究したが、数学の基礎を研究するのも哲学の基礎を研究するのも似たようなものだと思ったのか哲学に転向した。

 現象学も現代哲学のルーツの1つだが、同じ現代哲学、というよりは構造主義のルーツである。

 数学者であるフッサールと数学者であるヒルベルトは別の方向から現代哲学を作るのに貢献した。

 現象学では自分に生じる現象の身を研究対象とする。

 これも実存主義と同じく極めてパーソナルなものだ。

 集団主義の片りんもない。

 普通に現代哲学をやると個人主義には直結するが集団主義に至るのは無理ではないがちょっと遠すぎる。

 数学や言語学の構造主義もルーツだ。

 このどれもが個人主義的であって集団主義的ではない。

 個人で勉強して個人で極めるべきものだ。

 というわけで現代哲学は個人主義的になる。

 現代哲学の応用を含めて現代思想と呼ぶのであれば現代思想もそうだ。

 他人や社会についてあれこれ言うよりまず「自分自身を知れ」ということになる。

苦行の仏陀を思い浮かべても分かるようにまずは個人探求だ。

ロビンソン・クルーソーというとたとえが古いが他人も社会もなくても自分は存在するのだ。

思春期心性、というものを精神科医は勉強する。

これが分からないと専門医も精神保健指定も取れない、ということになっている。

思春期は自己同一性確立期でもある。

この時期に他人や社会について悩むこともあるだろう。

この場合家族も他人や社会に含める。

そういったことについての問題意識や葛藤を取り除いたところで自分自身や個人的、精神的な問題は残る。

そういったことを何も考えない思春期を送る人も多い。

そもそも思春期とは近代の産物であるという意見もある。

反抗期のない子供が目立つようになり「エディプスなき時代」と言われてからもう数受運もたっている。

子供もほめて育てるようになり、子供時代の逆境体験が薄い人も多くいる。

他方で複雑性PTSDが精神科についに登場予定なのは一旦おく。

思春期には心理を求めたがるし、プラトンのイデア論や観念論的な具合に脳が発達する。

つまり内省や自省が生じる。

自分自身の心をメタ認知的に見れるようになる。

生物学では「個体発生は系統発生をたどる」という仮説がある。

個人の精神の発達や人類の思想の進歩もそれに似たところがある。

「個人の精神の発達は人類の思想の進歩をたどる」

あるいは、

「人類の思想の進歩は個人の精神の発達をたどる」

ようなところがある。

・現代哲学は誰でも学べる

 現代哲学を理解して最初に得なのは個人の内面的な問題を解決できることだ。

 そもそもお釈迦様がそうだった。

 現代哲学は仏教、特に大乗仏教と同じ理論だ。

 南伝仏教、上座部仏教は個人が超人、あるいは超常的な存在になるための方法だからちょっと違う。

 しかしお釈迦様の原始仏教やナーガールジュナの大乗仏教はただの哲学だ。

 だれでも学べば取得しうる。

 勉強するのと変わらない。

 南伝も北伝大乗仏教も神秘主義と哲学ということで経路が違うが共通する点がある。

 個人主義なところだ。

 確かにお釈迦様は三宝帰依により教団の大切さを説いた。

 だがこれは布教や悟りのために必要ということだ。

 手段と目的が転倒してはならない。

 大乗仏教は悟れない衆生のための仏教という考え方がある。

 それも正しいかもしれないが浄土教まで行ってしまうと「これは仏教ではないのではないか?」という外国人研究者の感想が出てくる。

 浄土真宗の偉大さはむしろプロテスタンティズムを先取りしたことにある。

 「信仰によってのみ義とされる」というものだ。

 だが現代では勉強さえすれば大乗仏教も現代哲学もマスターできるので個人の勉強が大切だ。

・主体であること

 個人主義では必ず主体が存在する。

 主体性のある個人が個人主義の前提だ。

 主体性は現代哲学の構成要素と言ってしまってもよい。

 ついでに自覚やメタ認知や自由もだ。

 現代哲学まで行かなくてもニーチェやサルトルなどの実存主義哲学がすでにそうだ。

 他人や社会は外部環境だが人というのは外部環境の構成要素の一つに過ぎない。

 人は他人や社会がなくてもロビンソン・クルーソーのように一人で生きられる。

 あるいは2001年宇宙の旅のように生きられる。

 「随所に主となれ」

 これは禅の言葉だ。

 常に主体性を持ち続けろ、という意味になる。

 仏教は主体性の塊だ。

 仏教と単にいうと広いので仏教のエッセンスと言ってよい。

 つまり中/中観/中道や空の思想、ついでに仮/戯などの実在論とその関係が仏教のエッセンスだ。

 南伝/上座部仏教に配慮すれば大乗仏教のエッセンスだ。

 現代哲学も個を極めることによって習得可能なり、個が出発点となる。

 個人と主体性、自由とメタ認知がないと構造主義もポスト構造主義も理解できないし理解しても使いこなせない。

・集団主義とは

 集団主義とは人間集団や社会がどうあるべきか、人間集団や社会の構成員がどうあるべきかということからなる思想だ。

 集団の構成員に差異、格差や差別、区別つけることはできる。

 しかし何らかの意味である集合をなす個人の集団に何らかの同一性を課す。

 逆にその同一性を課された集団の構成員は個人として別の構成員と同調した行動、時に思考をすることを強いられる。

 社会思想というものは純然たる無政府主義のようなものを除いては全てが集団主義であることが分かる。

 民主主義でさえ集団主義だ。

 経済的自由主義でさえ集団主義だ。

 戦争や暴力、強盗、略奪を念頭に置いていない。

 交換経済や市場主義、貨幣経済などのルールを念頭においてそれに従うことを個人に強いる。

 もしかしたら戦争や暴力や泥棒や略奪の経済学というのもあるのかもしれない。

 集団主義は集団に個人を服従させるための装置を持っている。

 国家の司法や警察などの強制、暴力装置がそうだ。

 物騒な書き方だが死刑や刑務所などが強制的にかせるための装置を国家は持っている。

 ここら辺は現代思想家のミシェル・フーコーによって論じられている。

 ただし精神的に人を殺そうと思っても殺さなければ罰せられない。

 そういう思考の自由を認めるのが近代法だ。

 内面の自由という。

 何を思ってもいいが実行して触法行為なら罪に問われる。

 この内面の自由の絶対保障こそが近代法の理念であるとともに法学や法律にかかわらず現代の常識だ。

 心の中で殺そうと思うのはよい。

 実際に殺したら犯罪だ。

 心の中で殺そうとするのもいけない、とレヴィナスのユダヤ人論で書いていたがそうなるにはよっぽどの刷り込みが必要だ。

 洗脳や刷り込みは現代哲学の望むところではない。

 そういうものから逃れるために出来たのが現代哲学であり、仏教だ。

 本当は経済学も純粋科学であるためにはそこまで拡張した方がいい気がするがそういう経済学があるのかは知らない。

 民主主義も多数決に従わないといけない制度だ。

 そもそもデモクラシーは翻訳したら民主制で制度のはずなのになぜか民主主義という言葉が使われている。

 言い換えれば多数決主義だ。

 個人に社会が共生を強いるものという意味では何もかもが集団主義だ。

 民主主義も独裁主義、社会主義、共産主義、マルクス主義、国家主義、世界政府主義と集団主義という意味では同じだ。

 ちょっと変な主義に保守主義がある。

 保守主義は旧を保つ、旧を守る考え方だが旧が曖昧なことが多く、しかもあえてあいまいにする場合がある。

 国としてはイギリスだ。

 日本も似たところがある。

 他の大陸諸国では文明が進んだところは保守主義でない傾向がある。

 哲学のイギリス経験論と大陸合理論の対置と似ている。

 海洋国家や島国、文明が発達していない所は保守的な傾向がある。

 大陸で文明が進んだところは保守的でない傾向がある。

 保守する対象があいまいだと個人や集団に自由が許される余地が多い。

 法治主義でなくても道徳主義、モラルレベルで社会秩序が守られる。

 暗黙の了解、以心伝心、不文法だ。

 こういう所では個人主義が保護される傾向にある。

 国家主義や法治主義でなくても秩序が守られるのだ。

 秩序が守られれば細かい強制や法律は必要でない。

 問題は問題とするから問題になるのであって、問題としなければ問題とならないことが多い。

 保守の古典的自由主義とは現代のリベラルとは違うものだ。

 現代のリベラルは集団主義だ。

 保守主義の古典的自由主義は自由権、消極的自由、法律ではなく法の支配というものを大切にする。

 法律と法は一緒ではない。

 人間には制度や法律で犯してはならない権利があると考える。

 それは法律が保証するものではなく、どんな法律が作られようと法律に優先して守られるべきものだ。

 これはその集団の保守の伝統に依存する。

 人知を超越した法があるという考え方でもよい。

 だからユダヤ人のシオニズム国家=近代主義国家であるイスラエルの建国をユダヤの正統派や保守派が反対したり現在でもイスラエルの法律に従わない場合がある。

 徴兵拒否などだ。

(ユダヤ教の正統派と保守派は違うものだがごちゃごちゃに書いてしまった。誤った使い方をしているがイメージだけもって頂きたい)

 変な話だが律法を勉強していない近代主義のユダヤ人より律法さえ知っていれば律法をきちんと守っている正統派や保守派の方が信頼できる。

 律法、本当はミシュナ、タルムードも必要だがそういうものに背かないと期待できるからだ。

 国家が重くない所では国家よりも信用できるものが多いことがよくある。

 国家より個人を信用したり、家族を信用したり、宗教を信用したり、マフィアのようなものを信用したり、国家の上にくるものがある場合がよくある。

 現代哲学は原理から考えるので国家や法律、制度、他人や特定集団、宗教や文化より個人、自分自身は等価である場合や、個人や自分自身を寧ろ上に置くことを考える。

・正当性と革命

 日本は国家が重すぎる、と司馬遼太郎は常々書いていた。

 イデオロギーというもののうさん臭さもかねがね書いていた。

 人間が盲目的に集団に従ったり同調する場合がある。

 日本人と国家の関係はそれだというわけだ。

 明治以降にその傾向が強まったというのが司馬史観だ。

 変な話だが江戸時代の方が少なくとも武士階級は個人主義が強かったと言える。

 学問をしていたからだと思われる。

 主君に忠誠を誓い主君の命令であれば腹を切るのが武士のように見える。

 これは主体性がない行動のように見える。

 しかし幕末の武士は脱藩して政治活動をした。

 時には暗殺を繰り返し、自分自身を殺す切腹もした。

 尊王攘夷などの自分自身が選び取った信念に従って行動したのだ。

 サムライは主体的に従う対象を選んだだけだ。

 そこには自分の意志と主体性が働いているから建前上は後悔がない。

 誰でも死ぬのは嫌なので死の間際には見苦しい行動や思考が出ることもあったかもしれない。

 それでも潔さが推奨され、それを行動規範として生きていた。

 「武士道は死ぬことと見つけたり」だ。

 江戸時代の教育を受けた人は主体性が強かった。

 江戸より前はもっとかもしれない。

 戦国時代のような西洋のルネサンスのような規範崩壊変革時代には個人が輝く人々がでる。

 歴史小説が面白いのはこういう時代だ。

 弱い個人主義だったかもしれない。

 サヴォナローラのような反動主義者が出れば自分の描いた絵を燃やしたり、自分の人文主義的生き方を神に公開するようなか弱い主体性だったかもしれない。

 継続は力かもしれないが、それでも命がけで自分より大きな力に立ち向かった時期があったということは称賛せざるを得ない。

 革命という言葉はおそらく易姓革命からきている。

 君主が得を失い善政を行わず苛政を行うなら天子=皇帝である資格はなく別の王朝に挿げ替えても構わないというものだ。

 為政者には正当性=レジティマシーが必要だ。

 徳川幕府にはレジティマシーがなく簒奪者であるというのが江戸期初期より儒教では問題だった。

 アサミケイサイや山崎闇斎などだ。

 結局この主張が明治維新の理論的根拠になる。

 現在の民主制、選挙制、多数決制や憲法というものは悪性をごまかすものになっていることが多い。

 法律上の不備というやつだ。

・個人と集団の関係

 非常に単純に考えると

①    集団より個人が優先する

という考え方がある。

 逆に

②    集団より個人が優先する

という考え方がある。

 他にもいろいろ考えられるが①②を対照させるのが分かり易い。

日本人は①が得意だ。

これが先ほどの司馬史観でもある。

個人主義の考え方を自然に日本社会で育つと十分に身に着けられない時代があった。

今もそうかもしれない。

100万人と言えども我ゆかんと考えられたのは江戸期に教育を受けたサムライの一部か主体性を身に着けるように偶然か意識的にか訓練した人だけだ。

「みんなのいうことに従えないならやめろ」

「みんなが死ねと言ったら死ぬのか」

みたいな問題を自分の頭で十分に考えたことがない人が多かった。

これは日本だけでなくヨーロッパなどでも問題となった。

没個性化や大衆化や人間疎外の問題だ。

集団主義が強くなりすぎて主体性を失う、あるいは主体性を失っていること自体に気が付かない。

ニーチェは畜群や奴隷、ハイデガーが頽落と言った状態だ。

戦争裁判のような特殊な状況だとこれが問題になった。

日本のB、C級戦犯問題やユダヤ人虐殺のアイヒマンなどの問題だ。

彼らはただ上に従っただけだし、悪意を持って行ったわけではなかった。

悪だと思って反抗した人もいたかもしれない。

しかし反抗してもしなくても巨大な国家や集団の力の前では自分や家族の生命の危機さえあった。

反抗して殺された人もいたかもしれない。

反抗しなくてもいやいや従った人もいたかもしれない。

戦後はそういう事情お構いなく国家の命令であろうとそれに従った人を容赦なく裁いた。

詰んでいる状態だ。

国家に従っても死ぬ、国家に従わなくても死ぬ。

こういうのは運命と呼ばれる。

責任という言葉が最近はいい加減に使われるが、使うなら定義を明確にして使うべきだ。

何かやったら裁かれ、何もやらなくても裁かれるような場合は随所にある。

どっちにしてもダメなのだ。

極限状況での選択だ。

ソフィーの選択という映画があって浦沢直樹がモンスターという漫画でモチーフにしていた。

自分の2人の子供どちらかだけ助かり、どちらかだけ殺される場合、親はどちらを選ぶべきかと。

第一次世界大戦を自国の国土で経験したヨーロッパやちょんまげから植民地にされないため一気に近代化しないといけない日本にはこういう悲しみがあった。

アメリカも南北戦争などの悲しみがあったかもしれないが、あまり不幸なことがなかったので、ポール・ヴァレリーのような人から「幸福な国民には精神がない」と揶揄された。

ヴァレリーの著作は精神そのもののようなものがある。

・個人主義とは

 「自分の願望をかなえるためなら人を殺してでも行動すべきだ」

 これが極端な個人主義である。

 現代哲学は極端な個人主義も考えるし特に人間の生き方を規定するものではないので、現代哲学に基づいてそういう風に行動しても好きにしたらいいというスタンスだ。

 確か福沢諭吉だったかが「自由とは勝手気ままではない」みたいなことを書いていたと思うが、現代哲学ではこういう中途半端である必要はない。

 まあ福沢諭吉は哲学者ではなく啓蒙家や教育者でもあったのでそれでいいのかもしれない。 

 現代哲学というとちょっと違うので現代思想と言おう。

現代思想と言っても現代哲学をベースにしたものだ。

現代思想では他人や自分に忖度しない主体性を称揚した。

これは主義やイデオロギーに支配されない自由な精神でもある。

国や他人が何と言おうと自分の道を貫くのだ。

百万人と言えども我行かんと孟子は言ったがその士大夫の道だ。

問題はどの様な道を選択するかだ。

あるいは国や他人がどのような思想、イデオロギー、主義、言説を押し付けてくるかだ。

 これに説得されてしまうといいなりになる。

 行動では従わなくても精神が屈服する。

 現代思想は従属の思想ではない。

 自分自身の主となる思想であり、自分自身の道を自分で決める、時には自分で作るための思想だ。

 イデオロギーに服従するのではなくイデオロギーを従属させるのが現代哲学だ。

 人形ではなく人形遣い、傀儡ではなく傀儡師だ。

 イデオロギーを自由に脱構築したり構築できる能力が必要になる。

 自由に勝手気ままにしたら世の中が乱れるのではないかという意見がある。

 乱れるかもしれない。

 しかしそうではないかもしれない。

 “神の見えざる手”

 あるいは

“惻隠の情”

“性善説”

と呼ばれるものだ。

どちらかというと西洋でも東洋でもこちらの方が主流になった。

 というか人間集団全体に一概にはあてはめられない。

 プラトンの哲人国家のようなものだ。

 喧嘩せずゲーム理論の協調戦略をとる人もいればホッブスのリバイアサン、法家の思想のように「万人の万人に対する闘争」のようになる人もいる。

 基本的に家族がいればある程度保守的に、社会防衛的になる。

 自分の身は自分で守れても老いた親や幼い子供の命は社会に守ってもらわないといけないからだ。

 逆にイデオロギーや法律をガンガン作って細かくしていくリベラルのような思想は人を飼いならして秩序維持によさそうに見えて大惨事を招くことがある。

 スターリンや毛沢東は数千万人自国民を殺している。

 集団主義イデオロギーはとんでもない大量殺人、虐殺を起こすことがある。

 死人に口出しでそれでいいという考え方もある。

 ロシアも中国も特に反省は見られない。

 どちらかというと焚書坑儒的というか歴史書き換え主義だ。

 チベットもウイグルも民族浄化されてのちに中身が別の民族に、あるいは血は残せても精神や文化が別なものになってしまうかもしれない。

 大陸では中国でも大陸ヨーロッパでもイデオロギー絶対主義が強く過去の政権の痕跡や文化や遺物を破壊してしまう傾向が強い。

 日本やイギリスではなんでも残りやすい、文献や書誌も残りやすいのと対照的だ。

・近代主義

 近代主義はイデオロギー絶対主義だ。

中世のキリスト教もキリスト教絶対主義なのでイデオロギー絶対主義と言えるかもしれない。

古代史ではバビロン捕囚から帰還後のエズラ、ネヘミヤの改革でユダヤ教が個人主義的になった。

「親が酸っぱいブドウを食べたからと言って子供の歯が浮くことはない」

歯が浮くとはしみていたいということだ。

これは人類初の個人主義宣言と言われることもある。

 これ以降のユダヤ教はラビユダヤ教と呼ばれ律法を心に刻むことを目指す。

 マカバイ記では過酷な拷問にあっても新約以降にマガダ要塞で玉砕で自治を失ってもディアスポラで世界中に離散してもユダヤ教はなくならなかった。

 近代以前の実在論しかない時代にはあるイデオロギーを解体することが難しかった。

 直感的に正しいと思われることは正しい根拠になる。

 それとこれとは独立で別問題のはずだがこれをごっちゃにするのが論理を介さない近代主義の特徴でもある。

 どんなイデオロギーでも解体し反論し支配されない、洗脳されない、影響から解放されるために出来たのが現代思想の1つの側面だ。

 特にマルクス・共産主義だ。

 これは哲学的にヘーゲルの哲学をパックったり古典派経済学をパクったり空想的社会主義をパクってきて合成されて作られたものだが、多くの人には正義と思えたようで正義とされた。

 「正義と感じられれば正義である」

 「正義ならば正義と感じられる」

 これはどちらも成り立たない。

 どちらも相手の条件ではないということだ。

 必要条件でも十分条件でも必要十分条件でもない。

 正の相関や因果関係もあるか怪しい。

 反例はいくらでも用意できる。

 昔の正義論というのはこの程度の物だった。

 聖書に

 「正義は汚い布」

という言葉がある。

 正義を軽々しく唱えてはならないということだ。

 軽々しくなくても唱えるべきではないのだ。

 唱えるのは集団主義者だ。

 個人主義者や相手を正義とか悪とか押し付けない。

 個人主義者であっても集団主義者的な面が頭をもたげる時がある。

 人間は多面的で複雑だ。

 一人の人間の中に何人格も同居できる。

 殆どが幼少時期の反復持続的逆境体験によるが。

 近代主義、モダニズムはイデオロギーの押し付けと洗脳で成り立っている。

 デカルトの要素還元的方法論とかいろいろ言われるが、そういうのは本質ではなくイデオロギーを絶対化するのがモダニズムの本質だ。

 真理があると思っている。

 また真理追求は偉いことだと思っている。

 これも差別と言えば差別の定義によるが差別なのだが。
 
 モダニズムには謙虚さがなく傲慢だ。

「知らないことを知る」

「知りえないことがあるかもしれない」

「知らないことは沈黙すべきである」

と考えない。

他人に自分の正義と思っているイデオロギーを強制する。

集団レベルで自分のイデオロギーに洗脳しようとする。

だから滅んだのだが21世紀も四半世紀を過ぎるとゾンビのように復活してきた。

・空気と水

 空気を醸成したり読んだりする人は同時に水を差せるようにならなければならない。

 人は空気と水がないと生きられない。

 空気だけ膨らませてバブルを作っても仕方がない。

 水がないなら空気の安易な使用は避けるべきだ。

 モダニズムは空気しかなかった。

 ポストモダンになって初めて水を手に入れて使い方を覚えた。

 構造主義による脱構築、そして人間には知らないことがある、イデオロギー相対主義であるポスト構造主義の2本立てで水も漏らさぬよう空気を入れたりする輩を黙らせるようにした。

 しかし図星や正論は人を怒らせる。

 また現代哲学は習得と実地の使用に訓練がいり手間がかかる。

 巷にはリベラルやポリコレがあふれかえってしまった。

 実はリベラルは商売だ。

 世の中なんでもお金だ。

 また政治や戦いの道具でもある。
 
 これは人間が食っていかないといけない以上仕方がない。

 また個人にも国にも権力、名声、良い評判を得たい欲がある。

 SDGSも脱炭素かも酸素排出権取引や太陽光パネル、EVなどの利権がらみだ。

 同時に国と国との戦いでもある。

 フェミニズムやLGBTもそうだ。

 だいたいセットでNPOやNGOがいて補助金貰って公務員とタッグを組んでいる。

 小さな政府は困るので大きな政府を作らなければいけない。

 鉄の女サッチャーが改革に成功したのはこのパーキンソンの法則だ。

 公務員は増え続ける。

 公務員の仕事も増え続ける。

 この2つをパーキンソンの第一、第二法則という。

 補助金ビジネス、公金ビジネスで日本では天下りともいう。

 まあ既得権益層はそれはそれでいいのだが日本の伝統や文化を守ってくれないと困る。

 変なリベラルや革新派とつるむと長い目で見て自分の首を絞めるはずだが。

 まあ長い目で見ず自分のいる間だけ持てばいいならそれはそれで問題ないかもしれない。

 だったらもっと民の膏血を啜って歴史に残るような大事業をしてほしい。

 資金は分散させると意味がない。

 資本集中こそ何かを生む。

 タージマハルにしても戦艦大和にしても資本の集中投下したものが公正に残る。

 戦艦大和が残っていれば素晴らしい観光資源だろう。

 だからアメリカは戦艦長門を原爆で葬り去ったのだ。

 1兆円あっても国民みんなで分ければ1万円だ。

 1,000円かな?

 何に使っても何も残らない。

 1兆円で歴史に残るような仕事をしようという夢と気概が必要だ。

 ハレや祭りや非日常はコロナの失われた3年間を見ても必要なものだ。

 空気を利用するならそれこそ責任を取って後始末できるべきだ。

 それがケツモチということであり時に責任を取るということでもある。

 どうなるか分からないながらもそれを行うなら自覚を持つべきだ。

 自覚がないと反省がなく反省がないとそれを客観的に見ている他者とコミュニケーションできなくなる。

 いわゆる自己愛や承認欲求や自己顕示欲の問題が発生する。

 こういう人とは話が出来ない。

 なぜかそういう人だらけになってしまった。

・個人主義と保守

 個人主義に徹すると常に選択と捨てることの連続になる。

 そのことを自覚し背負うことが大切だ。

 自覚せず背負わない生き方は強い生き方でそれが出来るならそれでいい。

 その強さが破綻した時にはひどい目に合う。

 罪と罰のラスコーリニコフや悪霊のスタヴローギンのように酷いことになる。

 日本ならよど号ハイジャック事件の犯人のように歳取ってから北朝鮮から日本に帰りたくなるような恥をさらす。

 日本人は甘いからそれでいいが絶対倫理の西洋なら許されない。

 最近は世界中が相対倫理化し許す傾向にあるが。

 一般的に普通に育った人なら郷土愛を持つ愛国を選択するし恨みや復讐心をはぐくむような特殊な出自や育ち方をしたなら生まれ故郷をぶっ壊そうとするがその重みには長くは耐えられない。

 左翼が一時期は元気だが歳取ってからおとなしくなり消えてしまうか保守反動になるのと一緒だ。

 昔は若いころ左翼でないと元気がないが、いい歳して左翼なのはただの馬鹿と思われていた。

 リベラル派設計主義で古いものを気付くと気付かざるとに関わらず全部壊す。

 金のために動いている人に利用されているのならまだよい。

 自分からやると後で後悔する。

 恨みと復讐の人生はむなしいものだ。

 感謝や尊敬とともに生きるのがいいと日本の儒学の大物近江聖人中江藤樹は言っている。

 敬は天地人をつなぐのだ。

 恨みと復讐はキリスト教でいう悪霊、ガダラの豚のようになる。

・理論とイデオロギーを使う

 使われるのでなく使う、現代哲学はこれに尽きる。

 人や集団に使われないのはもちろんだがイデオロギーや思想に使われるのではなく使うのだ。

 奴隷でなく主人にならなくてはいけない。

 これはニーチェの奴隷と超人思想と一緒だ。

 ルサンチマンの奴隷でなく権力への意志に素直な超人であるべきだ。

 でないと結局後悔する、というのが永劫回帰の思想だ。

 こういうのは仏教の影響を受けている。

 今一瞬を全力で生きる事、これはロマン派の考え方でもあるかもしれない。

 ニーチェは後期ロマン派のワーグナーの信者だった。

 陽気に明るくポジティブに生きるべきだ。

 さらに今一瞬を全力で生きるべきだ。

 そのため選択と祈りの連続のような人生になるがそれが生きるということだ。

 ただ呼吸をして心臓が動いているだけでは生きているとは言えない。

 生かされているのだ。

 現代哲学をマスターし、自分のマスターとしてあらゆるイデオロギーにいつでもどこでも主となる。

 常に構築と脱構築を繰り返す生き方だ。

 これはドゥルーズ=ガタリの機械、ノマド、粒子、リゾームの生き方だ。

 現代哲学や仏教を理解した人の生き方はこれしかない。

 全ての瞬間瞬間が自分の責任で生きるということだ。

 誰かの、何かのイデオロギーの責任にしてはいけないのだ。

 それは自分が選んだものなのだから。

 それを自分以外のものに責任転嫁した瞬間自分が自分でなくなる。

 自覚と主体性とメタ認知が大切なのはこのためだ。

 かっこ悪く情けなく恥に満ちた生き方となる。

 それが平気な人はそれで良い。

 それも一つの強さだ。

 しかし人間は弱いのでなるべく自分で自分を嫌いになるような生き方をしない方がいい。

 調子がいい時はいいが弱ったときにはすべてが自分に襲い掛かってきて精神を病んだりする。

 リスクやストレスをヘッジする生き方が大切だ。

 リスクを取る際にはそれ相応の覚悟、自覚が必要だ。

 集団主義や他人や何かのイデオロギーに依存してあとでしまったと思うと取り返しがつかない。

 そこで他者や外部を恨めればそれはそれで強いが自己欺瞞できる強さを維持することはそれはそれで大変だ。

 なるべくシンプルに正々堂々でリスクを冒さない方がいい。

 持たざる者は仕方がない。

 リスクを取らないといけない場合があるかもしれない。

 しかし持っている人がけち臭い真似をして無用のリスクをとるとはずれをひいたときに後悔が残る。

 経費や費用が掛かっても余裕があるなら正道を歩む選択をするべきだ。

 かっこよくスタイリッシュな生き方をすべきだ。

 心意気や意気や維持が大切だ。

 帝王学で有名な唐の貞観政要の有名な諫臣魏徴も言っている。

 「人生意気に感ず、巧妙誰かまた論ぜん」

 「死するの日は、なお生ける年のごとし」

 孔子も言っている。

「君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫す」

「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる」

君子というからわからなくなるし孔子はいい歳になるまで上から目線の嫌なやつあったと藤堂明保氏は書いていて全くその通りだが君子とか小人を現代哲学的な心掛けと解すれば現代に通じるし、力を労するを人に依存して隷属すると解すればやはり現代的な言葉だ。

・集団主義とリベラリズム

 現代のリベラリズムと古典的自由主義は全く別のものだ。

 どちらも自由主義と訳されるが自由の意味が違う。

 社会科学的にはリベラリズムの自由は積極的自由、古典的自由主義の自由は消極的自由だ。

 後者はさきにあげた自由権や法の支配と関係ある。

 前者は法ではなく法律に関係がある。

 差別解消を訴え規制をどんどん作るが結果として逆差別を生む。

 また設計主義的で古いものをどんどん壊していく。

 無限の分断主義で秩序が収まらない。

 そもそも戦争の方法で分割統治に使われる手法だ。;

 対立が対立を生み分派し続け内ゲバし続ける。

 最初は自分がどうだったのか思い出せなくなる。

 失ったことに気が付いても手遅れだ。

 不可逆的に失われてしまうからだ。

 古いものは保守し続ければより古いものになるが、一回壊せばまた作っても新しいものだ。

 もう古いものではない。

 問題は問題にしなければ問題にならないが問題にすることで問題になるのだ。

 問題の卸問屋というより問題の工場になる。

 災厄を振りまき安心安寧を奪うパンドラの箱のようになる。

 希望があるとすれば残されたものだ。

 変わらなかったものだ。

 ハイエクも言っているが人間に計画、統制しきることは不可能なのだ。

 だから冷戦で共産主義国は負けたのだ。

 増長してリベラルをのさばらせた欧米日は今同じ目にあっている。

 欧米日先進国とグローバルサウスの対立だ。

 我々は集団主義のイデオロギーを無効化する言説を持っている。

 現代哲学はもともとマルクス主義を批判、超克するために作られたものだ。

 その結果集団主義的にイデオロギーの脱構築、解体、相対化に成功したのだが歴史は繰り返す。

 人間は30~40年経つと昔のことは忘れてしまうようだ。

 一人の人間の同じ一生であるにも関わらずだ。

 世代交代してなくても忘れてしまう。

 覚えていても声が小さくなってかき消されてしまうのか。

 ノイジーマイノリティとサイレントマジョリティに分かれてしまう。

 やはりベースは人間が大切で仕事をたくさんする方が有利だ。

 元気なマイノリティの方が元気のないマジョリティよりのさばる。

 少数派なのにメディアや教育や各種業界に浸透し乗っ取ってしまう。

 乗っ取られる方も情けない。

 サムライがいなくなったせいだ。

 主体性のある個人主義者がいなくなったせいだ。

 付和雷同して安心して生きていけるかというと逃げ切るには人生長すぎる。

 失って後悔してもどうしようもないし、自分が逃げ切っても子孫たちが苦労する。

現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。