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数学を学んでよかった、そんなお話では終わらせない

今回は、ただただ数学と私の思い出を振り返るという取り留めようのないお話をします。
ある種の恋話だと思って最後まで読んでいただけると幸いです。


出会い、馴れ初め

いきなり数学を褒めるのも何か少し照れくさいので、馴れ初めからお話ししていきます。

馴れ初めと言っても義務教育を受けていれば強制的に数学に出会わされますが、私の場合は公文式を5歳から習っていたので、どちらかというと自分から会いに行った形になります。もちろんそんなつもりはありませんでしたが。

元々数学は「算数」として私の前に現れました。

考えてみれば算数はとても曖昧で哲学的なところもあって、数学よりもずっと気難しい性格をしていると思います。

けれど当時の私はそんな側面など露ほども知らず、ただただ純粋に算数を学んでいました。
進んで宿題以上に算数と向き合いました。

友達とサッカーをする。
Wii スポーツのテニスをプレイする。

同じようにして私は算数の問題を楽しんで解いていました。

具体的にどのように楽しんでいたかというと、

縛りプレイ

をしていました。


昔から人と同じことをするのがつまらないと思う性格で、例えば人が筆算を使って解く問題をあえて暗算で解いたり、あとは〇〇秒以内に解けるまで終われないなど、いろいろなやり方で楽しんでいました。

「どれだけ普通を嫌うんだ」と突っ込みたくなりますね笑

ですが私にとっては、ゲームである「回復使えない縛り」や「〇〇秒以内にゴールでクリア」などに似た感覚だったと思います。


またそれ以外にも、「なぜ」「どうして」を納得がいくまで考え込みました。

公文式の学習方針と比較的私が算数ができていたこともあり、新しい単元に入ってもほとんど説明を受けませんでした。

そうなると必然的に「なぜ」「どうして」と疑問が生まれますが、当時の私のガキなりのプライドが先生に説明を受けることを許すはずもなく、意地でも自分で解決しようとしました。

(昔の私はとことん頑固ですね。。。笑)


掛け算の筆算を学んだとき、「なんで1つずらして書くんだ」と突発的に思って、頑張って解決したことを覚えています。

(中学校で分配法則を習ったときに「あー掛け算の筆算だー」と思いました)

もちろん自分だけでは解決できなかった疑問もありました。

そんな時は潔く先生に聞きにいきます。

良くも悪くもB型ですから、頑固な割に一度諦めがついてからはとても切り替えが早いんです。良くも悪くも。

先生も大変だったと思います。

完全に吹っ切れた私は容赦なく「なぜ」「どうして」と問い詰めるわけです。

算数の「なぜ」「どうして」に答えるのが1番難しいですからね。

ある意味私がここまで数学にのめり込めたのも、公文式の先生のおかげかもしれません。


とまあこんな馴れ初めになりますが、結論私にとって算数は良き遊び相手でした。
遊びの延長とかでもなく、紛れもない遊び。

そしてこの「遊び」が私と数学の原点です。



カラフル・モノトーン

中学生になって、算数は「数学」へと姿を変えました。

文字が出てきて、言葉が増えて。

私は、より一層色づいた世界に飛び出たような感覚を覚えました。

初めの頃は。


そう、初めはカラフルな世界にいました。

新しい知識を学び、これまでよりも難しい問題が解けるようになる。

世界が広がった。
もっとたくさんのゲームを楽しめるんだ。

わくわくせずにはいられませんでした。


しかし時が経ち、ふと周りを見渡すと、そこにはモノトーンの景色が広がっていました。
そしてどうやら私は数学に色を見出すことができなくなっていました。

あんなに楽しかった、遊びだった数学が、気がついたら面白味のないものになっていました。

理由は単純です。

「なぜ」「どうして」と先生に問うと、

「公式だから」「暗記して」と。

「このやり方ではダメですか?」と先生に聞くと、

「模範解答の解法で解きなさい」と。


“数学ってこんなに窮屈なんだ”と思いました。
算数は楽しかったな、と。


仕方のないことだとは思います。

中学生と言えどまだまだ学術的には未熟ですから、小学生の頃のような「なぜ」「どうして」を解決するには少し知識と理解が足りません。

ですが、私にとってそれはとてもショックで、悲しい出来事でした。


数学が苦手になったわけではありません。
むしろずっと得意でした。

けれど、昔のように好きかというとそうとも言えず、数学との間に距離を感じる日々が続きました。

倦怠期のようなものですね。

人は忘れゆく生き物です。

あの時の感動も、わくわくも。

だからこそ私は初心に帰って、真正面から数学と向き合う必要がありました。
本当に君はつまらないものになってしまったのか?と聞いてあげるべきでした。

しかし、「受験」を前にしてそんなことをする余裕は私にはなく、ただひたすらに点数を取るために数学を勉強しました。

前は「何のために数学を学ぶか」なんて考えもしなかったのに。

プリントの活字さえもカラフルに見えたのに。


倦怠期はいつだって寂しいものです。

これまで知らなかった数学の悪い部分だけが次から次へと浮かび上がってくる。

されど倦怠期。

止まない雨はなく、明けない夜だってないように、終わらない倦怠期なんてありません。


光はどこからともなく忽然と射す。



遥か数学は時を羽ばたいて

高校生になって初めての数学のテストは、学力診断テストのようなものでした。

私はそのテストで99点を取りました。

1問ミスです。

今でも覚えていますが、なんてことない図形問題の文章を読み違えて、答えとは別の記号を書きました。

当然100点だろうと確信していたので、99という数字を見た時には驚きました。

しかし皮肉にも、それが当時の数学と私の関係を露呈しているようで、私は変に納得しました。
多くを分かっているつもりでも、以前のように親密にはなれない。


その後も私は相も変わらず数学を「勉強」します。
99点を100点にするために。

倦怠期は続きました。


しかしそんな退屈で面白味のない日々の中、1つの出会いによって、私たちは再び歩み寄ることになります。


別解

それは「別解」との出会いでした。

配られた参考書をいつものように解き、いつものように「〇か×か」を確かめる。

当たり前の流れの中に、「別解」はあまりに異質で、気づかないはずない。

数学が歩み寄ってくれたのかもしれません。

私は、

数学には別解があって、1つの問題を解くための解法は1つではない

ということを知りました。

そこからです。

私と数学の世界は再び色づき始めました。

私にとっての算数が、サッカーやWii のような「遊び相手」であったように、

数学は、私が間違っているときは厳しくしてくれて、ときには許容してくれる、
良きパートナーになりました。


数学は、ジグソーパズルのように思われがちです。

まず問題を解く前に埋めるためのピースを全て持ち合わせていないといけないし、1ヶ所でもピースを間違えたら全てがチャラなる。

迂回路など許されない、そんな厳格なイメージすら持たれがちです

当時の私も例外でなく無意識の中にそんな認識があっただけに、別解を許容された途端に忘れかけていた算数の楽しさを思い出しました。


それからの私は、数学の問題を解くときには、昔やっていた縛りプレイや制限時間だけでなく、「裏ルートを探す」という新しいプレイ方法で楽しむようになります。


数学がそれを許してくれると分かったから。

私は心から数学が好きだと確信しました。



アゲイン

私が考える数学のいいところは、まさに

いろいろな解答がある

ところです。

模範解答だけが解答ではありません。

図形の問題を解くのに、ベクトルを使おうが、図形の性質を使おうが、どちらでも構わないわけです。

世界史や日本史にそんなところがありますか?

(世界史や日本史がつまらないと言っているわけではないです。ちなみに私はるろうに剣心が好きなので幕末が好きです)


10人いれば、10通りの解き方があっていいと思うんです。

筆算を使う人もいれば、工夫して計算を楽にできる人もいる。

大切なのは、多角的な視点をもって考えること。

1つの問題に対して、その一面だけを見るのではなく、いろいろな角度から解決策を探す。

それが数学の良さであって、数学の本質だと思っています。

「別解」がそれを教えてくれました。

そして、その教えは私の人生すらも豊かにしてくれました。


何かに挑戦して壁にぶち当たってしまったとき、私はこう考えます。

壁を乗り越えることだけが解決策ではない

もしかしたらその壁はとても薄く脆いかもしれないし、回り道したら案外すぐに壁の切れ目が見えてくるかもしれない

人はどうしても正攻法だけを探してしまいがちですが、解決法は他にいくつでもあります。

数学は、スタートからゴールに敷かれた1本のまっすぐなレールを進むものではなく、ときには枝分かれした道を自らが選んで進むことだってできる。

その選択がもしかしたら近道を知るきっかけになるかもしれないし、新しい気づきをくれるかもしれません。


ある意味「数学的思考力」は、このような思考ができる力のことを指していると私は思います。

解法がいくつもあるという認識のもと、その問題に適した解答を見つけ出し、ゴールから逆算して論理展開ができる能力

私にとっての数学はこの言葉に尽きます。


そしてこれが数学の優しさだと思っています。


「算数」という明るくも小さな箱庭の中から始まり、「数学」になって少し冷たく殺伐とした無駄に大きな世界になったかと思えば、そこに花を咲かせて太陽のような温かみをくれた。


そんな存在が数学です。


数学の問題を解いているとき、私は

ここが世界の真ん中なんじゃないか

こう錯覚します。


まるで宇宙のように、無限に広がる大きな世界に、「私」と「数学」だけ。


寂しくなんてありません。

数学は私を受け入れてくれるし、私は数学を信頼しています。

倦怠期だって乗り越えました。

酸いも甘いも経験しました。

これからぶつかるどんな壁も、数学と一緒なら怖くなんてない。


私は数学が心から好きです。

出会った時からずっと。

そしてこれからも。




数学は自由だ。

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