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マタニティリープインタビュー vol.33 パパのリープ、育休・転職を経て我が子と向き合う「世間の”あるべき”ではなく自分の在り方に腹が据わった」

みなさん、こんにちは。「マタニティを飛躍の機会に」マタニティリープです。このマガジンでは毎週木曜日にメインコンテンツとして、マタニティ期、子育て期の経験とリープについて伺ったインタビュー記事を連載しています。今回は陣内一喜さん、マタニティリープインタビューとしては、初めてのパパのインタビューとなります。読んでいただいて、共感したり、元気になったり、癒されたりと、みなさんの力となる記事になれたら嬉しいです。


▪️マタニティリープインタビュー 陣内一喜さん

〜陣内一喜さんのマタニティリープジャーニー〜

現在、陣内一喜さんには11歳、小学5年生の子供がいる。子供が生まれたタイミングで、技術者として15年勤めた会社を辞め、ほぼ直感でNPOへ転職。子育てや仕事で悩み、葛藤しながらも、次第にありのままの自分を受け入れ、仕事や子育てにおける新たな自分の在り方に出会っていきます。マタニティリープのコンセプトにも繋がる、悩みや葛藤を希望や夢に変えていく様子を伺いました。

行きつけの和歌山の古民家「うえみなみ」にて

赤ちゃんを真ん中に川の字になって実感が湧いてきた

――まずはお子さんが生まれるまでのお話からお聞きしていいですか?
陣内一喜さん(以下陣内)妻とは大学時代から付き合っていて、同い年で、30歳ぐらいの時に結婚したんですよね。最初の妊娠は流産してしまいました。割と早い時期だったと思います。その時は、感情的には傷ついたところもありましたし、意外と簡単にこんな風になっちゃうんだな、と思ったりしました。そして、しばらくして、二度目の妊娠をしました。前回流産していたので、色々配慮しながら、生まれたのが、2013年4月でした。

――ー生まれた時はどんな気持ちでしたか?
陣内 妻が里帰り出産で、1、 2ヶ月前くらいから新潟に戻っていました。自分も立ち会いしたいけれど、できるかなと思いながら、その間、東京から新潟に何度も行きました。予定日には生まれず、東京に戻って仕事をしていたら、夜中の電車の無い時間帯に陣痛がきたと連絡がありました。朝の早い時間の新幹線に乗って、新潟駅に着いたら生まれたと連絡がありました。お母さんから写真が送られてきたのですが、実感がわかなかったですね。

それから二時間後ぐらいに会えて抱っこしました。今でも動画が残ってるんですけど、想像だけしていたものが、実感を伴ってきました。赤ちゃんを抱いたら赤ちゃんがすぐに泣いて、赤ちゃんと妻に「二人とも頑張ったね、、」と言いました。元々自分はあまり泣かない方なので淡々としていたと思いますが、記憶に残っていますし、印象深かったです。その後、自分はすぐに東京に戻って、週末には妻の実家に行ってというようなことをしていました。赤ちゃんと妻は一週間後くらいに退院してきました。実家の寝室で赤ちゃんを真ん中にして川の字で寝た時、その時も結構実感が湧きましたね。あ、子供だって。横に寝ていてすごく弱々しくて、、、あーこういう感じなのかと思いました。

生まれて駆けつけた瞬間

夫婦間での記憶のギャップで後ろめたい気持ちに

ーーその後の子育てはお二人で?
陣内 妻は出産後1ヶ月半ぐらい実家にいました。自分は東京に戻って、毎週、妻の実家と行ったり来たりしていました。その頃、赤ちゃんがおっぱい飲むのが上手じゃなくて痩せてしまったりして。こんな痩せちゃって大丈夫なの、と心配しました。東京に戻っても、乳腺炎になって妻がつらそうでした。妻はすごくその頃のことを覚えていて、大変だったと。今もそういう話をします。でも、自分にはあまりその頃の記憶がなくて。当時も、残業しないで早く帰ったりはしていましたが、会社で異動をした直後で、すぐ育休とるという感じにならなくて、大変な時期に、妻に一人を味あわせてしまったと思います。この辺りの記憶に夫婦間でギャップがあり、「そうだったっけ?」と私が後ろめたい気持ちになることが今でもよくあります。

さらにその年の秋にこういった状況の中で、自分が宿泊型のリーダーシッププログラムに行ったんですよね。子供が0歳児のとき、一週間✕4回不在にしたのは、今でも恨まれてて。10年経って、改めて、あの時は辛かったと妻から言われました。でも、自分自身は少しライフが移り変わりどきだなと、なんとなく感じていたんですよね。その頃自分の仕事もなんとなく行き詰まり感があったり、それこそマタニティリープなのかな。子供が生まれたことは大きな変化で、自分の人生を結構考えていましたね。その時にコーチングも受けていて、コーチングを受けている時に育休をとることを決めました。それで子供が1歳になる3ヶ月前に育休をとったんです。

育休は子供の頃に観たジョンレノンの映画から

――どうして育休を取ろうと思ったのですか?
陣内 妻に対する引け目みたいなものとか、子育てに向き合いたいというのがありました。子供の頃に見た映画で、ジョンレノンに子供が生まれて、音楽活動を休むというのが、ずっと心に残っていて。休んだ方がいいんだというのを、子供ながらに感じていたんです。

あと、会社に男性育休第一号の先輩がいたんです。すごい技術者なんですが、役職とかに興味がなくて、そういうのを誘われても、全部断って、自分の生活をキープした上で、確か子供も3人ぐらいいたかな。技術者としてのすごいプライドもあり、スキルも高い人で尊敬していました。その人に、子供が生まれる前にちょっと話を聞いたりしていました。育休をとってみて、どうでしたか?とかランチに誘って聞いたりしたのを覚えています。

――育休をとってみてどうでしたか?
陣内 そのタイミングで、妻が車の教習所に通い始めて家を空けるようになったこともあって、一人で子供を見る時間が多くなりました。朝昼のご飯を作ったりして、ずっと一緒にいると、あ、これ、俺が間違えたらこの子死ぬ、みたいな感覚が生まれました。命の力強さを感じるのと同時に、なんか細さみたいな、心許なさのようなものも感じたのを覚えています。

自分がマイノリティになっているのを感じて

陣内 平日の昼に子供をベビーカーに乗せて外に出ると、なんていうんだろう、自分がマイノリティになっているのを感じました。この年齢の男性が平日に、そんなにウロウロしていないですよね。下町の商店街だから、だいたいおばあちゃんがいっぱいいて、なんかね。30代の男子がこうやってて、「あら偉いわね」とかすごい言われたりして。自分が異質な存在になっちゃって。嫌だということはなかったですが、サラリーマンとして生活しているのとは違う。有給休暇とって外を歩いても同じ体験できると思いますが、なんかちょっと違う感覚があって、そうか会社へ行かない生活ってこういう感じなんだ、みたいなことを味わいました。

あと、覚えているのは、子供を外に連れ出して、子育てサロンとかそういう居場所へ行った時に、当時(2014年頃)はまだ男性の子育てが環境的にスタンダードになっていなかったことです。おむつ替えスペースが男性トイレにはついてなかったり、授乳スペースに仕切りがなくて、男性が入れる設計になっていないとか。疎外されている感じを味わって、別の意味での男女差別と言っていいのか分かりませんが、男性が子育てをする場が無いということで、自分がマイノリティであることを痛感させられました。

こうなるんだ、面白いなと思いました。この立場は色々不便なんだな、と感じたのも育休の体験を経て結構覚えています。でも、結構楽しく過ごしていました。春3月くらいに二時間ぐらいの長いお散歩して、途中休んで子供にミルクあげたりして、それなりに楽しくやってました。

毎週末、子供と電車を乗り回すのがルーティン

肩代わりできることが少ないから、精神的なサポートを

――子供と向き合いたいという気持ちが満たされた?
陣内 はい、満喫するというか、可愛いなとか、幸せだなっていう瞬間から、マジ面倒くさいみたいなのを含めて、多分一通り。
子供が1歳になる前、冬にインフルエンザになって、医者から漢方薬が処方されて、漢方薬なんて飲めるのかなと思いながら飲ませたら、すごい勢いで吐き出して、やっぱり無理だよねとか。本人も辛くて夜寝られないから、自分が抱っこ紐で抱っこしたまま、抱きかかえて寝るとか。なかなか寝ない子で寝かせるのも一苦労。夜中もよく起きるので、寝られない、みたいな。そういうことも含めて一通りという感じですね。

あとは妻のサポートですね。乳腺炎やメンタル的に弱っている部分をサポートするのはやっぱり大変だなと思いました。とはいえ、話を聞くとか、肩叩くとか。肩代わりできることがあまりないから、そういうことを極力するようにしていました。自分は、飲み会とかワークショップに行きたくなってしまう性格だったりするので、妻からするともっと家にいてほしいというニーズをちゃんと満たしてバランスをとるというのを意識していました。でも、100点を取れていたわけではないので、時々小競り合いもありながらでした。

――それからどうなったのですか?
陣内 子供が1歳になって、妻も働き始めて、認可保育園に入りました。最初の保育園が遠かったこともあり、3歳になるタイミングで近隣の保育園に転園しました。その保育園は雰囲気がよく、先生とのコミュニケーションもしやすくて、安心して預けることができました。

当たり前のように土日よろしくと言われ

――育休の後、お仕事に復帰されてからどうでしたか?
陣内 子供が生まれてから、残業しないスタイルに変えました。復帰した後、あるとき、トラブルの続発するプロジェクトになって、 そこは土日も出勤するようなプロジェクトでした。上司から土日よろしくと言われて、特に上層部の方はそれが当たり前、というスタンスでした。その時、あ、男性社会だな、、と痛感しました。子供が生まれる前だったら、やりますよ、だったと思います。ただ、実際、土日働けないし、妻が家で大変だったりするのをみていると、残業も基本的にしたくない。それを言わないと、と思いつつ、自分も遠慮していた部分もあるかもしれませんが、言えない雰囲気もありました。そういう雰囲気に小さな違和感を感じました。

――小さな違和感だけれど、先につながったのかもしれないですね。
陣内 そうそう、元々転職したいとか辞めたいと思っていたところにさらに辞める理由を見つけたという感じでした。それで、4月末に復帰して12月には会社を辞めていました。リーダシッププログラムに行って、周りのどんどん動いていく人たちに刺激され、育休とって、頭を冷やしすぎちゃって、それで動いたのかもしれません。

成長を突きつけられリープ、得たかったものを全て手に入れた

――辞めたい想いは以前からあったけれど、子供が生まれたことも影響しているようですね。
陣内 そうですね、前の会社には14年いて、その中でも自分なりにキャリアを模索していました。自分は幸いなことに、ほぼ自分の希望で異動してきました。色々やったが、思い描いたような仕事ができなくて、頭打ちになった気がして、行き詰まりを感じていたんですね。そのころに、子供が生まれたことで、自分の見方が変化していって、転職というところにたどりついたのかもしれないです。

――まさにマタニティリープですね。
陣内 本当ですね、そういう成長を突きつけられるようなことが起きる。子供が1歳、自分は35歳でしたね。妻にもあまり相談せず、かなり勢いで転職しました。
元の会社の人からも、NPOに転職して大丈夫なの?と聞かれたりしました。転職したNPOの創業者の本が目に入ってきたのが最初のきっかけで、いいなと思っていたら、そこからが早かったです。完全に勢いでした。

――新しい環境はどうでしたか?
働いている人たちが同世代の同じような境遇の人が多くて、長時間労働はやめよう、という文化が隅々まで浸透していて、子育ての生活のリズムが取れるようになりました。仕事は仕事でものすごい密度が高いので、時間的なところで、お互いそこでちゃんと終わらせようねとか、子供が熱を出した時助け合おうね、みたいな空気感があったので、すごく心地よかったです。

ちょうどその頃、組織も働き方革命というコンセプトで事業運営をしていました。システムを通してみんなが働きやすくするという文脈で仕事ができました。自分としてはすごいベストマッチで、今まで得られなかったものが全部得られたと感じました。

電車好きの子供と初めてのNゲージ

自分の中にあるしなやかさや弱さ、子育ても仕事もそれでいいんだ

――その後どうなったのですか?
陣内 1年くらい経ってマネージャになってから苦しくなりました。経理マネジャーの役割が加わり、経理のケの字も知らないような状態だったから、全然上手くできないわけですよ。それで普通にチームがうまくいかなくなって、メンタルが参ってしまって、一週間くらい休んだりしてました。1年目、めちゃくちゃ順調だったのに、2年目にマネージャになってから色々上手く行かなくなるみたいな、変化のサイクルが早かった。垂直発達を求められる状態に追い込まれて、これまではスキルでなんとかできちゃったのができなくなった。

その頃、ビジョンと会社のつながりをどう保つかということが会社の課題として扱われていたんですが、自分はキラキラした感じで繋がっていなければならないとすごく思っていました。ですが、一度、なんていうのかな、、弱さをさらけ出す、というような機会があって、ビジョンとつながっていなくてもいい、弱さをさらけ出してもいいと思えて、ちょっと力を抜くことを覚えました。

そして、子育てとかって、なんだろうなぁ。なんか自分の中にしなやかさとか、女性性みたいなものを取り込んでいくみたいな見方もあるかなと思いました。自分の子供との向き合い方は子供を心配する目線が強いんです。自分はマッチョにはなれないし、柔らかさを持ってやっていく。子育ても仕事も、それでいいんだと思えました。

苦戦した子育て、妻とは戦友のように

――その後、子育ての方はどうでしたか?
陣内 子供が3歳くらいの頃から発達特性があることがわかってきました。何もわからない暗中模索を続けていたのが、少しガイドができたような気持ちになりました。

――それまでは結構頑張ってきたんですね。
陣内 はい、夫婦そろって歯を食いしばって。いろいろ、思い通りにならないことが多かったですよね。本当に子供が半日ぐらい泣き続けていたりして、休日はへとへとになっていました。人に頼るのが苦手、近所に預けることができないような夫婦でしたが、その頃から相談できる人ができました。療育施設の相談員さんに話をしたり、保育園の先生に相談したり、子供を社会で育てるということがどういうことかがわかってきたような気がしました。

――すると3歳くらいまではあまりサポートを受けるようなことはなかった?
陣内 新潟のお母さんがよく来てくれてサポートしてくれていました。主に物理的な面でよく助けてもらいました。精神面での相談は、自分たちなりに色々探していたけど、なかなか楽になったり安心する感覚にはなりませんでした。
一方で、夫婦の間で聴き合えていたというのはあって、それでお互い話せる関係性を作っていけました。今は、妻とは戦友のような感じがしていて、パートナーシップが強固になった気がしています。

カフェで子育て作戦会議

子供の不登校、ダメな親であるように思われる恐れ

――お子さんが小学校に入ってからのことを聞いてもいいですか?
陣内 小学校に入って、2年生のGW明けから学校に行けなくなりました。発達特性もあって、保育園の頃から、少し想定していたところではありましたが、いざなってみると、気持ちが追いついていきませんでした。なるようになるし、なったとしてもちゃんと子供を受け入れられるような親でいたいと思っていたのですが、オールOKとは言えない自分がいて、無理やり学校に行かせようとしてしまう時期がありました。なにかこう親として引け目というか、欠けている感じ、その状況が問題であるという見方を自分に対しても、子供に対してもしてしまうのが拭えませんでした。一方で妻はそういう状況に対してニュートラルで安定していたのですが、自分は在宅勤務をしていて、子供と接している時間が長かったので、仕事のことと重なり心が苦しくなって、カウンセラーに話を聞いてもらったりしていました。

――それからどうなっていったのですか?
陣内 そういったことを経て、やっぱり、自分は子供に期待していたんだな、ということに気付かされました。それで、期待を取り除いていく、というのを徐々にやっていきました。無意識の目標がたくさんあって、そういうのを一つずつ取り外していったんですね。子供ができないことを、子供のことなのに、自分のことのように思ってしまった。不登校になってから暫くの間、子供自身が精神的にかなり辛くなる時期が続いて、それもきつかったのですが、そういうのを一回経験すると。まずは元気であることにありがたみを感じるようになりました。元気でご飯食べて、寝て、本人が笑っていれば、それでいいと思うようになったんです。

最近、子供と一緒に出かけたりもするようになって、息子と旅行を楽しめたら、もう俺はこれで幸せみたいな感じになっちゃって。(笑)妻にはそうは言ってももうすぐ中学校だから、ちょっとそれは考えようとか、逆に言われたりしています。

あとは世間体みたいなやつかな。自分がダメな親であるように思われる恐れがあったと思うんですが、そういうものが徐々になくなっていきました。

鉄橋で共に電車を眺めて11年

俺が生きているうちは責任をとる

――お話し聞いていると、心配性だった陣内さんがだんだん肝っ玉が座ってきているような。
陣内 そう、そうなんですよ。なんでそれができたのかな。自分に「元気だったらいいよ」と言い聞かせたような部分もありますが、一回、将来のシミュレーションを徹底的にやってみたんです。子供が教育を受けなくて、勉強もしなくて、働くスキルを得られなかった時にどうなるかというのを考えました。まあそうしたら俺が生きているうちは、もうしょうがない、養うか。そんなことを考えたわけです。そしてもし俺が死んだら、知らん、そこからはお前の人生だから。でも生きているうちは責任を取るよ、と。別に本人には言っていないんですが、自分の中でそういう決着がついたんですね。そのあたりから精神的にちょっと変わったかなと思います。

その責任をとる、だから、世間一般で「こうあるべき」と言われていることでなく、自分は思い通りの接し方を思い切ってしようって決めました。それまで自分の在り方に自信がなかったのですが、子供との信頼と関係性を第一に置く在り方に腹が座わりました。

――そうなってくると陣内さんの人生も変わったんじゃないですか?
何が起きたかっていうと、逆に翻って自分を認められるようになってきたんです。
子供に対して、存在しているだけでなんかありがたいって思っている自分も、そう思ってもらえる存在であるということを子どもへの思いから逆に気付かされました。自己受容の感覺が上がった気がします、ちょっと軸が太くなったというか。

そこに開いている、というのが大事

ここにもマタニティーリープがまだ続いています。子供が生まれた瞬間だけではなく、社会と子供がその接合点でうまくいかないフェーズで起きてくる。

――子供が生まれなかったら起きなかったことですものね。
そうですね、そこに開いているというのが大事なんでしょうね。リープが起きることに対して、硬くなるんじゃなくて、なんていうのか、体感覚で開いているというか、力を抜いているというか。

問題解決しようとすると、ちょっと違う感じなんです。例えば、子供が不登校になった時にその状況をどうにかしようとする方にいっちゃうと多分違うところに行く。自分の在り方含めて、これはおかしいぞ、と。いろんなものをさらけ出していく。自分の場合はカウンセラーさんにそういうのを全部出していたし、自分がこうなんじゃないかと思っていてというようなことも全部聞いてもらう。そういうのが大事な気がするんです。

――そういう自分の在り方を含めて、見つめ直していくプロセスを人の力も借りながらやっていきたんですね。
そうですね。不登校って克服するものではない気がしていて。克服していくものというよりは取り込んでいくものなのだと思います。

屋久島大川の滝 理想のダイナミズム

本質的に人が人であることを認めて向き合っていきたい
――これからの夢はいかがですか?
息子が電車が好きで、息子と旅行に行ったりして、最近楽しいんですよ。ちょっと大きくなっても家族一緒に仲良く旅行に行き続けたいなって思います。
息子と二人で旅行をする。そんな感じが続いたらいいなと。この楽しい感じが続いていくと幸せだなと思っています。

この先、不登校のことは仕事に生きるだろうと思います。在り方として、自己受容、軸の持ち方、安定感、ぶれなくなってきた感覚があります。

仕事面では、これまで場づくり、人、組織のことをやってきているので、
人を包摂していく感じで集団とか関係性とか人がよくなっていくような場を増やしていきたい。意思決定をしていく場面やチームで何かをやる時に、本質的に人が人であることを認めて向き合ったり、話をしていけたら。そんな場や組織が広がっていけば、世の中はもっと良くなるだろうなと思っているので、それをやっていきたいと思っています。

――ありがとうございました。


▪️編集後記

今回の陣内さんのインタビューいかがでしたか?

陣内さんのお話を聞かせていただいて、まず頭に浮かんだのが、
「弱さは強さ」という言葉です。
陣内さんは、いつでも、ちょっとした違和感や本当の気持ちを隠そうとしません。
自分の心のもろい部分も周りにさらけ出して、そのことで、周りと繋がりを作り出していきます。

「本当の勇気は「弱さ」を認めること」の著者である、プレネー・ブラウンは、
こうも言っています。心のもろさを受け入れる、不完全であっても良いとする勇気が自己価値感やそれに従って生きて行く人の共通点だった。

陣内さんが、弱さをさらけ出していい、自分のあるがままにこれでいいんだと思えたこと、それは子供に完璧を求めない陣内さんの子育ての在り方につながっているように思いました。

あるがままの心の声「本音」がリープにつながるとする、マタニティリープのコンセプトとも多くの共通点を感じる今回のインタビューでした。

最後に、出版プロジェクトのクラウドファンディング、目標の60%1,254,000円に達しました!160人以上の方の応援をいただいています。あと残り18日、全力で走り切りますので、最後まで応援よろしくお願いいたします!
クラファンサイトはこちらです!

最後までお読みくださり、ありがとうございました。



<編集>
マタニティリープ合同会社
https://www.maternityleap.com/


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