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01 町のパン屋さんのような出版社(再録)

以下に掲載するのはかつて私が更新していたブログ「たけくまメモ」で、2009年7月19日に発表した「町のパン屋さんのような出版社」というエントリである。2000年代に入って私はスランプに陥り、それまでのフリーランサー生活(ライター業や編集業)が苦痛になっていた。2年近く、まったく仕事をしなかった時期もある(生活のためのアルバイトはやっていた)。
 そうした中で、私はおぼろげに、出版社の発注で原稿を書く下請け仕事ではなく、自分で企画して自分で出版する、「自分出版社」のようなことができないか、と考えるようになった。アマゾンで誰でも自作を電子書籍として販売できる、Kindleダイレクト・パブリッシング(KDP)が日本でサービスを開始したのは2012年のことで、電子出版の時代は、まだ到来して無かった。
 その頃にあれこれ考えていた夢想をまとめたものがこのエントリである。私は現在、夢想を現実にしたいと動き始めているが、その原点になったと言える文章だ。元のブログもエントリもまだ残っている。もう何年も更新していないが、スランプのどん底だった私の40代の「代表作」と呼べるのがこの無料ブログなので、今も料金を支払って残しているのである。
 これから私は、気の向くままに、私の出版に関する夢想の続きを書いていこうと思う。12年前のこのエントリの続きである。更新は不定期になるので、ご容赦願いたい。元エントリのURLはこちら→
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-523f.html

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「町のパン屋さん」のような出版社ができないだろうかと、考えるのである。どこの町にも一軒くらいは「こだわりのパン屋」があるだろう。家族経営で、石窯で焼いた手作りパンを売っているような。宮崎駿の『魔女の宅急便』に出てくるグーチョキパン屋とか、そんな感じだ。ご主人が奥でパンを焼き、奥さんが店に立ってパンを売る。奥さんが身重になると、女の子をバイトに雇って店番を頼んだりして。

事業規模はとても小さい。売り上げも微々たるものだが、旦那と奥さんと生まれてくる子供が生活できるのなら、それで十分である。お客さんは町の住民に限定されるので、奥さんの対人会話能力が店の生命線である。うまく行けば、ただパンを売るだけではなく、地域のコミュニティセンターとして機能することもある。こうなれば、町の店舗の理想であろう。

パン屋さんでなくとも、八百屋さんでも魚屋さんでも、地域に密着した独立型店舗ならなんでもいいと思われるかもしれないが、そうした店とパン屋さんとでは決定的な違いがある。八百屋さんや魚屋さんの場合、売り物を自分で作ったり、採集してくるわけではない。生産や収穫は別の場所で別の人がやっているので、そこが町のパン屋さんとは違う。私が言う町のパン屋さんは、売り物を自分で作って、自分で売るのである。

ここで出版の話になるが、もともと作家や出版という仕事は、町のパン屋さんのようなものではなかったかと思うのである。たとえば下の漱石の文章を読むと、明治・大正時代の作家の生活がどういうものかがわかる。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2679_6493.html
↑夏目漱石「文士の生活」(青空文庫)

これによると、漱石の『吾輩は猫である』の初版は2千部だったことがわかる。『猫』の第一巻は明治38年に出ていて、このエッセイが書かれた当時(大正3年)で35版まで行ったそうだ。増刷が千部づつと出ているから、トータル3万8千部くらいである。漱石は謙遜して書いているのだが、明治大正期であれば、この数字は大ベストセラーだったといえる。

http://neko.koyama.mond.jp/?eid=418861
↑「漱石先生が『猫』広告文を書くまで

上のブログによると、漱石は『猫』出版にあたって、美的でセンスのよい装丁の本にすることを望んだようだ。そういう条件を出してきた版元を選んでいるし、直接自分で表紙の絵を画家に依頼もしている。現在の作家とは違い、編集者的な領域にまで踏み込んでいるのである。

『文士の生活』を読むと、日々の生活は、朝日新聞社の社員としての給料でまかなわれていたことがわかる。社員と言っても新聞記者をしていたわけではない。明治大正期までは、小説家やマンガ家を新聞社が雇い入れ、給料を支払って連載作品を書かせることが多かった。つまり漱石ほどの人気作家であっても、フリーでは食べられなかったということである。

また、かつての単行本には「検印」というものが貼ってあった。これは著者がオリジナルの証明印紙を発行して版元に渡し、版元はこれを本に一枚一枚貼って出版していたのである。版元が発行した印紙に著者がハンコを押していたものもある。私が子供の頃(60年代末)までは、本物の検印が貼ってある本を見かけることがあった。

http://hennahon.at.webry.info/200612/article_20.html
↑検印については、リンク先に解説と画像あり。

これはどういうことかというと、つまり今度の本の発行部数は千部ですと決まったら、著者は印紙を千枚発行して(または千枚の印紙にハンコを押して)版元に渡す。版元は、検印のない本を出版することはできなかった。この「検印」があって初めて「確かに著者はこの本の発行を認めました」という証明になる。版元が著者に黙って部数を水増しし、印税を誤魔化す悪事を防ぐ意味があったのである。

現在では「著者と合議のうえ検印を廃止します」ということが一般的になり、本によっては「検印廃止」の記述すら奥付に載っていない場合がある。出版が大規模になって、万を超える部数が一般的になり、ベストセラーになって何十万部も出版されるとなると、著者も版元も、いちいち印紙を本に貼り込む手間をかけるわけにはいかないからだろう。

検印廃止が一般的になった現在、すべては版元と著者の信用取引で本は出版されている。版元が「この本は1万部刷りました」と言ったら、著者は「はい、ありがとうございます」とその言葉を信用して1万部分の印税を受け取るしかないのである。たまに「あの版元は発行部数を著者に少なく申告して印税を誤魔化しているのではないか」という噂が流れることもあるが、たいていの場合、著者にそれを確かめるすべはない(※)。

※追記 このエントリを読んだ知人の編集者氏から連絡があり、現在では印刷所が署名捺印をした印刷証明書を著者も入手することができるとの指摘がありました。ゲーム攻略本やアニメ関係のムックなどでは、版元は出版契約書とともに一次権利元の企業に印刷証明を添付することが一般的だとか。以上は主に企業同士の出版契約に関するケースですが、個人の著者がこれを要求することも「多少の勇気が必要だが、不可能ではない」とのことでした。

閑話休題。何を言いたいかというと、つまりかつての単行本は、著者が一冊ごとの印紙にハンコをつくことができるくらい、部数が少なかったということである。正確な統計を見たわけではないが、ベストセラーといわれた漱石の『猫』初版が2千部だったことから考えて、明治大正期までは1千部以下の単行本が多かったのではないかと思われる。識字率から考えても、本を読む人間が今ほど多かったとは考えられない。その代わり値段は高く、文字が読めて経済力がある少数の人間に向けて本は出されていたのである。

ただし、一度出版された本は何年でも書店に並んでいた。今のように新刊が2週間程度で店頭から撤去されることはなく、じっくり数年かけて新刊を売ることが一般的だった。

と、ここで話は戻るのである。「町のパン屋さんのような出版社」の話だ。今は同人誌に特化した印刷屋さんも多く、大規模即売会が毎月のように開催され、宅配便サービスが整備されていて、インターネットによる宣伝や通販の手段が確保されている。

であるならば、本を自分で作って自分で売ることが一般的になったとしても、私は驚かない。5万部・10万部の本が出したければ、従前通り出版社と取引をすればよい。だが、現在一般的になっている初版5千部程度の本を出すのであれば、出版社を介さずに自分で出したほうが効率がよいのではないだろうか。もちろん個人出版で5千部はきついから、せいぜい千部、2千部かもしれないが、一般的な著者印税が定価の一割だから、定価を少し高くして自分で千部売るほうが儲かる理屈である。

こういうことを考えている人間は、私だけではないだろう。かつての我が国には貸本屋という商売があった。今のレンタルビデオ店くらいの数はあったので、当然、貸本専門の出版社が多数あり、多くはマンガを出していた。貸本専門のマンガ家が多数いたのである。その中には水木しげるや白土三平、さいとう・たかをといった大御所マンガ家もいた。

ところが、昭和35年にピークを迎えた貸本産業は、その後急激に衰えて昭和40年代にはほとんど消滅してしまう。背景には貸本マンガを支えていた若者層のライフスタイルの変化がある。かつて本や雑誌はとても高価で、多くの若者は狭いアパート暮らしだった。ゆえに本は借りて読むことが一般的だったわけだが、生活水準の向上で「本を買って所有する」人が激増したのである。

あるライフスタイルに密着した産業は、時代の変化に弱い。かつては栄華を極めた巨大産業でも、何かのきっかけで、一瞬のうちに瓦解してしまう。そうしたことは何回も繰り返されているはずだが、「その時」が来るまで多くの人間は気がつかない。気づいたとしても、「何とかなるだろう。自分が生きているうちは」と考えてしまう。

貸本マンガの衰退が顕著になった昭和40年代初頭には、マンガ家による「個人出版社」がちょっとしたブームになったことがある。さいとう・たかを、佐藤まさあき、辰巳ヨシヒロ、横山まさみちと言った売れっ子作家が次々にマンガ出版を手がけた。これは業界の衰退が明らかになってマンガ家の手取りが減ったため、いっそ自分で出版して取り分を増やそうと考えたからだと思われる。

いいアイデアだったが、そのうち貸本屋が激減して出版・流通システムそのものが消滅してしまった。この中で唯一生き残ったのは、いち早く一般流通の出版システムに対応できたさいとうプロ出版部(現在のリイド社)だけである。

現在起こっていることは、マスコミを支えるシステムそのものの大激変であって、かつて60年代の貸本産業に起きたこととは規模が異なる。あのとき貸本産業に起きたことが、今や出版を飛び越えたマスコミ全体に起こっているといえる。これを「世界同時不況」のせいにしてしまうとおそらく実情を見誤るだろう(※筆者註:このエントリを書いたのは2008年秋のリーマン・ショックの11ヶ月後)。出版不況そのものは、90年代から囁かれていたことで、昨日今日はじまったわけではない。

おそらくインターネットを始めとしたメディア環境そのものの変化の結果が、今のマスコミ産業に起きているのだ。これは産業革命や原水爆の発明に匹敵する不可逆的な歴史的変化なので、従来のシステムやパラダイムのことごとくは無効化してしまうのだと考えたほうがいいと思う。

今、われわれが目撃しているものは、マスメディアという「神々の黄昏」である。かつて私自身、そこにお世話になった人間なので、寂しさがないと言えばウソになる。今もそれに依拠して生活している友人知己は多い。彼らだけでも、なんとか生き残って欲しいと思う。

もちろん出版や書物が完全に滅び去るとは思わない。確かに貸本産業は滅びたが、マンガは生き残ってその後隆盛を極めたのだから。

私が思うことは、マンガや本は生き残るが「産業」としてはクエスチョンだということだ。今私が考える「未来の出版」とは、限りなく町のパン屋さんに近いイメージのそれである。書物作りは、そもそも手作りパン屋さん程度の事業規模が適正だったと思うからだ。(2009年7月19日)

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