見出し画像

再会/三月の雨

Doubling down on failure - The harsh games in Osaka より】


再会 − 2012年11月

 2012年の初め、エンペラーカップを置き土産に、東京から大阪へと引っ越した男がいた。不器用で口下手な「背中で語る」タイプの典型的な東北人だったが、慣れないキャプテンマークを巻き、闘志みなぎる熱いプレーでチームを牽引したその「背番号6」の存在は、失意の2010年を経て我慢の2011年を過ごす「青赤」の人々にとって、次シーズンへの道標であり心の支えであった。当時僕がスタジアムで不意に受けたリーグ公式のファンインタビューで、「どの選手を応援していますか?」と質問された際には、真っ先に彼の名を挙げ「同じ東北出身者として本当に励まされます。この苦難を乗り越えるべく僕も共に戦います」と、カメラに向かって心からの熱いエールを送った。その時僕の着ていたレプリカユニフォームが10番だったことは見逃して欲しい。

画像4


 さておきクラブが当年最重要ミッションである「昇格」を達成したら、彼がステップアップのため東京を去るであろうことはみんな薄々勘づいてはいたが、いざ公式発表を迎えた時は、分かってはいても酷い喪失感に襲われた。そうして2012年の11月、万博のピッチで「青黒の15番」にボールが渡る度、僕らはビジターサイドから多大なる謝意に少々の憎しみをブレンドしたささやかなブーイングを捧げた。

 ところでその試合、終了間際に生まれた我らがKAZMAXの同点ゴールは、もちろんビジター側のスタンドには大いなる歓喜をもたらしたが、一方でホストチームをいよいよ「崖っぷち」に追い込んだ。試合後、拍手と怒号の入り交じる微妙な空気に包まれた万博のスタンドを野次馬的に眺めながら、僕は2年前(2010年)の我がホーム最終戦を思い出していた。あの時の青赤も、最後に追いつかれ引分に終わったことで、もし次のアウェイ京都での「最後の一歩」を踏み誤れば「落下」してしまうという、絶体絶命の危機に直面していた。僕は当時その状況をリアルに受け止められなかったのか、妙に楽観的な見通しで翌週の最終節を待ったことを覚えている。結果、吉祥寺HUBのテレビに映る残酷な現実に呆然とし、一緒に観戦した友人たちとカラオケで肩を組み強く抱き合いながら“You'll never walk alone”を熱唱した後、帰りの井の頭線車内で人目も憚らず号泣することとなった。

 同点ゴールの際KAZMAXに吹っ飛ばされた青黒の15番は、新天地大阪でステップアップするどころか、またも落下の恐怖に慄く羽目になってしまった。万博の夕暮れに悲しい色を帯びた青黒のその後は、言わずもがな、“Hold me tight”である。


画像5



三月の雨 − 2015年3月

 新大阪で京都線に乗り換え茨木駅へ向かう途中、車内には借金回収の段取りを携帯で指示するおっさんの大声が響いていた。そしていよいよおっさんの口からトドメの最終プロセスが明かされるというところで、電車は茨木駅へ到着した。僕らはもやもやしながらシャトルバスで万博のスタジアムに向かった。

 万博の空は一日中曇りという予報を裏切って雨をしとしとと降らし始め、「まあにわか雨やろ」という大勢のナメた見通しをあざ笑うかのように、以後もその勢いを段階的に強めていった。3月のひんやりとした雨はスタグルのたこ焼きをつつく僕の手先と唇をガタガタと震わせた。ところでこの日はビジターである僕らにとって「最後の万博」であった。ホームのサポーターがスタジアムに掲げた惜別の横断幕は、今回も含めたった二度しか訪問したことのない僕にさえも感傷を呼び起こした。吹田ジャンクションの向こうには建設中の新スタジアムが見えた。


画像1


 KAZMAXのあの非情な同点ゴールからおよそ2年4ヶ月、この日僕らを迎え撃つ青黒は、紆余曲折を経てどういうわけか「王者の風格」を漂わせていた。どん底に落ち、そこから一年で這い上がり、さらにその一年後には勢いで頂点まで登りつめてしまうんだから、勝負の世界はわからない。青黒の15番もこの間、さぞしんどい思いをしたであろうが、結果としてステップアップに成功したということだ。さてゲームの方は、前年王者が2点をリードする展開で試合を優位に進めたが、当時絶賛売り出し中だった慶應出身の我らがアイドルストライカーによる残り15分からのドブレーテで青赤が食い下がり、そのままタイムアップを迎えた。


画像3


 冷たい雨で体は完全に冷え切っていたが、土壇場に追いついての劇的な引き分けという結果にまあ良い気分で、帰りのシャトルバスに乗車した。後方の2人掛け席を陣取りバスの出発を待っていると、青黒のグッズを身に着けた中年夫婦が、ちょうど空いていた僕らの前の席に向かってのしのしと歩いてきた。おじさんの方は割とサバサバした表情だったが、おばさんの方はかなりの仏頂面をキメていた。そして席に着くなり、おばさんはおもむろに着ていた雨合羽をフラッシュダンスよろしくブワッサーと派手に脱ぎ捨てた。ちょうど真後ろにいた連れは無数の水滴をもろ至近距離で被弾した。「ふ、ふっっざけんなよ!」と連れは声を荒らげたが、おばさんは後方からの怒声にも微動だにせず、視線を窓の外に固定したままガン無視を決め込んだ。仏像と化したおばさんの様子を見ながら僕は茨木駅までの車中、連れをなだめつつ腹の底から湧き上がってくる笑いを堪えるのに必死だった。

 新大阪駅で新幹線を待つ間、構内の老舗居酒屋で串カツなどをつまみながら時間を潰した。店を出る頃には、ずぶ濡れで冷えたズボンや靴もほんのりと温かさを取り戻し始めていた。連れが〆用に注文した鮭茶漬けはいつまで経っても出てくることはなかった。 


画像2


***

上記含む、2012から2019年にかけての大阪遠征をシーズンごとに短くまとめたエッセイ集を販売しています。ぜひご利用いただければ幸いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?