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人を見て、自由を説け─自由は愛の方便だから

人は天使でもなければ獣でもない、とパスカルは言う。
人は悪魔でもなければ機械でもない、と僕は思う。

人は環境の影響に一切依存せず純粋な悪意をもつ存在ではないし、逆に環境に一切を依存した責任能力の無い機械でもない、と信じているからだ。

ところで、自由とは愛の方便だと僕は思う。
人を見て法を説け、と俗に言うけれど、
人を見て自由を説け、と僕は思う。

レジスタンスの闘いに身を投じるべきか、故郷の母親を助けるべきか。葛藤する青年に対して、サルトルは「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ*と答えたと言う。寡聞にして僕はその青年の行く末を知らないけれど、「自由」はそれが語られる個々の状況次第で、人を生かしもすれば殺しもするものだと思う。

例えば、親から虐待を受けて育った女性が、我が子に暴力を振るってしまって自責の念に駆られている時に、「あなたには意思の自由がある(なのにそれを乱用した)」と説くのは、愛が無い。

逆に、路上のホームレスの男性が、人生を諦めて緩慢な自殺を遂げつつある時に、「あなたは遺伝と環境の鎖に繋がれた不自由な存在だ」と説くのもそれと同じくらい、愛が無い。

愛のある人なら、彼女の悪意よりむしろ、過去の虐待経験によって生じた心理的悪影響という不自由の現実に着目するだろう。

愛のある人なら、彼の不運な巡り合わせよりむしろ、人は過去の奴隷ではなくいつからでも人生をやり直すことができるという自由の可能性に着目するだろう。

このように、深い愛情と思慮を兼ね備えた人─有徳な人物と言ってもいい─は、「人は自由であり、不自由でもある」という一見矛盾する(にもかかわらず一般的な)見解のどちらの側面に光を当てる事が目の前の隣人にとって善い事なのか、個々の状況に応じて、その都度適切に判断しているのだろうと思う。

ここでは「人間に果たして自由意志はあるのか」という理論的な問題は傍に置かれて、「いまここに愛があるのか、無いのか」という実践的な問題を主体的に問うことが何よりも優先されている。

僕はカントのようにあらゆる状況に妥当する普遍的な道徳法則を確立するために自由の実在を要請するよりむしろ、個別の状況の要請に応じてルター(『奴隷意志論』)になったりエラスムス(『自由意志論』)になったりしながら、いま目の前の人が人生を前向きに生きられるような言葉を紡げれば、それで善いと思っている。対人支援職の卵として、そんないい加減なことを、僕は考えている。

そういうわけで明日から、人を見て自由を説こう。自由は愛の方便だから。


*もっともサルトルがここで問題にしていたのは自由意志の実在についてではなく、普遍的な道徳法則の不在についてだったと思うけれど。

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