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いのちって、はなっから暴力だよね。

いのちって、はなっから暴力だよね。

生まれるために、生まれ得たはずの他の精子を蹴落として。生き延びるために、生き延び得たはずの他のいのちを捕食して。

他のいのちと人のいのちを区別するのは、自分が他のいのちにとって悪なんだって気づけるほど賢いことと、その悪の自覚に耐えられないほど脆いことだよね。

人のいのちはあまりにも脆いから、こんな自分が生きてる事に抗議せずにいられなくて、いっそう暴力に走るんだ。

そんな呪いにもかかわらず、何とか人が生きてゆけるのは、自分がその産道を傷つけた相手にもかかわらず、母親に抱かれたことがあるからなのかな。暴力的な自分の存在を、文字通り腹の底から祝福されたことがあるからなのかな。

でも、そんな赦しの原体験を忘れたり、そもそもはなっから与えられなかった人は、一体どうやって生きてゆけばいいの?

あのひとは、そうやって失われたすべての子供達を抱き締めたくて、十字架の上でその腹を痛めたんだと思う。

あのひとは分かってたと思うんだ。自分が生きてることへの抗議を正面から受けとめてくれる存在が、つまり右の頬をぶたれても左の頬を差し出してくれる存在が、人にはどうしても必要なんだって。

そうやって腹の底から無条件で受け入れられた人は、もう自分から進んで暴力に身を委ねたりしないんだ。自分が愛されたように、自分も人を愛する事を学ぶんだ。

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