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『ありのままの自分』で居られたと思っていた誤解

私本当は、これが好きだったのか。嫌だったのか。

離婚したのは、2021年10月。
でも、一緒に暮らしていて。
独り暮らしを始めたのは、2022年2月。

その4ヶ月間は、まるで恋人同士みたいに過ごして
でも別れないといけないと心の深いところで分かっていて。

やっと決心がつく決定的なイベントが起こってから
やっと出ていくことができた。

という、背景があります。

24年間、一緒に暮らしていた人でね。
喧嘩はしたことがない、というくらい
とても楽しく、平和で、はたから見れば非の打ちようがない夫婦だった。

いわゆる、パワーカップルというやつで
タワマンに暮らし
週の殆どを外食。
休みは、ドライブ。国内旅行。

私は自営業だったので
きままに友人と、海外旅行。

記念日はミシュラン店で食事をすれば、
必ず耳打ちされたそうです。
「お連れの方、きれいですね。うらやましい」

今から思えば、
極上のぬるま湯に浸かっていて
身動きが取れない状況だった。

と、本当に思います。

当時はね、本当に思ってましたよ。
・今が人生で一番幸せ。
・大好きなダーリンと一緒にいられて、
・レインボーブリッジを一望できる場所にいて、
・自分の特技を活かして仕事も順調。

この、極上のぬるま湯に浸かり続ける選択を
自ら望んでしてきたつもりだったけど
本当の心の底、奥の方では

「何かが違う」

と感じていたことを否定できないときが
ときどきあった。
でもね、そんな囁きは
楽しい毎日の前では、吹き飛んでしまうもの。

その「何か」がようやくわかった。

それは、離婚して、独りになって
自分の本心と向き合うことができたから。

今なら、それが分かる。

自分軸で生きられないことが、本当に嫌で辛かったんだ。

家族をもったら、ましてや子供ができたら
子供中心に世界が回る。
それは人として当たり前。

伴侶との生活を第一優先にし
人生を共にすることを選択してきたことに
私はなんの不満もなく。
否、とても幸せだった。

自分の好きに生きていると思っていた。
勝手気ままに旅行にふらっと行って、家を空けていたし。
家事だって、分担してなんら負担はなし。
料理をしたくないときは、迷わず外食。
お財布は別々だったから、お金だって本当に好きなように使った。

なんといっても、愛する人と一緒にいるという
最大の幸福。
仲良く楽しく暮らしていて
これ以上何を手に入れたいというのだろうと
本当に感じていた。

私が選択をしている。
自分の人生を選んでいる。

と、考えていた。

どうも、自分軸で生きるというのは
好きなようにお金を使うことでも
家事をしたくなければしないことでも
気ままに遊びに出かけることでもないようだ。

自分が本当にしたいこと
自分が本当に望むこと

これに触れることは、かなり実は難しい
ということが
この歳になってやっと分かった。

実は、誰かの期待に応えている。
実は、何かのあこがれを追いかけている。
実は、損得勘定で動かされている。

これにはなかなか気づくことができない。
日常を回すために、ブラインドスポットになっているから。

考えても、分析ツールを使っても
なかなか触れることが難しい。

実際に、身をもって経験し、実感し
そうか、私はこれが嫌だったのか。。
そうか、私はこれが好きだったのか。。

人は環境から影響を受けて、感覚が変わるから
なにかの影響のないところに身をおいて
やっと分かる部分が大きい。

だから人は、人生の岐路に立つ直前は
自分探しの旅に出たくなったりするのだろうなと
今なら分かる。

損失回避性という人の習性

環境から感覚が変わってしまう、という話の
根拠になるのこの部分。

損失回避性という、人の習性。

人は、
利益を得たいというモチベーションと
今持っているものを失いたくないというモチベーション
どっちが大きいか、といえば
後者なのだそう。

そう、一度手に入れてしまうと
「失う」ということは、めっぽう回避したくなるのだ。
特に自分にとって「価値が高い」と思うものは損失の代償が大きく
回避する傾向が強くなる。

この条件が一番上に来てから
いろいろと選択する。
無意識に行っているものなので
本人は気が付かない。

私にとっての、愛する人と一緒に暮らすことは
何と比べれない価値の高いものだった。

だから、外部からくる大惨事でも起きないと
きっと手放すことなどできなかったと思う。

まさに、離婚の理由は
外部から来た大惨事、みたいなものだった。

あの日、あのとき、なぜあそこに私は居たのだろう。
あのタイミング、あの偶然が重ならなければ
きっと分からなかった。
何も変わらなかった。

この面白い出来事は、別の機会に(笑)

もし、このnoteにたどりついて
この長文をここまで読んでいるということは
何か興味があったポイントがあったことでしょう。

離婚に限らず、転職でも、移住でも
何か自分の環境を変えることは、
人生の岐路の前に立っていて
これからさき、どこかへ行こうとしている証拠だと思う。

なぜ、岐路の前なのか。

これが、損失回避性が大きく関わっているところだからだ。

可能な限りの
自分が今見えている限りの選択肢の中から選ぼうとしていたら
それは過去の延長線上にしか過ぎない。

ではなくて、
きっと本当の人生の岐路とは

予測不可能な状況・状態 OR 過去の延長線上の未来

だと、私は考えている。

見る前に飛べ!と言われて
はい!と飛べる人はなかなかいない。

だから、その手前にあなたが立ったときに
どちらを選びますか?と問われる場面が来る。

これが、人生の岐路の前
なのだ。

そして、過去の延長線上はもう嫌だと思ったらしく
私は離婚を選び、人生の岐路に立つことがやっとできた。

今はここにある、いると思っている。

離婚が人生の岐路かと思っていたが
それは岐路の前だった。

独りになって、自分のこころの深部にやっと触れることができて
さぁ、本当にやりたいことをしますか?しませんか?
という設問を自分に与えることができた。

だから、離婚は
突然に起こった大惨事から
天(?)外部からもたらされた恩寵へ
変わりつつある。

本当に「ひとり」になることができるか

独り暮らしをすれば、ひとりになれるのか。
答えは否。

一人旅に出ればひとりになれるのか。
これも否。

スマホから世界が流れ込んでくるから。
頭の中の声は、たえず自分に対していろいろ言ってくるから。

なかなか自分「ひとり」になれない。

まぁ、そもそも、今の自分を構成している要素は
誰かや何かの影響で成り立っているわけだから
意思決定が決して独りだけでなされるわけがない。

本当の気持ち、本当にしたいこと、本当の自分・・・
こんなものを問うた瞬間に
そもそもひとりではなくなってしまうジレンマ。

だって、きっとひとりって
ほんとうにひとりでしょう。
やりとりをしている時点で、相手いるじゃんか(笑)

って、禅問答を繰り広げたいわけではなく。

誰かや、なにかを考慮したり、配慮したりといった
自分のほんとうの気持ち以外の
前提をなるべく作らずに
自分と向き合うことができるか、ということ。

お金や生活の心配もちょっとおいておき
時間や経験が足りない、少ないもおいておき
誰かの気持ちや想い、恩とか縁とか評判とかもおいておき
立場や肩書、役割もおいておき
具体策や方法論が分からん、もおいておき

自分だけの自分、に
語りかける。

この状態が「自立している」ってことなんだと思う。

他人を思いやること
協調的に生きることと
「自立している」ことは、共存ができる。

だから、安心して
自分だけの自分にしばらくなって

ひとりになる。

すると、
見えてくるもの
感じるもの
分かってくるもの
腑に落ちることがきっと出てくる。

というか、
ひとりにならないと、多分出てこない。

もちろん、家族やパートナーと一緒にいて
何も文句なく幸せで居るなら
こんなまどろっこしいnoteは読んでいないだろうから(笑)
まったくもって
ひとりなんてならなくていい。

ひとりは孤独ではなくて
多分「自立」した状態だと思う。

家族やパートナーといて
自立できていたら、それは本当に恩寵だ。

知人に、別々に暮らしながら
20年来のパートナーと付き合っている男性が居る。
本当に彼女のことを尊敬していて
彼女一筋に愛している。

素晴らしい関係を築いている
なかなか珍しい人たちだ。

きっと、これからは
そんなパートナーシップや、家族のあり方が
増えてくるように思えてならない。

個人のあり方の多様性が
ますます重要視されてくるようになるからだ。

ありのままでいると、嫌われる。
ありのままなんて、受け入れられるわけがない。
と思っているなら、きっと大前提の環境の方に問題があるのだ。

居心地のよい場所に行けばいい。
かならず、どこかにある。

ただし、繰り返しになるが
大切な居場所という環境を失うことは
回避しようとする意思決定機構が働くため
大変苦痛を伴う場合が多い。

だから、見る前に飛ぶのだ。

回避しようとするから、抵抗と葛藤を生じて
苦痛を感じるだけでね。
あぁ、そうか
と思って手放してしまえば苦痛はさほどない。

本当に自分が望むことは
やっぱり圧をかけてきて
自然に環境が変わるように仕向けられるように思う。

だから、流れに身を任せていれば
ちゃんと岐路までたどり着く。

そこで、何を選択するかは
あなたの選択にかかっている。

何を選んでも、きっと大丈夫。

だって、人生ってそういうもんだからさ。

今更分かってきた、私の本当に好きなもの

アラフィフになって、ようやっと分かってきた私の本当に好きなもの。
これが見つかるときは、
なんか宝物を見つけたように感じる。

  1. 私はどうも好奇心を刺激されることが好きらしい。

  2. 情報を扱うより、モノを扱うほうが好きらしい。

  3. 三度の飯より寝ることが好きらしい。

  4. シリコンバレーよりシチリアのほうが好きらしい。などなど・・・

みなさんは、どんなリストが書けるだろう。
最近気がついた、意外な自分の一面はないだろか。

・私はどうも好奇心を刺激されることが好きらしい。
好奇心ってのが、こういうものかってやっと分かった。
理由がなく、心が動くものだった。
なんで興味が湧くのか、分からないが、
それについてもっと知りたいとかって、追いかけてしまう。
以前は私の興味を引くものといえば
ーどうやったらうまくいくのか
ー何が法則なのか
といった、セオリーを知りたかった。

今はもっと、自分本位で、
理由がない、なんだか分からないけど、気になる!ってもの
ことが好きらしい。
これがあると、毎日元気でいられる(笑)

・情報を扱うより、モノを扱うほうが好きらしい。
ITという業界から、今はIot業界に移って、
意外にもモノづくりが楽しいと感じている。
プログラムでアプリを作って一山当てるより
水分センサーを買ってきて、
家の観葉植物の土の中の水分を管理できる
デバイスを自作していみたいと本気で思う。

情報を扱うほうが、資本効率、資本回転率も高いから。
だからと考えて、学んだり、キャリアを伸ばそうとした。
が、やっぱりそんなにエネルギー注げないんだよねぇ。

キーボード叩くより、ドライバー回している方が
なんだか性に合っている・・・。

でもね、ものづくりは儲けるの大変。
原価率が高いから、利益を上げることに本当に苦労する。
でも、面白い。。

そういえば、昔
バイクに乗っていたときに
自分でメンテナンスするのが好きだったことを思い出す。

結婚して「常に美しい女性」を
目指すようになってから
なぜか機械いじりとか、大型バイクを乗り回すとか
あの手の楽しさから離れていた。

でも、今になってまたバイクは乗り回したいし
デバイス作ってみたいと
なんか湧き出てくるものがある・・・。

・三度の飯より寝ることが好きらしい。
今は、ずっと眠っていられる。
気がつくと夜の19時だったりする(笑)

誰かとスケジュールをともにしなければ
私のしたいことはほとんど睡眠だっという、驚愕の事実・・・

・シリコンバレーよりシチリアのほうが好きらしい。
シリコンバレーで働くことは、ITの人間にとっては憧れの一つではなかろうか。
世界的イノベーションが日々生み出される熱い場所。
でも、アプリ作るよりデバイス作る方が面白いぞ、性に合ってると気がつくとシリコンバレーよりもシチリアがいいなぁと感じるようになった。
なぜ、シチリアなのか。

それは飯がうまくて、景色が綺麗だからである。

などなど、ディスカバーMEみたいなことが日々起こっている。

しかし、自分の
「これが好きだったのか」「これは嫌いだったのか」って発見が
こんなにうれしいことだとは思わなんだ。

多分、こんなに感情が動いているのは
本当に自分の心底にぶつかっているからだと思うのだ。

過去の自分が喜んでいたことも
偽りだったとは思わない。

あのまま延長線上の未来に
今のこの妙な喜びはあっただろうか、と考える。
わからない。

でも、離婚して到達した境地ってある
というのは断言ができる。

人生の岐路の前に立っている方がおられたら
どうか、流れに身を任せて
流れ着いたところに安心して過ごされたらいいと思う。

そこからしか行けなかった場所が
必ずある。

そこがきっと、あなたが行きたかった場所なのだ。

少なくとも私は、
自分の本当に望むものが知れる未来に、たどり着きたかったらしい。
今のところは。


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