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スペードのAをさがして#1.5 『サバティカル』感想

はじめに

【スペードのAをさがして】は、アセクシュアルやノンセクシュアルを取り上げた小説・漫画を紹介し、私抹茶ソルト自身の感想を綴っていくシリーズである。各作品ごと、あらすじ紹介と作品感想の2部構成で書いていく予定だ。

今回は、前回あらすじを紹介した中村航『サバティカル』(朝日新聞出版、2019年)の感想を書いていきたいと思う。あらすじ紹介では、先入観なしで作品を楽しんでいただくために、できるだけネタバレを避けたが、今回は作品の内容について深く掘り下げたいと思っているため、ネタバレにはご容赦願いたい。

あらすじについては下記の記事を参照して欲しい。

『サバティカル』のアセクシュアル描写について

『サバティカル』の帯には、「『アセクシャルって知ってる?』 きみと同じ未来を歩きたかった。でも、それだけが出来なかった――。」というアオリ文が書かれている。読者の方は、なるほど、登場人物の誰かがアセクシュアルなんだな、と思いながらこの作品を読み進めていくことだろう。しかし、アセクシュアルについてはじめて言及されるのは、197頁中の136頁から。物語のかなり後半だ。

あらすじ紹介では、思わせぶりに「いったい誰がアセクシュアルなのか?」と書いてみたが、帯の文章からも推測できるように、『サバティカル』に登場するアセクシュアルの人物とは、主人公の梶その人である。

物語冒頭の同僚との会話で、梶は「いや、もう彼女はできないですよ」(p.15)や、「まあ、彼女は無理ですけどね」(p.16)と、繰り返し恋人を作る可能性を否定する。梶は3年前に恋人の夏菜子と別れ、以来連絡を取っていなかった。サバティカル期間中に近況報告をしようと思うものの、なかなか行動に移せない。別離した日の夏菜子の後ろ姿が、空白の時間を過ごす梶の心に何度も去来しては、影を落とす。

サバティカル期間中、料理やギターなどの趣味に打ち込む梶は、公園で吉川という老人から将棋を習うようになる。吉川には、離婚によって離ればなれになった娘がいた。梶は、吉川の娘・香奈を捜してこようと申し出る。香奈の捜索は順調に進み、彼女と交流を持った梶は、友人でも、恋人同士でもない、名前のない関係を築いていく。夏菜子との破局の悲しみはすでに癒えたかと思われた。

梶と夏菜子の間に、いったい何が起こったのか。彼がその過去と自身の胸の内を明かすのが、136頁以降の展開である。香奈から、梶にはなぜか下心が感じられないと告げられると、梶はそれは自分が他者に性的欲求を抱かないアセクシュアルだからではないかと返答する。「誰のことも、好きになったことがないんです」(p.136)。この言葉を皮切りに、梶は訥々と、自身について語っていく。

どこまでの感情が恋愛にあてはまるのかわからない。みんなの言っている好きは、自分が思うものと違うのかもしれない。恋愛をテーマにしたドラマやマンガを見ても、ファンタジーを見ているような感覚になる……。就職後、自分はこのままでいいのだろうかと悩む梶は、アセクシュアルという概念を知り、自身の性質を受け入れられるようになる。そして、大学時代のサークル仲間であった夏菜子と再会を果たす。夏菜子もまた、アセクシュアルを自認していた。

自分たちは、一生誰のことも好きにならないまま、一人きりで生きていくのだろうか……? 同じ孤独と不安を持つ二人は、互いの傷を慰めるように寄り添いあい、やがて、共に暮らすようになった。しかし、恋人や家族の存在を幻のようにぼんやりしたものとして求める梶と、切実にパートナーを求め、子供が欲しいと願う夏菜子の心は徐々にすれ違い、二人の関係は破綻してしまったのだ。

恋もできず、家族も持てない自分は、いったいなぜ生まれてきたのだろう?梶の悲壮な独白を、香奈は静かに受け止める。梶がアセクシュアルだと告白した後も、香奈と彼の名前のない関係が変わることはなかった。共に食事をし、会話を楽しみ、ゆっくりと梶の心はあたたかいもので満たされていった。「サバティカルの終わり、僕は初めて恋に触れたのだ。」(p.196)。理解できない恋という感情に焦がれ続けた梶は、煩悶の果てに、その感情の一端に触れたのである。サバティカルの後も、香奈との関係が変わらず続くことを示唆する文章で、物語は幕を閉じる。

抹茶ソルト’s感想

ここからは、私抹茶ソルトの主観100%で感想を述べていきたいと思う。私は今のところ、アロマンティック・アセクシュアルを自認しているが、この感想はあくまで私個人の感想であって、アセクシュアル当事者を代表するものではないことをあらかじめ断っておく。

まず、136頁以降の、梶の怒濤の告白は非常に真に迫るものであったし、共感できるものであった。梶が、自分は他の人と感覚が違うのではないか?と不安になり、アセクシュアルという単語に行きつくまでの過程は、私がアロマンティック・アセクシュアルを自認するまでの過程そのままと言っても過言ではないだろう。中村航先生は、『リレキショ』をはじめとした恋愛小説をよく書いてらっしゃる作家さんだったと思うが、この作品を書くに当たって、非常に入念にアセクシュアルについて調べたのだろうと感じられる文章だった。ただ、恋愛感情も性的欲求も抱かない憐れな人というような乱暴な表現ではなく、丹念な描写で、自分の性質を肯定する一方で、世間とのずれや将来への不安の間で苦しむ梶という一人の人物が表現されていた。

作中の、梶と夏菜子の関係や、梶と香奈の関係は、アセクシュアル=孤独という偏見を真っ向から否定する。梶と夏菜子は、アセクシュアルという共通点のもと、互いの性質を尊重し合いながら、共に生きる道を模索していた。もし、自分が今後パートナーを求めるなら、アセクシュアルという性質を理解してくれる人がいいと思うし、同じ感覚を共有できるのであれば、アセクシュアルの人をパートナーとして選ぶのもやぶさかではないと思う。恋愛感情や性的欲求を抱かないからと言って、友愛や親愛、家族愛といった他の感情まで持たないわけではない。そして、必ずしも一人で生き続けることに耐えられるわけでもない。ただ、生涯を通して誰かと支え合う、恋愛や性愛を伴わない関係の構築というのは、なかなか難しそうだ。梶と香奈子は、アセクシュアルという共通点のみで、心の傷をなめ合うものとして関係を構築したが故に、求める幸せの形がすれ違い、結局破綻してしまった。仮に、性行為を伴わない子作りの方法を選んでいたら、彼等に別れは訪れなかったのだろうか?

梶は、香奈と友人でも、恋人同士でもない、名前のない関係を築く。その果てに、恋を知った、らしい。梶と香奈が最終的に恋愛関係になったかどうかはさておき、良好な関係を構築できたのは、「当たり前」を求めなかったからだと思う。私の目には、梶と夏菜子が、恋人を作れば、結婚すれば、子供を作れば、幸せになるはず、と二人だけの幸せというより、世間一般で「当たり前」とされている幸せを求めていたように見えた。さらに言えば、幸せになるはず、というより、「当たり前」になれるはず、「普通」になれるはずという考え方が根底にあったのかもしれない。しかし、梶と香奈の関係は、マッサージ店の客が店員の家に料理を作りに行くという、何とも言いがたいところからスタートする。店員と客は必要以上に親しくしないとか、異性をむやみに家に上げないとか、そういう「当たり前」は無視され、サバティカルという非日常の中で、非日常なやりとりが交わされる。物語終盤、梶は「当たり前のことなんて、誰かに任せちゃえばいいんだよ」(p.182)と言う。彼は、サバティカルを経て、「当たり前」から解放された。梶と香奈がどのような道を歩むかは、推測することしかできないが、「当たり前」にとらわれない、二人だけの幸せを手にするのではないだろうか。

ひとつ、この作品で辛いな、と感じたところがあるとすれば、梶が自身のアセクシュアルという性質について、執拗に「欠落」という表現を用いていたところだろうか。私自身のアセクシュアルの捉え方は、どちらかと言えば、ものさしの違いとか、型の違いとか、そんな感じのものだと思う。世間一般の人が言う恋愛やら何やらを「恋愛」として認識するためのものさしがない。誰かに向ける感情の抜き型に「恋愛」や「性愛」のタイプがない。ないことはないのだけれど、欠けていると言われると、どうだろうか。落ちていると、あるはずのものがないと、劣っていると言われると、どうだろうか。それはちょっと違うかな、と思う。梶は恋を知ったらしいが、それは欠けていたものを取り戻したとか、進歩したとか、そういう風に考えたくはない。ただ変わったのだ。丸と三角のクッキーの型に四角が加わったのだ。ものさしに違う単位の目盛りが増えたのだ。それによって、消えた型とか、減った単位があるかもしれない。そんな風に思っている。

最後に、アセクシュアルとかセクシュアリティとか全く関係ない部分で、印象に残っていることに触れておく。物語の序盤、仕事先では必ずその土地の名物を食べるという誓いを立てたと梶が想いを馳せる場面がある。梶は、仕事で関東地方を中心に静岡、長野、新潟を含め各地を回っていた。時間が取れなかった静岡では、コンビニで金ちゃんヌードルを買ったという。そう、金ちゃんヌードル。ご存じない方は何のことやらと思うだろうが、金ちゃんヌードルは、徳島製粉株式会社が作っている、さっぱり醤油味で大変美味な即席麺だ。中部地方以西で販売しているため、東京などではお買い求めいただけない。ちょうど、金ちゃんヌードルが買えるぎりぎりの地域が静岡県というわけである。こういった固有名詞が登場するだけで、情景の解像度が上がるところが、小説の面白いところだと思う。

つらつらと感想を書いてみたが、皆さんは『サバティカル』を読んでどう感じただろうか。個人的には、アセクシュアルの描写が非常に現実に即していて、誠実な書き方だと感じた。梶が恋を知るという結末には、賛否両論あるかも知れないが、セクシュアリティとは流動性をもつものであり、必ずしも一定とは限らない。サバティカルの期間に、己の過去や心情、セクシュアリティと向き合った結果、梶は新たな自分の輪郭を見出したのだろう。料理やギター、絵画など、ひとりの時間を楽しむ描写も多く、人生の楽しみ方を教えてくれる物語でもあると思う。

これからも、アセクシュアルやノンセクシュアルを取り上げた作品について、私なりの感想を書いていきたいと思う。おすすめの作品等あれば、コメントで教えていただけると幸いである。

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