ウクライナと日本と平和

ウクライナで戦争が勃発してから2ヶ月が経とうとしています。私自身これほど戦争が泥沼化するとは思いもしませんでした。

私の友人がこの惨状に心を痛めて、チャリティーワークショップを行なうそうです。ダンスのショーをして、利益を国境なき医師団に全額寄付すると。

何故この友人は急にチャリティーを始めたのでしょうか。いえ、むしろ何故他の戦場は見ぬふりをしてきて、ここに来てウクライナの人々に寄り添うのでしょうか。

答えは簡単です。北半球で起きた戦争だからです。ソマリアでも南米でもアフガンでもなく、国家として成り立っていた、「平和」なはずの国が戦争を始めたからです。

彼女の深層心理には恐怖が垣間見えます。
調べないと出てこない砂漠の戦場。それらはそもそも最初から戦場で、「危ない国々」なのです。そしてそれらはこちらに飛び火しない対岸の火事、その国に生まれてしまった事が、その国に生きている事が「仕方ない」事なのです。

ところがウクライナは違います。ウクライナはマクドナルドやグッチがあって、スマートフォンを使っている人々が住んでいます。子供たちは教育を受け、働き、趣味に興じていました。ロシアもそうです。
実際のところは分かりませんが、少なくともイメージの中で、ウクライナの人々は野蛮では無いのです。

ですが平和は乱されました。我々日本人が掲げる美徳、平和です。戦争をしない。これこそが我々のルールであり、守るべき秩序なのです。
平和とはなんでしょうか。辞書によると戦争も無く穏やかな様を指すそうです。少し踏み込んで考えてみましょう。平和とは、戦争が無く、する必要も無い、治安面や生きることの難易度が低い状態でしょう。つまり平和とは贅沢品なのです。
運、国力、政策等が混ざりあって初めて成り立つ特権です。

我々は平和という特権に対して、奪われる事ない正義の心と考えます。ですが、ウクライナに置いて平和が奪われたのです。日本人は奮い立つでしょう。平和の使者として、自らが享受する特権を保守するために。

ウクライナで戦争が起きて、虐殺が起きては困るのです。自分達の当然の権利が、奇跡の上に成り立つ特権であると認めたく無いのです。

そして人々は疑問を持っています。何故今回のような戦争が起きたのだろうか。
これは疑問定義がまずズレていると感じます。
何故平和を保つ事ができなかったのだろうか。です。

人間の歴史を見れば戦争状態の方が通常運転で、虐殺こそが人間が人間たる所以なのです。
利益の為に、より良く生きる為に他者を踏みつける。
これは戦争のみならず日常生活で沢山の人々が行い、行われている力です。
ただ、ルールを作ってその範囲内ならば合法と言うことにしているのです。
戦争はそれらの利益や既得権益の追求の延長に過ぎません。
私たちが電車に乗る為に誰かを押し退ける事と、邪魔なブチャの市民をロシア兵が射殺する事には大差が無いのです。

本当に平和を望む人間として、私はこれを書き残します。
これは平和という偶像崇拝のカルト宗教に入信している方に、少しでも、考えて欲しい事なのです。

少しでも踏みとどまって欲しい事なのです。
日々忙しい皆様は他人を気にするのは中々難しいかも知れません。

ウクライナのロシア兵のように。

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