見出し画像

小説 喫茶店 第4話

第4話

疲れ切った体で、なんとか喫茶店にたどり着いたSは、ドアを開けて店内に入ると、いつものカウンター席ではなく、通路を挟んで反対側にある、ソファー席に倒れ込むように座った。
いつものカウンター席の椅子では背もたれがないので、これほど疲れていると、とても座っていられないと思ったのだ。

マスターは、そんなSを一瞥すると、いつものように無言でコーヒーを運んできた。
運ばれてきたコーヒーに、いつものようにすぐには手をつけず、Sは、恐る恐る、カウンターの奥の壁一面に掛かっている、たくさんの時計を眺めた。

どの時計が光って見えるのか、余り大きな時計じゃなければいいなあ、と願いながら。しかし、ソファー席から見える範囲では、光る時計は見当たらなかった。

そこで、Sは、マスターの動きを観察した。いったいどんな時計をマスターは運んでくるのだろうか。

しかし、いつもならすぐに時計を運んでくるはずのマスターであったが、今日は、違っていた。Sの前にコーヒーを置くと、踵を返してカウンターの奥に戻っていき、その後しばらくたっても、一向に出てこなかった。

今日は、時計が運ばれてこない?
Sは不思議に思いながらも、コーヒーを1口飲むと、疲れ果てた体をソファに委ね、すぐに深い眠りに落ちていった。

どれくらい時間が経っただろう。

ふっと、Sは目覚めた。もちろん、体には元気が戻っていた。あれほどあった疲れは、今はみじんも感じなかった。Sは、ぐっと両手を上げ、上向きに大きく伸びをしてみた。全身にエネルギーが満ち満ちているのを感じた。
あれほどあった疲れが見事に取れ、久しぶりにほっとした気持ちでゆったりと天井を眺め、そして、ゆっくりと視線を前に戻した。

と、その瞬間、晴れ晴れとした気分は、吹き飛んだ。Sの目の前には、大きな、大きな時計が置かれていたのだ。

床に置かれたその大きな時計は、ソファ席のテーブルの向こうで不気味に時を刻んでいた。テーブルに隠れて下の方は見えなかったが、その時計の大きさは、Sの体と同じくらいありそうな大きなものだった。

Sは焦った。いくらなんでも、今日、こんなに大きな時計が出てくるとは思ってもいなかった。今回も、おそらく時計が大きくなるとは覚悟していたが、それでもこの前より少しだけ大きくなる程度であろうと、勝手に想像していた。それが、こんなに大きい時計であると、多少の時間が削られる位では済まないだろう。

場合によっては、人生の時間をすべて失ってしまうのではないか?そもそも、いったいなぜ、こんな大きい時計になってしまったのだろう?そこまで考えて、Sは、ハッと思い当たった。きっと、あの出来事が原因だ。そうに違いない。

今日、喫茶店に来る前、道すがらの十字路で、Sはある女性と出会った。不意に吹いてきた一陣の風に、疲れた体を支えきれずに、Sはバランスを崩して倒れ込んだ。そこにちょうど通りかかったその女性は、Sを優しく引き起こしてくれた。

そんな素敵な女性と、もし、一緒に暮らせたら、なんて、Sは、そんな大それたことまで考えた。そして、店に入る直前まで、疲れた、と、素敵な女性だったな、という2つのことを頭の中で繰り返して考えていた。

もし、疲れを取って元気になりたいという望みのほかに、あの素敵な女性と一緒に暮らせたら、ということが今回の望みとして捉えられてしまっているとしたら...。

そう考えると、目の前の大きな、大きな時計が、そうした大それた望みにはふさわしい大きさにも見えた。

とにかく、とにかく、今は落ち着こう。落ち着いてこれからどうすればいいのかを考えよう、考えなければ。そう思いながら、Sは、コーヒーカップを手に取った。

もちろん、コーヒーカップを持つSの手は、震えていた。

To Be Continued


この記事が参加している募集

#SF小説が好き

3,053件

こんなものでも良かったら、サポートしてください。もっと良いものにしていく原動力にさせて頂きます!