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小説 喫茶店 第1話

第1話

今日は、関東地方一帯が猛暑となるでしょう、朝のテレビで言っていたが全くその通りだ、とSは実感していた。2か月前にやっと採用された契約社員のノルマとして、訪問すべき得意先はあと数件残ってはいたが、積もり積もった疲れは体中に溜まっていた。

なんとかこの疲れが取れないものかと常々思っていたこともあり、異常なほど流れ落ちる汗を言い訳に、Sは、目の前にあった喫茶店に飛び込んだ。    

小さな喫茶店だ。

薄暗い店内に冷房がしっかりと効いていることにほっとしながら、Sは空いているカウンター席に座った。

珈琲を注文し、汗をぬぐいながら、ふとカウンターの中を見て、Sは驚いた。壁一面が、びっしりと時計で埋め尽くされているのだ。

一つ一つの時計の針が、それぞれ違った時刻を示しているので、Sは、世界各地のローカルタイムを示しているのか?と一瞬思った。しかし、それにしては数が多すぎた。大きい時計や小さい時計が、数百はあろうかというくらいびっしり壁に取り付けられていた。

客はそれなりに入っているのに、なぜか話し声一つしない店内は、時計の刻む秒針の音が、まるで時間のせせらぎのように響いていた。
 
「どうぞ。」
マスターが入れたての珈琲をSの目の前に差し出しながら、低い声で言った。妙に心の奥底に響く声だ。

「気になる時計がございましたら指差してお教え下さい。」
気になる時計って、どういうことだ? 不思議に思いながらも、Sは壁の時計を眺めてみた。その途端、一つの時計が目に付いた。やけに光って見える時計だ。

「これですね。」
マスターはその時計を壁から取り外すと、Sの目の前に置いた。

「それではごゆっくり。」
そう言うと、マスターは立ち去った。

訳もわからず、Sは、目の前に置かれた時計を見つめた。懐中時計の様な、小さなその時計からは、コチコチ、コチコチ、と小さいが鋭い音が刻まれていて、それを聴いていたSの意識は次第に薄れていった・・・。


 
ふと気が付くと、時計の針はちょうど1時間進んでいた。飲んだ記憶はなかったが、珈琲は残りわずかになっていた。

「疲れはとれましたか。」
マスターが声をかけてきた。

驚いたことに、確かに体には元気が戻っていた。さっきまで、あれほどあった疲れは、今はみじんも感じなかった。
Sは不思議に思いながらも、仕事に戻らなくては、と席を立ちながら、マスターに言った。

「おいくらですか。」
「・・・既にいただいております。」
どういうことだ?
Sは訳が分からず、マスターの目を見つめた。
笑顔をつくるマスターの、その目の奥に冷たい光を感じ、Sは急に、ぶるっと震えた。あるいは、冷房に当たりすぎたのか。

マスターは、低い声で続けた。
「当店は、お客さまのお望みをかなえる代わりに、時間でお代をいただいております。貴方様の人生の最後から、1時間だけ差し引かせていただきました。」
 
Sは、店を飛び出した。
店の外は、相変わらずの暑さであったが、Sはまだ、震えていた。

To Be Continued


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