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地上最強の男 〜世界ヘビー級チャンピオン列伝〜

   百田尚樹さん著「地上最強の男」は、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンを「地上最強の男」と捉え、初代から28代目のモハメド・アリまでの軌跡と、チャンピオンたちのストーリーが記された、ボクシングの歴史書とも言える本であった。
 なかなかに読み応えのある本なので、ボクシングのコアなファンでなくては筆者の熱量と情報量に追いていかれてしまうかもしれない。
 そこで、同書を私なりに要約し、「魅力」をお伝えしたい。私にとっての同書の「魅力」だが、ボクシング技術や必殺技、試合内容、ファイトマネーではなく、歴代チャンピオンを取り巻く人種差別や世界情勢という背景やバックストーリーにフォーカスを当てたい。
 なお、これから述べるほとんどの試合はYouTubeで見ることができるので、興味が湧いた選手がいたら、ぜひ観戦していただきたい。

YouTubeでも投稿してます



 初代 ジョン・L・サリバン

 1858年生まれ、アメリカに住むアイリッシュ(アイルランド系)のサリバンは、アメリカ中にいる力自慢の一人だった。
 現代でいうボクシングというスポーツはまだ確立されておらず、パンチと投げ技による攻撃が許され、グローブ着用も任意であった。また、ファイトスタイルもリング中央で向かい合って、殴り合うという不死身比べとも思える狂気的な格闘技であった。
 この狂気のスポーツを嗜む人間には、アイリッシュが多かった。アイリッシュは気性が荒く、売られた喧嘩は買わなくてはいけないという、とてもマッチョな考え方を持っているらしい。
 サリバンはボストンの酒場で力自慢を募り、喧嘩を練習として力をつけ、アメリカ各地の実力者と試合をして、次々に倒していった。
 当時はチャンピオン認定協会などはなく、世界チャンピオンと呼ばれる者はいなかったが、イギリスチャンピオンやアメリカチャンピオンと呼ばれる男達おり、その男達を相手にサリバンが圧倒的な勝利を収めた。
 そして1885年頃、サリバンは大衆から世界チャンピオンという称号が与えられる。この男から、ヘビー級チャンピオンは継承されていくことになる。

 2代目 ジェームス・J・コーベット

 コーベットもまたアイリッシュであった。しかし、そのファイトスタイルはサリバンやその他のボクサーと一線を画していた。
 コーベットのファイトスタイルは、不死身比べの殴り合いではなく、相手と距離をとってパンチを避け、相手の疲れたところで強打を放つというスタイルで、現代でいうアウトボクシングを始めて取り入れた人物である。
 1892年にサリバンVSコーベットが行われ、序盤から強打を振るサリバンに対し、コーベットは徹底的に逃げ続けた。そして、21ラウンド、疲れきったサリバンに対し、今度はコーベットが強打を打ち込み、サリバンは力尽きた。この瞬間、ボクシングは近代スポーツへと脱皮した。
 しかし、コーベットの戦いぶりは、これまでのボクシングしか知らない大衆にひどく批判された。
 コーベットは、チャンピオン戴冠後、試合を行おうとはしなかった。それはチャンピオン時代のサリバン、3代目のフィッシモンズも同様で、ヘビー級チャンピオンの肩書きさえあれば、試合をせずとも舞台やチャリティマッチで大金を稼ぐことができるからだ。
 そんなコーベットのチャンピオン時期に、偉大な技術が花開く。1889年エジソンが映写機械を発明し、1894年、エジソン製作所の映写機により、世界で初めてボクシングの映像が撮られた。それが、コーベットのチャリティマッチであった。

 3代目 フィッシモンズ

 イギリス出身のフィッシモンズは体重70キロのミドル級でデビューし、ミドル級でチャンピオンになると、2回防衛後にヘビー級へ転向した。 体躯に劣るフィッシモンズは、当時の主流であった大振りの強打ではなくジャブをコツコツと当てるスタイルを確立し、ヘビー級でも連勝街道を進む。
 コーベットへの挑戦権を経たフィッシモンズは、劣勢ながらも14Rにボディブローで逆転KO勝利を収めた。ミドル級からヘビー級まで制した男は、ロイジョーンズが成し遂げるまで、フィッシモンズただ一人だった。

 4代目 ジェームス・J・ジェフリーズ

 ジェフリーズは身長183センチながら、100kgという当時としては規格外の体躯を持っていた。全身が筋肉に覆われ、身体能力も抜群に高かったのだが、ボクシングの技術には乏しかった。
 しかし、いくらパンチを受けても倒れない、頑丈さを武器に知名度と人気を高めた。そして、防衛戦をしようとしないフィッシモンズに対し、大衆を味方につけて試合を迫り挑戦権を得た。
 試合は、フィッシモンズ(69kg)VSジェフリーズ(97kg)と28Kgの差がある試合となった。
 結果は想像通り、フィッシモンズのパンチではジェフリーズにダメージを与えることができず、11RでジェフリーズのKO勝利となった。
 その後ジェフリーズは過去3代と違い、積極的に試合を行った。舞台に出るような派手な男ではなかったのだ。
 5年間で7度の防衛を重ねそのほとんどをKOで勝利し、ついにジェフリーズに挑戦するものは現れなくなった。最強を証明したジェフリーズは1904年に王座を返上し、田舎で農園を開き悠々自適に暮らした。

 カラーライン

 時代は飛び、7代目にヘビー級王座に座ったのは、バーンズという白人の男で、11度も防衛する強者であった。
 1885年初代サリバンから1906年のバーンズまで、21年間全てのチャンピオンが白人であった。これは、決して偶然ではない。
 1863年にリンカーンが奴隷解放宣言し、黒人の身分は奴隷から市民へと変わった。しかし、法的にも公共のトイレや交通機関、レストランでは白人と黒人で分けられていたり、黒人が利用できなかったりなど、人種隔離政策(ジム・クロウ法)は1964年まで続き、社会的にも選挙・就学、就業機会・結婚などにおいて、白人との格差は大きく、実質的に公民権は得られていなかった。そして、それが当然だという社会コンセンサスがあった。
 ボクシングにおいても、人種差別は色濃い。黒人ボクサーが試合をすることは許されていたが、神聖なるヘビー級チャンピオンに挑戦することは許されていなかった。これを「カラーライン」という。
 これまでのチャンピオンたちは皆、黒人に有力な選手がいたとしても、カラーラインを理由に挑戦を受けることがなかったのだ。
 そんな時代に現れたのが、怒れる最強ボクサー「ジャック・ジョンソン」である。

 7代目 ジャック・ジョンソン

 1878年に生まれたジョンソンは、15歳でボクシングの試合に出場、19歳の頃には、テキサス州ミドル級チャンピオン、24歳で世界有色人種ヘビー級チャンピオンとなった。
 当時、黒人は世界チャンピオンになれない代わりに、黒人だけの世界チャンピオン、世界有色人種チャンピオンというものを作り上げていたのだ。
 世界有色人種ヘビー級で17度の防衛を果たしていたジョンソンは、当時世界チャンピオンであったジェフリーズに幾度も試合の申請をしたが、カラーラインを理由に拒否され続けていた。
 自身が本物のタイトルマッチに挑戦できる実力があるにも関わらず、肌の色が違うという理由だけで拒絶されることに対して怒りが芽生え、狂気に満ちた行動が始まる。ジョンソンはジェフリーズを、そして白人を罵倒したのだ。当時、黒人が白人を罵倒することは、掟破りの自殺行為であった。そんなことをする黒人は白人にリンチされ殺されてしまうのような時代なのだ。
 しかし、ジョンソンは罵り続け、そんなジョンソンの掟破りな言動はヘイトの対象としてアメリカ・ヨーロッパなどで大いに話題になり、各地の白人たちは怒りに任せて発狂した。
 ジェフリーズが引退し、王座がバーンズに変わると、ジョンソンは標的をバーンズに変え、「臆病者」「黒人を怖がっている」と世間に対して流布した。その話がイギリス王子の耳に入り、王子がバーンズに対して「アメリカ人を怖がっている」と苦言を呈す。
 バーンズはカナダ人で、イギリスとカナダは同君連合にあるため、イギリス王子はバーンズにとって自らの君主に当たる。その王子からの苦言はバーンズにとって重たいものであり、腹を括ったバーンズはジョンソンの挑戦を受けた。
 1908年バーンズVSジョンソンの試合がオーストラリアで行われた。試合は1Rにジョンソンがダウンを奪うなど圧倒的な実力差があったが、ジョンソンはKOパンチを撃たず、白人社会に対する怒りをバーンズにぶつけるように罵りながらいたぶり続け、白人で埋まる観客席に嘲笑を向けた。観客席では、怒りのボルテージが高まり、今にもリングになだれ込む勢いであった。
 そして14R、騒乱が起きかねないとして警察がリングにあがり、試合を中止させた。この試合は世にも珍しい「ポリス・ストップ」によりジャクソンの勝利となった。世界初の黒人世界ヘビー級チャンピオンが誕生した瞬間である。

 「ザ・グレート・ホワイト・ホープ」
 「ザ・グレート・ホワイト・ホープ」これは、バーンズVSジョンソンの残酷な試合を目撃し、一層ジョンソンに対して嫌悪感を抱いた白人たちが、ジョンソンを打ち倒す白人を切望し、冠された言葉である。
 この時ジョンソンは、無敵の男でありかつ、金の亡者でもあった。白人の強豪と試合をすれば、大きなファイトマネーになるため、ジョンソンは挑戦を受け続け、挑戦者を完膚なきまでに打ち倒し続けた。
 その挑戦者の一人に4代目ジェフリーズがいた。ジェフリーズは悠々自適に農園ライフを送っていたが、ホワイト・ホープの一人として白羽の矢が立ち、駆り出されたのだが、全く歯が立たなかった。
 白人たちがさらなる怒りをたぎらせる事件が起こる。なんと、ジャクソンが美しい白人の女性を妻としたのだ。当時、白人と黒人が結婚することは法律で禁じられていたのにだ。
 しかし、結婚生活は長く続かない。白人社会から切り離された妻は誹謗中傷を受け自ら命を絶ってしまう。その1ヶ月後、ジョンソンは18歳の白人女性と再婚をする。
 ジョンソンへの怒りはアメリカ司法にまで上り、ジョンソンを有罪にするためだけに法改正を行い、法の拡大解釈でジョンソンを逮捕するため起訴したのだ。ここからジョンソンの長い逃亡生活が始まる。
 ジョンソンはタイトルを保持したまま、ヨーロッパ、南米へと移動を続け、防衛戦を重ねた。
 そして1915年、ハバナで行われた試合で王者陥落した。対戦相手は211cmもあるウィラードという男で、試合で相手を殺してしまったことがあるほどのハードパンチを持っている。
 6年4ヶ月ヘビー級王座を守り続けた黒人の伝説は幕を閉じ、5年後の1920年に母国アメリカへ帰国し、自首。懲役刑を満了した。

 9代目 ジャック・デンプシー

 8代目ウィラードは憎きジョンソンを打ち破ったことで、国民的ヒーローになっていた。その人気のあまり、試合をせずとも大金が舞い込んでくるため、防衛戦を2年間も行わず、練習もほとんどしていなかった。
 そんな時に力を付けていたのが、新たなヒーローとなるジャック・デンプシーである。 
 デンプシーはアイリッシュ系の労働者階級に生まれた。貧困に苦しみ、仕事を求め、無賃乗車でアメリカ国内を移り住む生活をする中でボクシングと出会った。
 デンプシーは、酒場で力自慢の男たちを挑発し、喧嘩をすることで力を付けた。初代のサリバンと全く同じ練習方法である。
 デンプシーのファイトスタイルは、当時としては非常に独特なスタイルであった。それまでのボクサーは、上体を立て後ろ重心で構えていた。しかし、デンプシーはヘビー級において185cmと見劣りする体格のため、体全身を使ってパンチを撃つために、前傾姿勢をとった。そして、上体を振ることで相手の攻撃をかわした。ここから生まれた必殺技が「デンプシーロール」で、幕の内一歩の必殺技でもある。
 デンプシーは、この画期的なスタイルで、対戦相手を次々にリングに沈め、知名度を上げた。 
 1919年ウィラードVSデンプシーの試合が行われた。ウィラードにとって、実に3年ぶりの試合であった。おそらく、30cm近く身長差のあるデンプシーを舐めていたのだろう。試合は1R にデンプシーが7度のダウンを奪い、なんとかウィラードが起き上がるも、3Rにウィラードが棄権しデンプシーが勝利した。
 この試合をきっかけに、ボクシングに1つのルールが追加された。それは、ダウン後のニュートラルコーナーでの待機である。デンプシーはウィラードを倒すと、真横で待機し、立ち上がったところに強打を撃ち込みまた倒すということを繰り返していたのだ。

 1920年 ローリング・トゥウェンティー(狂騒の20年)
 第一次世界大戦時、世界一の産油国だったアメリカは、同盟国、連合国の双方に原油を売り、莫大な利益を上げた。
 第一次大戦後、疲弊したヨーロッパに変わり、アメリカが世界のリーダーとなる。当時のアメリカ好景気は「永遠の繁栄」と呼ばれ、まさに小説「華麗なるギャツビー」の時代である。
 ボクシング界では、世界初めての王者認定団体となる、NBA(全国ボクシング協会)後にWBAとなる協会が設立された。

 デンプシーは「永遠の繁栄」時代の「地上最強の男」として、国民的ヒーローになっていた。しかし、頻繁に防衛線をすることができなかった。その理由として、名勝負や世紀の一戦と呼ばれる濃度の濃い試合を繰り返し、ファイトマネーが高騰したこと。そして、挑戦者が枯渇したこと。最後にデンプシーも黒人に対してカラーラインを引いていたことだ。
 1927年デンプシーにとって、約3年ぶりの試合が行われた。相手は元海兵隊のジーン・タニーという男だった。トレーニング不足だったデンプシーに対し、タニーは細かいパンチを当て、脚を使って距離を取り、判定勝ちを収め、10代目世界ヘビー級チャンピオンとなった。
 デンプシーは引退を決意したが、友人であったメジャーリーガー「ベーブ・ルース」に復帰を促され、復帰戦を行なった後、タニーとリマッチを行なった。
 試合はタニー優勢に進んだが、7Rにデンプシーが強烈なフックでダウンを奪う。レフェリーはデンプシーにニュートラルコーナーに行くように促すが、デンプシーは気に留めず、タニーのそばを離れない。レフェリーが強く注意し、デンプシーがニュートラルコーナーについてからカウントを始めた。タニーは9カウントでふらふらと立ち上がったが、ダウンしてからは14秒ほど経っていた。その後、タニーは逃げ切り、判定の末タニーが勝者となった。デンプシーは自身の影響でつくられたルールによって破れてしまったのである。
 その後、タニーも2度目の防衛戦後、デンプシーとの2戦で稼いだ大金を手に引退した。

1929年 世界恐慌
 「永遠の繁栄」は幻であった。アメリカのバブルが音を立て崩れ、10月24日「ブラックサーズデー」、10月29日「ブラックチューズデー」においてニューヨーク株式市場で株価が大暴落。アメリカ実体経済は下り坂を転がり落ち、多くの企業が倒産した。

 11代目 マックス・シュメリング

 1930年に世界ヘビー級チャンピオンとなった男は、ドイツ帝国生まれの、生粋のドイツ人である。この男が、後に台風の目となる。

1932年 ナチス誕生
 第一次世界大戦に敗北したことで莫大な賠償金を抱えていたドイツに、世界恐慌というさらなる追い討ちが重なり、激しい怒りと不安を抱いたドイツ国民は、情熱的にゲルマン民族の誇りを謳うヒトラーの演説にすがってしまった。

 15代目 ブラドック 

 話はボクシングに戻る。世界恐慌後、世界は娯楽どころではなくなり、ボクシングの興行は停滞していた。
 アメリカ人の元ボクサーのブラドックもまた、世界恐慌の煽りを受け失業し、生活保護を受けていた。
 生まれたばかりの子と妻を支えるため、旧知のマネージャーに、誰とでもやるから試合をさせてくれ連絡をした。全盛期をとうに過ぎた29歳での復帰だった。
 マネージャーはすぐに対戦相手を見つけた。相手は、ヘビー級次期チャンピオン候補で、咬ませ犬として試合だった。ブラドックは過去を回想し「あの時はゴリラとやれ、と言われても戦っていただろう」と語っている。
 試合はブラドック劣勢に進み、ダウンを奪われてしまう。マネージャーが「赤ん坊のミルクはどうするんだ!」と鼓舞すると、ブラドックは立ち上がり、逆転KO勝利を収めるのだ。ドラマのような話だが、さらなるドラマが、ブラドックを待ち受ける。次戦も決まるが、また咬ませ犬。しかし、その試合にも勝利し、なんと当時のチャンピオン、マックス・ベアの初防衛戦の相手に決まったのだ。
 この試合も、ブラドックは明らかな咬ませ犬だった。賭け率は10:1でベアが有利。元チャンピオンや記者たちの中に、ベアが負けると思うものはいなかった。それだけベアは強かった。
 しかし、ブラドックは勝利した。3度咬ませ犬として戦い、全てに勝利したのだ。
 ブラドックはチャンピオンになったが、防衛戦については慎重を喫しなければいけなかった。ブラドック自身もマネージャーもわかっていたが、ブラドックにはヘビー級王座に長居できる実力はなく、さらに30歳のロートル(老兵)で、どの挑戦者が来ても最後の試合になる。唯一になるであろう防衛戦で、たっぷりと稼ぐ必要があった。
 その頃、ボクシング界には新たなる天才、黒人ボクサーのジョー・ルイスが実力を遺憾なく発揮していた。

 16代目 ジョー・ルイス

 1914年ジョールイスはアメリカで元黒人奴隷の両親から生まれた。17歳でアマチュアボクシングにデビューすると連戦連勝し、53勝3敗43KOという素晴らしい戦績を引っさげ、20歳でプロ入りする。
 ルイスの才能に目をつけたトレーナーは、パワー頼りのボクシングを一から鍛え直すとともに、黒人として世界チャンピオンになるための条件をきつく教え込んだ。「1、白人女性と写真に写らない 2、一人でナイトクラブに入らない 3、だらしない試合はしない 4、八百長はしない 5、倒した相手を見下さない 6、ポーかフェイスでいる 7、常に正々堂々と戦う」
 白人はいまだにジャック・ジョンソンの忌まわしい記憶に取り憑かれており、より一層カラーラインの遵守をするようになっていた。そんな時代に、白人に嫌われぬよう、ルイス自身も言いつけを守り、品行方正に振る舞うことを心がけた。すると、ルイスの超人的な強さも相まって、ルイスを認める白人も少数派だが出てきていた。
 ルイスは、天性の勘と素晴らしいスピードを備え、左右のパンチとも一撃必殺のパンチ力がある上に、コンビネーションブローという技術革新を成し遂げた完全無欠のボクサーだった。
 ちなみに、現在においても由緒正しきボクシング雑誌の「リング誌」では、歴代ハードパンチャーランキング1位である。
 ルイスがプロデビュー後、22戦全勝18KOとなった時、ビックチャンスが訪れる。当時のランキング1位で11代目チャンピオンでもあるシュメリングと、王者ブラドックへの挑戦権をかけた試合が決まったのだ。22歳であるルイスが品行方正に努めた成果である。
 だが、ルイスは人生で初めてのKO負けを喫してしまう。シュメリングの勝利にアメリカの白人たちも大いに喜んだ。
 しかし、ブラドックへの挑戦権はルイスのものとなった。実は、ブラドックのマネージャーはユダヤ人であり、当時ドイツ人のシュメリングはナチスの看板を背負った選手だった。
 シュメリングと試合をさせたくないブラドック側のマネージャーは法廷騒動を起こしながら、半ば強引にジョー・ルイスとの防衛戦を組んだ。
 ルイスにしてみれば、奇跡が幾重にもなったチャンスである。「唯一の防衛戦で金を稼ぎたいブラドック」「シュメリングと試合をさせたくないマネージャー」「白人に嫌われぬよう品行方正に尽くし、ヘイトを抑えたルイス」という条件が全て合致して、試合に結びついたのだ。
 ブラドックVSルイスの試合はルイスのKO勝利で、ジャック・ジョンソン以来、29年ぶり2人目の黒人ヘビー級チャンピオンが誕生した。
 ルイスは勝利の余韻に浸ることなく、シュメリングとの再戦を要求した。大衆もルイス自身もジョー・ルイスを真のチャンピオンと認めていなかったからだ。

1937年-1938年 ナチス本格化
 この期間、ナチスドイツは軍備化、オーストリアやチェコスロバキアの併合で領土拡大、ユダヤ人の弾圧・収容など活動を本格化させていく。

1938年8月 ジョールイスVSマックス・シュメリング
 両雄の決戦が決まると、それは「自由主義国家アメリカVS社会主義国家ナチス」という構図が投影され、ジョー・ルイスはアメリカの期待を一身に受けた。
 そう、黒人でありながら、ナチスという新しい敵が現れたことによって、国家思想の対決になり、黒人も白人も同じ反ナチスの仲間となったのだ。
 その人気を表すエピソードとして、ジョー・ルイスは初めてホワイトハウスに足を踏み入れた黒人だ。当時の大統領、フランクリン・ルーズベルトに直接招かれ、「ジョー、我々がドイツを倒すためには君のような筋肉が必要だ」と声をかけられたのだ。これほどの意味を持つ本物の世紀の一戦とは、歴史上この試合のみであろう。
 試合は、ルイスの1RKO勝利で黒人ジョー・ルイスは本物の国民的ヒーロとなった。
 一方のシュメリングは、ナチスに利用価値がなくなった男と見做され、軍隊で最も危険な落下傘部隊への所属を命じられ、戦時中、最も激しい戦闘のあったクレタ島へ派遣させられた。
 シュメリングは、実は反ナチズムを持つ男あった。ナチスドイツに政治利用をされていたのだ。自身は人種差別など一切しておらず、トレーナーにはユダヤ人をつけ、妻はチェコ人だった。
 戦後シュメリングは命を奪われそうになったユダヤ人少年2人を自宅に匿い助けた。ジョー・ルイスが引退後、逼迫した生活を送っていることを知ると匿名で生涯にわたって資金援助し続けた。自身の引退後は瓶詰め工場を立ち上げ、実業の世界で成功すると、恵まれない人を支援した。

 1940年 ナチスがヨーロッパ各地へ宣戦布告。フランスを占領。1941年12月7日 真珠湾攻撃 日本がハワイのアメリカ軍基地、艦隊に対して攻撃。 
 中国が日本・ドイツ・イタリアへ宣戦布告
 日本・ドイツ・イタリアがアメリカへ宣戦布告
 第二次世界大戦勃発

 ルイスは初防衛のシュメリング戦後、1942年3月まで防衛戦を戦い続け、4年3ヶ月の間に20度の防衛に成功した。年間5試合ペースである。
 そして、ルイスはヘビー級王座のタイトルを保持したまま、陸軍へと入隊した。ルイスには戦争とは別の問題もあった。浪費癖があり、多額の借金があったのだ。また、税金も滞納しており、試合をしなくては首が回らない状態になっていた。

第二次世界大戦後
 戦後、アメリカにおいて黒人の地位は急速に上がった。それには、戦前のルイスの功績が大きい。シュメリングに勝利しアメリカ全土が喜んだ。黒人でもアメリカ人という意識が、白人の中に芽生えたのだ。
 そして、戦後、敵国ドイツが掲げるあからさまな人種差別主義に自由主義国家の雄として立ちはだかったアメリカとしては、人種差別をよしとするわけにはいかなかった。
 ルイスは、4年のブランクを経て、1946年に防衛戦を行い、勝利するも、全盛期の勢いは失われていた。
 その後、1948年までに4回の防衛に成功し、1949年3月1日に無敗のまま引退をした。戴冠期間は11年9ヶ月、防衛記録は25回。年齢は35歳になっていた。
 と、ここでスッキリ引退していたらかっこよかったのだが、やはり税金の滞納と借金で首が回らないルイスは復帰し、勝ち星は多いものの負けもあった。そして最終的に、次期チャンピオンとなるロッキー・マルシアノとのノンタイトル戦に敗北し、完全に引退している。税金の滞納についは、国からの情状酌量があり、どうにかなったらしい。

 19代目 ロッキー・マルシアノ

 ロッキー・マルシアノの名前はボクシングファンであれば誰もが知るところであろう。49戦全勝43KO 、メイウェザーはマルシアノの連勝記録と並んだところで引退をした。映画ロッキーのモチーフにもなっている。しかし、私自身マルシアノの奇天烈な人生の1割も知らなかった。
 マルシアノは、アマチュアボクシングを経験するが8勝4敗、紆余曲折あり、大リーガーを目指してシカゴ・カブスのファームチームに入るも足が遅すぎて3週間でクビにになる。
 ボクサーを目指して名トレーナーの元へ行くも、下手くそすぎて相手にされなかった。「こいつより下手くそな奴は他にいない」と言われる始末である。
 さらに24歳という、ボクシングを本格的に始めるにはあまりにも歳をとっており、体格も179cmしかなくリーチはなお短い173cmであった。
 そんな哀れなマルシアノにも、唯一の長所があった。それは、右のオーバーハンドである。
 なんとか契約をしてもらったマルシアノは、最初のうちはトレーナーに試合にもついてきてもらえなかったが、連勝するうちに期待の眼差しを向けられた。
 マルシアノのファイトスタイルはノロマだが、撃たれても撃たれても前進し、プレッシャーをかけ、劣勢でもたった一発当てることができれば、どんな大男でもリングに沈んだ。
 42戦全勝37KOの時、世界チャンピオンへの初挑戦をし、最終ラウンドまでボコボコにされ続けるが、最終ラウンドに右のオーバーハンドで一発失神KOで、15代目ブルドック以来、15年ぶりの白人チャンピオンとなった。
 その後の戦歴は上述した通り、順風満帆だったが、トレーナーがマルシアノを徹底管理していたことに嫌気がさし、無敗のまま引退することとなった。

 20代目 フロイド・パターソン

 マルシアノが引退し、空位となった王座をかけ、アーチー・ムーアVSフロイド・パターソンが行われ、勝者となったパターソンが20代目のチャンピオンとなった。
 パターソンのトレーナーは、当時は無名のカス・ダマトだった。ダマトはグローブを常に顎に当てて構える、「ピーカブースタイル」の発案者である。ピーカブーとは「いないいないばあ」の意らしい。
 パターソンのスピードに目をつけたダマトは、相手に向かってジャンプで飛び込みながら左フックを撃つ「ガゼルパンチ」を考案し、パターソンはガゼルパンチで世界チャンピオンにまで上り詰めた。
 余談になるが、ダマトは71歳の時に出会ったマイク・タイソンに惚れ込み、保護者兼トレーナーとなる。
 ピーカブーやガゼルパンチなどを叩き込み、タイソンがチャンピオンになる1年前に亡くなってしまう。遺言として、当時の悪名高いプロモーター「ドン・キング」だけには近寄るなと遺してこの世をさったのだが、タイソンは大金に目がくらみ、ドン・キングとタッグを組んでしまうのであった。
 話は20代目チャンピオンに戻る。パターソンは、記録づくめの男だ。オリンピック金メダリストにして、世界ヘビー級チャンピオンになった初めての男。ジョー・ルイスを抜いて、21歳10ヶ月という当時の史上最年少でのヘビー級チャンピオン。一度王座を陥落するも、リベンジを果たし、22代目チャンピオンになった。ヘビー級王座に2度座った初めての男である。
 ちなみに、最年少記録は後に20歳5ヶ月でマイク・タイソンが抜く。

 23代目 ソニー・リストン

 ソニー・リストンはギャングボクサーである。出生は不明だが、貧困に苦しむ黒人家庭で生まれた。小学校にはほとんど通わなかったため、大人になって文字が読めず、言葉を話すことも苦手にしていた。
 子供の頃から犯罪に手を染め、後に強盗を生業とするギャング団のリーダーとなる。19回の逮捕歴があるリストンは、刑務所でボクシングを覚え、3年足らずでオリンピック金メダリストを破ってしまうほどの才能と、185cm96kgでリーチが213cmという特異な体型を持っていた。
 1953年にプロデビューし、破壊的なパンチを武器に快進撃を続けるリストンだが、1955年警察に職務質問された際に喧嘩になり、逮捕されてしまう。リストンは警棒が折れるほど殴られていたのだが、それでも激しく抵抗し、警察を半殺しにしてしまった。
 出所後、1958年に現役復帰すると、またしてもヘビー級の猛者を連戦連勝で倒し続け、残るはチャンピオンのパターソンに挑戦するのみだった。
 パターソンのトレーナー、ダマトはギャング嫌いとして有名で、当時もギャングとの関わりを噂されていた選手や団体での試合はことごとく避けてきた。
 民衆や元チャンピオン達も、ヒーローであるはずのヘビー級チャンピオンにリストンがなるべるべきでないとの意見が多く、試合をすべきでないとの主張が大多数を占めた。
 しかし、リストンにとって追い風が吹いた。当時の大統領ジョン・F・ケネディがパターソン対リストンの試合を観たいと口にしたのだ。パターソンはその発言を重く受け止め試合が決まった。
 試合は2分6秒でリストンのKO勝利した。もう誰もリストンには敵わないと思われていたが、一人息を巻くルーキーがいた。カシアス・クレイ、後のモハメド・アリである。

 24代目 カシアス・クレイ

 1958年、カシアスス・クレイはアメリカで中流階級の黒人一家に生まれた。12歳の時、大切な自転車が盗まれ、泣きながら警察官に「盗んだやつをぶちのめしてやる」と訴えた。その警察官はボクシングトレーナーで「ぶちのめすなら、ボクシングを学んだ方がいいな」と言葉を返し、クレイ少年をボクシングへと導いた。
 クレイは、天性のボクシングセンスと、運動能力を持ち合わせ、18歳の時にローマオリンピックで金メダリストになると、帰国後、すぐにプロ転向をする。プロでも順調に勝ち進み、5戦目の頃からはKOラウンドを事前に予告するようになる。そして、ほとんどの試合で予告通りに遂行した。
 クレイのファイトスタイルは、両手をダラリと下げ、フットワークとジャブで距離を取りながら、的確にパンチを当てるというもので、当時のヘビー級では革新的な「ヒット・アンド・アウェイ」という戦法だった。
 クレイ10戦目の頃から、全米中の注目を得る存在担っていた。その注目は、実力からくるものだけではなく、ヒステリックに喚くビックマウスと大胆不敵な行動にあった。
 クレイはいつでもどこでも「自分は世界最強で、誰よりも偉大だ」と喚き散らし、傲慢で生意気な若者に対し嫌悪感から「ホラ吹きクレイ」と呼ばれるようになっていた。
 アンチもファンも人気の内、クレイの試合には多くの人が集まるようになり、クレイもそれに応えるように勝ち進む。その間、対戦相手ではなくチャンピオンであるリストンをひどい言葉で煽り続けた。そして1964年、22歳のクレイはついにリストンへの挑戦権を手にする。
 しかし、試合の直前にクレイにスキャンダルが起きた。クレイは、NOI(ネーション・オブ・イスラム)という宗教団体の信者であることが発覚したのだ。NOIは黒人の民族的優位性を説き、「白人は悪魔」と捉える過激な教義を持つ、イスラム教から派生した宗教であった。
 第二次大戦後、アメリカにおいて黒人の地位は向上したとはいえ、NOIのような思想は、アメリカの主に白人にとってとてつもない嫌悪の対象であった。そして、クレイの躁病とも思える相手を卑下する言動も相まり、アメリカ国民から果てし無く嫌われた。
 一方のリストンも、素行不良のギャングでチャンピオンの器として認められておらず、試合はヒールVSヒールの珍しい構図で行われた。
 試合当日の軽量で、クレイは毎度のごとくヒステリックに喚きちらし、リストンを煽った。その結果、血圧・脈拍を測ると200・120という異常値になり医者からは「感情のバランスを崩し、死の恐怖に怯えている」と診断され、試合の決行自体が危ぶまれた。結局、クレイは落ち着きを取り戻してから再検診を行い、無事通過することができた。
 試合は4Rクレイの右目に異変が起こり、インターバル中に「目が見えない、グローブを外してくれ」と諦めかけるハプニングも起きたが、セコンドが無理やり続行させ、8R目にリストンがコーナーから出てくることができず、クレイのTKO勝利となった。勝利の瞬間、クレイは両手を上にあげ、得意のアリシャッフルで喜びを表現した。
 リング上で勝利者インタビューが行われたが、クレイはインタビュアーの質問を完全に無視し「俺は最高だ!俺は最高だ!俺は最高だ!」と叫び、その後も早口に自画自賛を一方的に述べるインタビューになった。この時民衆は、虚勢を張っているだけなのか、ナルチシズムなのか、判断できかねていた。
 王者になったクレイは、NOIの代表者から与えられた名前「モハメド・アリ」を名乗るようになる。
 モハメド・アリとして、そしてチャンピオンとしての最初の一戦は、リストンとのダイレクトリマッチだった。アリはこれを1RKOで勝利するのだが、WBAからダイレクトリマッチに対しての条項違反と因縁をつけられ、チャンピオンを剥奪されてしまう。
 初代黒人チャンピオンのジャック・ジョンソンでさえ、国外逃亡しながらもチャンピオンであり続けた。それだけ、アリに対しての嫌悪があったとがわかるエピソードである。なお、リング誌やWBC、そして大衆はアリをチャンピオンとして認めていた。
 その後、22代目チャンピオンのパターソンとも対戦し、難なく勝利を収めている。
 同じ頃、ベトナムが南北に分かれ、共産主義化していた北ベトナムが南北統一を図り、南ベトナムにベトコンという組織を作った。南ベトナムの共産化を防ぐため、アメリカは南ベトナムへ軍を派遣していた。
 戦争ムードが高まるアメリカで、アリはベトコンについて、度々コメントを求められていた。そしてアリは怒りに任せて反戦風の発言をしてしまった。当時のアメリカ世論は戦争賛成派が主流である。アリのコメントは、反戦派グループにも政治利用されてしまったことで、アメリカ国内でさらにヘイトが集まり、ついにアメリカのどの地方でもアリの試合を拒否するようになってしまった。 
 アリは、かつてのジャック・ジョンソンのようにカナダやヨーロッパを巡りながら、防衛戦を重ね、1967年、アリがWBAの王座を剥奪された後、25代目の王座についていたアーニー・テレルとの統一戦がアメリカで行われることが決まった。
 テレル戦でも圧倒的勝利を収め、晴れてWBAチャンピオンを取り返したアリだったが、その翌月、入隊式に出頭せよとの通知が届いた。
 式に赴いたアリは、その場で正式に入隊を拒否した。そして、「5年の禁固刑と1万ドルの罰金」という判決が下され、ボクシングライセンスの停止と全てのタイトル剥奪という代償を支払った。
 実際、アリが入隊の意向を示していたとしても、軍に配属されることはなかったであろうとされている。当時は、一流アスリートや有名人は忖度されていたのだ。アリ自身もそれを理解していたが、己の信念、宗教理念のために拒否をしたのであった。
 アリは判決に対し、控訴しリング外で長い戦いが始まった。

 26代目 ジョー・フレジャー 

 アリのタイトル剥奪によって空位になった王座はジョー・フレジャーが座った。フレジャーは猪突猛進型のファイターで、武器となるパンチは左フックしかなかった。ディフェンスでは、手を体の前で交差させる、クロスアームブロックを使い、東京オリンピックの金メダリストにまで上り詰めた。プロに転向後、アリ戦前までで、26戦全勝23KOという素晴らしい戦績である。
 1970年ベトナム戦争は泥沼化し、アメリカ軍でも多くの戦死者が出ていた。アメリカ国内では戦争不支持の声が大きくなっており、それに伴って徴兵を拒否したアリを英雄視する人々が増え始めていた。そしてアリは、ジョージア州において再びボクシングライセンスが与えられ、3年7ヶ月ぶりのカムバックを果たした。
 このセンセーショナルな出来事でモハメド・アリの支持・不支持はベトナム戦争への賛否や保守・リベラルのリトマス試験紙になっていた。
 アリは当時コメントで「もし負ければあいつはダメなやつでくだらん運動に加わって惑わされた奴と言われるだろう。そうなれば一生俺は自由でいられない。」と述べており、自身の復活がどれほど重要な役割を果たすかを理解していた。経済的にも、アリの復帰戦の興行収入はチャンピオンであるフレジャーの5倍もあった。
 復帰戦から2戦連勝すると、時代の潮目も変わり、ニューヨーク州でのボクシングライセンスも認められ、アリの人気は爆発的に増加した。この時アリは、ベトナム戦争反対の代表的存在であると同時に、反権力の象徴として、その名は全世界に轟いていた。
 そして1972年、フレジャーへの挑戦権を得た。この試合は世界35ヶ国衛生生放送され、3億人が視聴した。これは、アポロが月面着陸した際の視聴者数と同数である。
 試合結果は、フレジャーの判定勝ちであった。アメリカ体制に反対し、不当に王座を剥奪され、多くの金と時間を奪われた男に、残酷な勝負の女神は微笑まなかったのだ。社会的な意味での衝撃もあったが、最強の敗北という意味での衝撃はさらに大きく、試合会場で観戦していた2人が心臓発作で亡くなったほどだ。
 この試合後、アリは最高裁で無罪判決となり、本当の自由を得る。そして、アメリカ国民は綺麗に手のひらを返し、全国民の嫌悪の塊であったカシアス・クレイはアメリカの英雄モハメド・アリになっていた。

 27代目 ジョージ・フォアマン

 フォアマンも多くの黒人ボクサー同様、貧困家庭で育ち、喧嘩や窃盗を繰り返す不良少年上がりで、職業訓練所でボクシングを学んだ。そして、19歳でメキシコオリンピックの金メダリストに輝いた。プロ転向後は37連勝し35KO、そのうちのほとんどが3R以内のKO勝利という化け物じみた戦績をしている。
 1973年フレジャーへの挑戦権を得たフォアマンは、2Rで6度のダウンを奪いKO勝利を収めた。アリが15R戦い敗れた相手をわずか5分でぶちのめしてしまったのだ。
 一方、アリはチャンピオンになることを諦めていなかった。フレジャーとの敗戦後、フレジャーよりも早く再起戦を行い勝利していたが、復帰2戦目に無名のボクサーに不覚を取ってしまう。この敗北は、すべての人にアリ神話の完全なる終焉を感じさせた。
 しかし、アリ自身の意気は衰えていなかった。1973年に同じ相手にリベンジマッチを挑むと、辛くも勝利し、1974年にフォアマンへの挑戦権をかけフレジャーと戦った。両雄の3年ぶりの対決はアリが判定勝利し雪辱を果たした。
 フォアマンへの挑戦権を得たアリだったが、フォアマンVSアリとなると、ファイトマネーとして莫大な金額が必要となり、それだけの金額を保証できるプロモーターがなかなかいなかった。それをやってのけたのが、フロイド・パターソンの時に名前の上がった、若かりしドン・キングである。
 キングは、ザイール(現在のコンゴ共和国)のキンシャサでタイトルマッチを行うことを条件に、ザイール大統領に1,000万ドルを支払わせたのだ。大統領は、1965年に同国政権ををクーデターで乗っ取り、不正資金を溜め込んでいた。そして、ザイールと自分の名前を売るため、資金提供をしたのだった。
 1974年10月30日キンシャサという未開の地でジョージ・フォアマンVSモハメド・アリの一戦が行われた。アリが登場すると「アリ・ボマイエ」という声が会場に響き渡った。入場曲は日本人に馴染み深い「猪木ボマイエ」のアレである。ボマイエとはザイール語でやっつけろという意味らしい。
 試合は、モハメド・アリの8RTKO勝ちであった。これを「キンシャサの奇跡」と呼ぶ。
 その後アリは10度の防衛し一度陥落するもリマッチで王者返り咲き、1979年に引退した。それで終わればかっこよかったのだが、その後2度復帰し、どちらも敗戦となっている。

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