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宮沢賢治 やまなし 本質の解明 ①

 やまなしは幼い頃に何度も母親に読み聞かせてもらった作品です。今回、そのやまなしを独自に考察しました。内容は以下の通りです。

1 あくまで子どもに向けた童話であること
2 前半部分「五月」の暗さ
3 「クラムボン」カニの兄弟との関係性
4 「お魚」の謎
5 父親の存在とその価値
6 「イーハトーヴの夢」との関連
7 他の賢治作品との関連
8 主題はカニの兄弟と父親から見える
9 幼き頃の安堵感

1 あくまで子どもに向けた童話であること

 やまなしは、象徴的な表現が多く情景描写も豊かであるため、大人が読むと難解で、謎が多い作品として有名です。
 しかし、主人公のカニの視点に立ってみれば、実は4、5才くらいからだいたいの理解が可能です。
 現に、私がこのやまなしのよさを心から感じ、何度も読み聞かせをしてもらっていたのも5〜8才くらいの頃でした。そのとき、母はよく「どうしてそんなにこれがいいの?」と不思議そうにしていた記憶があります。今、大人になって改めて読んでみても、あの頃に感じたよさが感じられませんでした。多分、表現の一つ一つに気をとられ、理性的に読んでしまったためだと思います。
 宮沢賢治は、幼い子どものもつ繊細な感性を失うことのなかった作家だと言われています。恐らく、本当にやまなしを解明するためには、私が幼き頃に母に読んでもらった時に感じた感覚をできる限り回想し、そこを出発点にしなければならないのだと思われます。

2 前半部分「五月」の暗さ

 作品全体の中で、コントラストを与えるているのが前半の「五月」です。
 五月病という言葉も存在するように、何故か暗さをもつのが五月なのかもしれません。冒頭から子どもを暗く、虚しい世界にいざなう表現が多用されます。カニの兄弟が住む谷川の底の情景、その会話の内容、魚の行動、そしてカワセミの捕食などです。この立て続けの叙述により、読む子どもはなんとも暗い気持ちにさせられます。
 これらは、宮沢賢治自身が生涯経験してきた様々な辛く苦しい体験によるものであることは容易に想像できます。だからこそ、「五月」の暗さは、「やまなし」という作品のベースを描いていると捉えることができます。この暗さが、どうしても必要だったということです。文量としても「十二月」より多いです。こうして、読者が暗い気持ちになるしかけがふんだんに施されているのです。

 クラムボンが何かとか、兄弟のどちらのセリフかとか、魚がどんな悪いことをしているかなど一つ一つのことについて考察することも面白いかもしれませんが、まずは素直な気持ちで言葉から受ける印象を味わい、暗い気持ちを体感することで、作品の世界をダイレクトに味わえると思います。

 「五月」は、暗さが前面に出ていますが、季節は初夏で、シーンは昼です。魚が食べられる前には「にわかにぱっと明るくなり、日光の金が夢のように降って」きます。きっと、宮沢賢治が経験する苦しみは昼間に起こる事象であったのでしょう。彼が見た世界の昼間は、人間同士の争いごとや弱肉強食などのやりきれない現実に対するネガティブなイメージがあったということです。
 そのように捉えるならば、生が躍動する夏、昼の日光の光の存在が直接的に闇を生み出す構造となってきす。
 また、「やまなし」では、鉱物(金属)で表現される部分が随所に見られます。「五月」では、鋼、水銀、銀、鉄が用いられます。それも、立て続けに使用することで、なんとも言えない不気味さと無機質な感じを与え、読者は喉元を苦しくさせられます。
 そもそも「谷川の底」の何もない暗い場所で、幼いカニの子どもらが、二匹だけで稚拙な言葉で会話をしているというだけで、読む子どもにしてみたら寂しさや虚しさを感じてしまいます。

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