見出し画像

宮沢賢治 やまなし 本質の解明 ②

3 「クラムボン」カニの兄弟との関係性

 「クラムボン」については、実に様々な考察がされ、読者を大いに楽しませております。もちろん答えはありませんが、私が幼き頃に受けた印象は「深い悲しみ」でした。
 「クラムボン」という響きだけを取り上げるならば、確かに可愛らしくなんだか面白い表現で、子どもを楽しませてくれるような印象がありますので、自由に想像を膨らませて楽しむことも許されることでしょう。
 しかし、「笑った」「笑っていた」「死んだ」「殺された」と続いていることを無視することはできません。そして、この会話をリードしている兄は、少なくとも「クラムボン」の存在が何かを知っている可能性が高いと思われます。
 暗い谷川の底で、このように全て過去の表現で話題にするということは、カニの兄弟にとってかなり近しいが、今は亡き存在なのではないでしょうか。泡やプランクトンなどの説もありますが、それは彼らにとっては今も目の前に存在しているものなので、このように過去を回想して話題にするということが不自然です。
 暗く虚しい印象を与える「五月」において、「カワセミ」と同じくらいにインパクトを残す「クラムボン」。こうして考えていくと、童話であるため、宮沢賢治はこの「クラムボン」については、とても直接的な表現はできなかったのだと推察されます。カニの兄弟にとってあまりに近しい重要な存在であったために、すぐには分からないようにして、読み手に配慮した可能性があるということです。
 この作品を発表する前の年に、唯一心を許せたと言われている妹のトシさんを亡くしています。その深い悲しみは、「永訣の朝」などにも残されています。このことが「クラムボン」の叙述と関係がないとは絶対に言えないでしょう。
 また、「やまなし」には、兄弟の他に家族は父親しか出てきません。まだ幼いカニの兄弟に対して、母親の存在がないのです。
 読者が純粋な気持ちでこの作品を読むならば、まず自分自身をカニの兄弟と重ねることでしょう。幼い子どもになりきるのです。私などは母親の温もりに包まれた状態でこの作品に触れましたので余計に母親の存在が全くないという時点で心にぽっかりと穴が空いたような気がしてきました。しかも、話題が過去形で「死」について触れているから残酷です。
 父親が存在するのが唯一の救いですが、やはり母親のような愛情で包み込むことは、父親のそれでは限界があります。父親と共に、悲しみを背負いながらも力を振り絞って生きていくしかないカニの兄弟たちの宿命のようなものが、読者の無意識に刻まれていきます。
 また、宮沢賢治は元の言葉を少し変えて独特の言い方をすることがあります。私の解釈では、クラブ+マム→crabmom→bとmを入れ替える→crambom→クラムボン。十分にあり得るのではないでしょうか。
 「クラムボン」についての二匹のカニの会話の流れを注意深く吟味すると、弟と兄で「クラムボン」についての認識にズレがあることに気付かされます。
 まず、叙述を追うと、会話の流れからして、先に話題をふっているのが兄とするのが比較的自然です。そうして見ていくと、兄の「笑ったよ」「笑っていたよ」は、笑うという行為のみに着目しているのに対して弟は「かぷかぷ笑ったよ」「はねて笑ったよ」と、その笑い方に着目しています。また、兄の「死んだよ」に対しては「殺されたよ」と、その死に方に着目しています。弟の表現は、目で見たことをそのまま表すような言い方なのです。さらに、最後にまた兄の「笑ったよ」に対して弟が「笑った!」と今まさに目の前で起こったことに対して言う表現をします。
 微妙で大変に分かりにくいのですが、これらのことから、兄の言う「クラムボン」と弟の言う「クラムボン」は異なる存在であると想像できます。つまり、弟の言う「クラムボン」は、まさに泡やプランクトンなど、今目の前にいる存在を指しているということになります。そして、兄は弟が「クラムボン」が何かを知っているふりをしているのではないかと勘ぐり、二度にわたって「どうして?」と問うのです。「クラムボン」について、知っているふりをしている弟の回答は当然「知らない。」「わからない。」となってしまいます。弟に悲しい過去を知らせたくない兄にとってはそれでいいのですが。兄の背負う悲しみを考えると、胸が締め付けられます。

この記事が参加している募集

#読書感想文

190,092件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?