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宮沢賢治 やまなし 本質の解明 ⑨

7 他の賢治作品との関連

 いよいよ今回の解明の核心部分に入って行きます。「やまなし」という作品ですが、作品だけを追ったり、他人の解釈を参考にしたりするだけでは理解できない面が多くあります。
 宮沢賢治他の様々な作品に触れることで、「ああ、「やまなし」のこの言葉にはそういう意味があったのか。」と気づかされるのです。宮沢賢治は、童話群の中に様々にキーワードを組み込みながら、1つのイーハトーヴという世界を表現しようとしています。私は、もはやこの「やまなし」に宮沢賢治の思想をほとんど詰め込んでいるのではないかとさえ考えてしまいます。

 では、少し大変な作業になりますが、1つ1つ見ていきたいと思います。

①青白い炎 波

 この表現は、「十二月」の初めの部分と最後の部分で登場します。いきなり核心に近いですが、これは宮沢賢治のたどり着いた悟りとでも言うべき真理です。
 この言葉、どこかで聞いたことがあると思いました。それは「春と修羅」の序にある言葉です。

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です 
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 生という現象をあるようでないようなものだと言うことでしょう。また、生まれては死にを繰り返すこととも捉えられます。最近、哲学的にもスピリチュアルの世界でも常識になりつつありますが、存在というものは「今、ここ」にしかないと言われます。宮沢賢治はその「今、ここ」にフォーカスして、生のありようを観察したと思われます。次々に失われていく今なのに、光を保ちたしかに存在している私というこの矛盾に着目しております。そして、それが「波」の性質をもっていることまでも見抜いているのです。これは、近年やっと科学が量子力学によってたどり着いた超ひも理論です。
 儚いようで非常に尊い私たちの生の主人公である「私」のありようを「やまなし」の風景の中にさり気なく、でもしっかりと組み込んでいることが分かります。だから、その喜びや希望に応じてその燃え方が変化し、それに伴って波の形が多様に変化します。

②幻燈

 これは「雪渡り」に登場します。「雪渡り」では、「風の又三郎」にも言及していて、面白いのですが、「やまなし」との関連は、幻燈会です。幻燈会を見に行くように誘う場面があります。同時期に作られた作品であるだけに、この関連は粋なはからいです。

③カニの兄弟

 カニの兄弟が「十二月」の初めの部分で、泡の大きさ比べで軽い小競り合いをします。この小競り合いは、意外と宮沢賢治の中では関心があるようで、「雨ニモマケズ」では、「喧嘩や訴訟があれば、行って、つまらないからやめろと言い」があります。ここではさり気なくお父さんのカニがやめるように促していますね。
 また、小競り合いを思い切り描いたのが「どんぐりと山猫」です。これは、もはや裁判にまで至っており、連日山猫はその争議に手を焼いています。ここでやめるように促すのが金田一郎くんです。たった一言ばかでまるでなってなくて頭のつぶれたようなやつが一番えらいことを宣言し、一瞬でその場を鎮めてしまいます。宮沢賢治にとっては、この世のどんなもめごとも、所詮どんぐりの背比べでくだらないものなんだということを伝えたかったのだと思います。確かに、人間様は、大したことではないことを、さも重大事件のように扱うのが得意です。

④カワセミ

 こちらは、「よだかの星」で登場しています。

 「はちすずめは花の蜜をたべ、
  かわせみはお魚をたべ、
  よだかは羽虫を食べるのでした。」

 「そしておまえもね、どうしても
  とらなければならないとき
  の他は、お魚をいたずらに
  とったりしないようにしてくれ。
  ね、さよなら。」

 説明は不要です。「よだかの星」では完全に殺生の問題が語られます。そして、酷く惨めな思いをしたものが、自分が羽虫を食べるという罪とも向き合い、最終的に行き着く思想について、それに至る過程をかなりストレートに描いてます。それは、悲しみの涙を誘います。ただ、どこか淡々としていてコミカライズで愛らしい印象を与えてしまうから、宮沢賢治らしいです。実際に経験した人は、笑いながら酷い体験を語ることがよくあります。それと似た感じもあるのかもしれません。
 いずれにせよ、カワセミの美しさに触れながらも、やはりお魚をとることにこだわって、最後にはやめてほしいという旨を伝えています。
 また、「ぶるぶるふるえる」という表現が「やまなし」と同様に登場しているのにも、関連性を感じます。

⑤お魚

 これは、この章では最も重要だと考えます。「カワセミ」の中でも取り上げましたが、宮沢賢治の「お魚」に対する言及は多くの作品で見られます。率直に考えて「お魚」に対して強い思い入れがあった証拠でしょう。では、一体どうしてこんなに「お魚」にこだわったのでしょうか。その答えは、宮沢賢治作品を読んでいけば明らかになります。
 「お魚」が登場する作品で有名なものは、「よだかの星」「やまなし」の他に、「毒もみのすきな署長さん」「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」です。これらに共通しているのが、「漁」です。どの作品にも、禁止されているのに、毒もみや発破漁をやめられない人間の姿が描かれています。「毒もみのすきな署長さん」では毒もみ、「銀河鉄道の夜」では発破の様子を美しく描き、「風の又三郎」では、毒もみも発破も両方登場します。
 「やまなし」では、「にわかにぱっと明るくなり…」のあたりから、川の様子が急激に変化し、お魚の様子がおかしくなっていくことを確認しました。はじめは全く気が付きませんでしたが、これは明らかに人為的なもの、つまり毒もみか発破漁を連想させます。
 川の様子が急激に変化する様子は、「銀河鉄道の夜」に登場する発破の場面のとび上がる鱒の白い腹がきらきらと光る様子を美しく描いているのと同様に、「やまなし」でも美しい川の中の光の風景を描いています。
 ただし、それと対照的に、発破か毒もみのような人為的な害を被った魚は「まるっきりくちゃくちゃに」したり、「尾もひれも動かさずにただ水にだけ流され、お口を輪のように」したり、色を銀→鉄→黒と変えていったりして、死に近づいていきます。
 そして、お兄さんのカニはそれを知っていたので、「カワセミ」の襲来の直前に、弟にその事実を伝えかけます。「お魚は」に続く言葉は、ここまでくれば察しがつきます。
 私は、よだかの星の「お魚」と「カワセミ」の関係以前に、「お魚」と「人間」の関係に問題があることを宮沢賢治は訴え続けていたのだと思います。カワセミがお魚を取ることは生きるために仕方がないかも知れません。でも、人間の毒もみや発破は、むやみに魚を大量殺戮して、その全てを食べるわけでもなく、そのまま流されていく魚が多いです。これを許すわけにはいかなかったと思います。

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