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コモンセンス

 道なりに真っすぐ伸びた防波堤や、サンシェードが破れたまま、営業を続けている定食屋。今までは、当たり前すぎて意識したことがなかった。嫌な思い出の方が多いというのに、それらのすべてが愛おしく感じるから不思議だ。
 海が近くにある事は不思議ではなかった。もし、別の所で生まれていたのなら、海は特別だったのかもしれない。そんな事を私は思った。

 裕翔と、敦子がやってきた。真夏の駅に、てくてくと歩いて。敦子には「来なくてもいい」と言ったのに「だって、次にいつ会えるのかわからないもん」と、そんな事を言っていた。
 敦子は、髪の毛をひっつめて、一束にしている。以前「それやめれば?」と私は言ったことがあった。それでも敦子は、ただ笑っていた。
「やっぱり、来たよ。由奈!」
 人を嫌いになった事がないような顔で、敦子は私に微笑んだ。その笑顔に助けられた事が何度もあったけど、今はその笑顔が悲しい。
「いいって言ったのに……」
 そう言ったものの、私は電車の時間を早める事も、遅らすこともしなかった。
「絶妙なタイミングだな」
 裕翔がそう言いたくなるのも頷ける。ちゃっかり、敦子との別れの時間を見込んで、私は早い目に駅に着いていたのだから。
「裕翔! そんな意地悪言わないでよ。由奈だって、わかって早く来てるんだから」
 気まずい雰囲気を作る二人は、相変わらずだな。それでも、私は本当に嬉しかった。
「あんた達二人だけだよ。こんな私を受け入れてくれたのは」
 常識的な物差しから、私が大きく外れていた訳ではなかった。私がこの町に馴染んでいなかったのは、昔からだった。いや。生まれる前からといってもいい。私達に関係のない事で、私達家族は我慢をしていた。それで、私だけが耐えきれなくなって、別れの季節でもないのに、学校を辞めて出ていく事にした。といっても、実質、辞めざるを得ないといった感じだ。
「またぁ! しんみりするような事言わないでよ! 由奈は由奈だよ」
 この町を出たとしても、敦子以上の親友に出会える事はないだろう。しかしながら、これ以上、ここに居たら、私はとんでもない事をしてしまいそうだった。
「まぁ、あれだな。一応女なんだから、人を殴らない事だな」
 裕翔じゃなかったら、私はまた、男を本気で殴るところだった。いや、念のため、私は裕翔の足を踏んでやった。
「痛っ! お前、なんて事するんだよ」
「今のは裕翔が悪いよ!」
「なんでだよ! 敦子。おい! 由奈! そういうところだぞ!」
 この二人がいたから、私は今までやってこれた。私の知らないところで、敦子と裕翔は辛い思いもしていたのかもしれない。「あの子と遊んではダメ」みたいな事ぐらいは、子供の頃から言われていただろう。
「裕翔。わりぃ。やりすぎたかな?」
「当たり前だ! でも、寂しくなるな。その……上手くいく事を祈る」
 裕翔らしくない。らしくないけれども、裕翔だったら、敦子の事を安心して託す事ができる。この町を出ても、私はまた、いわれのない差別を受けることだってあるかもしれないし、私がそういった態度をとる事もあり得る。けれども、この二人の事を思い出して、下らない事はしたくない。私だけは、人を理不尽に差別したくない。
「由奈。この町の当たり前は、他では当たり前じゃないかもしれない。そんなことに、期待しすぎる事も、不安になりすぎる事もしないで」
 今日はどうしたのだろう? いつも笑っていた敦子が大人に見える。もしかしたら、普段の私では気づけなかった事なのかもしれない。
「親父さんや、お母さんの事は心配いらない。俺の親父がなんとかしてくれるそうだ。お前の事で、何かが酷くなる事はねぇよ。だから、お前はお前の事だけ考えればいい。夢だったんだろ? 叶えてこいよ」
 町を出るのは簡単だ。でも、きっと敦子や裕翔は、町を出ない人間だ。この町を受け継ぐ事を選ぶ人間なのだと思う。それで、少しばかり、二人で、いい町に変えようとするのだろう。
「ありがとう」
「あれ? 由奈。泣いてる?」
 そういう敦子の頬にも涙が落ちていた。軽くて、飛んで行ってしまいそうな綺麗な涙。
「別に……そんなんじゃないよ」
 強がる必要なんてない。甘えてもいいのだろう。でも、やっぱり私は敦子に笑って欲しかった。
「おいおい。一生会えないみたいじゃないか」
 裕翔が茶々を入れる。そう言った裕翔も、なぜか鼻をこすっている。
「由奈。その、すぐには帰ってこれないかもしれないけど、私はずっとこの町にいるから。だから、嫌いになんか、ならないで」
 精一杯の笑顔だった。やっぱり敦子のこれが一番悲しい。
「ありがとう。本当にありがとう」
 私は泣いてる。今まで我慢していた涙はとても重かった。重くて、黒くなっているのではないかと思うぐらいに。
「電車来たね」
「うん」
 海が見える。
 当たり前の景色だけど、私は当たり前をここに置いて、この町を出て行く。


おわり

 

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