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最後の花弁

 ようやく温かくなってきたと思ったら、ひどい咳になって高い熱を出してしまった。火焔が喉を通過するような、ヒリヒリする咳がでる。どこにも出かける事ができなくて、四五日経つとすっかり痩せてしまった。呼吸困難の度を増して、呼吸の回数が増える。
「もうじき桜が咲きますよ」と彼が言った。彼が私の家に来てくれてどれぐらいが経つだろうか。
「そしたらお花見に行きましょうね」
 私の咳は止まらず、呼吸困難は一層増した。私の苦しみなど気にもとめず、ゆっくりと音もなく桜は咲くだろう。
「もうじきですね」
「お花見に行きましょうね」
「桜が咲いたら、お花見に行きましょうね」
 私はまた咳き込み苦しむのだ。彼が私にかけてくれる言葉の一つ一つが、私を苦しめる呪いの言葉になるのだ。
「桜が咲いたらお花見に行きましょうね。きっと綺麗ですよ」
 彼は私が見る事のできない景色を、それがどれだけ美しいのか自分の手柄のように誇らしげに私に話す。
「桜が満開になったら、お花見に行きましょうね」
 桜が満開になった頃には、私はきっと死んでいるだろう。私は彼の言葉に応えない。私はぼんやりと天井を眺めながら、彼が「桜が咲いたらお花見に行きましょうね」と言うのを聞いていた。彼はそんな私に構わず話を続ける。
「近くにいい場所がありますから、そこでお弁当を持っていきましょう」
 彼は私の返事など期待していない。
「もうじき咲きますから」それが、どれだけ辛い事なのか、彼は知っているから私に語りかけるのだ。
「そしたらお花見に行きましょうね」

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