見出し画像

それでも私だと気付いて

私は帰化していて、その際に名字を日本風に変えている。昨日、今は違うけど元は同じ名字だっただろうなという人に会ったのでそういう話をした。「私も◯◯って名字だったんですよね」
こういう時、いきなり「××出身ですか?」と聞くのはなんとなくデリカシーに欠ける感じがしていつも言い方に迷う。私(の家)なんかはかなりあけすけというかざっくばらんな方だけど、それでも移民とその子孫はいろんな感情を抱えている。

その人はかなりルーツが分かりやすい名前だったけど、3世でもう言葉もほとんど話せないらしい。私の両親が帰化のもろもろをやったので、私は制度的なことがまったくわからないけど、名前を変えなくてもいいなら我が家もわざわざ変える必要はなかったんじゃないかとか思った。でも両親はそういう柔軟性、好奇心でもって、異国で何十年も楽しく暮らしている人たちだ。

その人が帰化した時、下の名前に使われている漢字は日本では名付けに使えないと言われたらしい。むかし「悪魔」と名付けようとして却下された事例があったと思うけど、ここらへんのルールもわからないなぁ。
とにかく、その人がすでに社会的にこの名前で認知されていることを示す書類や証拠をかき集めて、今の名前が認められたんだとか。親と同じ言葉が話せなくても、日本で名付けに認められていない漢字が使われていても、「もうずっとこの名前で生きてるんだからこのままがいいですよね」。本当にその通りだと思った。

私はめんどくさい時や今後もう関わりがなさそうな人たちにはわざわざルーツの話をせず、淡々と自己紹介する。だけど自分を心の底から日本人だと思ったことはない。かといって親の国の人だとも思えない。とくに、現地の人に生い立ちを知った上で「××語上手だね」と言われると、「ああ、ここは私の故郷じゃないんだ」と感じる。だからそういう部分では日本の方が母国っぽいかも。
スポーツの大会も、別にどっちの国も応援していない。スポーツバーで酒を飲んだり、テレビ見ながらやいのやいの言ったりするその場の空気が楽しいから適当に合わせている。

私と違ったルーツを持つ友人は、絶対に「ハーフ」ではなく「ミックス」と言う。いろんなところで傷ついてきたのかなと想像する。本人が詳しく語らないので、それも私の傲慢かもしれないけど。その友人も、ドイツに勝って日本中が沸いた(とされる)サッカーW杯を「知らない国と知らない国の対戦見てるみたいで興味ないよ」と言っていた。

アイデンティティ・クライシスという言葉があるぐらいだから、移民や移民の子ども、帰国子女みたいな存在は、少なからず「自分は何人か」と考えるんだろう。私の「何人か」というアイデンティティは揺らいだままで、でもそれで困ることもないのでそのままにしている。友人はどうだろう。困ってはないだろうな。私も友人も外形的には日本社会でかなりうまくやれている方だし、なによりそう生まれついたことは変えようがない。ある種の諦め。

クライシスに陥るかどうかは、親が移民先の社会とどう向き合っているかということもそうだけど、なにより言語の影響が大きいと思う。拠って立つ言語がないと悩むことすらままならないから。

そんなわけだから、ちょっと違うけど、英語を教えるプレスクールやインターなんかに通う子どもの言語力はどうなっているんだろう、とたまに考える。別に日本語ができなくても英語で深い思考ができるようになればいいわけだけど、一歩学校の外に出たら日本語の世界なわけで、言語の基礎をつくっていく時期におけるそこらへんの折り合いというか。でも子どもは吸収が早いから、大人の常識とはちょっと違うのかもしれない。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?