【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン22話

(22)水面

 ジルマは息を飲んだ。伝承とは人々の曖昧な記憶を元に紡がれていくもので少しずつ事実とは異なっていくものだった。だが、目の前にあるこの小さな内海は、母がおとぎ話のように話してくれた海の色と違いは見あたらなかった。美しく輝くサファイアに熱を当てて、どろどろの飴状に溶かしたような目のくらむブルーだった。ジルマはその伝説を目の当たりにしたことを俄に信じられなかった。リアも言葉が出ないようだった。青から黒へと変化した石は、黄色い河の表面に藻のように広がり、付着し、長い年月をかけて木の根が這うようにじわじわと広がり、少しずつ河の不純物を濾し取っていた。その重い鉄のように変化した藻を取り除けば、海は元通りの爽やかな群青色へと戻っていった。ジルマは浅海の胸に抱かれた青白い頭蓋骨を見遣った。その奇妙で見事な浄化の仕組みを見ることもなく、この島の住民は肉体を破壊され、全滅したのだった。ただ一人、首相となったジョシュ・ラモスを除いて。

 突然強風が洞窟の中にわき起こった。大きな羽を広げた妖怪が飛び立つような音が静寂に響きわたった。ジルマはリアを胸の中に隠すと、素っ頓狂な声をあげた。

「なんだ一体」

浅海は虚ろな目で島に降り立ったセスナ機を指さした。右手が痺れたように力が戻らない。浅海の呼吸に合わせて髪先が馨の窪んだ眼孔をくすぐった。

「これが、海よ、馨」

 ジルマはリアを抱えて洞窟から飛び出した。セスナのプロペラはゆっくりと回転を止めていく最中だった。銃を構えると、扉からコンドルを彷彿させる背の高い、コートに身を包んだ男が降り立った。松の木を背後に仁王立ちするその人物がリアには妖怪に映ったようだった。震え上がる少女を宥め、石の上におろすと、ジルマは銃を両手で構え直した。

「誰だい。さっそく石を奪いに来た刺客のお出ましかい」

「君たちが石を辿りし者たちか」

 ジルマはその声の主を睨みつけた。先程は陰になってよく見えなかったが、理知的な瞳を持つ男は異様な雰囲気を醸し出していた。口元に包帯が何重にも巻かれて上顎と下顎を固定していた。「何だお前。何者だ。フランケンシュタインみたいな仮装しやがって」

「あいにく君たちを驚かせるためにこんな格好をしてるわけではない」

男はジルマの肩越しに視線を遣った。振り返ると、浅海がよろめきながら何かを引きずり出していた。シャツに詰め込まれた黒い石が一つ、柔らかな丸石の上に転がり落ちた。タンクトップから骨ばった鎖骨が覗く、この痩せぎすの少女の姿をジルマは苦々しい顔で見守った。腱の浮き出た細い脚がその重さにどうにか対抗しようと、細かく震えていた。男はジルマの脇を通り抜け、浅海に向き合った。クリーム色のシャツは真っ黒に染まり、夜空を照らす星のような淡い光を放っていた。

「君が、石の地図を持ち、石を持ち帰る選ばれし者か」

 浅海は黒い液体で汚れた頬を拭った。白い肩から蒸気が生まれ、浅海の長い髪は汗で濡れそぼった腕にまとわりついた。包帯男は言葉を失ったようだった。

「この石がどれだけ有害なものか知っているね」

浅海は初めて会うその男に確かに頷いた。

「それを知っていて、石を触り、集めたのか」

途切れ途切れに息を吐く浅海に、ジルマは眉を下げた。浅海は地面に両手をつき、崩れ落ちた。馨の頭蓋骨がジルマの足下に転がった。必死に手を伸ばして拾おうとしたが、力が入らずに右手は力なく地面へ伏した。ジルマは胸に馨を抱いた。男は跪き、頭を垂れた。

「カルロスと言う。君たちを迎えに来た」

そう告げると、カルロスは彫刻のような顔を浅海の横顔に向けた。

「この石をどこへ運ぶか、君は知っているね」

ジルマは立ち上がった男の胸ぐらを乱暴に掴んだ。

「お前は何様だってんだ。浅海が命がけで手に入れた石を何に使うんだ。また浅海を利用しようとしてるのか」

「いいや、そんなわけがない。この石をしかるべき所に移し、この石を狙う者たちから隠さなければならない。だからここまで来たんだ」

ネクタイを前に引っ張ったが、カルロスの体はびくともしなかった。目一杯背伸びをして包帯の巻かれていない頬を平手で叩いた。

「きれいごとはたくさんだ。石なんてどうでもいい。浅海のことを守ってくれ!こいつを守ってやってくれよ!守れないんだったら石は渡さない!どこかへ消え失せろ!」

売春宿に突然やってきて浅海たちの殺害を命じた蛇のような目をした男を思い出した。

「ほら、浅海の前で誓いな。浅海の安全を保証しないならその顔にもう一つ傷をつけてやるよ」 

 カルロスは倒れ込んだまま動かなくなった浅海の枯れ枝のような体と目の前のそばかすだらけの移民の少女とを見比べた。その足下には、カルロスの顔に怯えたように縮こまるサファイアの色の瞳を持つ少女がいた。

「君たちは仲間なのか」

「さあ。仲間って何。ただ、単に私はどうにかして、この2人に今度こそ平穏に暮らしてほしいだけよ」

「これが君たちの融和の形なのか」

ジルマはカルロスの首元を蹴り上げようとしたが、がっちりとした腕に事も無げに掴まれてしまった。

「やめろ、離せ」

「私は敵ではない。君たちを守るつもりだ。誤解しないでくれ」

「何が融和だ」

カルロスはそばかすの浮かぶ少女の瞳を見返した。脚力はそうでもなかったが、強烈な怒りが、ジルマのつま先とカルロスの首との僅かな距離をじりじりと縮めていった。

「もう、たくさんだ。何が融和だってんだ。そんな綺麗な言葉で丸め込んでみんな納得できるような世界だったら今頃この国も平和で争いなんて起きてないはずだ。融和なんて言葉、私は信じない。その言葉こそ、私たちの存在を奪うようなものだ」

「どういう意味だ」

「私たちは馬鹿じゃないってことだよ。それだけ覚えておきな。防衛大臣」

カルロスの力が抜けた瞬間を見逃さなかった。ジルマのバネのある脚力に弾かれたカルロスはよろめいた。

「あんたの主は結局のところ、裏切り者だったんじゃないのかい。そんなはりぼての組織の人間を信じろって言われたってそうは問屋が卸さない」

「連れて行って」

ジルマは浅海の呻くような声に振り返った。

「喋るな。もう喋らなくていい」

浅海は地面に突っ伏していた顔をどうにか持ち上げ、困惑する男に叫んだ。

「私たちを東京へ連れて行って!石を持ち帰るわ!」

「浅海…」

拳を立てて地面から体を引き離した。浅海は石を包んだシャツの裾を掴み、肩で息をしながら立ち上がった。

「大丈夫よ、私がすべてを決めるわ。石は誰にも渡さない。誰にも邪魔はさせない」


                                        *

 崩れ落ちそうな石段を駆け上った。永遠と続く螺旋階段は地中の爆発の影響でひび割れが目立った。息が苦しい。水の中をもがくようだった。腕の中の赤ん坊は体を震わせながら時折激しく泣きじゃくった。産着からは黒い得体の知れない液体の刺激臭ではなく、母親の腹から出たばかりの生々しく瑞々しい肌の匂いがした。

 死にものぐるいで足を動かしても、背後から無数の手が追いかけて小夜の背中を引っ張って引きずり下ろそうとした。上っても上っても地上にたどり着けない。息が上がる。いつ酸素を吸い込めなくなるのかと不安が大きくなった。

 あの白い消毒液の匂いに満ちた部屋から出て行った日明ではなく、怒りに満ちた夫の顔が小夜を苦しめていた。赤ん坊は強く抱けば玩具のように壊れてしまいそうだった。そんな頼りない生命を胸に抱き、藤本との間に生まれなかった我が子を思った。結納の日に両親を交えて祝い、白無垢姿で唇に紅をひいた時、幸せだった。一緒に2人で暮らし始めた頃、確かに藤本の帰りを焦がれていたはずだった。玄関のドアを開けた無邪気な少年のような姿を見て、胸の奥にある花がほころんだ。

 小夜は汗を拭った。吹き出す汗が視界を遮った。

 蝉が鳴き、雨が窓を濡らし、雪がちらちらと舞い降りるのを窓から見ているうちに小夜の両親は黄色い河を起因とする病に倒れ、血を吐いて死んだ。両親がいなくなったこの世で、夫の帰りを待ち続けたある日、小夜は部屋の片隅で爪を眺めて気づいた。あれだけ形の良かった爪の先はぎざぎざに噛みちぎられ、いびつな形に変わっていた。夫を待っている間に小夜は無意識に爪を噛み、その鈍く、自分でも気づかなかった苦しみを咀嚼していた。

 その日の夜も、藤本は玄関のドアを開けると、小夜に鞄を差し出した。妻の爪先が醜く変色して血の斑点が浮き出ていることには気づかなかった。

 小夜は俄に差し込んだ一筋の光が、丸石の敷き詰められた壁を照らすのに気づいた。一旦立ち止まり、胸の内の赤ん坊がついに泣き疲れて眠ったのを確認した。手足を持たないこの赤ん坊は誰かの助けがなければ生きていけないだろう。それなのに狭苦しい棺の小さな空間でなんとか息を吹き返した。再び足を進めた。光の面積は徐々に大きくなっていった。スポットライトで照らし出されるように小夜の影がその丸い光の円に映った。不穏な音は鳴り止まない。誰かがこの地下深くに死者を甦らせるための施設を作った。だがその選ばれし生者でさえ、この爆撃で地中に埋めようとしている。怒りが腹の底を渦巻いた。心臓の鼓動が内耳を通して耳たぶまで伝わっってくる。

苦しい。もがくように一歩一歩上へと上っていく自分の体が地上から数センチ浮いているようだった。

 壁に手をついた。爪の先に石礫の破片が潜り込んだ。今何時か検討もつかない。この施設のどこかに眠る軍事兵器を狙ってハルモニアの空襲が実行されようとしている。

「こんなところで」

小夜は頭を下げた。地面が揺れる。心臓の鼓動に合わせて目の前が上下した。顎から汗が滴る。赤ん坊が目を開いた。小夜は目を見開いた。瞳の色は向日葵の花びらを散らしたようなオレンジ色だった。珍しいと言われた自分の虹彩とそっくりだった。

「なんて美しいの」

 小夜は赤ん坊の丸い鼻先に頬を寄せた。はっとして顔を上げた。母のひび割れた手の先を思い浮かべた。母の瞳も太陽へ向かって咲く花のようだった。

 再びねじをまき直した足で光の先を目指した。疲労も苦しみも忘れて体が発条に巻かれて自動的に動いている。規則的に息を吐き出すと少しだけ呼吸がしやすくなった。不思議そうに、丸い瞳は母親ではない女の蒸気した顔に向けられた。羽が生えたようだった。小夜は飛ぶように走った。だがすぐに見慣れた髪の長い男が階段の途中で進路を塞ぎ、鼻先がその厚い胸板に激突した。小夜は恐る恐る男の顔を確かめた。

「遅い」

 日明はそう呟くと、赤子を抱いた小夜を見下ろしていた。

「なぜまだいるの。私を置いていったんじゃないの」

 日明は体を離し、眉を上げて小夜の顔を覗き込んだ。心臓が一度だけ強く収縮した。日明は小夜の頬を人差し指でなぞると、優しく抱き締めた。


 河沿いの道は黄色い飛沫に浸食され、あちこちがひび割れていた。押し寄せては沖へと帰って行く荒れた波の連続を眺めていると、恐怖がわき起こる。母親のおっぱいを探しているのか、唇をすぼめては泣きじゃくり、再び疲れて眠りについた幼子は、今のところ小夜の胸の温かさに安心しているようだ。うっすらと生えた黒色の髪の毛は、後部座席で深い眠りについたまま目を覚まさない王女と同じように毛先が愛らしいカールを見せていた。日明はアクセルをふかして猛スピードで地獄の底へと続く道を走っていた。

「少しずつでもいいわ。教えてほしい。あなたは誰なの」

 小夜は座席に身を沈めて目を閉じた。陽光が小夜の睫毛に影を落とした。それを見届けると、日明は飛沫をあげる遠くに霞む河を見遣った。

「あの日、私は太陽に揺られる水面を見ながら王族の邸宅前にいました。私は王族の警備にあたっていた大和軍の兵士でした。あの日…あの日は特に穏やかな夏の入り口のような日でした」

 赤ん坊の寝息が車内を満たした。フロントガラスに舞い上がる砂礫をワイパーではたき落とす機械的な音も時折響いた。車ごと海の底へとゆっくりと沈んでいくようだった。

「今でもはっきりと覚えています。真っ白なバルコニーで王女が飼い犬とじゃれて遊んでいる声が上から聞こえていました。王妃がティータイムに王女を呼ぶ声も聞きました。当たり前の、それまで続いてきた日常の当たり前の一日だったのです。あの日に何回戻りたいと願ったか。そしてどうしたらあの日の出来事を変えられたのか、自分に問い続けてきました」

「日明」

「突然の出来事でした。外が騒がしいと思った矢先、銃声が立て続けに響きました。門扉を守る兵士が何か叫ぶのが聞こえました。その後です。何台ものジープが門を破ってなだれ込み、あっという間に銃弾の飛び交う戦場となりました。様々に交差する言語を聞き取って、これはクーデターだと理解しました」

日明は不意にアクセルを緩めた。高波が道路の一部までせり上がり、化け物の触手のように行き交う車を引きずり込もうとしていた。

「私は隣にいた同僚が胸を撃たれ、直立したまま後ろに倒れたのを見て、急いで王の元へと向かいました。応援部隊を呼ぶには時間がありませんでした。とにかく一家をどこかへ避難させなければならない。必死でした。ですが、階段を上がろうした時になって体の異変に気づきました」

「そんな…」

「腹を撃たれていました。次の瞬間、全身の力が抜けて私は倒れました。王は異変に気づいて部屋から顔をのぞかせていました。最後の力を振り絞り、逃げるようにと伝えました。そこからは何も覚えていません。私は」

小夜の頬に一筋の涙が流れていった。

「私は死んだのです。その日、王を守ることもできないまま」

「では、では、今私の目の前にいる人は誰なの」

日明は微笑を浮かべたまま首を横に振った。

「誰なのでしょうね。私にも分からなかった。次に目を覚ましたのは、先程の白い部屋です。棺に満たされた黒い液体の中で目を覚ましました。黒い血潮は再生された者の証。あなたが抱く赤ん坊と同じ。一度滅した肉体を再生させた、そうですね。あなたとは違う生き物です」

「あなたの話は、どこからどこまでが真実なの。私は作り話に喜ぶような女ではないわ」

小夜は目を閉じたままそっと囁いた。

「残念ながら、すべて真実です」

息を吐き出したが、小夜は耐えきれずに瞳をこじ開けた。そしてハンドルを握る日明の手に自分の手を重ねた。

「続けて」

日明は小夜の発火しそうに温かい手をとると、自分の冷たい頬にあてた。

「あの棺を出た時、私は何が起きたか分からなかった。ただ覚えているのは、科学者だった柏原氏によく似た男が驚いたようにこちらを見ていたことです。私の体は不思議なことに傷一つなく再生されていました。そして目の前の男は、私と同じように、黒い液体によって目を覚ました少女を抱えていました」

「どういうこと…」

「不思議でした。黒い液体は人の傷ついた組織を回復するだけではない。その少女は明らかに凶弾に倒れた女王とは別人でした。ただ、私にはすぐに分かりました。あの独特の薄茶色の瞳と力なくこちらを見つめる弱々しい眼差しと。声が出ませんでした。女王の容姿は15、6の少女に時を遡っていたのですから」

「何ですって…、女王も生き返っていたというの…」

 勢いよく覆い被さり再び元来た場所へ戻っていく河をかわしてジープは直進した。泡の残滓がフロントガラスに残り、時間をかけて乾燥した外気へと蒸発していった。

「祖父の実験を受け継いでいた柏原公正は娘を操り、私に任務を命じました」

「あなたは柏原公正に服従し、さらにその娘の犬として動き回ってきたわけね」

日明はくすりと笑った。小夜は涙を拭い微笑んだ。

「そして今、あなたはその飼い主の所へ戻ってどうしようというの」

真っ赤な虹彩が小夜をちらりと見ると不敵な笑みを見せた。

「私は誰の犬でもありません」

「ではなぜこの車は三浦へ向かっているの」

「やるべきことをやらなければなりません。私が再び肉体を得た理由を、果たさなければなりません。ただ、それは大和を醜い兵器で傷つけることではない。決して」

王女はでこぼこ道にジープが揺られても決して目を開かなかった。陶器でできたマネキンのように、固い石の上に落ちればたちまちばらばらに壊れてしまいそうだった。

「そして、女王は今どこにいるの」

日明は小夜の胸ですやすやと眠る愛らしい赤ん坊の顔に触れたが、小夜の質問には答えなかった。

「黒い血を持つ者は、先程の部屋に眠る者だけではありません。ほんの一部です」

「何ですって」

日明は前を向いたまま頷いた。

「元帥は遺体を集めては実験体として培養液に浸し、再び人間としてどのくらいが稼働できるのか調べていた。カタコンベのように地下穴を掘り、あちこちに実験体を置いたのです。一部は息を吹き返し、次々に穴から抜け出して地上に出てくる頃合いだ。2週間しか命がない蝉のように」

そこまで言って自嘲するように鼻で笑った。

「そう、我々は蝉のようだ」

「いったい、柏原公正は何を企んでいるの。死者を生き返らせてこの国をどうしようと」

「元帥が思うままの世界へと。ただ」

小夜は赤ん坊を抱く手に力を込めた。柔らかい肌が恐怖を和らげてくれた。

「女王は年を遡り甦った。私自身、致命傷がすべて癒えた状態で棺から出た。この赤ん坊は手足こそ再生はしなかったが、もしかしたら死んだ時は赤ん坊ではなかったのかもしれない。傷を癒し、個体の持つ時空を超える。人それぞれ培養液への反応が違うのです。これが何を意味するか分かりますか」

首を振った。様々な情報が一度に頭の中になだれ込み、耳鳴りがした。

「我々の肉体、いえ、細胞はとっくに限界を超えた状態だということです。放射性物質を体内に通さない超人が作り上げられるはずだった。そんなことを神が許すはずもなかったのです」

日明は小さくため息をついた。砂嵐は落ち着き、ようやく東海を抜けて平屋が立ち並ぶ町並みが見えてきた。陽光に照らされて日明の片方の赤い虹彩がルビーの原石のように光り輝いた。

「私は藤本殿の奥方であるあなたの側にいるように響子様より仰せつかりました。軍の異端児であった彼は反乱分子になる危険性があった、だから、手足を操るためにあなたを囮に」

「ええ、分かっています」

「あなたに惹かれぬままいられたでしょうか。その自信はありません。それでも、私はあなたを愛していると言うことができない。それはあまりに無責任だから。なぜなら私はもはや生きているとは言えないからです。死者の分際で、確かに赤い血が流れる美しいあなたにそんなことを言って何になります」

小夜は俯いた。自らの手首の内側を見た。緑色の静脈が脈打ち、流れていた。

「この肉体はもうそろそろ、朽ちてなくなる。黒い血を持った者の中には、もはや肉体を保てなくなっている者も多いでしょう。これは柏原元帥の最大の誤算です。我々の命は短ければ地中から出た蝉の命と変わらぬ長さなのですから」

 日明は小夜の顔を覗き込むようにして眉を下げて微笑んだ。


                                    *

 ジョシュ・ラモスは顔色こそ変えなかったが、こめかみに血管が浮き上がっていた。部下の怒りと絶望に満ちた表情を一瞬たりとも逃さぬように充血した瞳を向けていた。ラモスは自身へ向けられた途方もない憤怒のエネルギーを探ろうとしていた。自分の身を滅ぼし得る程の力を持っているか見極めようとしているようだった。

 引き金に少しでも力を込めれば、この一国の首相を確実にしとめられることを理解しているのであろう美しい横顔を見せる少年に、確かに見覚えがあった。街角の大型モニターに突然映った目を疑うような現実に、移民と大和人とが入り交じり、茫然と見守った。多くの街人は言葉を発しなかった。信じがたい現実を突きつけられて、悲鳴やブーイングといった類の音を出すことを誰もが躊躇っているようだった。息遣いが重なり合い、何百、何万人もの蒸気が空に向かうように上昇していった。

 少年は首相に尋ねた。

「あなたは黒い石を求める僕たちをなぜ探していたのですか」

首相は眉間にはっきりと皺を寄せた。緑色の瞳が段々に光を失い、暗闇を歩く時のように瞳孔が開いていた。首相は口を開いた。

「黒い石は存在しない」

「それはなぜそう言えるのですか」

「河を浄化する石なんてない。ただのおとぎ話だ。大人たちが作り出した都合の良い、馬鹿馬鹿しい物語だ。河が元に戻ると思うか。青く澄み切った白い波を持つ、誰もが目を奪われる美しい海に。魔法は起きない。誰も魔法使いにはなれない」

 薄茶色の瞳が陽光にはっきりと照らし出された。真っ白な肌にそばかすがうっすらと浮かぶその鼻梁が懐かしかった。唇が微かに開いた。細く長い首筋を剥き出しにして、少年の握る銃は画面の外側にいるすべての者を照準にしているようだった。

 片時もこの少年を忘れたことはなかった。ベッドのシーツの隙間のどこを探しても姿を見せない少年は心を占拠し、胸の痛みは寛解することはなかった。

「必ず海は色を取り戻し、美しい姿を再び見せてくれるはずです。人々の願いは実現される。姉は必ず石を持ち帰ります」

「誰がそんな戯言を信じる」

「河を浄化する石は決して夢物語ではないはずだ。指導者の口から、すべてを国民に伝えるのです。いがみ合い、攻撃し合えば確実にこの国は破滅する。首相としてあなたは何をすべきか分かっているはず。すぐに爆撃の宣告を取り消すのです。万人の意志が存在するならば、必ずこの国は立ち直る。そして石の存在を国民に正しい形で伝えるべきだ。愚かな者たちの愚かな目的に利用されてはならない。石はすべての可能性を含んでいる。あなただって、心のどこかで、いつか海が浄化されることを信じていたのではないですか」

 ラモスは引き出しを開き、鼠色のショットガンを取り出した。歯を食いしばり、田積の額に照準を合わせた頃合い、一瞬カメラの方向に視線をずらした。部屋の外から何者かが英語でまくし立てるのが聞こえた。

 田積はゆっくりとこちらに視線を向けた。ビルに張り付いた長方形の空間に閉じこめられた少年と確かに目が合った気がした。さくらは叫んだ。

 長く低い銃声が獣のうなり声のように吠えた。田積は瞼を閉じた。それは不意に眼前に物を投げつけられた時に咄嗟に現れる正常な反応だった。突然の襲撃にさくらは目を見開いた。鉛の弾は、田積の胸元を確かに貫通していた。

「田積」 

 田積が再びさくらの顔を見た時、目の前が真っ暗になった。


                                   *

 浅海は隣の席で腕組みをして、操縦席にいるカルロスを睨み続けるジルマを見遣った。

「ジルマ。ここからは別行動にしましょう」

「どういうことだい」

 リアも疲れた顔を浅海に向けた。

「私は行かなければならないところがある。あなたは、田積のところへ向かって欲しい」

「おい、あいつはもう石を探す旅には関わっていないはずだ。堺に置いてきただろう」

浅海は小さく首を振った。永遠に続く砂漠の中央で砂礫が舞い上がる様子が見て取れた。夜が空ける。朝日の光線の欠片が散らばっていた。

「田積は首相官邸に向かっているわ。あの子は何とかこの戦いを止めようとしている」

「なんだい、戦いって。どういうことだ。何が起きてる」

「地下で眠る兵器が爆発している。たくさんの被害者が出ているわ。大和軍の暴走は誰にも止められないところまで来ているわ」

「何だって」

サファイア色の瞳を潤ませてリアがため息をついた。

「私はどちらへついて行けばいいの」

浅海はリアの座席へ手を伸ばすと、河の飛沫でべとついた髪を指で梳いた。長い髪が何本か抜け落ちた。

「ジルマと一緒に行ってちょうだい」

「もう、みんなに会えなくなるのはいやよ。お姉ちゃんにも馨にもさようならをしたのだから」

 リアは座席に体を深く預けて顔を背けた。リアが慕っていた藍の遺体は島で一番に陽光があたる温かい丘に埋葬してきた。その傍らに馨の青白く発光したままの頭蓋骨を埋めた。浅海はいつまでも手を合わせて動かなかった少女の背中が震えているのに気づいていた。

「リア。また、必ず会えるわ」

リアは驚いたように浅海の顔を見た。うっすら涙が浮かんでいた。駅で初めて出会った時より随分大人びた表情をするようになった。

「その日のために、私たちは彼らを忘れないようにするの。だから、リアの心の中で、あの島で出会った全ての人たちを生かし続けて欲しいの」

「浅海」

「私は諦めないわ」

「浅海は、馨が好きだったの」

 浅海の手を握った。リアの手は、汗でぐっしょりと濡れていた。浅海の手はまだ微かに黒い炭がついたように青黒く染まっていた。少女の率直な問いかけに、浅海は目を細めて微笑んだ。

          *

 カナリーイエローの幽霊列車は、定刻を大幅に過ぎてホームに滑り込んだ。下り列車は首都圏から避難する市民ですし詰め状態だったが、東京へと向かうこの列車にほとんど乗客はいなかった。響子は落書きだらけの車体を眺めて、どうにか右足を踏み出した。その背中を軍服姿の日に焼けた男が押した。発車の合図は何もなかった。立て付けの悪い鉄板で覆われたドアが喧しい音を立てながら隙間を残して閉じた。

 セスナは何者かによってエンジンを壊されていた。東海を抜けるには樹海に巣食う不法占拠の民が群れをなして襲ってくる可能性がある。列車で移動するほうが安全だと判断した藤本に連れられ、初めて乗るこの不気味な鉄の塊に揺られていた。切り立った崖が迫る両脇の景色に挟まれるように響子は立ち尽くした。後ろへ流れていく空気は、微かに色彩を持っているようだった。

「まだ時間がかかる。座ってたほうがいい」

電球の光を受け、てかてかとした波を見せる座席に腰掛ける藤本は、頬杖をついて土塊を見守っていた。だがそれも間もなく姿を消し、視界は突然開けた。

 列車はコンクリートで固められた心許ない高い陸橋を駆け上がった。眼前に広がる巨大な波を携えた黄色い河は凶暴で乱雑な表情を見せた。

 響子は河の勢いが増していることに一抹の不安を覚えた。上空は泡の花で覆われて黄色く変色していた。臭気が増していると感じたのは気のせいではなかった。

 同じ車両の端に一人だけ老婆が座っている。長い白髪交じりの髪を垂らして、小柄な体に赤いショールを巻いていた。確かに見覚えがあった。

「気づいたか」

藤本が外に視線を遣ったまま呟いた。

「なにをだ」

「近づいてきている」

響子の耳を発砲音が掠めた。鉄の塊が電車の奥底へ飛んでいった。一瞬体を強ばらせて反らしたが、それより前に藤本が老女の額に向けて銃を構えていた。女は色のない頬を痙攣させてこちらを睨みつけていた。響子は声を失った。

「お嬢様、お久しぶりです」

「なんだ、この無礼者と知り合いか」

合那はふらふらと両足で立ち上がると、硝煙の上る銃をこちらへ向けていた。深い皺の刻まれた顔、手入れのされていない乱れた髪に響子は目を見開いた。花が散りかける時に魅せる儚げな美しさを保っていたかつての侍女とはまるで別人の、哀れな老婆に成り果てた姿から視線を外すことはできなかった。

「どういうことだ」

「響子様。私が今、この劣悪な音を立てる列車の中で、なぜ故、慈しみ育てたあなたに銃を向けているのか理解ができないのは至極当然のことです」

藤本は両脇を流れていく巨大な荒れ狂う河を尻目に、しわがれた声に眉を顰めた。

「私の命を狙うというのか」

「響子様を救いに来たのですよ」

そう吐き捨てると、合那は腹に隠し持っていたナイフを響子に突き立てた。すんでのところで身をかわしたが、頬を掠ったナイフの先が響子の青白い肌に赤い切れ目を作った。一心不乱に襲う合那をかわし、憎しみに満ちた瞳を見た。

「やめろ」

合那は藤本に後ろ手に拘束されたが、息が荒く、獅子のように口元を大きく開いて響子を睨んだ。

「あなたのお父様は私のすべてを奪い、踏みにじった」

「合那」

「見て下さい、この姿を。醜いこの老いた体を。河に身を投げ、死んだつもりだった、なのに、柏原様は私の亡骸を引きあげた」

合那は藤本の首を力一杯噛んだ。突然の襲撃に、藤本は呻き声をあげて合那から手を離した。その隙に、響子の額に向けて銃を構え直していた。

「どういうことだ、合那、どこへ行っていたんだ。そしてなぜ私を狙う」

列車は河を越えて急カーブに差し掛かり、響子はバランスを崩して座席に倒れ込んだ。藤本が再び侍女に近づいたが、合那は獣のような声をあげた。

「それ以上近づいたら、今すぐにこの銃でお嬢様を殺す」

「銃を捨てろ」

「柏原様は私を河から引きずり出し、既にこの世に絶望しかなかった私を無理矢理に生かした。私にもはや生きる意味はない。あの地下室で柏原様の言葉通りにあなたを育て、地上の生活を捨てた。愛する人に別れを告げ、子をもうけることも叶わなかった。あなたを慈しみ育てることだけが私の生き甲斐だった。なのに、柏原様は…」

響子は滴る汗を拭った。

「なんだ」

「すべてを失った私を何度も手籠めにし、そうして娘のあなたにまで手をかけた」

藤本は合那のこめかみに向けて銃を突きつけた。

「やめろ、それ以上話すな」

老婆のやせ細った肩から赤いショールがずり落ちて木の床へと落下していった。響子は頬が真っ赤に染まっていくのを感じた。

「私はあの日、地上へ戻った時の日の明るさを忘れません。辛く苦しいことが多かろうとも、私は人間として生きていきたかった。もぐらのように地中深くに潜り、あの方の欲望の処理のために生きていくよりは。でも、手遅れでした。日に照らされ、鏡の中にいたのは醜い老婆でした。身も心も疲れ果て、自分でさえ気づかぬ内に、姿形も心でさえも変わり果ててしまったのです」

合那の深い皺に沿うように涙が這っていった。響子は息を呑んだ。ベッドの中で毎晩のように読んでくれた絵本の内容は何だったか。ある日の夜の光景が頭の中をぐるぐる回っていった。あの時、合那は本当の母親のように頭を何度も撫でて寝かしつけてくれた。

「そして死んでもなお、柏原様は私を離してはくれなかった」

「銃を下ろさないと発砲するぞ」

藤本の頬にも汗の玉が光りながら転がり落ちていくのを響子は横目で見た。顔に血が昇っていく。息が上がる。胃の底にある塊がせり上がってくる。

「だから、お嬢様。私はあなたと共に今度こそ死のうと思うのです。あなたも苦しかったでしょう、辛かったでしょう。私は響子様の前に舞い戻って参りました。私の心と人生を殺したあのお方の分身であるあなたを殺すために生まれ変わったのです。お嬢様、もう苦しみから解放されましょう。そして一緒に今度こそ安らかで美しい死の世界へと旅立ちましょう」

合那は高い超音波のような悲鳴を上げた。藤本が老婆のか細い体を突き飛ばすのと同時に、銃口から弾がはじき出た。水底に住み着いた異形の者が死に行く道程で最後のあがきに発する断末魔だった。

響子は目を瞑った。合那が絵本を閉じた。ここまでにしましょうと穏やかな声で言うと、響子の小さな体を包み込むようにして抱き締めた。微睡み始めた少女の背中をさすり続けた。

 瞼の裏に現れたのは、父の怒張した男性器を頬張る口元だった。薄暗い部屋には白く発光する幾つもの玉が浮かんだ。ため息のような惚けた声が部屋中に満ちた時に現れるシャボンのような美しい発光体だった。

「勝手なことを言うな」

響子が目を開くと肩に鋭い痛みが走った。ぼろぼろになった合那の銃弾は響子の肩を確かにえぐり取っていた。藤本は床に倒れ込んだ女に再び銃を向けていた。

「誰が決めた。死んだほうが幸せだなんて、誰が決めたんだ」

「あなたは誰です。響子様の何が分かるのですか」

藤本は低い声に確かな怒りを込めた。

「俺は何者でもない。それでも分かる。この女とあんたは他人だ。勝手に決めるな。生きることを決めるのは紛れもなくこの女自身だ」

「何を分かったように、私と響子様の絆を知らない癖に何を言う」

「合那」

かつての侍女の潤んだ瞳に河が映っていた。

「合那」

「お嬢様、私は、もう…」

響子は合那の肌が落ち窪み、土塊のように黄土色に変色して崩れていくのを見守った。薄茶色の美しい瞳だけが響子の顔をすり抜けて電車の外に広がる巨大な波を見ていた。

「合那と私の敵は必ず取る」

床に這い蹲り、真っ黒な肌になって人間とは違う生物に変わり果てていく老婆の姿に言葉を失った。響子は合那の体を抱き起こした。炭化した体がぽろぽろと小さな塊となって形を崩していった。

「だから、安らかに眠ってくれ」

 老婆の手の平に握られていた長い糸のような束を拾い上げた。あの日、黴臭い小さな部屋で、合那が握っていた響子の長い髪だった。

              *

 高城の街に差し掛かった頃、小夜は不意に日明の長い髪の先を掴んだ。岸壁に囲まれてひっそりと存在するかつての生糸の生産地は、今は何の産業も持たない廃れた町に変っていた。日明は眉を下げて助手席から睨みつける小夜を見返した。

「この髪が気に入らないわ」

「何の話です」

 巨大な風船に針が刺さって破裂したような音が響いた。車のスピードが緩やかになり、何回踏み直してもアクセルがきかなくなった。町中だというのに誰も歩いていない。日明は車を道の真ん中に止めた。

「どういう意味ですか」

「あなたの髪、今ここで切ってちょうだい。そもそも男の人の長髪は好きではないの」

完全に停まった車のハンドルに両手をあずけると、小夜の顔をまじまじと見た。

「今、ですか」

「なんでか教えてあげましょうか。今あなたが私に愚かなことを言ったからよ。肉体が朽ちるですって?そんなの信じないわ」

「事実を伝えただけです。それと髪を切ることに何の意味があるのですか。棺の中にいた時に髪は勝手に延びていました。切ってもよいですが、切る理由もなかっただけです」

小夜は赤ん坊のわずかに生えた髪を撫でた。

「本当に大切な人の前で、もうすぐ死ぬということをあっけらかんと言うものなのですか」

「どういうことです」

日明は大きなため息をついた。

「あなたの言葉はいつも奇想天外だ」

「命令です」

ハンドルに被せた手首を小夜は掴んだ。自分の出せる限りの力を込めて握っても、日明にとってはちっぽけな力のようだった。

「二度と、私の前から消えるなんて言わないで。ここで、私の見ている前で髪を短く切るの。そして、また以前と同じくらいの長さまで髪が伸びるまで私から離れないと誓って」

「あなたは」

「黙って」

小夜は手首を口元に持って行くと唇をそっとあてがった。

「あなたが愛していると言えないなら、私が言いましょう。そうね、誰かにやめろって言われたって止められないわ。例え私の夫であっても」

赤い虹彩が血が滲むように深紅へと変化していった。じわじわと瞳孔を侵略し、白目がうっすらと朱色に充血していった。小夜は日明の骨組みのしっかりとした手首から顔を上げると、いたずらっぽく微笑んだ。鋭い陽光が小夜の瞳の奥まで透かして見せた。

「あなたを愛しています」

 日明は眉を顰めた。初めて小夜に会った夜の帳、金木犀の香りが漂っていた。あの夜、藤本の尊大な立ち振る舞いに内心苛立っていた。どうしても消えない不快感があったが、響子の命令ということもあり、その後も金木犀の香る邸宅へと通い詰めた。小夜を情で支配することも計画通りだった。この哀れな世間知らずの奥方は、夫に愛されていないという絶望で欠けた心を持て余していた。

 小夜は日明の目的を分かっていながら、もしかしたら響子の策をすべて理解しながらも、無駄な駆け引きや欺瞞を持たず、体を許した男にまっさらな感情をぶつけた。思ったことを剥き出しにしたまま言葉を紡いでいく。なのに、どうしてここまで自分自身の心の奥底が疼くのかは分からなかった。

 日明はバックミラーに目を遣ると、小夜の脇にある助手席の扉のロックを外した。同時に小夜の体を抱き寄せ、助手席から車外へと転がり落ちた。車体にいくつかの銃弾の跡が残った。

 日明は小夜をジープの陰まで引きずり込んだ。胸の内の赤子はきょとんとした丸い目で2人を見つめていた。小夜は心臓の音が高まっていくのを感じた。全身が脈打ち、耳の奥で渦巻いている。あのアパートメントを出る時よりも、遙かに恐ろしく、身の危険が迫っている実感があった。その証拠に、目の前の日明の虹彩が赤く充血して散らばっていた。青白い額にうっすらと光の粒が見えた。

「走りなさい。とにかく建物を探して隠れるのです」

「誰なの、私たちを撃とうとしているのは」

「柏原の実験体です。元の記憶を失い、かつての個体として覚醒できず、攻撃的で暴力しか知り得ない。人間とはほど遠い怪物として再生してしまっている」

「どういうことなの、そんなのがたくさん土から出てきたら…」

 小夜は不意に肩を掴まれ、日明の血管の浮き出たような瞳を間近に見た。唐突に高柳にミサイルが落ちた日の夜明けを思い出した。あの時、ジープの中で見た世にも不思議な真っ赤な虹彩と同じ色だった。

「元帥の身を賭した実験は失敗ということです。我々の存在を含めて、彼は人類を冒涜し、そして命を踏みにじった。許されることはない、決して」

日明の汗はどんどん数を増やして頬や鼻筋を競うようにつたっていき、長い首筋まで侵していった。

「あなたは失敗じゃないわ」

日明は微笑んだ。小夜の目頭を優しくさすった。

「だって、私、あなたに会えたから今生きているのよ」

日明は首を振った。

「あなたはこれから何だってできる。美しく、才能に溢れ、賢い。たくさんの可能性が手中にある」

温かい胸元の小さな子供が眠そうに目を擦った。小夜は唇が色を失っていくのに気づいた。目の前を埠頭のサーチライトが掠めるように点滅した。

「いやよ。あなたと一緒に私も三浦へ行くわ」

「危険です。そんなことはあってはいけません。決して。この子のためにも」

「いや、行かないで。足手まといになんかならないわ。私を追いていかないで」

突然前触れもなく、小夜の目の前に、城のような王族の邸宅が波間に現れた。小夜は100年前に滅びた王族の顔も、住んでいた風景も知らないはずだった。だが、はっきりと現れた確かに存在していたはずの景色に声を失った。

 日明の赤い瞳は瞳孔が開き、小夜の震える唇をただ見つめていた。そしてゆっくりとジープの車体を振り返った。

 小夜は声にならない掠れた悲鳴を上げた。後部座席に寝かせられた水色の薄汚れたワンピース姿の少女は、その薄茶色の虹彩を開き、シートから身を滑らせて確かに自分の力でドアを開けた。真っ白な肌が太陽に照らされて所々に付いた泥の欠片が少女の神々しい姿とあまりに不釣り合いだった。

「舞湖様…」

日明は我に返ると、ドアから半身を出した少女の元へと駆け寄った。銃を持った背の高い男の姿が、朽ち果てた平屋の陰から見えた。日明は叫んだ。

「振り返るな!走れ!」

 足が竦んで動けない。小夜は腹を探った。サイズが大きくてずり落ちてしまうので、日明に借りたジーパンのベルトに確かにそれは収まっていた。

 震えの収まらない手で銃身をなぞった。金属製のひんやりと冷たい銃器だった。少女は地面に倒れ込んだ。長年歩行していなかった足の筋肉は削ぎ落ち、すぐには歩けない。日明は少女を抱えて走り出そうとしたが、突然現れた男は、確かに日明の背中に照準を定めていた。

 赤ん坊を振り落とさないようにと、着ていた上着で小さな体を巻き付けていた。小夜はぶるぶると震える手首を少しでも落ち着かせようと深く息を吐き出した。

「両手は使えるのよ、小夜」

銃を構えた。安全レバーをひく。弾は十分に装填されている。日明が、一度だけ教えてくれた手順を忘れるわけがなかった。リボルバーに手をかけた。かちっとした涼しげな音が耳に届いた。

「どうして躊躇う」

耳元で誰かが囁いた。それがこの場には存在しない夫の声なのか、もう一人の自分の声なのかは判然としなかった。

「彼を助けるのよ…」

男の額に銃口を向けた。引き金をひく。その瞬間、胸の中で赤ん坊が弱々しく猫のような泣き声を立てた。

 目を瞑った。目を開くと、日明は少女を抱えて小夜のいる方向へと走ってきた。その肩越しに、日明を狙っていた男の体が地面に伏しているのを確認した。息を呑んだ。次々に別の人影が平屋から飛び出してきた。

「走れ!」

 日明の叫び声に小夜は唇を強く噛んだ。足はもつれて動かせないはずだった。なのに自分の意志とは違う何者かが、小夜の大腿骨を、筋肉をばねのように動かした。銃弾が飛び交う。小夜は日明の差し出された右手を掴んだ。 

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