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【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン14話

(14)泥

「君はdirty bombを知っているかい」

鬼沢は机の上に軍靴を乗せて葉巻をくわえたまま藤本に問いかけた。日本刀を脇に刺した上背のある男を鬼沢は顔色一つ変えずに部屋に招き入れた。

「今日はそんな話をしにきたわけではない」

「まあ、座りたまえ」

藤本は背後から散弾銃を突きつけられているのに気づいたが、鞘から鈍く光る刀身を引き抜いた。

「侍気取りか」

「黙れ」

「さて、先程の質問だ。dirty bombとは。放射性物質を利用した爆弾のことだ。だが爆発の熱量を持って街を破滅に導くものではない。空から散布したり地上でばらまいたりすることで、じわじわと人体へダメージを与えるという、名前の通り、汚い爆弾だ」

「何が言いたい」

「勝ち方はいくらでもある、ということだ」

藤本は鬼沢の胸ぐらを掴み、青白い頬のこけた顔に唾を吐きかけた。

「お前はこの国の救世主でもなんでもない。何を勘違いしている。ただの破滅的思想の持ち主だ」

「では聞こう、君は一体なんだ?」

「俺は軍人だ」

「では、その一介の軍人とやらに聞こう。君は大和を守りたいと言う。他国の侵略はもってのほか、国防に専念し、今の大和を守ろうと。だが現実は甘くはない。黄色い河は年々面積を増やし、潮の流れも荒くなるばかり。国土は荒廃し、砂漠化はくい止められない。そうして大和人は絶滅危惧種となり、移民たちは、空っぽの頭しかないものだから国の未来を描こうともしない。さて、お前さんはここで一体何ができる?何をしようとしている?まさかこの名ばかりの軍隊で高橋大将の後継者として、無能で無知な軍人どもを束ねることだけを夢見ているのか?軍服を着ているだけでプライドだけで成り立った、形骸化した組織を守ろうと?」

藤本は肩を震わせ、日本刀を鬼沢の血管の浮いた首にあてがった。

「なめるな」

「お前こそ、なめるな、一国の未来を」

鬼沢は耳元で囁き、藤本の頬を殴りつけると、背後にいた兵士が手早く手足を抑えつけた。

「無駄な血を流すことがお前の本望か」

鬼沢は葉巻を握りつぶした。木製の質素な机を蹴り飛ばすと、染みだらけのログハウスの壁に鈍い音を残して倒れた。

「何も分からぬ青二才が」

「そのdirty bombとやらで、他国に戦いを挑むのか、それこそ無鉄砲というものよ」

「何も分からずにその高価な軍服だけ着ていればよい」

「お前とて同じ軍人だろう。それとも志なくクーデターだけを目的にここに来たのか」

鬼沢は藤本の頑丈な顎を蹴り上げた。その反動で大きな体がころころと堅い壁まで転がっていった。「サディスティックなくそやろうめ」

鬼沢は再び藤本の頬を蹴り飛ばした。

「お前をなんで殺さないか分かるか。本来ならすぐに粛正すべき男だ。頭も悪いし勘も働かない。愚直に軍を信じて生ぬるい世界で正義感を振りかざす。俺の忌み嫌う人種だ。響子様が目をかけていなければ今すぐここで殺してもいいくらいだ」

藤本はべっとりと付いた血を拭いながら、声を上げた。「何だと」

鬼沢は初めて顔を歪めた。不快そうに藤本の鼻先を小さな尖った歯でかじった。鋭い痛みに唇を噛んだ。

「あの薄気味悪い女を担ぎ出してどうなるんだ」

「さて。担ぎ出されているのは果たして響子様の方なのか」

鬼沢は藤本の鼻先についた血を舐め上げた。

「果たして我々が利用しているのか利用されているのか。もはや分からない様相でね」

「どういう意味だ」

鬼沢は藤本の頬を掴み薄ら笑った。

「お前自身で真実を探るんだな。たとえ国が滅亡の危機となろうとも、そんなことをすっかり忘れて惚れた男にはすべてを捧げるのが女というものだ。そしてそんなことをしている暇に、お前は真に大切な者を失うかもしれない」

「どういう意味だ」

鬼沢は藤本の耳に息を吹きかけた。

「お前はいつまでも浅はかな青二才のままでいればよい」


                                      *

 通りかかった車が飛ばした泥水で汚れたワイシャツの胸元をおしぼりで拭った。茶色い染みは漂白剤なしでは取れそうにもない。おろしたてのシャツなのに、と小さくため息をついた。

 堺の街で唯一ペドロの足が向いたのは、この洒落た内装の6つのカウンター席と3つのボックス席しかないバーだった。髭を生やした50代ほどの移民のマスターは、かつてドイツのベルリンの壁の崩壊に影響を与えたというデヴィッドボーイのポップソングが好みのようで、青を基調にした落ち着いた雰囲気の店には、サイケデリックなメロディが海の底を漂うくらげのように永遠と流れていた。

「それは、どこで?」

「昨日雨が少し降っただろう。今朝のことさ。車高の低いボロ車がすぐ横を走り抜けていった時におみやげを置いてかれちまった」

「ついてない朝だねえ」

「そう言われると、本当についてない気持ちになるな」

ペドロはジントニックを勢いよくあおった。

「随分飲んでるが、何か忘れたいことでもあるのかね」

マスターが苦笑いを浮かべてペドロの空いたグラスにジントニックを注ぎ込んだ。

「いかにも、これで5杯目」

 酒にはめっぽう強い家系だが、さすがに度数の高い酒ばかりを選んで頭がくらくらし始めた。

「世帯持ちかい?何か嫌なことを忘れたいのかい」

ペドロは首を振った。「まだ僕は27だから」

「まあ、大和人ではないからね。我々は。そんなに急ぐ必要はない」

ペドロはこきりと肩を回した。

「それはどういう意味で?」

マスターは店内にいる大和人のカップルに目線をやると、声を潜めた。

「奴らの寿命は早くて40までだ。それまでにつがいを見つけて、子を為さなければならない。彼らの人生には焦りが付き物だよ。話を聞いていると哀れにさえ思えてくる」

ペドロの前で小声で囁いた。

「彼らは直に絶滅する人種だ。だから高い酒をたまに内緒で出してやる。俺ができる彼らへの唯一の餞別だ」

「大きなお世話だな」

ペドロはそう呟いたが、マスターは聞こえなかったのか電話の音に呼ばれて行ってしまった。先程のカップルはそんなことを言われているとも知らず、顔を寄せてくすくすと笑い合い、頬にキスを交わした。

 グラスの向こう側に、砂の城から突然現れた陰鬱な目をした双子が浮かんだ。姉は現実に打ちのめされた弟を抱えてもなお、何かに希望を見い出そうとしていた。なんのために、あるか分からない石に執着するのか。16の子供が短い一生を自分のためではなく国の運命へ託そうとしていることが、正直なところ奇妙に思えた。

「電話がお客さん宛てに来ているんだが出られるかい」

不意に背後から声を掛けられた。後ろを振り向くと、レトロな黒電話を持ったマスターが不思議そうな顔でペドロを見ていた。

「誰からだろう」真っ先にラモスが浮かんだが、受話器の向こうから流れてきたのは流暢な大和語で喋る少女の声だった。

「浅…海?」

「用件だけ伝えるわ」

機械的で抑揚のない言葉の端々には、何の感情も汲み取れなかった。

「もう、田積には近寄らないで。あの子はこの街で暮らしてくの。あの子の旅は終わり」

「なんだって、ところで君たちは今、どこに」

「言えるわけがないわ。それだけ伝えたかったの。切るわ」

「待ってくれ、ここがどうやって分かった」

しばしの沈黙の後、浅海は再び冷徹な声で切り替えした。

「あなたたちに手を借りるつもりは毛頭ない。そして田積は、もう私の兄弟でも何でもない。それでも田積に接触するなら、今度こそあなたたちを殺すわ」

「なんて物騒なことを言うんだ」

ペドロはため息をついた。俯くと泥で汚れたシャツが青白く浮かび上がっていた。

「君は、そこまでして…弟を置いてまで、なんで石を探すんだ。ありもしない幻かもしれないものを」

マスターが大和語でまくしたてるペドロを興味深そうに眺めている。デヴィッドボーイのポリスが流れると、店内の客たちはこの色褪せない名曲に体を揺らして酒を煽った。

「どうしてそこまで意固地になるんだ。君たちだって命を狙われていることを知っているだろう。その幻を追って君に何の得になるんだ」

「石は、あるわ」

浅海はきっぱりと言い切った。

「石を必ず手に入れる。私にはそれしかできない」

そこまでで電話は突然切れた。切断音がいつまでも耳に残った。ペドロは強ばった顔をほぐすように舌先で唇を舐めた。

          *

 玄関のドアを開くと、予想していた通りに髪の長い陰鬱な表情の男が立っていた。今夜はいつもと違って右頬に痣ができて端正な顔が腫れ上がっていた。それでいて無表情な男のアンバランスな佇まいに小夜は思わず吹き出してしまった。

「どうしたんです、そのお顔」

「特に、なにも」

「いえ、そんなはずはないわ」

日明は「転びました」と消え入るような声で答えた。

「顔から?」

日明は目をくるりと横に向けた。

「そんなことありえないと?人間何が起きるか分かりませんよ」

「あら、おかしなこと言うのね」

小夜はくすくすと笑った。

「さあ、雨にあたってしまうから早めに入ってくださいな。軍服が濡れてしまいますよ」

「いえ、今日はここでよいです」

「なぜ」

「ここからお逃げください」

「何を言っていますか」

日明は小夜の腕を掴んだ。はっとして日明の顔を見上げた。腕にきりりと電気が走った。

「車をこちらで用意するので、1時間ほどで支度を」

「何も説明はしてくれないの。もしや何か藤本にありましたか」

日明は首を振った。「あの方がどうこうというわけではない。ここから出なくてはならない。そういうことです」

小夜は腕を振り払った。日明がいやに焦っているのも気になったが、何も説明してくれない男たちには嫌気がさしていた。

「私は馬鹿なお姫様ではありませんよ。はいはい、と聞く質ではありません」

「まだ言えません。とにかく準備を」

小夜は扉を閉めようとしたが、日明の屈強な腕がそれを阻んだ。「やめて」

「早くしなさい」

「何の説明もなくここから出て行けと?舐められたものだわ」

日明は眉間に皺を寄せた。時折見せる、人を軽蔑したような瞳の色に変わった。虹彩の赤い斑点の色がより強くなる。小夜だけが知っている小さな変化だった。

「説明できないのです、どうしても」

「理解できないと思っているのね」

日明は小夜の顔を覗き込んだ。

「あなたが賢いのは分かっています。だからこそ無駄な情報は言えません」

小夜は顔を赤くした。日明はそれに気づいたのか、目を伏せた。

「あなたは賢いけれども慎重であることも知っています」

そこまで言って日明は顔を背けた。

「馬鹿にしているのね」

「そんなことはありません」

小夜は日明の手に触れた。温かかった。その手を頬にあてがった。夫の手とは違う繊細な長い指の感触が嫌いではなかった。

「あなたが、きっちりと説明してくれれば準備はします」

日明は目を細めた。

「早く準備をしなさい。あと1時間後にまた迎えに参ります」

小夜は喉の辺りが疼くのを感じた。日明は小夜の頬が紅色に染まっているのに気づいていた。

「あなたの夫は愚かだ」

「なぜです」

「あなたを守れるのは藤本殿だけだ。なのにそれが分かっていないかのように見えます。私には解せません。よほどあなたを信頼しているのでしょうか」

「分かっていて聞いていますか」

小夜は微笑を浮かべた。

「夫は何事も妥協を許しません。全力で考え、こうと決めたら絶対に行動に移します。誰にも相談なんてしないわ。それがどういう意味か分かるかしら。自分しか信じていないのですよ。何かできるとしたら自分しかいない、と考え、そしてそれを信じ切っています。その信念は、国を守るための自分自身への呪詛でもあり、一種の安定剤と言えるものです。家族を守る?そんなことを考えられるようになるのはいつでしょう。そうね、妻の私から言わせれば、彼がこれからも変わることはないでしょう」

 日明は饒舌に皮肉めいたことを吐き出す小夜が、いつにもまして頼りなげな花のように見えた。藤本の意志の強い眼差しを思い出した。なのに、どこか強がりの子供のように見えてしまう理由が分かった気がした。日明は小さく頷いた。

「罪深い」

「今、なんて?」

日明は小夜の手をそっと離した。小夜は少し傷ついたように顔を強張らせた。

「あなたは自分が思っているより、ずっとずっと賢い。そして強い」

日明は小夜の足元に跪いた。

「だからここから出てください。じきに分かります」

小夜は口元を抑えた。「それはどういうこと」

「お願いです、それだけは言えないのです。すぐに準備をしてください」

「分かったわ。持って行くものなど、この家にはありません。今すぐ私を連れ出してください」

小夜は日明の手を握り、立たせた。

          *

 フロアには1980年代に大和で流行したというオールドシティポップが大音量で鳴り響いていた。ミニスカートに高いヒールの靴を履いた魅力的な女たちは、腰をくねらせ音楽に合わせて踊っていた。ジーパンにラフな格好の男たちは彼女たちに体を密着させて肩を揺らしている。三半規管が狂いそうな刺激的な音に包まれ、くるくると回るミラーボールが色とりどりの破片を飛ばす。椅子に座ってぼんやりとジントニックを口に運ぶ田積の横顔を虹色に染めた。

 ショートパンツに胸元の開いたレモン色のカットソー姿のさくらは、そんな田積の肩にしなだれかかり、フロアで上機嫌に踊る女たちを楽しそうに見ていた。キャップを被った佐藤は先程からショートヘアーのボーイッシュな女の子に狙いを定めて声をかけているが、良い収穫はないようだ。

「ねえ、この音楽好き?」

「嫌いじゃない。聞いたことないかんじ」

「私も」 

 さくらがトイレに席を立つと、褐色の肌の移民の女が田積の横に体を滑り込ませ、グラスをかちりと鳴らした。瞼の閉じかけた目を遣ると、グラマラスで健康的な匂いのする20代前半くらいの女だった。

「ハロー、ここ初めて?」

「何回か」

「綺麗な瞳ね。あなたみたいな一重の瞳、とてもチャーミングだわ」

「ありがと」

「ねえ」

女は真っ直ぐな黒い長い髪をかきあげて、キャミソールから出たブラジャーの紐を直した。

「一緒にいた子は彼女なの?」

「彼女ってなに?」

女は一瞬馬鹿にされたのか分からずに体を離したが、田積の表情を見て顔を覗き込んだ。

「なにって、そうねえ、一緒にずっといるの?好きな子?」

田積は首を傾げた。「一緒にはいるな。好きか。うん、好きだね」

女は吹き出した。

「あなた、とっても変わってるね。どう、これ」

女は赤いショルダーバッグからカプセルを一つ取り出し、側にあった紙ナプキンに乗せた。

「魔法がかかったみたいに幸せな気分になれるよ」

「なにこれ」

女は田積の頬にキスをすると甘い声で囁いた。

「超、いい気分になれるって」

そう言って薬を自分の唇で挟み、田積の顔を掴むと、口の中へと押し込んだ。

奇妙な味が喉に広がって、じんわりと温かい刺激が起きた。田積は吐き出すつもりだったが、その固体はすぐに口内で溶けて胃袋へと落ちていくのを感じた。

「good evening」

女はあと2、3粒のカプセルを田積の手の平に押しつけると、ひらひらと手を振って行ってしまった。さくらが帰ってきても反応もできず、田積はぐるぐる回る視界に耐えきれずに机に突っ伏した。

「田積、飲み過ぎだよ。少し休んでて」

さくらは笑ってダンスフロアに行ってしまった。充血しきった目をさくらの後ろ姿に向けた。形の良いヒップに長い脚が青白く光っている。その周りだけが瞬間移動しているように100倍の早さで回転していた。

 さくらの家で過ごした日々が走馬燈のように現れた。石鹸の匂いがする清潔なマンション。堺にある唯一のテレビ局が制作している番組を流す大きなテレビと大理石の机、緑色のカウチ以外はこれといった家具のない狭い部屋。さくらが作るハンバーグを食べて、その後は必ずテレビを見てけらけら笑う彼女の隣で足を投げ出し、窓の外のコナラの葉が揺れるのを眺めていた。

 もう一つの部屋には一人で眠るには大きいベッドがあって、そこで毎夜さくらの腕に包まれながら眠った。姉の腕に抱かれる時とは違って、心臓がざわざわするような落ち着かない気持ちになった。さくらは自分の体のすべてを田積に触れさせた。どこも甘酸っぱい心地よい匂いがして、さくらの小さな顔に唇をつけて眠るのが幸せだった。田積は自分の体の仕組みがよく分からないことがあったが、さくらはすべてを知っているようで、うまく誘導してくれた。

 さくらは、ある夜、田積のことを愛らしい猫を見るように目を細め、ふと呟いた。

「ずっと探してた」

田積は不思議に思って、問いかけた。

「何を、探してたの」

「こんなところに、いたのね」

さくらはオレンジ色の照明に潤んだ瞳を向けて、微笑んだ。そう囁いた後、もう何も言わずに田積を抱き締めた。田積はさくらの胸に顔を埋めた。何かがじんわりと生まれるのが分かった。それが何かは分からなかった。次に今までに感じたことのない深い睡魔に襲われた。

「おい、少年」

 田積は重い頭をもたげ、声のする方へと目を向けた。視界は徐々に正常な位置へと収まっていった。乱れたパズルのピースが時間をかけてきっちりと元に戻ると、現れたのは見たことのある彫りの深い移民の男だった。一瞬だった。ディスコフロアの背後から黄色い化け物がなだれ込む映像がスクリーンに映し出された。体を揺らす客の姿も嬌声もシティポップの鳴り響くフロアもすべてを飲み込んだ。田積は声にならない悲鳴をあげた。ペドロの後ろに横たわっていたのは、際限なく続く黄色い河だった。

「田積、ここで何してるんだ」

田積は目を見開いたまま、ペドロのがっしりとした肉付きのよい体を見つめていた。とろけた温かい塊が瞬時に凍りついた。心臓がどくどくと脈打ち、激しい動悸に鈍い痛みが走った。

「お姉さんたちはどうした、君は何をしている、あの女性は誰だ」

黄色い河が、ペドロの背後で何重にもなって波を肥大させ、すべてを飲み込もうとしていた。

「やめてくれ…」

「いや、何をしているんだと聞いているんだよ。大丈夫か、目つきがおかしいぞ」

田積は床一面に吐瀉物をぶちまけた。胃が痙攣しているかのように収縮が収まらなかった。

ペドロは慌てて田積に駆け寄り、背中をさすった。

「酒なんて飲んだことないだろう、何やってるんだ」

袋を差し出した。

「早くお姉さんたちに追いつかないと、君は置いてきぼりになってるぞ。もう街を出たみたいなんだ」

田積はもう一度吐いた。黄色い河に囲まれていくのが分かった。白い濁った泡が体中を浸食していく。叫びたかった。だが、どんなに力を入れても大きな声が出せなかった。かろうじて掠れた声で答えた。

「僕は、もう関係ない」

目の前の男は目を丸くして田積を見つめ、すぐに事態をのみこんだのか、元々すべてを知っていたのか険しい顔つきに変わった。

「あの女と暮らしてるのか。どうしてそんなことになっているんだ」

「お願いだ、もう放っといてくれ」

ペドロは唇を真一文字に結んだ。

「君は」一度、言い淀んだ。

その間に田積とペドロの体を泡が包んでいった。ペドロの顔も泡で埋もれていく。田積は息ができなくなっていった。呼吸をしようにも喘ぐばかりで肝心の空気が見つけられない。

「僕は、もう行かない。浅海に、そう言ってくれ」

不思議だった。そう言うと、ペドロは少し瞳を潤ませた。ほんの一時表情が曇るのが分かった。だが、すぐに頬に鋭い痛みが走った。田積はさくらの悲鳴と共に後ろの机まで吹っ飛ばされていた。

 泡が消えていく。あれだけ執拗にまとわりついていた化け物が潮が引くように飛散していく。正常な世界が見える小さな穴がだんだんと広がり、そこに眉のつり上がったさくらの顔が浮かんだ。

「何するのっ!」

田積を殴ったペドロは動じなかった。哀しい目で目の前の少年を見ていた。

「もう、僕には無理だ」

ペドロはゆっくりと首を横に振った。

「お姉さんたちと命をかけて、国を救うんじゃなかったのか」

田積ははっとして顔を上げたが、すぐに目を逸らした。フロアで女の子を漁っていた佐藤が慌てて駆け寄ってきた。

「おい!何するんだ」

「命がけでここまで来たんじゃないのか!君がここでやめるというなら、それじゃあ、お姉さんの思いはどこへ行くんだ!」

田積も怒鳴り声をあげた。

「僕じゃなくてもいい!僕がやらなくたっていいじゃないか!なんで僕なんだ!」

「もうやめてっ!誰か通報してっ」

さくらは田積の頭を抱えた。殴られた右の頬がきりきりと痛んだ。佐藤がペドロに殴りかかろうとした時、田積は悲鳴のような声で叫んだ。

「僕は人を殺したんだ!銃で頭を撃ち抜いたんだ!あの感覚を、あの死にたくなる感覚を忘れられるか!何で僕だけ、なんで僕ばっかりこんなことにならなきゃいけないんだ!僕はこんなことをするために生まれてきたわけじゃない!」

ペドロはさくらに抱かれた田積の胸ぐらを掴んで引き寄せた。佐藤がペドロの腕を掴んだが、びくともしない。フロア中の客も手出しせずに事の成り行きを見守っているだけだった。

「だから、今、探しに行くんだろう」

ペドロの目に青い炎が宿るのが分かった。

「お前さんが何のために生まれてきたのか、見つけるためにここまで来たんじゃなかったのか」

田積の瞳から涙が溢れた。至近距離にあるペドロの顔から汗が吹き出していた。高い鼻梁と青い目が田積のすべてを突き刺すようだった。佐藤が何かを喚いたが、何も聞こえなくなっていた。

「意志を持て」

田積は歯を食いしばったが、涙は止まらなかった。黄色い河がペドロの背景の遠くへと消えていく。青い炎が退けているようだった。

「僕は」

「意志を持て。君はどうしたい。この国をどうしたいんだ」

 100年前、大和を囲む青い海はこんなにも綺麗なブルーだったのだろうか。田積はペドロの瞳を見て思った。怨念も苦悶もすべてを消し去る、どんな邪悪なものにも負けぬ崇高で気高き海だったのだろうか。

「自分が何のために生まれて、誰のために生きていけるのか。自分自身で答えを見つけるんじゃないのか」

 佐藤が渾身の力を込めてペドロの手を振り払った。

「自分のためだけに生きる人生ほど、空しいものはない」

 ペドロはふっと力が抜けたようだった。佐藤が殴りかかったが、ペドロは事も無げに身を交わした。バランスを崩した佐藤がフロアに転げると、ポケットに手を突っ込んだまま早足でクラブから出て行った。

 田積は崩れるように床に倒れた。手の平で顔を覆った。真っ暗な視界が再び急スピードで回り始めた。

            *

 サイクロプスが壇上に立った瞬間から張りつめた空気が流れた。ラモスは内閣総理大臣席から、この小柄な男を複雑な表情で見ていた。

 今年度予算の質問を終えると、男は突然切り出した。「ここで葵党に伺いたい」

15議席しか持たない弱小政党である葵党員は一斉にサイクロプスに緊張の表情を向けた。居眠りをしていた一人の議員が隣の議員に肘鉄をくらい、慌てて椅子に座り直した。

「とある情報筋から、富士の樹海に何らかの施設が秘密裡に存在しているという情報を得ました。何でも」

サイクロプスはぐるりと議場を見回し、オーバーに仰け反りながら2000人の議員に向かって声を張り上げた。

「看過できぬ兵器を製造しているとのことで?いやはや、本当か、と私も最初は半信半疑でしたが。こちらで調べさせてもらいました。製造者は、私たち移民ではなく、大和人という確かな情報も得ました。これが真実だとすれば、国の根底を揺るがす、大問題ですよ」

少しの静寂を経て、怒声がわき起こった。議員たちは立ち上がったり、声を張り上げたりしてラモスの総理大臣席まで蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれた。

 総理大臣は頬杖をつき、この単刀直入すぎる男の強烈な質疑に眉を顰めた。

「葵党はこの議場で唯一の大和人による党だ。何か事情をご存知ならば、責任と誠意をもって、真実を話していただきたい。国の今後に関わることですぞ」

高らかに警告を発したサイクロプスの声に共鳴するように、議員たちはあちこちから意見を叫んだ。

「首相、これは大変なことになりました」

後ろの席に座る防衛大臣が小声で耳打ちした。

「事をまず鎮めるのが先だ」

野党である葵党の議員たちもこの思ってもみなかった爆弾に仰天した面持ちで、だれが答弁に立つのか必死に相談し合っていた。ラモスは挙手をし、サイクロプスを退けると壇上に上がった。

「みなさん、少し冷静になってもらえぬか」

ラモスの威厳に満ちた声に騒然となった議場が静まりかえった。

「いかにも、サイクロプス議員が開示した軍の施設とやら。まだ真偽も何も分かったものではない。まず、どこでそのような情報を得て、その情報をもたらした者の言うことは正しいのだろうか?それさえも今は分からない状況だ。それでここの場で葵党を追及しようにも、あまりにも材料がない。サイクロプス議員の情報はこちらで精査させてもらうが、今すぐここで議論をというには早急すぎる。むしろ、この場でいきなりその真偽不明の話題を持ち出したこと自体も、私は理解に苦しむ」

サイクロプスは何か言い掛けたが、ラモスの鋭い視線に言葉を飲み込んだ。

「もしかしたら、移民と大和人との間に亀裂を生もうとしている者の画策かもしれない。この大和という国は、今、最大の危機に瀕している。それを分かっての偽の情報かもしれない。とにかく落ち着いてほしい。責任をもってこちらで調査をして結果を必ず報告する。それまで、憶測だけで発言しないようにしてほしい」

一人の移民の議員が立ち上がった。

「そんな悠長なことを言っていたら、その軍事施設からミサイルでも発射されたら手遅れですぞ!」

与党のハルモニア党の別の議員は机を叩いて立ち上がった。

「首相の言葉はもっともだ。まずは調査して真を見極めるべきだ。感情的に騒ぎ立てても事を大きくするだけだ」

議長がマイクで発言を窘めても、次から次へと意見が噴出した。いつもは滅多に表情を崩さないラモスもしきりに脂汗を拭うのがテレビに映し出された。

 ペドロは堺の街頭にある巨大家電店の一角でその様子を見守っていた。何人かの移民がもはや高級品となってしまったテレビの前で立ち止まり、事の成り行きを驚いた様子で見ていたが、すぐにその場を去っていった。

「えらいことになったぞ」

富士の樹海の麓に大和軍の兵器開発施設があるのはラモスも勿論知ってはいた。だが決定的証拠は掴めず、経過を注視していた段階だ。サイクロプスというあの若手議員はいつか何らかの爆弾を落とすと思ってはいたが、自分が不在の議場でこんなことが起きるなんて思ってもみなかった。ラモスの珍しく動揺した横顔に胸が締め付けられる思いだった。

 ペドロはたばこに火を点けて空を仰いだ。

双子の姉はもはやこの町にはいない。片割れの少年は、この町に留まることを選択するかもしれない。

 石の行方を追うか、ラモスの元でこの混乱した中枢機関で事態収集に動くか、途方に暮れた。

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