【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン18話

(18)玉葱畑

 カルロスは黒い傘で埋め尽くされた広場のあちこちに炎を見つけた。群衆の怒りは留まるところがない。ジョシュ・ラモス首相の容態は安定していたが、相変わらず意識は戻っていなかった。カルロスは葉巻に火をつけて主のいない席に置き去りになった書類の束に目を落とした。

 治安維持局に当てた書簡、防衛省への指示系統をまとめた資料、記者会見の年月日の入った古い資料、どれもこれといったものは一つもない。カルロスは前髪をかきあげると、鬱陶しそうに首を左右に振った。ラモスが倒れてからというものの、首相代行として表に出る生活を送っているが、慣れない仕事に肩こりはひどくなる一方だった。部屋の外に神経を向けると、誰の足音も近くにはないようだ。

 カルロスは首相が愛用している桐製のデスクの一番上の引き出しを開けた。煙草とライター、携帯用灰皿が雑然と入れられている。もう一度周囲に目を配った後、今度はその下の引き出しを見た。カルロスは眉を顰めた。茶封筒に入った手紙が輪ゴムでまとめられていた。

 カルロスは外に人の気配を感じ取ると、手紙の束を胸ポケットにしまい、すぐに部屋から出た。

「やあ、疲れてないかい、男前」

シャンデリアが照らす廊下で官房長官のシベルに呼び止められた。カルロスは足を止め、収まらない汗をハンカチで拭った。振り返ると穏やかな笑みを浮かべた男がこちらへ向かって歩いてくるところだった。議員の駆け出し時代は、カルロスの原稿にも協力してくれた熊のような風貌の気の良い男だった。おっとりした性格で冗談好きのこの官房長官に、カルロスはおどけて見せた。

「陰の立役者のお陰でここまで来られたわけさ。僕の男前だけじゃあ国民は演説の内容を分かってくれない」

「まあ、それはそうさ。みんながみんな、冷静さを失っている。デモ隊以外、誰も外へ出られない状況だしな」

カルロスの陰のある表情に気づいたシベルは、上背のある男の肩を叩いた。

「そんな顔しなさんな。首相の代わりに開戦の宣言をするのはお前さんなんだ。ここまで粘って耐えたんだ。納得できる未来を作るしかないんだよ」

埃臭い廊下には、赤い年季の入った絨毯が敷かれていた。長い赤い河のような敷物の上でカルロスは自身の体が少し浮いているような感覚に居心地の悪さを感じた。

「首相のいない今、その判断は最適なのだろうか」

「おお、今更何を言うんだい。このままじゃ収集はつかない。報復というと気分が悪いのは分かるさ。報復じゃなく、事態の収集だ。俺らがすべきことは、移民を何百人も殺した奴らへの処分だ。分かるか、これは人が人を殺した時に適用される殺人罪に対して刑を執行するのと同じだ。すべきことをするだけだ」

カルロスはシベルの瞳に攻撃的な色が点ったことを見逃さなかった。

「お前さんも変わったな。まるで戦争になるのを厭わないような言いぶりだ」

「何を言っている。戦争は、もはや避けられないだろう。いや、むしろ戦争はもう始まっているんだ。あのミサイルが着弾し、ジョシュ・ラモスが撃たれた瞬間にな」

カルロスは顔を上げた。

「今、何て言った」

「ん?ジョシュ・ラモスが撃たれた瞬間さ」

こめかみから熱い汗が現れると、一気に頬へと滑りきって絨毯へと落ちていった。

「おい、どこへ行くんだ」

突然踵を返して、あらぬ方向へ早足で歩き出したカルロスに、シベルは声を掛けたが、もはや何も聞こえないようだった。シャンデリアのぼんやりとしたオレンジの灯りがカルロスの黒い髪に光を落としていた。

             *

「背中の地図は、この洞窟を指していないわ」

拳銃を向けた浅海の視線が鋭く馨の瞳を突いた。「どういうことだ」

「あなたは何かを隠しているわね」

馨は両腕を翼を広げるように大きく開いた。均整の取れた体が青白い光に照らされてアマゾンの奥地に住む蝶のようだった。浅黒い肌に幾つもの汗の粒が互いを追いかけるように伝っていった。目を瞑り、何かを思い描くように永遠と続く洞窟の天井を見上げた。大分先にぽっかりと開いた穴から満天の星空が宝石のように闇にしがみついていた。

「撃ちたければ撃てばいい」

「なぜ」

馨は目を見開いた。浅海の枯れ枝のような体を見下ろして呟いた。

「君の背中は何を指しているんだ」

「河を浄化する石のありかよ。ここにはその石はない。あなたを試したわ」

「試すなら試せばよいさ。ただ、ここにある石は海をさらに汚染するだけの代物ということに間違いない」

「あなたは何かを隠してる。私を本当に殺したかっただけなの?」

「何も知らないさ、俺たちは何も知らない!」

馨はそう叫ぶと、浅海の握る銃を蹴り飛ばした。乾いた音と共に宝石の中へと吸い込まれるように消えていった。

「ここの石は、表面の粉末に触ることでさえ有害な危険な石だ」

浅海は声を震わせた。「あなたたちの体に影響を及ぼすと分かっていて、それを採掘させたのなら私がそいつらを許さないわ」

「もう手遅れなんだ!君は魔法使いじゃないって言っただろう」

「確かに魔法は使えないわ!それでも、この国の未来のために、河を鎮めるのならばそれはあなたたちを、少しでも…少しだけでも救うことにならないのかしら?」

馨は首を横に振った。唇を噛みしめ、浅海が立ち上がろうとするところを銃を構えた。

「何をしたって、もう救えないさ」

「救えないことなんてない!」

「すべてを救う石なんてこの世に存在するはずがないんだよ!何をしたって、この河を浄化する石はもう作れないんだ!」

浅海は低い声で呟いた。

「私は諦めないわ、必ず石はある」

「君が何を言ったって、ここには幻の石なんてないんだ。玉葱畑を馬が走る牧歌的な風景の田舎町だ。こんなちっぽけな島に何を求めてる?何を期待してるんだ。俺たちの世代が死ねばこんな島、忘れられるだけだ。そしたら石の存在そのものがなかったことになる。それだけだ。それでいいだろう。誰も知らない。誰も知らなかった。それでいいじゃないか」

馨のうわずった声が洞窟で何十にも重なり、フォルセットのように高い渦となって浅海の耳を取り巻いた。

「俺たちはもう子孫を残すこともない。ずいぶん前から子供が生まれなくなってる。俺たちは島に閉じこめられ、でたらめな石を発掘させられて、生殖機能まで失ったわけだ。君はそれ以上、何を求めるんだ?ありもしない石を正義感を振りかざして探すのか。俺たちの存在を犠牲にした石を、それでも探すというのか」

黄色い河が洞窟になだれ込む幻がコマ送りのように現れた。立ち尽くす馨の周りだけを避けるように、青白い光を打ち消して乱暴な河が我が者顔で覆い尽くした。浅海を嘲り笑うように洞窟のあちこちで黄色い波を立てては揺れた。

「ジョシュ・ラモスが撃たれたわ」

馨は浅海の唇の動きを見ていた。目の奥に光が少しだけ戻ってきたように思えた。

「あなたはそれでも、この国の未来を見捨てろというの」

「首相が何だっていうんだ。俺たちには関係ない!」

 馨はそう叫ぶと、人の気配がする洞窟の入り口を振り返った。

 藍はおそるおそる歩くリアの肩を抱きながら、ようやく洞窟の終着点へとたどり着いていた。拳銃を少女に向けた兄を見て危うく悲鳴をあげそうになったが、ようやく堪えた。リアが、眩しいほどの鉱物に目を背けながら甲高い悲鳴を上げた。

「浅海に何てことするの!」

駆け寄ろうとするリアをなんとか抑えつけると、藍は唇を歪ませた。

「お兄ちゃん、何をしてるの、こんなところに連れてきて」

「お前はここに来るな、目がやられるぞ」

藍は馨の言葉に被せるように、しっかりとした声を兄にぶつけた。

「そんなことより、早く浅海さんをこの洞窟から出すのよ!」

「リアを連れてお前こそ出るんだ」

「いやよ、お兄ちゃんが浅海さんを出さない限り、私はここにいるわ」

「やめろ、お前が一番影響を受けやすいんだ」

「私だけを特別扱いしないで!」

「分からず屋なのは兄貴と同じか!」

藍は力を振り絞って兄を睨みつけた。

「そうね、お兄ちゃんはすべてを諦めたのね。そして全てを無にするのね」

足下にあった拳銃を拾い上げた。藍は白いプラスチックでできたような肌に皺を寄せた。右手の重みに兄の意志を感じ取ったように鋭い眼光を向けていた。

「私はまだ諦めてないわ。お兄ちゃんが諦めても私は諦めない。すべてをなくそうとしても私たちの過去は消えないのよ。それでも一つの希望だけは残ってる。その希望でさえ失うというなら、それこそ、私たちが生きてきた意味はなんだというの」

リアはじたばたさせていた手足の動きを止めて、藍の顔をじっと見つめた。

「藍」

「私は諦めないわ。この国を救うたった一つの手立てというならば、私は信じる。必ず、石ができることを」

馨は諦めたように銃を下げた。俯いた頬に大量の汗が流れ落ちた。浅海は鉱石の粉がついた両手をふと見た。黒い血潮が透けて見えた。木の枝が這い蹲るように手首から指先まで血管に覆われていた。浅海は自分がまだ生きていることを確認した。心臓が脈打ち、そして両足で立って歩けることが不思議だった。

「石は」

リアは不思議そうに浅海と藍の顔を交互に見比べた。藍は白い睫を伏せて両手を庇い合うように組んだ。

「石は、賭けだったんです。もう一人の兄の、私たちの」

藍は覚悟を決めたように浅海の薄茶色の瞳をまっすぐに見つめた。

「船を出しましょう」

藍はそう伝えると、浅海の背中を指さした。泥まみれのシャツの向こう側に確かに石の場所を示す地図があった。

            *

 町の至る所で炎が上がった。移民たちの怒りは消えなかった。破壊されたジープの残骸があちこちに虫けらのように転がっていた。軍服姿の有本雅英がジープの中から唾を吐くと、治安維持局の兵士がすかさず駆け寄ってきてライフル銃の先で車体を小突いた。

「様々な言語を話し、肌の色が違う民族同士が、この小さな国土にひしめき合い違いを認め合って暮らす。それは不可能なことだと思うか」

店のショーウィンドウを割って押し入る移民の集団に、後部座席の初老の男は薄ら笑いを浮かべて有本に尋ねた。有本はハンドルを握りながら煙草の煙をゆっくりと吐き出した。

「融和を目指してきた方から見れば、今のこの状況は許されないことでしょうね」

「いかにも。信じがたい光景だ。まるで地獄絵図だ。クーデターが起きたあの日より、文字通り血が滲むような交渉を重ねて勝ち取ったはずの平和だったはずだ。当時の大和人にとっては。それをいとも簡単に壊してしまった」

大和人の店主が引きずり出された。鮮やかな煉瓦の上に放り出された無抵抗の人間を鉄パイプで殴り始めた。穏やかな笑みを浮かべた初老の男は、消音散弾銃を構えると、後部座席に座ったままパイプを振り上げた移民の背中を撃ち抜いた。

 どこから飛んできたか分からない銃弾に男は辺りを見回し、そのまま前のめりに倒れた。有本はスピードを上げてその場を通り過ぎた。

「あまり目立つことをしないようにしたほうがいいのでは」

「心配するな。少しばかり野蛮な民を眠らせただけだ」

有本はバックミラーを見ながらハンドルを右に切った。

「あなたが目指したのは、本当に融和なのですか」

「どういう意味だ」

「いいえ、分かっています」

有本は呟いたが、紳士は聞き漏らしたように振る舞った。

「すべてはもう決まっていることなんだ。この国の未来も。民のあり方も。そうして、我々はそれに沿って物事を進めていくだけだ。チェスの駒のように」

有本は自虐的な笑い声を出した。

「こうして、私たちは歴史の波にのみこまれていくわけですね」

「いかにも」

          *

 小夜は胸元にある日明の顔を両手で包むと、自分の尖った鼻先へと持って行った。大胆なことをしていると気づいていたが、顔を赤らめながらも、日明の表情のくみ取れない顔を間近で見たいという欲求は収まらなかった。

 日明の長く黒い髪を生え際からゆっくりとほぐすように指で梳いた。指先がじんじんと熱を持ち、そこから心臓の鼓動が聞こえるようだった。日明の紅色の虹彩が生き物のように膨らんだり小さくなったりころころと大きさを変えては小夜を魅了した。頬骨をなぞり、鼻梁から唇までを親指の腹で滑らせた。

 日明は真剣に人の話に耳を傾ける時はじっと見つめる癖があった。そんな時は決して瞬きをしない。今も小夜の瞳を覗き込んで一瞬たりとも離してはくれなかった。

 小夜は日明の砂漠の砂のような色彩のない唇に触れた。日明は動かなかった。そうして顔を少し傾けて、小夜はこの美しい男の唇に自分の小さな唇を近づけた。昔、王の墓の周りに納められた砂で作った人形のようだった。死ぬ間際に魂を失い、土の下で還らぬ人となった人質のように、日明は小夜を見つめるだけだった。

「私が今ここであなたに口づけをすれば、悲しむ人は、果たして何人いるかしら」

日明は何も答えなかった。

「あなたの亡くなった奥様と子供は悲しむかしら。私の夫は怒り狂うのかしら」

水道の蛇口から一滴の水が滴り落ちる音を聞いた。シンクに固い音の余韻を残した。まだ幼い頃、メイドを雇うのを嫌った母親のあかぎれの手を思い出した。小夜のふっくらとした頬をよく撫でてくれた。

「そうね、それでも、私はどうしても」

唇が小さく震えた。じんわりと手の平に鈍痛が広がった。その先を言うのを躊躇うように身を竦めた。小夜は一度床に視線を落としたが、ゆっくりと日明の何も言わぬ唇に視線を戻した。

「あなたが欲しい。どうしようもなく欲しいわ」

側にあった自分より一回り大きい手を掴み、頬に寄せた。冷たい白い手は、小夜の頬を擦ると、そのまま力なくベッドの脇に置かれた。

 小夜は目を外さない日明の顔と手とを交互に見比べた。そうしてみるみるうちに火照っていく顔を冷やすように自分の手の平を頬につけた。日明は小夜のその手をゆっくりと剥がすと、小夜の唇に梨色の唇を重ねた。すぐに顔を離すと、今度は長い口づけをした。小夜は驚き、目を見開いたが、日明の荒くなっていく息づかいを耳の側で感じてからすぐに瞼を閉じた。

 オレンジ色の夕焼けが瞳の奥に広がった。日明は小夜の歯の間に舌を忍ばせてゆっくりと甘い唾液を吸い上げた。唇に弱い電流が流れて水をかけた砂糖のように溶けて崩れていくようだった。小夜は必死に日明の広い背中にしがみついた。一度唇が離れたとしても、すぐにつがいの鳥を探し出すように再び優しく口を塞いだ。永遠に細かい粒子が落下していく砂時計のように終わりのない時間だった。

 小夜は日明の背中をかき集めるように抱き締めた。

日明は動きを止めて小夜の瞳を覗き込むと、細い首を力強く吸った。

          *

 鬼沢は引き金を引いたと同時に、視界が突然反転したのを認識した。無声映画に引きずり込まれたような静寂の中、いやに甲高い耳鳴りが奥で響いた。サイレンのようだった。だがこの地下に治安維持局が鳴らすけたたましい警告音が聞こえるわけがない。鬼沢は首を傾げ、目の前で美しい顔を見せたまま気絶している響子をじっと見つめた。白い鎖骨が呼吸に合わせて上下に動いていた。

 体が動かない。右手に人の気配を感じる。目玉だけそちらへ向けた。

 鬼沢は目を見開いた。充血した真っ赤な瞳の先に、晴れやかな表情で立つ男が映った。右手に握られた散弾銃が灰色の煙を一筋吐き出していた。自身の顔が半分崩れかけていることを触らずとも分かった。

「なぜ」

鬼沢はシーツにいくつもの肉塊が細かく落ちているのを確認した。はらはらと羽毛のように髪の毛が落下していった。

「任務、ご苦労だった。安らかに眠れ」

鬼沢は右の眼球が崩れ落ちて頬を伝っていく感覚を覚えた。視界が霞んで黒い幕がだんだんに落ちていく。顔半分に重しを置かれているようだったが、ふと軽くなった。同時に、大きな赤黒い肉塊が砂袋を落としたような音を立ててマットへと沈んでいった。

 鬼沢は自分の肉体が一瞬で破壊されて朽ちていくことが恐ろしい程の快感であることを知った。響子が安らかな吐息を立てて鬼沢の身の破滅を少なからず弔っているようだった。被虐的な頼り気ない視線を見るといつもこの手でバラバラに壊してしまいたいような感覚に陥った。だが、その願いは叶わなかった。いつの間にか響子は目を開き、鬼沢の崩れていく顔を見上げていた。

「哀れな男よ。お前のような卑しい者に私を乗っ取れるはずがないだろうが」

 鬼沢は視線を天へ向けた少しの間、夢のような思い出を見た。

 黄色い河が泰然と流れるすぐ横のバラック小屋の外で、いつも母親は小さな背中を丸めて雑草を取ったり空き缶を集めたりしていた。

 その母親の横で、外国語が書かれたラベルを集めては、部屋の隅にあったぼろぼろの箪笥の引き出しにしまった。学校に行けなかった幼少期、その不思議な文字を解読するのが唯一の楽しみだった。母親は生まれつき知的障害があり、耳が聞こえなかった。父親のいない一人息子が黙々と机に向かって模写する様子を、ただ黙って見ているだけだった。

 河原にはいろいろな物が捨てられていく。空き缶のラベルだけでは知識欲を満たすことができなくなっていた。猥雑な本、薬のパッケージ、ジュースの少し入った瓶、びりびりに破れた漫画。河原の落とし物を一日中拾い集めては、夜に文字を解読し、文法を理解することに役立てた。そうして出会ったのが誰かが置き忘れていったのか捨てていったのか、新品に近い化学の実験の本だった。

 その立派な落とし物に息を呑んだ。美しい真っ青な装丁に指紋一つない真っ白なページを繰る度に快感がわき起こった。黄色い河の泡を吸ったのか所々うっすらと黄ばんでいたが、それが河からの贈り物の証に思えて仕方なかった。本にかじりつく息子を、やはり母は無表情で見つめるだけだった。

 夕暮れに、いつものように河原で捜し物をしていると遠くで微かにサイレンの音が聞こえた。治安維持局の鳴らす空襲警報のような音だった。随分下流まで来ていたのに気づいた時に嫌な予感がした。傾き始めた日を背にして、必死に母の過ごすバラック小屋まで走り続けた。途中で胸が苦しくて立ち止まったが、またすぐに走り出した。全身に電流が走り続けているような感覚だった。

 バラック小屋の前までたどり着いた時、火の手は暗闇に包まれた空へと立ち上っていた。龍が駆け上がっていくような真っ黒な煙を見て、周りが制止するのをすり抜けて小屋へと入っていった。

 炎と煙とに全身が焼けそうな熱さに包まれた。枯れ枝のような母親の体が炎の向こう側に俯せで倒れているのが分かった。いつも履いている黒い毛玉だらけのズボンと下着が膝の辺りまで下ろされているのに気づいた。それが何を意味するのかが分からなかった。足下に、あの化学の本が落ちているのに気づいた。もう一度転がった母を見た。腹の辺りから何かが湧き出していた。煙にせき込みながら、目を凝らした。真っ赤な血だまりだった。

 母は、外で漁った残飯を埃で汚れた器に盛りつけて机に置く時も、空き缶を拾い集めて少ない硬貨に変えてきた時も、いつも蟻の腹のように真っ黒な瞳を一人息子に向けるだけだった。木造の小屋が炎で裂け、ついに天井の星が見えようとした時、もう一つの事実に気づいた。そういえば、生まれてから7才になる年まで、声を発したことがなかった。

 足下にあった元素記号の並ぶ本を掴んで、一目散に光の方へ飛び出した。外は夜なのに天井からの光を反射したかのように真っ白だった。鬼沢は空を見上げた。何も見えなかったが、眩しい光だけが一直線に虹彩へと飛び込んできた。

 鬼沢はにっこりと笑うと、魂を失った藁人形のように崩れた。

                    *

 窓の外で葉を落とした桜の木々が風に揺さぶられていた。もうすぐ肌を刺すような寒風が吹き荒れる冬がやってくる。春、夏、秋、冬と大和の四季は失われることなく、規則正しく訪れた。ジョシュ・ラモスは仕事机に頬杖をついて、ぼんやりと憂いのある彫刻のような顔を外へと向けていた。カルロスに気づくとすぐにはっきりとしない表情を打ち消してエメラルドの鉱石のような瞳に炎を点してこちらを伺うように顎を上げた。つい数日前まで、ラモスはどことなく不審そうな目で、決してお前を腹の底から信頼することはないといった風にカルロスを眺めていた。とんまのペドロとは違って、カルロスのことを好いてはいないようだった。

 カルロスは目を覚まさない首相の横顔を腕組みをしたまま見つめ、ペドロが姿を消してからの日々を思い出していた。鼻孔にのびるチューブから酸素を吸い込むことで一国の指導者は確かに生きていた。浅黄色の病院着を着せられて浅黒い肌の所々に茶色い痣が浮かび上がっていた。形の良い両手の爪だけが桃色の健康的な色のまま貼り付いていた。

 カルロスは前髪をかきあげ、深いため息をついた。両肘を膝の上に立てて十分に眠れていない重たい頭を抱えた。ふと人の気配がして顔を上げると、黒い軍服姿の男がカルロスの鼻先にナイフの刃を向けていた。声を上げることもなく、しばらくの間対峙した。目の前の男に見覚えがあった。真っ黒な髪にあどけなさの残る整った顔の大和人だった。大和軍の軍服なのだろうか、襟元に菊の紋章の刺繍が施されていた。打ちのめされた目でこちらをただぼんやりと見ていた。首相があの正体不明の科学者に会いに行った時、小屋の前の同胞を撃った男だった。

「ここで何かしてみろ。今度こそお前たちは滅びる運命を辿るぞ」

藤本はふと唇の端を緩めた。

「そんな脅し文句を口にするだけか、防衛相。緊急事態宣言はいつ出すんだ」

「そんなことを聞きにきたのか。病院にまで乗り込んで。外に警備の者がいる。すぐに呼んでもいいんだぞ」

カルロスの早口の英語に目の前の男は微笑んだ。

「お前は、誰だ」

「俺は軍人だ。大和人として、平和だったこの国を守り続けるために軍隊に入った。俺は阿呆のように棒立ちのまま平和だけを願うことはしない。この大和を破壊する者はすべてこの世から排除する。国を守るためなら何でもする、大和を守るのなら」

カルロスは一度天を仰ぐと、声を出して笑った。藤本を睨みつけるように見上げた。

「国を守るのはお前じゃない。間違えた正義を振りかざすな。思い上がるのはやめろ。姑息な手を使って今までの平和を破壊したのはお前らだ。戦争を始めようとしているのは、紛れもなくそちらだろう。汚い手で移民を何百人と虐殺してな」

「あれは気狂いの男の仕業だ」

「黙れ!首相に何の用がある」

カルロスは勢いよく立ち上がると、藤本の握るナイフをものともせずに唾を吐きかけた。日焼けした肌の上を水滴がするすると滑っていった。

「大臣というものは目の前に起きていることをそのまま何の疑いもなく受け入れる馬鹿なのか。疑わしきものを調べる気概というものもない」

藤本はナイフを下ろして、カルロスの瞳をまっすぐに覗いた。少しの間、カルロスは不快そうに荒い息を吐いていたが、しばらくして尋ねた。

「何をだ」

「とぼけるな」

藤本は粘着質な唾を袖口で拭った。カルロスは藤本の胸ぐらを掴んだ。警備員の足音が近づいてきている。

「お前が何か知っているとは思えない。遊び半分でここまで来たなら分かっているな。鉛の弾を撃ち込んで土の下に埋めてもいいんだぞ。お前がここに来たことなんて簡単に抹消できる。私は今虫の居所が悪いんだ。考えてみろ。自分と同じ立場の人間が、罪のない人々が何百と苦しみながら死んでいったんだ。お前の仲間の手でな」

カルロスの怒りに満ちた声に藤本は涼しい顔で被せた。

「俺は俺のやり方で肩をつける。必ず、つけてやる。だが、俺だって物事に順序をつけているつもりだ。そちらは少しは利口だと思っていたが、そうではないようだな。何も気づかないのならそれでいい」

カルロスは一息ついて一段と低い声で呟いた。

「何を言う。まっさらな紙の上に一点の墨汁の染みを見つけようとも、それをお前に言う必要はないということだ」

藤本は眉を少しだけ上げて、それから防衛相の鋭い視線に怯むことなく自身の唇を舐めた。

「気づいているのか」

ばたばたと慌ただしく護衛の兵士が部屋に飛び込んできた。藤本はジョシュ・ラモスの病室を横切ると、窓ガラスの向こうへと身を投じた。

 カルロスが窓から外を見下ろした時には、その姿は忽然と消えていた。

「追え!不審者だ!」

兵士が再び部屋を飛び出していった後、カルロスはラモスの枕元に近づいた。ICUは数日前に出たが、予断の許さぬ状況に変わりはない。ふと白い掛け布団に不思議な光を感じた。カルロスは恐る恐るラモスの眠るベッドに手を伸ばした。不意に後頭部に激しい衝撃を受けた。自身の体が平衡を失って崩れるのが分かった。

        *

 ジェットエンジンのついた長船は馨の操縦に合わせて月の浮かぶ藍色の空の下、黄色い河の荒い波に大いに揺さぶられながら南東へと進んでいた。藍はリアを胸に抱き、淡い陰を見せる遠くの島へと目を遣った。浅海はずきずきと疼く胸の痛みを感じながら、間近に見る底の全く見えない臭気の激しい河を見据えていた。藍は不意に口を開いた。

「美しい島です。大和の歴史書に津名のことが描かれているのですよ。津名の南東に浮かぶ離れ小島を会島ともその頃から呼んでいたようです。その記述は詳細なもので、神の庭と称され、絵島の小さくとも風靡な佇まいを的確に捉えています。今でもどこかもの寂しい絵島には、哀しい歴史があります。戦乱の世、ある武将が貿易の拠点となる港の整備のために、その近くの会島に防風林を植えたそうです。けれどもなかなか風は収まらず、港に船が出入りできない日が続いた。業を煮やした武将は、旅人を集めて人柱として海に沈めることで、神頼みをすることにしたのです」

リアは薄暗い灰色に象られた島の先に松の尖った葉が揺れているのに気づいた。その奇妙な腰の折れ曲がったような老木が海に浮かぶ化け物のように見えた。藍の腹にもぐり込むように再び頭を埋めた。

「けれども旅人たちの家族が悲しむ姿を見て、武将が可愛がっていた付き人の青年が、自分1人が人柱になると進言したのです」

「魁皇丸の伝説か」

馨が藍の昔話に口を挟んだ。妹は笑顔で頷いた。

「そして魁皇丸は海の奥底で可愛がってくれた主君を想い、息絶えたのです。それから港に吹き荒れていた暴風は和らぎ、絵島に植えられた防風林が役目を果たしたそうです」

「そのお兄さんは苦しくなかったのかしら。だって息ができなかったんでしょう。水の中で死ぬなんてきっとつらかったでしょうね」

藍の腹の底からくぐもったリアの悲しそうな声が聞こえてきた。大きな手の平が巻き髪を愛おしそうに撫でた。

「そうね。とっても苦しかったでしょう。それでも自分以外の命が救われるなら、と海へ沈んでいったのよ」

「美化された人柱の話だ。果たして、魁皇丸は暗く冷たい海を間近に見た時に後悔しなかったのだろうか。息のできない世界に放り込まれることを」

そう呟いた馨の横顔をすり抜けるように黄色い花があちこちに散らばっていった。船の速さに追いつくように闇の中を泡が舞った。段々と闇は深くなり、馨の骨ばった長い指が青白く発光し始めた。馨は泡を避けるように目を細め、向かいの座席に腰掛けた浅海の方に視線を遣った。浅海は馨を見返した。飛び交う泡で視界が遮られても、しばらくの間見つめ合った。

「絵島には、今でも魁皇丸と思しき亡霊が、時折現れては美しい月を眺めているという言い伝えもあります。甲冑を身につけた色の白い、どこか憂いのある青年だそうです」

浅海は馨の顔を見つめながら、「哀しみの念なのか、それとも主人の役に立てたという安堵の念なのか。どちらなのでしょうね」と呟いた。

馨ははっきりと答えた。

「怒りだろう」

 浅海は馨の眉間に皺を寄せた表情に目を細めたが、視線を外さなかった。攻撃的な瞳が、浅海の顔を見ているうちに徐々に濡れそぼり、左右に揺れると、静かに火は消えていった。

「君には分からないかもしれない。どうして石に振り回されなければいけないのか。なぜ普通の大和人として生まれなかったのか」

「私の弟が同じことを言ったわ。弟は石を憎んでた。まだ子供の自分たちが命を賭けて、つらい旅をしてまで。そうして弟は最終的に石を探す使命を背負わないことを選んだ。私もそれでいいと思った。運命とか使命とか、受け入れられる者だけが受け入れればいい。自分を押し殺して、破壊してまで背負うものじゃない。でもあなたたちはその運命を捨てることができないのも分かってる」

浅海は馨の光を放つ手の隣で、全身がじんわりと青白い炎に包まれている藍の体に気づいて目を見張った。

「あなた」

「私は採掘の手伝いをしていました。人一倍、有害物質を取り込んでしまう体質だったようです」

馨は不意に黄色い河に向かって力の限り叫んだ。リアが驚いて藍の腹から顔を引っ張り出した。叫びは何度も何度も繰り返された。何百メートルもの先の波間にまで届くようだった。浅海は叫び続ける男の横顔を見つめた。そうして浅海の目の前で、草原を疾走する白い駿馬に変化していった。2人で夜明けに廃墟となった遊園地を通り抜けた時、楽しそうに蹄の音を響かせていた。走ることが生き甲斐で、この大和で探すのも難しくなった青々とした大地を踏みしめることに喜びを感じているようだった。馨もそうだった。白馬とともに駆け抜ける瞬間、生きる感覚を楽しんでいるようだった。

馨はしばらく叫んだ後、ぼんやりと島のシルエットを間近に認めた。

 船はようやく、兄妹の案内する島へと着岸しようとしていた。浅海はゆっくりと立ち上がった。藍が形容した通り、小ぢんまりとした島だったが、螺旋状に繋がった崖の先に1本の松の老木が佇み、三日月を背に、はっきりとした影を見せていた。

魁皇丸の姿はなかったが、松の下で月を愛でる横顔が浮かび上がってくるようだった。浅海は島の輪郭を何回も確認した。不思議なことに、荒い河はこの島の周囲10メートル先だけ、大人しく鎮まっているようだった。魔法のようだった。確かに津名の島からここまで来る間に段々と波が静けさを取り戻しているような気がしていた。岩の合間に打ち寄せる黄色い水は命を抜かれて打ちひしがれているようだった。

「不思議だろう」

馨は船をロープで杭と結ぶと、浅海に光る手を差し出した。藍とリアは船から降りて歩み出していた。

「ここだけ波が極端に弱くなる」

「まるで、色は違えど昔の海のようね」

「昔の海を知らないだろう」

浅海は馨の手をしっかりと握ると、力強い腕に支えられ、島へと降り立った。

「不思議な地面の模様ね」

「色んな種類の砂岩が積もって長い時を経て風やら波に削られて、牛乳にチョコを溶かしたみたいな模様になったんだよ。俺たちも久々だ。何年ぶりだろう」

踏みしめると、柔らかい感触が足を包み込んだ。

「ここだけ無風に感じる。なぜかしら。不思議な力がある島ね」

リアを抱えた藍が後ろを振り返り、微笑を浮かべた。

「ここは、確かに不思議な島です。風もない、波もない、こんな場所は大和のどこを探してもないでしょう。兄はこの島の魅力にとりつかれて、そうして足繁く通っていました」

浅海は足元の丸い岩石を見て屈み込んだ。河の側ではいかなる植物も育たないと言われていたが、びっしりと岩の側面に苔が生えていた。河に接したこの島は確かに生命が生き延びられる環境のようだ。

 藍の後ろをついて回ると、たった5分で隅々まで歩けてしまうほどの小さな島だった。オレンジと薄茶色の入り交じった複雑な模様がモダンな色調の煉瓦のようだった。崖の上の松を惚けたように見るリアの浅黒い肌が月明かりに照らされて反射していた。浅海は段々と意識に靄がかかっていくような感覚になった。

 藍は不意に崖の袂に開いた小さな洞窟の前で足を止めた。抱えられたリアが後ろに体を揺さぶられ、驚いたように小さな悲鳴を上げた。

「ごめんなさい」

「大丈夫。お姉ちゃん、どうしたの」

「ここが、兄の最後の願いだった。ありとあらゆる人の全ての感情が詰め込まれた、文字通りパンドラの箱さ。ここを開けたら全ての結末が見えてしまう。俺も藍も、兄が島からいなくなってから一度もここに来たことがない。兄がここで何を見たのか誰も知らない。ただ、兄は失意の中で我を見失い、島を捨てた。何も語らなくともそれこそが全てを物語っている」

藍は首を振った。リアをゆっくりと腕の中から下ろした。

「私は入れないわ」

「そうさ、無理して見ることはない。パンドラの箱に希望が残っているなんて物語の世界だ」

藍は屈むと長い腕を巻き付けるようにしてリアの背中に手を回した。

「リア、浅海さん。ごめんなさい。こんなよくわからない話ばかりして。兄は、あの有害な放射性物質を放つ青い石を浄化しようとしたのです」

浅海は静かな波音に耳をすました。

「浄化…?」

「河を浄化するのではなく、石をまず浄化しようとしたのです。何年もここに通い、波の静かなこの洞窟で実験を繰り返しました。食べることも眠ることも忘れ、時にこの島で一晩を過ごして帰ってこないこともありました」

「どうやってそんなことを」

藍はまっすぐに立ち尽くす浅海の細い体を見上げた。その目にはじんわりと涙が浮かんでいた。

「兄は石の成分を調べ上げ、そして一か八かの実験に身を投じていた。たった一人で、いく日もいく日も」

「そんな」

「汚れた石を子供の時から発掘させるだけ発掘させて、私たちの体は壊れていた。その事実を知ってから兄は怒りをどこへぶつけていいのか分からなかった。だからこそ、この実験にかけていた。石が浄化され、そして黄色い河を青く戻す浄化作用が証明できれば、私たちがやってきたことも意味があったということを、私たちが生きた意味があったということを…そして、怒りや失望、すべてをそれこそ浄化できると思ったのでしょう」

大きな綿埃のような雲が月を隠した。藍の白い睫が蝶の羽のように小刻みに震えた。

「それでも…兄の願いは叶わなかったのかもしれません。私たちが石を採掘しなくなり、村が荒れ果てていこうとも、兄は希望を持ち続けた。なのに、神はその希望でさえ打ち砕いたのかもしれない。兄の最後の希望を…神は、私たちの最後の望みの糸を…切ってしまわれたのでしょうか」

リアはゆっくりと後ずさった。顔を歪ませて浅海のショートパンツから剥き出しになっている長い脚に絡みついた。藍は離れていった蝶を慈しむようにリアを抱えていた両手を見つめた。

「もう、帰ろう。浅海、リア。分かっただろう。希望は消えた。この地に人々の希望は存在しなかった。この汚れた石で、この世を救うなんておこがましい話だったんだ。お前たちを無事に津名へ送り届ける。そして島から出て行くんだ。もう後ろを振り返るな。決して、二度とここへ来るな」

馨は歩き出した。巨大な雲に月は隠されたままだった。うっすら見えるマーブルチョコのつるつるとした光沢のある岩石に視線を落とした。

「さっき、希望を捨ててないっていったのは誰」

浅海は顔を覆いしゃがみ込んだ藍の肩に手を置いた。

「あなたじゃないの。私は聞き間違えたのかしら。それとも、あなたは本心じゃなかったのかしら」

馨は浅海に向かって叫んだ。

「俺は兄貴が出て行ってから、一人で見に来たんだ!」

「お兄ちゃん、やめて」

悲痛な声がぐるぐる回りながら崖の洞窟へと反響していった。

「石は海を浄化していなかった…海は黄色いままだった。兄貴もそれを見たんだ。だから島を出て行った。俺たちを置いて」

 リアは、馨がこちらへ向けて再び銃の先を向けたのを見て叫びそうになった。真っ直ぐに差し出された右腕には目も眩む鮮やかな青い炎が燃えさかっていた。馨の腕に纏わりつく炎は、盛んに火の粉を散らして燃え上がっていった。腕を包み込み、肩へと炎は生き物のように這い上がり、そして胸、腹、首、顔、髪へと全身に広がった。青い狐が取り巻き、馨を内側から食らうように発光させ、一つの巨大な炎となった。

 リアは震え上がり、腰を抜かして浅海の足下に縮こまった。火の手は勢いよく天まで舞い上がった。細かい粒子がちりちりと黄色い泡を燃やして、狐火のようになって、そこら中に浮かんだ。

「どうして」

浅海は口ずさむように馨に尋ねた。

「どうして魁皇丸は毎夜、ここで月を見ていたのかしら。いいえ、月を本当に見ていたの?」

リアは目を開けて浅海の低い声に耳を傾けた。いつも浅海は冷静で取り乱すことがなかった。

「魁皇丸なんてただの伝承だ。もしかしたら人々の後悔や懺悔の心が見せていた幻なのかもしれない」

「違うわ。海の守り神となった彼はそんな弱い心の者のために現れたわけではない。自分が何より愛した海を救う者に何かを伝えたかったんじゃないかしら」

「何を言っているんだ」

浅海は洞窟の先を指さした。馨は一瞬たじろいだが、今度はしっかりと照準を定めた。

「あの先に何があるのか、私はこの目で見るまで引き下がらないわ」

「撃つぞ!」

「私は信じるわ。必ず、海は、元に戻る」

藍が磨かれた岩石の床に崩れ落ちた。浅海は銃を構える馨の額を指した。風が吹いた。しばらく凪の状態だった島が揺れるほどの強い風が吹き抜けた。咄嗟に頭上の松の木を見上げた。葉の間から、すっかり雲が消え去った空がしっかりとこちらを見下ろしていた。

「諦めない」

「撃つって言ってるだろう!」

リアが耳を塞いだ。だが、はっとして目を見開くと、突然浅海の脚から飛び出し、洞窟へと走り寄った。馨は脇をすり抜けていった幼い少女を見守るだけだった。浅海が今度は藍に向けて銃を構えたのを視界の端で見た。

「動かないで。あなたたちの肉体をばらばらにしてもいいの」

「やめろ。藍だけはやめろ」

「銃を下ろすのよ。あなたは私を撃てない」

浅海の手の平から汗が伝っていった。肘まで一筋の道のように下っていった頃、微かにリアの悲鳴が聞こえた。

「浅海!浅海!浅海!早く来て!」

浅海の頬に一筋の汗が伝っていった。視界が真っ白に曇っていく。鼻の先に鋭い痛みを感じて赤く染まっていくのが分かった。唇を噛みしめた。喉の奥に熱い唾液が溢れていくのを感じた。

 馨は目を見開き、洞窟を振り返った。炎が弱まっていく。火の粉が泡の粘着力に負けて姿を消していった。青い炎は収まり、馨の右腕だけに残り、ただぼんやりと床を照らすくらいの光となった。

 浅海は銃を捨てた。黄色い臭気の激しい河の底へと沈んでいった。河は銃器をしっかりと飲み込んだ。

 浅海は馨の脇を駆け抜け、リアを追って洞窟へと駆け出した。

 馨は呆然と天を仰いだ。顔を覆った。月の映える漆黒の空だった。

 藍は唇を少しだけ開き、息をゆっくりと吸った。崖の先の老木の枝に、一人の藍色の褐衣姿の魁皇丸らしき少年が座り込んでいるのを確かに見た。魁皇丸はこちらを見てにこりと笑ったきり、再び空に溶けていった。

            *

 サイクロプスは苛立っていた。葵党の議員控え室の前に立ち、大声を張り上げた。その様子をテレビカメラが中継でとらえた。

「おい!議会でだんまりとはどういうことなんだ!もう証拠は上がっているんだ。いい加減にきっちり説明したらどうなんだ!ミサイル発射を事前に知っていたんだろう?見殺しにしたんだ、国民を!」

固く閉ざされた控え室の向こうからは何の反応もなかった。サイクロプスは肩を竦めて、迫ってくるテレビカメラを押しのけた。

「何の反応もないが、どうですか」

レポーターのマイクが突きつけられた。

「どうもこうもないでしょう。黙っていればやり過ごせると思っているなんて、同じ議員として許せないでしょう。何百人と亡くなってるんだ」

「開戦の狼煙は」

サイクロプスは鋭い視線を向けた。

「首相に続いて防衛相まで何者かに襲われて倒れた。これが答えだよ。大和人が我々に突きつけた答えってことだ、わかるだろう」

移民らしき顔立ちのレポーターは畳みかけるように尋ねた。

「戦争は確かに始まる、ということですか」

サイクロプスは記者たちを振り切るように一度足を止めた。

「戦争が起きなければ、この国はどうなるってんだ!」

そう吐き捨てて再び早足で廊下を突き抜けていった。その後ろ姿をテレビカメラが追っていった。


 鍵は開いていた。正確に言えば、鍵がこじ開けられて破壊されていた。ペドロは一つ息を深く吐くと、いつか立ち寄った青に囲まれたバーのカウンターにまるで数ヶ月ぶりにやってきた常連客のように座った。ぼろぼろになったサテンの椅子はいくつかが乱雑に倒れてグラスの破片が薄暗い床できらきらと輝いていた。あの時、大和人が座っていた席の上には緑色の瓶に入っていたはずのワインがぶちまけられてビロードのように艶のある表面を見せていた。

 店の片隅に置いてあったテレビだけはしばらく前からそこにあったようにニュースを映し出していた。サイクロプスのパフォーマンスはいつもの通りだった。国民に問いかけているわけではない。すでに戦争は既定路線であり、時を見計らっている段階だ。ペドロは頬杖をつき、首相も、自分もいない空っぽの議場を見つめた。こう見ると異様な光景だった。純然たる大和人はこの広い議場でたったの数人しか国の行方の発言権をもち得ない。彼らは息を潜め、意見を言えずにこの100年を生きてきた。

「お前さん、無事だったのかい」

入り口に目を遣ると、トレンチコートを羽織ったマスターが目を丸くして立っていた。

「ああ、なんだか酒を飲みにきたくてね。そしたらこの有様だ。けがはなかったかい」

「大丈夫だ。奴ら、もはや大和人も移民も関係ない。暴れたくてやってるだけだ。物を壊して略奪して鬱憤を晴らす。くだらない連中の暴力を目の当たりにしなきゃいけないのは、不快だね」

「手伝おうか」

マスターは首を横に振るとコートを脱ぎ、なぎ倒された椅子を一つ一つ丁寧に起こしてはタオルで隅々まで拭いていった。

「この国はどうなる」

ペドロは唇を湿らせた。マスターはこちらを見ずに淡々と後片付けをしていた。ペドロは目を止めた。頬にうっすらと痣が見えた。

「今度こそ、我々は殺し合いをするのか。お前さんなら知ってるだろう」

「俺だって知りたいところだ」

「ごまかさないでくれ。ただ者じゃないのはわかっていたぞ」

マスターはいたずらっぽく目を細めて笑った。ペドロは下を向いた。床に落ちた破片が光を反射してペドロの緑の瞳を刺した。不意に目頭が熱くなった。ポケットからハンカチを取り出して鼻先を抑えた。目を瞑った。真っ暗になった視界にぼんやりとラモスの姿が浮かんだ。

「戦争にはしないさ」

「ん?なんだって」

「くそッ!」

ペドロは突然目を剥いてテレビに向かって威嚇するように叫んだ。頬を紅潮させたサイクロプスに聞こえるはずがないのは分かっていたが、画面を指さし、力の限り叫んでいた。

「首相との約束は守ってみせるさ!内戦になど誰がさせるものか!このバカ野郎が!適当なこと話しやがって!今に見てろ!任務が済めば、すぐに飛んで帰っておまえらなんてねじ伏せてやる」

マスターは驚いたように肩で息をするペドロを見守っていたが、顔をくしゃくしゃにして笑った。乾いた拍手が店に響いた。

「よく言った、さすが首相補佐官じゃないか」

ペドロは荒い息で破壊された店を見回した。マスターは立ち止まってペドロの乱れた髪を確認すると、タオルで汚れた机をふき取っていった。

「俺の店にはよく大和人が来た。洗練されていて礼儀正しい大人しい民族だ。ここは、生きづらいこの国で唯一彼らがほっとできて、生き生きと暮らしていける街だった。彼らは短い寿命に怯えながら、必死に今を生きていた。まあ、そんなことも感じさせないほど、おもしろいことには目がない若者たちだったし、好奇心旺盛だったがな。俺はあいつらが好きだ。だから堺でずっと店を出していきたい。これから先も、ずっと」

「俺もさ、俺だって」

ペドロは瞳を潤ませながら、マスターが目の前に差し出した右手を握った。

「みんな、気づけば、それぞれが助けられて、助けているのかもしれない。そう思ってる。首相の側にいながら、今更こんな簡単なことに気づいたんだ、馬鹿だろう」

「馬鹿じゃあない。案外、当たり前のことに気づけないのが人間だろう」

「手を取り合うんだ」

マスターが頷いた。

「互いにな」

「そうだ。互いに」

ペドロは両手でマスターのふっくらとした手を強く握った。


 店を出て2階の踊り場の非常階段から風を感じ取った。柔らかく冷たい風だった。武装した市民が治安維持局の兵士と小競り合いをしていた。男たちの叫び声が続いた。発砲音も聞こえた。遠くに目を遣ると、炎が天に立ち上っていた。どこからかガラス窓が割れる音がした。あちこちに血だまりがあった。ペドロは目を細めた。硝煙の臭いが鼻をついた。美しい街はすでに形を失いかけていた。

「ただ平和に生きることが、どうしてこんなに難しいのだろう」

螺旋階段の下にいる少年は、頬杖をついてペドロと同じように群衆を見守っていた。階段を降りてくるペドロに気付き、切れ長の美しい瞳を向けた。

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