【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン25話
(25)浅海
田積の声が聞こえた気がした。佐藤と共に列車に乗り込んださくらは、窓の下を覗き込み、錆びた漁船が鎖で繋がれたままの小さな港を見つけた。黄色い河が荒々しく打ち付ける荒廃した世界に目を見張った。静寂の中でさくらは耳を澄ました。低く這うような地鳴りの音だった。佐藤は初めて見るそのすさまじい威力と臭気とを発する黄色い河を呆然と見守っていた。
ひびだらけの木製の床に、誰かの吐き出したチューイングガムが張り付いている。佐藤は、静かに右腕を上げ、遙か遠くにある黄色い波を指さした。
「あれは何だ」
高架橋を通過する列車からは、遠くの河まで見渡せた。何百メートルに膨れ上がった波が生き物のように膨張し、我先にと争いながら表面を滑るように移動していた。まばらにいた移民の乗客たちが、佐藤の声に窓に張り付き、黄色い河を見下ろした。
「なんだ、あれは…」
列車は緩やかなカーブに差し掛かった。その反動で、何人かの乗客がガラスに頭をぶつけた。
「高波だ、尋常じゃない高さだ、これは町に到達するぞ」
佐藤は首をゆっくりと振った。
「そんなレベルじゃない…下手したらいくつも町が消えるぞ」
さくらは顔を顰め、黄色い河の恐ろしく凶暴な姿を見遣った。
「下ろして…」
さくらは佐藤の肩を掴んだ。その必死の形相に佐藤は何も言えないまま、さくらの顔を見つめた。
「下ろして、今すぐ下ろして!河をこの目で…見に行くわ!」
*
藤本は、部屋の真ん中に降り立った妖精のような愛らしい黒髪の少女を見た。薄衣のカーテンをかき分け、バルコニーにゆっくりと右足を下ろした。虹子は柏原の腕から逃れるようにして体を捻り、両手を差し出した。少女は初めは緊張した表情だったが、意を決したように顔を上げると、大きな瞳をさらに一回り大きく開き、眉を下げた。真っ白な前歯を見せてにこりと笑った。白い額には黒い稲妻が走ったような亀裂が生じていた。
「お母様」
虹子は首をゆっくりと振った。熱い涙が溢れた。全てが輪郭をぼやかし、唇から嗚咽が漏れた。藤本は銃を下げた。舞湖と呼ばれた王女は、100年前に撃たれたあの日と全く変わらない姿で母親の前に現れた。両手を差し伸ばしたまま、虹子は膝を折り、ついには崩れ落ちた。力が入らなくなった脚は震えていた。
「お母様、どこにいたの。寂しかったのよ」
舞湖は泣きべそをかくように顔を歪ませ、16歳になった母親の胸元へ躊躇うことなく飛び込んだ。小さな娘を力の限りに抱き締めた。悲鳴のような泣き声が響いた。母親の悲痛な叫びだった。人が声を上げて泣くのを見たのは初めてだった。響子の頬に涙が伝っていくのに気づいた。
虹子の甲高い叫びは、潮風に乗って迫り来る黄色い河へと届くようだった。藤本は2人の先にある高波に向けて呟いた。
「止まれ、止まってくれ…」
バルコニーに姿を現した髪の短い日明は、母と子との姿に哀しい目を向けていた。藤本は足の先から冷たい氷が這い上がってくるのを感じた。
日明は娘の異変に気づいているようだった。藤本は口元を抑えた。舞湖の額にあった亀裂は樹木が根をゆっくりと這わせ、手を延ばすように、段々とそして確実に広がっていった。
「どうだ、藤本。目の前に繰り広げられる母子の確かな愛情というものを。私は彼女たちを蘇らせた。今頃は土の下で骨となり、微生物に分解されて跡形もなく消えていた存在を、こうして再び日の光の下に呼び戻したのだ。分かるか、この圧倒的な神にも劣らぬ力を」
虹子は娘から体を離し、柔らかな頬に触れ、そして額まで人差し指を滑らせたところで動きを止めた。
「黒い培養液の働きは未知だ」
日明は再び跪き、頭を垂れた。
「人によっては、放射性物質さえ通さぬ肉体を持ち、死ぬ以前の記憶を取り戻し、真の人間のように生きる者もいる。そして肉体を過去に遡らせ、傷を癒す者もいる。だが、いずれも黒い血は万能ではない」
藤本は、顔を上げた日明の青白い肌にひび割れたように這う黒い血潮に目を見開いた。
「長くて1年。個人差はあれど黒い血を持つ者の肉体は必ず滅びる。一度死んだ者が、人間のように長い時を生き直すことは許されない」
柏原は真っ黒な血が浮き出たかつての部下の姿に笑みを消した。日明は狼狽する老人の顔を真っ直ぐに見た。黒い筋が縦横に走る顔に、真っ赤な虹彩だけが浮き上がって見えた。
「元帥。あなたの実験は失敗です。黒い血は遠からず滅びる。この培養液を開発したあなたの祖父も自明のこと。知らぬは柏原元帥、あなただけです」
「そんなはずがないっ、永遠の命を持つ者と祖父は言っていたはずだ」
虹子は腕の中でほほえむ王女の顔に黒い根のような亀裂が増殖していくのを食い止めようと、必死に指でさすった。王女は自分の異変に気づかないようだった。
「お母様?」
「舞…湖」
柏原は、呆然と立ち尽くす有本の背中を杖でついた。荒くなる息を抑えるように手の平を胸元にあてた。
「女王に黒い石を出させるんだ。王女を引き渡す代わりに石を取りに行くという約束だったはずだ」
日明は、虹子の足下にある麻袋に近づく有本の手を撃ち、言い放った。
「今すぐ、地下の核兵器の稼働を止めるのです。あなたが大和の君主となる器と理由は、どこにもありません。黒い石は、決してあなたには渡さない。娘を人質に取られ、記憶を奪われ、命がけで石を手に入れた女王のものだ」
娘の顔を浸食する黒い血を拭っても拭っても消えないことに気づいた虹子は叫び声をあげた。
「騙したな…」
舞湖は母の言葉の意味が分からず、丸い目を向けた。
「舞湖」
虹子の薄茶色い瞳の中に、真っ黒になった自分の顔が映し出された。手で触ると、ぽろぽろと粉々になったガラスの欠片のように皮膚が剥がれ落ちていった。
「お母様?これは何?」
「舞湖…」
藤本は人形のようにちょこんと立っていた舞湖がバランスを崩し、虹子の腕に倒れ込むのを見た。先程から何も口をきけなくなっている響子も、目を見開いたままその光景を見守った。王女の黒い血潮はその幼い腕や足にも広がっていた。長い睫が母親の険しい顔を見上げていた。
狼狽する柏原を虹子が睨みつけた。
「娘を返せ…、生きて娘を返す約束だっただろう!」
「私の実験では永遠の命を持つはずだ…。何かの間違いだ、お前たちが私を騙そうとしているのだろう!私は知らん!早く石をよこすんだ!シェルターに、有本、早く…」
長い銃声が響いた。潮騒にかき消されそうになりながら、遠吠えのような音は藤本の耳に残った。
響子の握る銃から長く青白い硝煙が立ち上っていた。柏原の胸に真っ赤な血が吹き出て、そしてしばらく時を置いてから直立したままバルコニーの床に倒れた。有本は尻餅をついた。握っていた散弾銃がからんと乾いた音を残して転がり落ちた。
日明は響子の横顔を見つめた。黒い血は視界にまで侵入し、その隙間からかつての主を覗くようだった。初めて会った日、あの黴臭い狭苦しい部屋で、響子の腰より長い髪を侍女が櫛でとかしていた。何も知らない、ただの父親の言いなりにしかなり得ない空っぽの女だということは一目で分かった。同じ空間にいて、同じ時を過ごしてもその印象が変わることはなかった。
だが今、響子の頬には涙があった。父親に蹂躙されても何の声も挙げられなかった響子とは別人であることを悟った。迷いなく発射した鉛弾は、父親の胸元で脈打つ心臓を貫いていた。
「日明、ご苦労だった」
響子は日明を見下ろすことなく前を見据えたまま声を掛けた。
「藤本の奥方を守り、王女をここまで連れてきてくれて、ありがとう。お前の任務はここで解く。最後まで、命尽きるまで、わずかな時間かもしれない。それでも、お前が思うように、生きたいように生きろ」
「響子様」
日明は響子の横顔を真っ直ぐに見た。
「ありがとうございました」
「草壁日明大系隊少佐、今日から晴れて自由の身だ」
日明は立ち上がり、唇を噛みしめた。視界は黒ずみ、頭は朦朧として激しい痛みが走った。日明は直立すると、響子の横顔に向かって敬礼した。軍服に身を包んだ精錬な顔立ちの男は短い髪をひるがえして部屋へと戻っていく瞬間、藤本と目を合わせた。日明は確かに微笑んだ。生暖かい風が吹き抜けていった。
我に返ると、有本が命を落とす恐怖に縮こまり、必死に響子の銃口の標的から逃れようと身をよじっていた。
「有本、起動装置はどこだ」
藤本は膝をつき、手首を押さえる有本の顔を覗き込んだ。有本は首を振った。かつての正義感に溢れた同期は大きな体を丸めて震えていた。
「もう、終わりだ…」
「何だと」
藤本は有本の胸ぐらを掴んだ。焦点の合わない虚ろな目のまま、小声で囁いた。
「元帥が死んだら自動的にdirty bombが大和のあちこちで起動されるシステムを鬼沢が作っていたんだ。もう、止めることはできない」
藤本は立ち上がった。バルコニーの向こうでは確実に高波が勢力を増し、近づいてきていた。
「どうして、殺した…元帥は新しい国を創る救世主だったはずなのに…」
後ろを振り返ると、父親を撃った響子がぶるぶると震えながら銃口を下ろせずに固まっていた。
「救世主なわけがないだろう」
両腕を広げ、振り下ろした。怒りで目の前が赤く染まっていく。有本は胸ぐらを掴まれ、藤本を怯えた目で見た。
「救世主なんていないんだ!お前も一介の軍人だったというなら、少しは自分の頭で考えろ!一人娘さえ救えなかった男が一国を救えるわけがないだろう!この世に都合の良い神なんているわけがないんだ!」
藤本が有本を離すと、男は転がり落ちるように体を伏せた。背中が震えていた。大きな音がして振り返ると、響子が倒れ込んでいた。藤本は駆け寄って、石のように固まった体を抱き締めた。
「息を吐け。ゆっくりだ。大丈夫だ。お前は正しいことをした。父親に勝ったんだ。息を吸え。また吐くんだ」
嗚咽を漏らしながら、響子は藤本に体を預けた。
「悪魔は死んだ。日の光を浴びて溶かされ、消えたんだ」
響子は意識を失いかけていた。だが人差し指をようやく動かし、バルコニーの先を指した。
虹子は娘を抱え、バルコニーの手すりの上に立っていた。こちらに向いた王女の顔は真っ黒に染まり、ぼろぼろと体の組織が崩れ、虹子の肩に吸い込まれるように落ちていった。水色のワンピースだけが鮮やかな色を変えることなく、潮風に吹かれていた。ぐったりとして動かなくなった我が子を抱え、虹子は岸壁の向こうに広がる黄色い河を見下ろしていた。
「止め…て」
響子が唇を動かし、掠れた声で藤本に伝えた。藤本はゆっくりと響子の体を横たえると、日の光に照らされ黄金色に輝く虹子の髪を見た。ゆっくりと一つ一つ、確かめるように少女に近づいていった。棒のように細い足の狭間から巨大な河が見えた。
「そこから降りろ」
囁くような藤本の声は浅海に届いているかは分からなかった。黄色い花があちこちに飛び交い、藤本の全身に張り付いていった。
「私は、100年前、ここから青い海を見ていた」
虹子は振り返らないまま、しっかりとした口調で藤本に語りかけているようだった。藤本は潮騒の合間に聞こえる美しい声に耳を澄ませた。
「青くて美しい、夕日を浴びてきらきらと輝く金色の波を見て娘は育った。幸せだった。幸せなはずだったのに、私が家族を裏切ったばかりに、娘は殺された」
「どういうことだ」
「私の腹には王との子ではない子供がいた。王の怒りは収まらなかった。汚らわしいと私を責め、お腹の子供を殺そうとした。来る日も来る日も罵声を浴びせられ、殴られ、何度も意識を失った。それでもお腹の子をおろすことはできなかった。だからあの日、柏原の手引きで娘を連れて他国へ逃げる予定だった」
藤本は手を延ばした。王女の柔らかな髪が風に吹かれて綿毛のように次々に飛んでいった。手の平に涙が落ちた。母親に似た薄茶色の虹彩を持つ瞳は藤本の顔をぼんやりと見つめていた。
「だが、その計画は漏れていた。私と柏原の計画に乗じて移民はクーデターを起こした。王を殺した後、私と娘を惨殺した」
虹子の手にはいくつかの鉱石が握られていた。拳から黒い石が透けて見えた。藤本はその幻の石が陽光の光を受けて白く反射しているのを見つめた。
「私が、娘を殺した…、私の愚かな裏切りが、全ての引き金となってしまった…」
虹子は横顔を見せた。光に照らされた少女は泣いていた。娘の黒ずんだ体は力なく、小さな命は再び消えようとしていた。
「じゃあなんで、お前さんの腕の中にいる王女の顔は笑ってるんだ」
藤本は王女の涙が溜まっていく手の平に視線を落とした。真珠のように光り、輝き、澄んだ美しい色だった。
「俺には子供がいない。だから子供を持つとか、親になる、とかはっきり言ってよく分からない。でも、それでも分かることはある。誰のせいとか、この子は考えもしてない。そんなことより、100年の時を経てようやく母親に会えた喜びと安心感しかないだろう。自分を責めるな。何も考えず、誰も責めず、ただ、この子を抱き締めてやるんだ。それが今、母親であるお前さんができることだろう。それに」
藤本は岸壁の500メートル先にまで迫る高い壁のような波を見遣った。
「命をかけて、この子を迎えにきた。それだけで、立派な母親だ」
虹子は目を細めた。涙が光って風に乗って消えていく。青い海に興味を持ったことはなかった。だが、初めて、この黄色い荒れ狂う河が、澄んだ群青の海だった時の光景を見てみたいと思った。藤本は両腕を伸ばし、王女の髪を撫でた。
「もうすぐこの屋敷も黄色い河に飲み込まれる。それでも、最後までこの子の手を離すな。それが、母親の責務だ」
虹子は遠くの空を見ていたが、藤本の力の込もった声に微かに頷いた。長い髪が、海の終わりを示す旗のようにはためいた。少女は目を閉じた。母親の肩に鼻先を埋め、安らかな寝顔を見せた。
静かだった。昼下がりの陽光は何事もないように白いバルコニーを照らし出し、藤本は天を見上げた。河は変わろうとも、暴君と化し、根こそぎ大和に生きる者を消し去ろうとしても、空は今までと変わらず慈悲深い澄んだ水色のまま、藤本たちを見下ろしていた。
仰向けに転がる響子の瞳にも空が映っているようだった。
「なぜ、海の色は変わったのだろう」
響子は呟いた。両手を翳し、その隙間から雲を眺めていた。
「それは俺も今考えていたところだ」
藤本は響子の背中に腕を差し入れ、抱き起こした。響子は藤本の強い眼差しから目を逸らさず、澄んだ瞳を向けた。
「俺たちは神が与えた試練に負けたんだ。だが、負けて、そこで終わりなわけじゃない。一度生まれた意志は消えない。試練に立ち向かい、どう生きていくか、その答えを命をかけて掴もうとしたのならば、その意志は必ずしやこの国に残る。後継の者がその意志を繋ぎ、大和はいつか蘇る」
「そうかも、しれないな」
藤本は響子の小さな頭を引き寄せ、強く抱いた。轟音が迫った。地響きが鳴り、立っていられないほどの揺れが襲い始めた。響子は瞳を閉じた。浅海の手には黒い石が握られていた。人類の希望の石だった。
「石は確かに存在していた。だが、もう手遅れだ。石でさえも、救世主にはなり得なかった」
藤本は響子の手を握り、目を閉じた。河は勢いを増し、切り立った崖を命を得たように這い上がり、浸食していった。虹子は石を日に翳した。太陽の光に照らされた漆黒の石は、乱反射してあちこちに光の屑をまき散らした。軽くなっていく娘を右手で抱き、虹子は真っ黒に染まった手の内にある石を、天に向かって放った。
放射線を描き、宙へ投げ出された石たちは黄色い河へと向かって落ちていった。凛とした鈴の音を聞いた気がした。藤本は再び目を開けた。石は光り輝いた。陽光に照らされ、本来の輝きだけではなく自らが確かに強い光を発して、ゆっくりと落下していくのを見た。花が飛び交い、その源となる臭気の激しい波の触手が、崖を駆け上がり、ついに屋敷の一階へたどり着いてバルコニーの柱にさしかかろうとしていた。
「浅海!」
誰かが、少女を呼ぶ声が聞こえた。藤本は振り返った。部屋の中から人影が走ってくるのが見えた。
「浅海—————」
石は目も眩む閃光を発した。バルコニーへついに到達した波に触れ、青白い光が全ての空間を包んだ。浅海は部屋の中の声の主に目を向けた。背中に記された地図が黄金色に光り輝いた。
背後から黄色い波が襲いかかろうとしていた。浅海は目を細めた。慈しみ、愛おしい者を見るように微笑んだ。藤本はあまりに激しい光に目を閉じた。炎がわき起こり、熱風が全身を焼き尽くす感覚に陥ったが、幸いなことに痛みはなかった。死の淵にいながらも、手の中の響子の温もりは失われなかった。鈴の音が鳴り響き、段々と混濁していく意識の渦へと巻き込まれていった。
*
息を何度吐いても体は軽くなることはなかった。細胞が崩れ落ち、頬を伝い、肩や胸を緩やかに下り、そして地面へと還っていくのを止めることはできなかった。
雑木林を這うようにして進んだ。金木犀の香りだけを頼りに、全身を駆け巡る二度目の死への恐怖を封じ込め、日明は歩き続けた。
この雑木林には見覚えがあった。砂利道の両脇を囲むように生える杉の木は鬱蒼としていて不気味だった。だが、遠い昔、この道を通って帰路につく日明を、娘の貴理子を抱いた桃子が待っていた。任務が長引き、なかなか帰宅できなかった夫を何日かぶりに見つけた妻の顔は桃の蕾が開くようにほころんだ。まだ幼い貴理子は、初めは怯えたように母親の胸元に顔を埋めたが、日明が名前を呼ぶとおずおずとこちらを見た。
目の前が霞み始めた。手を伸ばすと、貴理子はにこりと笑って首を傾げた。指先が頬に触れようとした頃合い、愛娘と妻の姿は霧のように消え去った。
代わりに日明の手を掴んだのは、向日葵のようなオレンジ色の虹彩を持つ髪の長い女だった。
「どうしてここへ…」
「言ったでしょう。私は私の思うように生きます、と」
不思議なことに、この道を日明が通ることをあらかじめ知っていたように目の前に立っていた。小夜の白い細い手首に黒い細胞が溶け出していくのを眺めた。
「あなたは、確かに私を迎えに来ると言ったわ。でも、考えてみて?私が愛する人の帰りをじっと待つことがとんでもなく嫌いということを忘れていたわね?」
小夜の背中では、黒い血潮が浮き出ることなく、愛らしい顔のままの赤ん坊がすやすやと眠っていた。
「だから、こうして迎えにあがりましたよ」
にっこりと微笑んだ。小夜は一瞬顔を歪めると、日明の崩れ落ちる体を抱き締めた。
「お召し物が汚れます…体を、離して」
小夜は赤い虹彩だけが鮮やかに残る日明の耳元で囁いた。
「誰が離すものですか。愛する人の手を離す者が、この世のどこにいるというのですか」
金木犀の香りが日明の体を包み込んだ。果てのない青い空が広がっていた。あの屋敷から見える海の色も全く同じ、穏やかで神々しい青色をしていたのを思い出した。海から大分離れたはずが、耳の奥底で波が打ち寄せては帰っていく心地よい音が鳴り始めた。
「小夜」
形を失っていく手をそっと握り、冷たい頬につけた。小夜は再び囁いた。
「そうやって、あなたに名前を呼ばれるのが好きでした」
落ち窪み、溶け出していく赤い眼球へと小夜の熱っぽい涙が落ちた。日明の体は肉を失い、体温を失って白い骨へと変貌していこうとしていた。小夜はその形を消しつつある体を優しく包み込んだ。日明は唇をゆっくりと動かした。
「小夜、あなたに会えてよかった」
頬を触れる指先がぴたりと止まった。止まり木にいた発条仕掛けの鳥が動きを止め、地面へと吸い込まれ、墜落するように、骨となった日明の手は力なく落ちていった。
小夜は空を見上げた。手の平に黒い液体が満ちていった。そうして滑り落ち、固く温かい土へと吸い込まれていった。小夜は空を見つめたまま、唇を噛みしめた。目を瞑ると、温かい風が感じられた。
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