【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン26話

(26)渦

   ペドロは群衆の中の一人が、指差すのを見た。拍手は鳴り止まず、官邸を包み込んでいた。だが、そこにいるはずの田積の姿がないことに改めて気づかされると、ペドロは下を向いた。

「あれを見ろ!」

 甲高い移民の少年の声だった。立ち並ぶ背の高いビルの隙間から、黄色い河が壁のように立ち塞がり、遠くの町が巨大な触手に襲われているのが見えた。

「何だあれは!」

「逃げろ!」

たちまち悲鳴が上がった。ペドロがバルコニーの端に駆け寄り、背伸びをして遠景を望んだ頃合い、青い閃光が走った。まるで爆弾が炸裂した直後のように、町の全てが色を失い青白い膜に包まれた。ペドロは顔を背けた。広場にいる者はしゃがみ込み、悲鳴を上げて顔を覆った。ペドロは田積の横たわる部屋の奥の廊下まで転がるように向かっていった。床に倒れたジョシュ・ラモスは皆が直視できない眩しい光に顔を向け、エメラルドグリーン色の瞳が真っ白く濁っていた。

 思うように体が動かない。夢の中のようにスローモーションでようやく手足が動いているようだった。  

「田積!」

 転げ落ちた先の絨毯に、田積の姿は忽然と消えていた。

          *

 田積は目を開いた。長い間、水の中で息ができない苦しみから解放され、酸素を無理矢理に吸い込んだ。生ぬるい風が吹き荒んだ。春の花の香りがした。

 プラットフォームに巨大な機械仕掛けの客車が滑り込んできた。カナリーイエローの車体はおびただしい数のスラングで埋め尽くされていた。

「田積」   

 傍らにいつの間にか立っていた少女の声が聞こえた。薄茶色の瞳を細めて浅海は微笑んでいた。長い髪が、列車が作った人工的な風に吹かれて埃っぽいホームの空間をくらげのようにしばらく漂った。

「浅海」

 列車の出発する喧しいベルが響きわたった。まだドアの閉まっていない車両に移民の家族が慌てて乗り込んでいく。小さな女の子の手をひいた母親が、服の裾が挟まらないようにと女の子を抱き寄せた。出発のベルが鳴り止み、幽霊列車は乱雑な音を立てて去っていく。あれだけ人でごった返していたのに、ホームには浅海と田積以外の誰も残ってはいなかった。

「行かないの、石を探しに」

浅海は首を振った。「もう、いいのよ」と一言呟いたきり、また前を向いて眼前に広がる黄色い河を見ていた。

「長い夢を見ていた」

「どんな夢?」

「今さっきまで、浅海を待っていた時にうたた寝をしてしまったのかもしれない。僕は撃たれて、浅海は知らない女の子とどこかへ行ってしまった」

浅海は田積の話に耳を傾けていたが、すぐに前を向いた。

「田積、一つだけ聞きたいの」

田積の長く細い首筋にテントウムシが止まったが、黄色い花がこちらへ飛散してくる気配に、すぐに飛び立っていった。浅海は広がった赤い羽が空を目指すのを見つめた。

「私は次の列車でここから発つわ。あなたは、一緒に来る?それとも」

「石を探しに行くんだろう。もちろん、一緒に行くさ」

そばかすの散った鼻先は自分のものとまるで型を取ったようにそっくりな形をしていた。柔らかく光を通しやすい茶色い髪質も、梨色の薄い唇も姉と違うところを探すのが難しい程だった。

「浅海、どうして黙ってるの」

そう尋ねると、浅海は囁いた。

「私は次の列車に乗って旅へ出るわ。あなたは、ホームを出て階段を降りて、駅から離れなさい」

田積は思わず浅海の腕を強く握った。

「なんで、そんなこと言うんだ」

「あなたのためよ」

「自分勝手だ。浅海はいつもいつも、そうやって大事なことを言わずに僕を子供扱いして。浅海は僕に大切なことを隠すんだ」

動きを止めた浅海が、ゆっくりと田積の横顔に視線を向けた。

「僕の血は黒い」

真っ白な手首に透き通る血潮を見せた。太陽がじりじりと、黒く這い蹲る血の筋を焼いた。

「この記憶も、僕という存在も、浅海自身も偽りだ」

「田積。全て分かっているのなら、ここから出て行くのよ」

 次の列車が喧しい機械音を鳴らしながら滑り込んできた。ホームには誰もいない。車内にも誰一人乗っていない。浅海は田積の手を解くと、8両編成の真ん中のドアに近づいていった。

 今度はけたたましいベルも運転手の英語も聞こえず、静寂に包まれた車両で浅海はこちらを向いて立っていた。麻の白いシャツとショートパンツ姿の少女は、この駅を出発した数ヶ月前より随分と疲れて見えた。田積は足下を見た。黒い無数の手が地面から生え出てがっちりと両足を掴んでいた。

「僕を殺せばよかったじゃないか!」

 浅海は目を見開き、田積の叫び声に微かに唇を開いた。

「あの時、僕を殺しておけば、この国の未来は変わっていたはずだ!浅海も、浅海の大切なものも壊されずにすんだんだ!」

 扉が閉まった。田積は足下にあった煉瓦の欠片を拾い上げた。黒い手が触手のように体に巻き付いていった。渾身の力を込めて、煉瓦を列車の窓に向けて投げた。音を立てて割れるガラスの破片が浅海に降りかかった。浅海は目を瞑ることなく、田積が投げた煉瓦の模様まで見えるくらいに迫っても、動こうとはしなかった。

「卑怯だ!」

絡みつく手を振り切って駆け出した。浅海は田積の言葉を聞き取ったようだった。田積の怒りに歪んだ表情を見た。列車はゆっくりと動き出した。田積は列車に並行するように走った。

「初めから終わりまで、嘘だらけだ!僕を騙して石を探す旅に出たんだ、娘を助けるためだけに僕は利用されたんだ!俺はあんたの弟なんかじゃない!僕なんて、生まれてこなければよかったんじゃないのか?そう思っているんだろう!」

徐々にスピードを上げていく鉄の塊に追いつくことはなく、引き剥がされていった。田積はついにホームの端を転がり、列車は黒煙を吐き出しながら線路の先へと走っていった。田積は傷ついた膝から黒い血が滲むのを見た。

「うそつきめ!大嫌いだ!」

 突然、臭気が絡みついた。黄色い河がホームの階段を駆け上がり、めまぐるしいスピードで駅を飲み込んでいった。田積は自分の体が黄色い泡で埋め尽くされ、ついには波に浚われて宙を浮くのを感じた。


 響子は細かな泡を吐き出した。辺りを見回したが、河に引きずり込まれたことまで理解はしたものの不思議と苦しくはなかった。頭が熱い。双子の記憶の欠片が作り出した幻に惑わされていたようだった。気を失った藤本の手が巻き付いていた。薄暗い群青色の景色がどこまでも無限に続いていた。だが、下を見ると、大きな穴がぽっかりと深海魚のように口を開けて待っていた。上から下へと流れる渦が形成され、その流れに沿って体が吸い込まれていく途中であることを悟った。既に引きずり込まれ、小さくなった父と有本の姿が見えた。 

 目を閉じた。父をこの手で殺した。河の底まで父の体は落下してもう二度と地上へ現れることはないだろう。長い征服が終わった。命を落とすことに怖さを感じなかった。目を瞑ると、再び早送りで誰かの記憶の断片が、まるで活動写真のように再生されていった。カナリヤイエローのあちこちが凹んだ列車、移民でごった返す駅前で微笑むジョシュ・ラモスのポスター、一面砂漠の広がる月明かりに照らされた美しい世界、姉を組み伏せる男たちを撃った瞬間の衝撃、そこから先は突然スローモーションになり、目の大きな華奢な大和人の女が浮かび上がった。これはあの双子の弟の記憶だということを悟った。首相補佐官の青い瞳が迫り、何かを語りかけていた。先程の女が手を握り、胸元に顔を埋めた。ぐるぐると回る視界に最後に現れたのは、首相へ向けて構えた銃口だった。

 そして、視界は再び、浅海と呼んだ少女が列車に乗って行ってしまったホームへと戻った。黄色い河はどこにもなかった。潮が一気に引いて、響子の体はさっぱりと乾いていた。

「行くな」

 数百メートル先に、呆然とプラットフォームの隅にいる少年の後ろ姿に声を掛けた。

田積は驚いたようにこちらを振り返った。涼しげな目元の少年だった。光が髪の先を照らし出し、その神々しいまでの美しさにただ驚いた。

「だれ」

「あの列車に乗ってはだめだ」

田積は響子に向き合った。暗い瞳だった。

「なぜ」

「分からない。でも乗るな」

「なぜ僕にそんなことを言うの」

「怒りと憎しみが見えるからだ」

田積は眉を顰めた。地面に落としていた視線を真っ直ぐにぶつけた。瞳に赤い炎が映り込んだ。

「憎いのなら、苦しいのなら、あれに乗るな。そしてなぜそんなに苦しいのか、生きて確かめろ」

「何を知ってるんだ」

「何も知らない。ただ、お前は私と一緒だからだ」

「何が一緒なんだ」

「裏切られたと思ってる。生きる意味を失ったのだろう」

 田積は目の前の髪を失った軍服姿の女を見つめた。

「僕は…ただ」

 田積は遠くの黄色い河に飲み込まれていく列車の欠片を瞳に映しながら目を細めた。瞼の縁に留まっていた涙が、重みに耐えきれずに頬に流れ落ちた。浅海はいつも何も言わなかった。列車で長い間隣に座り、砂漠の砂礫が空へ舞い上がる様子を2人で眺めていても、いつもあの薄茶色の虹彩を収縮させて、時折悲しみの籠もった目で見つめるだけだった。

「無駄なことを考えるな」

 田積は響子を見た。

「お前を確かに愛し、生むと決めた母親の思いを無駄にするな」

 涙で白く濁って見えた。

「違う、僕は」

「本質を見ろ。私のように手遅れにならないように」

「どういう意味だ」

「新しい世界で息を吹き返せ」

 田積の右手を手に取った。白く長い指に黒い石を静かに置いた。

「僕は…本当は」

 田積は石を握りしめた。響子の瞳をまっすぐに見返した瞬間、再び黄色い波に包まれるのを感じた。田積の華奢な体も波にもまれ、2人の間の視界は遮られた。

 響子は息をのんだ。河の向こう、泡の花が飛び交う空間に再び父の姿を見つけた。柏原公正は確かに目を開き、いつの間にか、手を伸ばせばすぐに捕えられるほどに娘の体に近づいていた。柏原は娘に縋るような目で、情けない程に顔を白くしていた。響子は必死に逃れようとしたが、父の腕はがっちりと響子の腕を掴むと、そのまま力任せに娘の体に巻き付いた。すでに衰えた屍のような体に、なぜこれほどの力が残されているのか分からず、響子は混乱した。男の腕は重石となって確実に河の底へと近づいていくのが分かった。

 その瞬間、黄色い泡が、父の体の半身を凶暴な獣のようになってちぎり取った。上半身だけ残された父親は、意識を失いながらも響子の体に巻き付いて蛇のように離さなかった。

「お父様、最後まで私を――」

 遠くに、胎児のように縮こまる少年が泡の膜に覆われているのを見た。何かが近づいてきて響子の耳元に響いた。それは長い暗闇から抜け出し、胎内から生まれ出た赤ん坊の甲高い泣き声だった。


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