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【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン23話

(23)静かの海
 
   田積は咄嗟に目を瞑った瞬間、パンドラの箱を開けた時に生まれた一つの世界のように様々な風景が花火のように打ち上がるのを見た。

 心臓の鼓動が規則的に響いた。真っ暗だった。暗闇の中でトカゲのような小さな手を目の前に透かしてみた。どろどろとした液体に身を委ねた。眠くて仕方がなかった。水の中にいるはずなのに呼吸は楽だった。不純物の欠片が横切っていった。愉快だった。玩具を掴むようにわくわくしながらその得体の知れない河を漂っていた。

 煉瓦が所々欠けた地面を蹴るように走る焼けた肌が映った。薬を売りつけようとする移民の様々な言語が飛び交う街をすり抜けた。焼けるように喉がひりついた。鉄の錆びた奇抜な色の列車が高架を這っていく。

 次に現れたのは青白い丸眼鏡をかけた頬のこけた男だった。男はにっこりと微笑んでいるようだったが、瞳の奥に鈍く光る毒を見逃すことはできなかった。男の胸には、小さな乳房と性器を薄い毛に覆われた、濡れすぼった髪の長い少女が抱かれていた。そばかすの散った白い頬の少女は青白く発光していた。

 田積は列車に飛び乗った。列車の中にはチューイングガムを膨らませる褐色の肌の少女が乗っていた。その脇には少女の妹だろうか、まだ幼い瞳の大きな女の子が窓の外を興味深そうに眺めていた。田積も上半分が開け放たれた窓へと近づいた。夜だった。雲に隠れて三日月の尻尾の先だけ見えていた。鼻をつく臭気に顔をしかめた。蒼い闇に紛れても、河はなおも黄色く発色しているようだった。田積は窓を閉めた。少しばかり臭いがましになるようだった。どこから飛んできたのか、砂礫がかちかちと窓を叩く。雲の切れ目から月影が街を染めていた。美しい夜だった。

 チューイングガムが破裂した少女は何もおもしろくないといった風に、しかめ面で空をぼんやりと眺めていた。田積は座席に腰を下ろした。長椅子に座って前を見据えると、自分と全く同じ顔を持つ少女が座っていた。見たことのある憂いのある眼差しをこちらに向けていた。


 そういえば、そういえば僕はどこから来たんだ。


 気づくと、手に小柄な銃身のショットガンが握られていた。くるりと一回転してみた。弾の装填の手順も、グリップの握り方、相手の行動を読み解き急所を狙うこともすべてが頭の中に入っていた。けれども、この拳銃を一体どこから手に入れて、こうして手の内に握っているのか、そして拳銃の扱いを誰に習ったのか、どうしても思い出せなかった。母親?血を吐きながら死んだ母親か?いや、母は病弱で銃なんて握れるはずなかった。母が頼んだ教師の顔を思い出せない。

 風が吹いた。前髪が吹かれて額の上へ張り付いた。田積は再び駅にいた。珍しい大和人を見て、ベンチに座っていた移民が下品な野次を飛ばした。その横に涼しげな目元の少女が立っていた。


 僕は、この駅で少女を待っていた。そして肩を並べて列車に乗り、まるで、生まれてからずっと一緒にいたかのように、言葉を交わした。


 目を開けた。南の海の色に似た瞳から溢れ出た涙が口元に落ちた。潮の味がした。かつての青い海の塩辛い味だった。一つの涙が落ちると、それを追うように次々に田積の頬を濡らしていった。ペドロが嗚咽する度に、ワイシャツの裾が肩に触れた。 

「田積…」

 ペドロの肩越しにサイクロプス議員の真っ青な顔が見えた。田積を撃ったのはこの気弱な議員であることを悟った。ペドロのシャツから出た肩胛骨に涙が小さな湖のように溜まっていた。胸の辺りを探った。まだ血は止まることはなく、手の平を濡らす感覚があった。

「君が死んだら、お姉さんはどうなるんだ…。もし君がどうにかなってしまったら、お姉さんは苦しむんだぞ」

サイクロプスは人を撃ったことに動転した様子で、しきりに前髪をかきあげては息を吐き出していた。ようやく我に返ると毛足の長い絨毯に膝をついた。その横ではいまだ眠りから醒めないシベルが鼾をかいて眠っていた。

 ジョシュ・ラモスは唇を噛みしめたまま、田積の顔を茫然と見つめていた。田積は声を出そうとしたが、空気の泡が吐き出されただけだった。

「これが、私の先祖が夢見て渡ってきた国なのか…」

ペドロは田積の手をとって両手で包み込み、強く握りしめた。田積は腹にあったもう一つの手の平をゆっくりと眼前へと近づけた。電力を消耗して故障したアンドロイドのようだった。

「死ぬな、少年。まだ死ぬ時じゃない」

ペドロは囁くように田積に語りかけた。

「君は生きて行かなきゃいけない。お姉さんにもう一度、会わなければいけないんだ。そして君が誰よりもこの国の未来を考えていることを伝えるんだ。いいや、お姉さんだけじゃない。この国を担う全ての若者に伝えなければならない。意志を持つすべての者の上に立ち、未来を切り開くんだ。だから、負けるな。お願いだ、踏ん張ってくれ」

ペドロは田積の手首に人差し指と中指をあてがった。規則正しい波の音は乱れ、段々と弱まっていくのを感じた。首を振った。田積の茶色い瞳から光が奪われていくのに気づいた。

「どうして…どうしてこうなるんだ…」

唇を噛みしめたが、ペドロの手先の震えは収まらなかった。田積は薄目を開けてシャンデリアの鈍い光をぼんやりと見つめていた。ペドロはかつての主を睨みつけた。

「ペドロ」

ラモスは次の言葉を言いよどみ、かつての部下の真っ青な顔をただ見つめるばかりだった。

「なぜ国のことを考えないのです、なぜ民のことを省みない」

震える声にサイクロプスは顔を覆った。

「いつだって犠牲になるのは弱い者だ…何度も何度も、繰り返した歴史だ。この国はたくさんの犠牲の下に再興した奇跡の国だったはずだ。いくら栄えようとも、いくら時間が経とうとも、昔あったことを忘れていい道理はない…なぜ学ばないんです。なぜ同じことを繰り返すのですか。首相、あなたは私の希望だった。すべてを捧げて仕えていこうと思った。なのに、それなのになぜ」

ペドロは涙を噛みしめた。意識の混濁した田積の手を頬に寄せて叫んだ。

「どんな理由があったとしても、戦争は戦争に代わりない。いがみ合って、けしかけ合って何になる…大切なものを失い、すべてを壊されるのは何も知らされないこの国に住む民なんだよ!この少年が分かっていることをなぜあなたたちは理解できないんだ!」

ラモスは田積に歩み寄ろうとしたが、ペドロが手で制した。部屋の真ん中で立ち尽くすラモスと、がっくりと肩を落としてぼんやりと田積を見るサイクロプスとを交互にテレビカメラは映した。

「すぐに爆撃の宣言を取り消すんだ。会見をセッティングするのです。民に向かって誓うんだ。一切の報復はやめると。あと数時間。大和軍へ呼びかける最後のチャンスだ」

ラモスは首を振った。その仕草をペドロは視界の端で確認した。

「どうして、分かってくれないのですか」

「だめだ、もう遅い」

「どういう意味です」

「大和軍は地下にある放射性物質を拡散する兵器を起動させるつもりだ。もうすべてが手遅れだよ。彼らに我々の声なんて届くはずもない」

ペドロは逡巡した挙句、絞り出すように声を発した。

「首相、初めから、大和軍の計画を知っていたのですね…」

田積の吐き出す息が木枯らしのような音に変わった。ペドロは自分の熱を持った汗が、田積の紙のように白くなった頬に落ちていくのを見た。

「すべてを、初めから、滅ぼそうとしていたのですね。国も、民も、人種もすべて、何もかも。報復でさえただのパフォーマンスに過ぎない」

柔らかい草のような絨毯にゆっくりと田積の頭を預けた。ペドロは立ち上がった。かつての主を憎々しげに睨みつけた。ラモスは目を細めた。エメラルドグリーンの瞳が段々と色を薄めていった。隠せないほどの汗が流れ落ちていった。

「私はすべてを失った。この地位に上り詰めるまでに、親も弟妹も、友人でさえも。大和軍が100年前に決めた河を浄化するという幻の石の採掘事業のせいで、罪のない者たちが体をずたずたにされ、苦しみながら死んでいった。間近で血を吐くのを…髪が抜け落ち、骨が脆くなって崩れていくのを見た。なぜ、王族殺しの罪を私たちが継承しなければならないのか。どうしても理解できなかった。苦しかった。石は河を浄化しない。でたらめの石のせいで、私はすべてを失った。大和人を、そして我々の祖先だけに罪を押しつけた移民どもを憎んだ」

「何を言っているのです、それじゃあ、まるで、首相は…」

ラモスは頷いた。

「石はあった。私は、生まれてからずっと、あの島で石と共にいたのだから。いや、石はあるはずだったと言った方が正しい。実質存在はしなかったのだから。でたらめの採掘事業で私の家族は命を落とした。放射能を含まぬ石であれば、我々の祖先は死ぬこともなかった」

「どういうことなのですか」

 狼狽するペドロを包み込むような、どこか懐かしい異国の花の香りが漂った。この香りを知っている。ペドロは振り返った。

「ジルマ」

ジルマは床に寝かされた田積を見下ろしていた。そばかすだらけの低い鼻に強い癖の赤毛がちくちくと頬を刺した。大きな二重の瞳には涙がいっぱいに溜まっていた。田積は天井をぼんやりと見ていた。その間にも麻で編んだシャツに大きな染みが広がっていった。田積は焦点の合わない目をなんとかこじ開けて、ジルマに何かを伝えようとしていた。右の手の平を少しだけ胸の方にずらした。ジルマは頷いた。涙が零れた。田積はヒューヒューという気管から漏れる音の合間に、何かを尋ねようとしていた。

「喋るな…、もう喋るな」

田積は掠れた声で問いかけた。

「どうして…僕の血は、黒い」

ジルマは涙で視界が失われていくのに気づいた。肩が震えた。

 ペドロは目を見張った。ジルマの後ろから現れた、見慣れた顔立ちの男は、真っ直ぐに躊躇することなくジョシュ・ラモスの顔面に向けて銃を構えていた。口元から頬にかけて何重にも包帯が巻かれていた。ペドロより頭一つ分背の高いこの男が、行方不明になったカルロスなのかどうかは確証を持てなかった。だが奥まった瞳の理知的な輝きはどうしても本人としか思えなかった。包帯は真っ赤に染まっていた。ラモスは動揺を隠せずにこめかみが痙攣しているのが見てとれた。

「石がなんだってんだ…」

 ジルマは髪の毛をかき上げ、自分の癖っ毛を握り潰すように力を込めた。太股の側でだらりと下がっていたもう一方の腕を持ち上げ、両手で頭を抱えた。

「何人もの命を犠牲にして…目の前の命でさえ救えない…何が奇跡の石だってんだ…」

 顔を覆い、開いていた手の平を強く握りしめた。拳の隙間から涙が幾筋にも分かれて雨粒のように流れていった。

「それが幻の石の宿命なのかもしれない」

カルロスは撃鉄を親指で起こした。弾薬が首相の額へと発射する準備を整えた。

「石がこの濁った河を消し去り、100年前の青い海へと姿を戻す。歴史は繰り返す。世界を変えようとするならば、その代償を人類は払わなければならない」

ペドロは屈み込み、田積の手を掴んだ。氷のように冷たく、指先の体温でさえ奪われてしまいそうだった。ジルマが銃を向けるのと同時に、ラモスも自らの手で葬ったはずのカルロスに銃を向けた。

「成分を組み替えられ、浄化された石は、長い年月を経て海中の不純物と共に藻を作り、膜となって黄色い河を覆う。海面で留まり空気を失った藻が呼吸をするために、海底からわき上がる不純物に含まれた酸素をさらに取り込む。そうして出来上がったカーテンのような膜の下の海は青く、美しい穏やかな姿へと還っていく。海中に残った石の欠片は、さらに効力を増し、河を浄化していく」

充血した目でラモスは唸り声を上げた。

「でたらめを言うな。石は既に海に投下されている。お前の言う通りなら、なぜ黄色い河は変わらない」

カルロスは胸元から茶色く変色した紙の束を見せた。

「あなたは柏原勢司氏の遺書を手にしていた。この遺書には、黒い石の生成について事細かに記されている。最後の実験に取り掛かろうとした頃合い、柏原氏は津名島の民に遺書を託し、黄色い河に身を投げてその命を絶った。あなたは彼の意志を継ぎ、すべてを賭けて実験に取り掛かった」

「その遺書の中身はでたらめだ!お前は、あの洞窟の中を見たのか」

「柏原氏の遺書は不十分だったとしか言いようがありません。どれくらいの時を待てばよいか、柏原氏でさえ分からなかったのですから。ただ、これだけは断言できます。あなたの実験は、青い石を確かに浄化していた。冷たい暗黒物質として位置づけられているアクシオン粒子によって、水面の藻は酸素を得ると共に不純物を分解した。あなたが島を出て行ってから、長い時間をかけて幻の石は確かに作られていた。そして、これまで河に投下された石はその処理を施されていなかった。それだけのことです」

「そんなわけがない!」

ジルマは眉根を顰め、揺れ動く首相の表情を一瞬たりとも見逃さないように銃口で追っていた。

「俺は待ったんだ、来る日も来る日も!家族を救うためだけに、独学で学び、すべてを実験に捧げたんだ」

「なぜ自分を信じられなかったのです。もう誰もいない故郷に、手紙を書いた理由はなんですか。そしてその手紙を引き出しに入れておいたのはなぜです」

「お前に…何が分かるんだ」

「黒い石は必ず生成される。その幻の石ができあがった時、意志を継ぐ者が石を取りにやってくる。遺書はそう締めくくられています。柏原勢司は死を選ぶ状況にあっても、この醜い河を浄化する幻の石の存在を信じ続けた。あなたもこの科学者と同じだ。諦められなかったから…ではないのですか」

ジルマは必死に銃口の先を外さぬように銃身を握りしめた。

「あなたは見ましたか」

ラモスは滝のように流れていく汗を拭うことはなく、唇を歪めて目を見開いた。

「何をだ」

「あの洞窟に現れた、藻の下のサファイア色の海の色を」

 カルロスは、首相の両目を突き刺すように視線を外さなかった。

 手元が大きく震えた。制御できないほどに大きく振れ、体中の力が抜けていった。黒い巻き髪が額を打ち付けた。褐色の肌は色を失い、エメラルドグリーンの瞳は宙を向き、視線をさまよった。骨張った大きな手から銃が転がり落ち、板張りの床へと吸い込まれ、からんとした乾いた音だけが部屋に響いた。首相は崩れ落ちた。

 ペドロは悲痛な叫びを聞いた。どんなことがあっても冷静さを失わなかった主は、我を忘れて獣のような唸り声と共に床に伏した。黒髪がラモスの嗚咽に合わせて大きく跳ね上がった。カルロスは力なく銃を下ろした。ジルマは荒い息のまま、子供のように泣き崩れる首相に対して銃口を背けることはなかった。

「田積、呼吸を楽にするんだ…鼻から息を吸って、ゆっくりと口から吐き出すんだ」

「僕は…」

田積は囁いた。あの時、間近に見た薄茶色の瞳は、困惑し、失意の中にありながらも穏やかな光をたたえていた。今は光を失いつつある瞳に語りかけた。

「石はあった…石は見つかったんだ…。きっと君のお姉さんが見つけたんだ、君の言うとおりだった」

ペドロは海底へ引きずり込まれる感覚に陥った。目の前の少年の命の灯火は確実に弱まっていっていた。

「君がどこの誰でもいい…黒い血が体に流れているから何なんだ。君は君なんだよ。俺は信じてる。必ずこの国を背負う人になると。何があっても、自らの足で踏ん張り立ち上がってくれるって」

「僕は…浅海の」

ペドロは、何とか唇を動かす少年に首を振った。

「もう、いい…。いいんだよ」

どこかとぼけた顔の移民の男は、悲しそうな目をして笑ったように見えた。田積の視界でぼんやりと滲んで見えた。どうやって体に力を入れるのか忘れてしまった。目の前に少しだけ光を残したまま、絵の具が流れ落ちていくように景色は消えていった。

                                 *

 藤本の握る銃の弾痕が響子の進む道となった。実戦を積んでこなかった大和軍の兵士たちの中で、藤本の腕は抜群に信頼できるものであることを知った。

 蔦と雑草に覆われて幽霊屋敷に取って代わった王の邸宅には、どこからともなく響子たちを狙う鉛の弾が四方から飛んできた。

 藤本は響子を誘導し、姿の見えないかつての同僚たちを確実に撃っていった。手元から銃を弾き飛ばされ、呻き声を上げる兵士たちの声が草葉の向こう側から聞こえてきた。

 響子は、息の上がる藤本の広い背中を見つめた。上を見ると、固く閉ざされた窓がテープで目張りされ、所々が割れていた。ここに住んでいた王族は移民たちに襲われ、根こそぎ惨殺された。洋風の館から発する禍々しい空気に藤本は息苦しさを感じているようだった。

         *

 銃弾が小夜の髪の先を掠め、おんぶ紐代わりの服の裾に穴を開けた。日明は王女を抱えて走りながらも、相手の額に狙いを定めて撃ち返していった。この町の住民は既に誰もいないようだったが、牛乳瓶が軒先に置かれていたり、庭の低木が手入れされたりと人の匂いが残されていた。空爆の予告で町から避難したのかもしれない。

 蘇った個体は日明の銃撃によって再び土に還ろうとしていた。蝉の命より短く、儚い覚醒の時を絶ってしまったことに少なくとも日明も痛みを感じているようだった。瓦屋根の平屋に小夜を連れて入った日明の手首はとても冷たく、脈も弱まっているようだった。畳七畳程の一室にモスグリーン色のくすんだカーテンが掛かっていた。台所の食器棚には皿が詰め込まれていた。

 日明は壊れ物を扱うようにゆっくりとワンピース姿の王女を畳の上に下ろした。小夜はお腹が減ったのか、口元をもぞもぞと動かす赤ん坊に申し訳ない気持ちになって肩を窄めた。王女は小夜の顔を眺めた後に、胸の中の小さな赤ん坊に目を細めた。

「なんだかユウタロウのようだわ」

 甘いお菓子のような声だった。100年の眠りから覚めたというのに、王女は屈託なく瞳をくるりと回すと欠伸をした。まだ自力では立てないようだったが、腕は不自由なく使えるようだった。

「かわいいわね」

にっこりと笑った。小夜は自分の体の中の不純物が溶けてさらさらと流れ落ちていく不思議な感覚に陥った。目の前の王女は、見たことのない愛らしさと賢さを兼ね揃えた顔立ちに、見る者の心をとらえて離さない可憐な笑顔を持ち合わせていた。

「ここはどこなの。お母様は?お父様は」

日明は屈み込んで王女の目線に合わせると、深々と頭を下げた。片膝をついて敬意を表す日明の姿に、小夜は少しだけ胸が痛くなるのが分かった。 

「舞湖王女。こうしてお近くでお目にかかれて大変光栄に存じます。そして何より、ご無事でこの世界に戻られたことに深く感謝と喜びを申し上げます。お目覚めになってすぐのところ大変申し訳ありませんが、今から三浦のご自宅へ共に向かわなければなりません。そちらに、きっと女王もいらっしゃると」

「あら、私ったら、なぜこんな遠くへ来てしまったのかしら。あれだけ屋敷から出ないように言われていたのに」

日明はやや顔を上げたが舞湖と目を合わせようとしなかった。

「ここは高城の地。車両が壊れましたのでこれから新しい乗り物を探し出し、必ずやご無事で邸宅に送り届けさせていただきます」

王女はふふっと目を細めて笑った。

「初めてこんな遠くに来たんですもの。なんだか楽しいわ。柏原にも今度教えてあげなきゃ」

赤ん坊がついに鳥の雛のような泣き声を立てて空腹を訴え始めた。小夜は辺りを見回したが、大人の食料はあっても、赤ん坊向けの食べ物や飲み物は見当たらなかった。不意に舞湖が小夜の乳房を指さした。

「お姉さん、服が濡れてるわよ」

小夜はその無邪気な指摘に、胸元へ視線を落とした。確かに両乳房の辺りが水をかけたように濡れている。服に手を差し入れると、乳首の先から液体が溢れていることに気づいた。そういえば、さっきから胸が張る感覚に鈍痛を感じていた。

 日明は頭を垂れたままだった。小夜はそっと胸の先を手の平で触ってみると、指に黄色い液体が付着した。鼻先に近づけても香りはしない。じんじんと疼く乳房の痛みは激しくなるばかりだった。

 赤ん坊は口を窄め、何かを含む素振りを見せた。小夜は顔を赤くした。10ヶ月もの長い時をこの小さな命を腹で育て、今し方生んだと勘違いした小夜の脳から、母乳を出さなければならないという命令が伝達されたのだった。昔読んだ本に、脳と体が勘違いをして起きることがあると書いてあった。

 赤ん坊は再び顔を真っ赤にして泣き始めた。その様子を舞湖は興味深そうに眺めていた。

「おっぱいあげたら?」

日明が不意に顔を上げた。丸くなった目が小夜の赤い顔を見た。

「わ、わかったわ」

小夜はブラウスのボタンを上から外していった。日明は台所の方へと歩いていった。

 小夜の露わになった乳房はぱんぱんに張っていて乳首からはだらだらと母乳が流れて腹を伝っていった。赤ん坊に乳首を含ませると、今まで半開きだった真っ黒な瞳が見開かれ、かぶりつくように口元を動かした。

「いたっ」

小夜は顔を歪めたが、赤ん坊は無心で母乳を飲み始めた。気が遠くなるほど痛かった。赤ん坊に乳をあげることがこんなに辛いものとは思ってもみなかった。ただ、全身が温かいベールのようなもので包まれ、胸の内の乳児と自分だけが存在する優しく柔らかい世界に体中が熱くなっていった。母親となった女の手を舞湖が握り、小夜の顔を見上げてにっこりと笑った。

「かわいいねえ…、あら、お姉さん泣いているの」

小夜は驚いたように自分の目頭を人差し指で触った。確かに指先は濡れた。

「不思議だわ。なぜ私、泣いているのでしょうね」

舞湖はにっこりと笑って砂のような色の瞳を近づけた。

「いいえ、不思議じゃないわ。嬉しいのよね。自分の赤ちゃんが一生懸命おっぱい飲んでくれてるんだもの。私もね、お人形のピピちゃんがほ乳瓶をくわえているとなんだか嬉しいもの。ねえ、赤ちゃんってかわいいわねえ。私も妹か弟が欲しいわってお母様には言ってあるのよ」

小夜は胸の鼓動が高まるのを感じた。目の前が桜色にほんのり染まっていく。まだ春はだいぶ先なのに、蕾の柔らかく温かい香りが確かに漂った。

「よかったわねえ、こんなにかわいい赤ちゃんがいて、よかったわね。ねえねえ、この子、名前は何て言うの?なにちゃんなの?」

乳首の先の痛みは薄れていった。頬をもごもごと動かし、赤ん坊は真っ黒な瞳を小夜に向けていた。

「そうね、水脈(みお)よ」

舞湖は先がぎざぎざに波打つ前歯を見せて笑っていた。水脈と名付けられた赤ん坊のふっくらとした頬と休みなく動く口元を興味深そうに眺めていた。

「素敵な名前ですね」

顔を上げると、先程まで小夜たちから離れていた日明が、立て膝をついて水脈と小夜とを交互に見ていた。

「あなたの赤ちゃんだ」

「あなたはそう思いますか」

「長い眠りから彼を引き上げたのはあなたです。立派な母親ですよ」

舞湖はきょとんとして答えた。

「あら、水脈くんのお母さんは元々一人しかいないわよ」

「そうですね」

日明は小夜の抱く赤ん坊のもみじのような手にそっと触れた。

「あなたはこの子の母親です。それが何を意味するか分かりますか」

「どういう意味ですの」

「この家の中をざっと調べました。数ヶ月は困らない食料が床下に蓄えてあります。ガスも電気もまだ通っているようだし、暖房器具もきちんと残っています。住民が出て行ってからまだ数週間も立っていないでしょう。もし戻ってきたとしても理由をきちんと伝えれば大丈夫です。黒い血の者はもうこないはずです。だから」

小夜は涙を拭った。日明の言葉はいつも心を抉り、近づいても近づいても波の力を利用して遠ざかっていく離れ小舟のようだった。

「だから、あなたたちはここから発つのね」

「行かねばなりません。私には任務がある。王女を連れて行かねばなりません」

「あなたが長い眠りから覚めたのは、本当にそれだけが理由だったというの」

 日明は涙でいっぱいになった小夜の瞳を見返した。あの岸壁に立つ屋敷で倒れた日を唐突に思い出した。腹の強烈な痛みと遠のく意識に、一瞬で駆け抜けていったのは妻の桃子と7歳になったばかりの娘の貴理子との思い出だった。自分が死んだら残された家族は強く生きていってくれるだろうか、悲嘆に暮れて時を消費してしまわないか、と不安が過ぎった。棺から体を起こし、再び命を得たあの日に、妻と娘は立派に寿命を全うしたことを知った。妻は再婚して貴理子には兄弟が3人できていた。日明はその事実を知って胸元に涼風が吹き去っていったのを覚えている。

 畳の上に置かれていたはさみを手にすると、日明は髪に差し込んだ。小夜は目を見開いて突然の行動に口もきけないようだった。舞湖も白い紙の上にはらはらと落ち、カラスの羽のように重なっていく日明の黒髪を黙って見守った。

「これが私の答えです」

日明の赤い虹彩が再び収縮を繰り返した。ルビーの原石のように光の加減で所々が点滅する虹彩が、小夜の黒い瞳に溶けていった。日明の瞳は、真っ直ぐに目の前の女をとらえた。

「必ず戻ってきましょう。だから待っていてください。その子を守り、あなたの命を守ってください」

「日明、私は」

声が掠れていく。無造作に落ちていった黒髪が、夕日にまみれて色濃い影となった。すべての者が欲し、この地を救う幻の石のように。

「私は、なんて愚かなのでしょう。あなたが初めて訪ねてきたあの時から…」

 唇が震えた。小夜の白い顔を日明はゆっくりと撫でた。いつかジープで見た、透き通った石のような瞳が間近で小夜を見つめた。そのまま唇を重ねた。日明は体を離し、小夜の美しい顔から視線を反らさないまま告げた。

「あなたを愛しています。お会いしたあの日の夜から」

 小夜の涙がころころと頬を転がり、お乳を一心に飲み続ける水脈の体を包む上着へと落ちていって温かい染みを残した。駆け足のようなスピードの心音が伝わってきた。確かな命の息吹だった。

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