【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン24話

(24)潮騒

    窓辺から吹き込む風にレースの刺繍が施されたカーテンが揺れ動いていた。端に薄茶色の黴がこびり付き、湿った潮風と共にすえた匂いが流れてきた。窓辺に置かれたアンティーク調の薄緑色の肘掛け椅子の脇には腰まで延びた髪が風に揺られて生き物のように動く少女が佇んでいた。カーテンの向こうにはバルコニーが広がり、そのさらに先から、黄色い河の荒い波音が流れ込んだ。少女は、こちらへ銃を向ける2人をちらりと見た。だが、その横顔からは何の感情も読みとれなかった。

 藤本はその不思議な色の薄布を纏ったような少女の瞳に言いようのない恐ろしさを感じた。肉の焼けた匂いがするあの町で、人を撃った弟の体を引きずって車体まで運ぶ少女の姿とは程遠い、得体の知れない生き物のように思えた。響子も同じことを感じているのか。両手でリボルバーを握り直し、体の向きを変えて少女の額へ銃を向けた。

 決して高くはない真っ直ぐな鼻梁にそばかすが散らばっていた。色を持たない唇は微かに開き、憂いのある茶色い瞳はカーテン越しに黄色い河へ向けられていた。黴臭い冷気が流れ込むこの部屋で、麻の襟付きシャツとショートパンツ姿だったが、震えもせず、ただ目を細めて景色を眺めている。剥き出しになった脚はつなぎ目のない真っ直ぐな枝のようだった。

「なぜここにいる。柏原はどこへ行った」

 少女は藤本の声を聞いて初めてこちらに顔を向けた。そして同時に右手に握っていたショットガンを藤本に向けて構えた。響子が短い悲鳴を上げたのが分かった。

 少女の右腕は邪悪な蛇が巻き付いて離れないように真っ黒な痣で埋め尽くされていた。

「邪魔をするの」

 藤本は意図が分からず、響子の横顔を見たが、青白い頬に汗が伝っていくのを見つけただけだった。

「どういうことだ。邪魔なんてしない。弟はどこへ行った」

一瞬少女の表情のない顔が醜く歪んだ。鼻梁に深い皺が集まり、白い肌の下に、海底に沈む樹木の太い根が這いずり回るように黒い険が現れた。

「邪魔をするのなら、殺す」

響子が叫んだ。

「言ったはずだ!邪魔はしない」

 発砲音が部屋に響いた。響子は唇を震わせ、銃弾が部屋の奥を飛んでいったのを見遣った。耳たぶが切れて血がぽたぽたと垂れていくのを感じた。藤本は少女を落ち着かせるように右手をゆっくりと上下に振った。だが人間とも化け物とも見分けのつかぬ無機質な光をたたえた少女の真っ黒な瞳からは何の感情も読みとれなかった。響子は唇を噛み、震えを止めた。

「柏原っ!聞こえているか!」

少女は不快そうに再び鼻梁に皺を寄せた。下から睨みつける少女の瞳は不思議なことに真っ黒に色を変えて白目までを浸食していった。

「お前の娘だ!姿を見せろ!どこまでっ…どこまで、人を人じゃなくせば気が済むんだ!」

 藤本は銃口が響子に向けられたのに気づいた。墨汁を垂らしたように黒目を拡大させていった。

「私はあんたを許さない…決して」

 波と波がぶつかる超音波のように甲高いサイレンのような音が響いた。飛沫が生まれ、空気へ再び溶け込んでいく。藤本はこの岸壁沿いに立つ廃墟の城に、なぜこの少女が一人でやってきたのか逡巡する間、様々な記憶の断片を思い起こした。棺の中の王女の面影と弟を必死の形相で引きずる姉とを一つの糸で繋いだ。

「どういうことだ、石を探していた双子の片割れが女王なのか」

響子は、ゆっくりと少女へと近づいた。

「父は黒い培養液の力で息を吹き返した女王をも手中に収めようとした。女王は娘を失い半狂乱の状態だった。父は、娘を必ず覚醒させるという約束を女王と交わし、その代わりに、黒い石を持ち帰るように命じた。すでに投下されていた石は何の効力もないように見えたが、死者の蘇生を目の当たりにして、河を浄化する力も必ずあると父は結論づけた。そして女王の記憶を一時的に消し去り、浅海という田舎町の少女の記憶へとすり替えた」

 少女は今度は響子の首元を狙い、引き金を引いた。弾は響子の白い肌に掠り、傷つけ、赤い血を流した。

「黒い血を持つ人類は放射性物質を細胞に通さない。石を触れない父は、曽祖父の研究の意図を汲むことなく、一度死んだ哀れな者たちを初めから利用するつもりだった。そうして父は、自らの手で世界の覇権を握ろうとした」

「そんなことが許されるのか…」

「だが、女王は記憶を取り戻した。そうだろう?虹子女王」

 虹子の漆黒の眼孔が、収縮しては太さを増した血管を張り巡らせた。荒い息を吐き出し、響子を睨みつけた。悪魔に憑かれたようなその姿がシルエットとして浮かび上がった。

 日の光がカーテンの隙間から差し込み、少女の顔の右半分だけを白く照らした。不思議なことに陽光に照らされた部分だけ、真っ黒な瞳が透き通った薄茶色に変わり、わずかに残る女王の意思を示しているようだった。

 突風が吹き抜けた。薄布がカーテンレールから外れ、湖子の脇をすり抜け、響子の服の裾を掠りながら部屋の向こう側へと飛んでいった。 

 藤本は傾きかけた夕日の閃光に目を細めた。

「女王は記憶を取り戻した。娘はもうすぐここに到着する。石は我が手中へと収まる。世界は一度滅び、そして再生する。すべては決められていた。神は私と共にある」

 茜色の広い空の下に真っ白なバルコニーが現れた。河は波飛沫を立て、岸壁の下をせり上がろうと黄色い触手を伸ばしていた。だが反り立つ切り通しの岩を克服することは叶わず、志半ばで再び元いた河へと戻っていく。荒々しく乱暴な河の姿に一抹の絶望を感じた。藤本は銃口をバルコニーに佇む丸眼鏡の頬のこけた老人へと向けた。

「元帥…まさか、ご存命とは」

「これはこれは、高橋大将の腹臣だった藤本将校ではないか。以前に増して精悍な顔つきになった。さて、どうして君のようなじゃじゃ馬将校がここまで来られたのかな」

 杖に寄りかかるようにして立つ柏原の傍らには、見知った顔の軍人がこちらに散弾銃を向けていた。藤本は力の限り叫んだ。

「有本!貴様、どうしてそこにいる」

有本雅英は藤本と共に軍を追放されたと、確かに田内は伝えた。顎のしっかりとした大柄なその男は、同期として入隊した時から何も変わらぬ自信に満ちあふれた眼差しを向けていた。

「藤本よ、こんなところで、お前こそどうしたんだ」

「軍隊を追放されて行方をくらませたと聞いた。なぜ元帥と共にいる」

「なぜという問いに答えは一つしかない。一度軍隊に失望した私の意志と元帥の意志は共にあるということだ」

 柏原公正は唇を窄めて笑っているようだった。白い頭髪はポマードで撫でつけられ、死去の報告を聞いたあの当時の姿とは似ても似つかぬ程に老け込んでいた。骨ばった胸元には大和軍総裁の金バッジが鈍く光っていた。

「響子、私を許さないと聞こえたが、どの口が言っているんだ。まさか大和軍を放り出して、この頭のネジが2、3本は抜けた若造に騙され、私に銃を向けているのではないだろうな」

「黙れ…」

 響子は柏原の額に向けて銃弾を撃ち込んだが、制御のきかない程に震える手では正確な照準は定まらなかった。藤本は右手で響子の肩に触れた。

「落ち着け。心を落ち着けろ」

「不思議だ。なぜ血相を変えて私の所へとやってきた。今更。お前は私の人形に過ぎない、付属品に過ぎないのを分かっていたはずだ。響子、お前に決定権はないのは自明のこと。物事を冷静に見極めて判断する能力も持ち合わせていない。そんな愚かな娘が一体何をしにきた」

嗄れた声で語る柏原の体を労るように、有本が肩を支えた。

 響子は父に向けた銃をゆっくりと下ろした。

「私は、あなたの人形ではない」

響子は一言一言を噛み締めるように力を込めた。柏原は枯れ枝のような全身を揺らして高笑いした。

「笑わせるな。一人で生きていけない女が人形にならぬ道がどこにあるというのだ。母親のいないお前を一人前に育て上げてやったんだ。敬意を示せ」

「黙れ」

「そんな口をきいていいのか。もうすぐ世界は変わろうとしているというのに。生き残るか否かは、私の一存で決まるんだぞ。お前も命をとられたくなければ、土下座して命乞いしろ」

 柏原は背後の河を振り返ると、靄がかる遠くの波間を指した。有本はショットガンを構えたまま藤本と響子から視線を外さなかった。屈折して乱反射した陽光が七色の虹を見せた。藤本は目を疑った。果ての見えない黄色い河はぶつかり合い、波飛沫を天に昇らせる勢いだった。だが、藤本はさらに遙か向こうの河に異変を感じ取った。普段より随分と高い波が、生き物のように団子状に姿を変え、確かにこちらへと迫ってきているようだった。

「あれが見えるか」

老人のしゃがれた声が乾いた空気へと溶け込んだ。藤本は瞬きができなかった。瞳孔が開き、心拍数が上がるのが分かった。拳銃を下ろし、バルコニーの先端へと駆け寄った。柏原は丸眼鏡の奥の瞳を細めて低い笑い声を立てた。

「これが、この国のフィナーレだ。核兵器で汚染された国土は河に飲み込まれ、不浄の血は根こそぎ消え去る。黒い血の者たちだけが残り、新しい大和を作り上げる」

「あなたは…この河の異変を知っていたのですか」

藤本の問いかけに、柏原は上目遣いで挑戦的な目の色を見せた。

「知っていたと言ったら?」

有本はショットガンをやや上向きにすると、低い声で吐き出すように呟いた。

「藤本、これが大和のあるべき姿だ。移民との戦争にかまけて周囲が見えなくなる者、関係がないと現実を見ようともしない者、俺が知っている大和人は全員くだらぬ。国のあり方を語る価値のない腐った奴らだ。どうだ、お前もこっちの人間として大和の国を作ろうとするなら、我々の地下シェルターに入れてやってもいい」

「何がしたい…、大和を破壊して何を作ろうってんだ」

「言っただろう」

 柏原はバルコニーの手すりから体を離し、真っ黒な瞳を河に向ける浅海の元へと歩み寄ると、細い肩を抱いた。長い髪の先が柏原の頬を撫でた。

「新しい世界を作る、それだけだ」

響子の荒い息が聞こえた。藤本はバルコニーへ進むと、河の生臭さが全身を包んだ。べたべたとした粘着質の黄色い花が飛び交い、体に付着した。藤本は柏原の横顔に照準を合わせた。

「お父様」

 響子は強風にあおられる体をなんとか立て直した。

「お父様、新しい世界とは、放射能にまみれ、この世に生まれた者たちが生きてはいけない環境にするということなのですか」

「それは認識の違いだ。黒い血の流れる者は生きていけるのだから。まあ、私どもはしばらく地下シェルターで過ごすことになるかもしれないがな。黒い血の者たちがこの先100年、1000年と繁栄し続け、他国の攻撃にも屈することのない新人類として世界に君臨するのを間近に見ることになる。胸が高まるよ。そうだな、お前も鼻が高いだろう。新世界の礎を築いたのがお前の父親なのだから」

「誰が、その世界を望んでいるのです」

 柏原は、弱々しい少女へと戻った湖子の肩を抱くと、梨色の唇を舐めた。湖子はぼんやりと柏原の深い皺だらけの顔を見つめた。

「父も私も、いや、神が望んでおられる」

 湖子は自我を失っているようだった。力なく薄茶色の瞳を柏原に向けていた。

「女王は、舞湖との再会を求めた。だが、自分の腹にもう一人稚児が宿っていることを覚えてはいなかった。誰の子供か分かるか?」

「なんだと」

藤本は響子の震える肩を見た。柏原は声を立てて笑った。

「響子、お前の曽祖父だよ。柏原勢司は女王と無理矢理関係を持って妊娠させた。愚かだろう。何て愚かなんだろうなあ。だから必死になって女王と王女を蘇らせようとしたんだ。良心の呵責に苛まれたんだろう。それでも2人はついぞ目を開かなかった。自責の念にかられた柏原は、黒い石の研究半ばに、この黄色い河へ身を投げた。どうだ、なんて情けない。我々の祖先はなんて愚かで人間臭い男だったのだろうなあ」

響子は首を振った。眼孔を見開き、銃をバルコニーの固いアスファルトへと落とした。

「うそだ」

「嘘なものか。では、目の前にいる女王本人に聞くか?」

湖子は柏原の腕の中で首だけを響子の方へと向けた。静かな波をたたえた瞳は何も言わなかった。

「醜い、血筋だ、所詮、我々も欲にまみれた低俗な血を持つ人間なのだよ」

 藤本は湖子の頬に一筋の涙が流れるのを見た。湖子の指先が微かに動いた。ゆっくりと宙をもがくように空へと向かい、藤本と響子との間の空間を確かに指差した。薄茶色の瞳は揺れていた。

藤本は目の前で繰り広げられる光景が現実のものなのか、随分前から判然としなかった。だが、湖子の指が意志を持って何かを指した瞬間、稲妻に打たれたように自我を取り戻した。

 ずっと不思議だった。なぜ、この国を取り囲んでいた青い海は、黄色く変色し、臭気を発する醜い姿へと変わったのか。

 肌の色の違う民を憎しみの渦へ落とし込み、分裂を呼び、内紛を引き起こしたのか。

 すべてが神の意志によって引き起こされ、人類は試されたのではないか。藤本はその考えに恐ろしい程の絶望を感じた。この島国は、神の与えた試練を踏みにじり、そして人類自身の存在をも蹂躙する計画を完遂しようとしている。

 荒い息遣いが背後から聞こえた。金木犀の香りがした。清廉でどこか懐かしい匂いだった。湖子の指先は相変わらず藤本の肩越しの何かを指さしていた。ほんのりと青白く光る細い手は震えていた。藤本は滴る汗が眉間から鼻梁を抜け、口元を侵していくのを感じた。

 女王の涙は夕日を取り込み、これまでに見たどの宝石よりも美しい輝きを発していた。

「湖子女王、大変遅くなり、お詫び申し上げます」

 日明は膝をつき、バルコニーの入り口で頭を垂れた。

「舞湖様を連れて参りました」

         *

 ペドロは立ち上がり、うずくまって嗚咽を漏らす首相の先にあるバルコニーの外を指差した。カルロスはその指の先と、埃が真珠の欠片のように輝く光景とを見比べた。

 カルロスは耳を澄ませた。密閉された空間に地鳴りのような低い音がこだましている。ラモス首相の机にあるサインペンが振動で左右に動き、転がり落ちそうだった。

 窓に大股で近寄り、カーテンをひいた。光の筋が帯となり、部屋全体を白いベールで包み込んだ。目が眩んだ。窓の錆びた取っ手を両手で掴み、勢いよく外へと開け放った。

 ペドロは、民衆の群れがあげる声こそが、この全身を駆け巡る響きと痛みの源であることを悟った。ペドロはゆっくりとバルコニーへと歩み、そして光が降り注ぐ小さな空間へと降り立った。

「分かるか、カルロス」

広場を埋め尽くし、霞となるまで続く大衆の姿に面食らったように、カルロスは首を横に振った。

「これが怒りだ。この国に生きる人々の真の声だ。真実を知った時、善悪を判断する力と自分たちの未来を思う力とが重なり合った時、国という曖昧な枠組みは、民を制御する装置として意味を失う。怒りは留まることなく広がっていく。小さな声が集まり、やがて我々にはどうしようもできなくなるほどに膨張し、大きな声となる。民は決して馬鹿ではない。真実を知らされぬだけだ。いつもいつも」

怒りに満ちた群衆の一人一人の顔を見た。顔を歪めて口々に叫んでいた。子供たちは大人に肩車されて拳を振り上げた。移民と大和人とが入り混ざり、シュプレヒコールをあげた。

 花火が空を舞った。赤い妖精が太陽に向かって昇っていくようだった。爆音と共に上空で炸裂した火薬が、大輪のバラの花に変化した。

 ペドロは両手を眉の上に翳し、流れ落ちていく花びらの先を見守った。

「誰ももう、騙されることはない」

カルロスはペドロの光に照らされた後ろ姿に目を細めた。首相補佐官の登場は、テレビ中継ですべてを知った群衆のボルテージを一気に引き上げ、罵声と怒りとの声が渦となって襲いかかった。

「行くな、撃たれるぞ」

 カルロスの声は届いたはずだったが、ペドロは歩みを止めなかった。両手を広げた。鳥が翼を広げて大空へ羽ばたこうとしているようだった。巻き髪の男のとんまで陽気な姿はもうどこにもなかった。


「田積」

 薄目を開けると、出会った時と比べて髪の伸びた移民の少女が覗き込んでいた。これまでどこに隠れていたのか、サファイア色の瞳が懐かしかった。

「よかった、まだ意識がある」

ジルマの涙声が響いた。潮騒が耳の奥で渦巻いていた。低い潮風が脳の奥に流れ込んでいた。リアは田積の頬に小さな手をあてた。

「浅海の所へ連れて行こう」

「だめだ、動かしたら死んじまう」

リアはこれまでに聞いたことのない大人びた低い声でジルマを諫めた。

「死なないわ。馨が浅海を撃った時も、傷はすぐに塞がった。田積も同じよ」

「何で死なないなんて言い切れるんだ。胸を撃たれてるんだぞ」

リアは田積の湿った上半身に触れると、ジルマにその手を見せた。

「血の色が、黒いからよ」

「リアまでそんなこと言うのか」

「私だって分からないわ。でも黒い血は特別なのよ。浅海に会わせてあげたいの、ねえ、お願い」 

 ジルマは何かを言いかけてやめた。まだ子供とばかり思っていたリアが意志を持った瞳で訴える姿に胸の奥が締め付けられた。津名島へ渡る時、旧瀬戸大橋の上で浅海に投げかけた言葉を思い出した。浅海はジルマの言葉に反論しなかった。霧に隠されてこの世の者とも見分けのつかない儚げな瞳をした少女は一瞬、哀しい目を向けた。

「分かった。私が田積を背負って運ぶから、ジープを見つけるんだ。あんたならできるね?」

 リアは重大な使命に、しっかりと頷いた。


                                    *

「11月29日午後3時。我々が予告した通りの、ハルモニア党による爆撃の時刻だ」

ペドロのよく通る声が広場に響いた。群衆は水を打ったように一瞬静まった。

「だが、どうだ。ここにいる者はそれを知りながら、こうして首相官邸に向けて怒りの声を挙げている。戦争が始まろうとしているのに、だ。怖くないのか。報復の報復による爆撃の犠牲になる可能性もあるというのに、なぜ今、ここに集まっているのか」

 一人が叫ぶと、その後を追うように様々な言語が交じり合い、すべてが一つの牙となってペドロの小さな体に襲いかかった。カルロスは銃を右手に携えたまま、ペドロの背後に立った。

「皆、怒っているのだろう。だからこうして首相官邸の前に集まった。では、その怒りの原動力はどこにある。ジョシュ・ラモスに騙されたと思ったからか。いや、我々すべての政治家が事実を隠蔽し、無駄な争いを引き起こしたと思っているからか、さあ、どこにある!命を犠牲にする覚悟を持ってまでしても、押さえ切れぬその怒りを、ここにぶつけにきた理由を教えてくれ!」

群衆は口々にペドロを攻撃する言葉を叫んだ。そこをどけ、首相を出せ、英語や大和語で怒りを言葉にするその光景にペドロは目を逸らさなかった。

「怒りの矛先は、国民を裏切ったジョシュ・ラモス首相か。それともこの国の資源を奪った汚染された黄色い河か。ハルモニアか。大和軍か。いや、違うだろう。ジョシュ・ラモスを作り出したのは我々だ。指をくわえたまま見ているだけだった我々なんじゃないか。この内戦を引き起こしたのは、本当に首相や政治家や軍隊の仕業だったのか。大和は先に大戦を何度か経験している。その時に学ばなかったのだろうか、我々は。戦争を起こしたのは、この国で生きる、意志を持たぬすべての者であることを」

 田内は、色の浅黒い小柄な首相補佐官の言葉を聞いた。爆弾配置計画に背き、上司に連絡せずに現場を離れた。死ぬのは怖かった。放射性物質が人体にどのような影響があるのか、考えているうちに自然と足が動いていた。そうして知らぬ間に行き着いた首相官邸前で聞こえてきたのは、バルコニーから降りかかる確かなしっかりとした声だった。

「もう、この国は手遅れなのか?いがみ合い、殺し合うしかない地獄のような世界を受け入れるしかないのか?緑に囲まれ、我々の祖先が憧れてやってきた豊穣の地はもう帰ってはこないのか。他者を認め合い、不足しているものを技術や知恵で補ってきた大和という国はもう地球上を探してもどこへ行っても見つからない、幻の桃源郷となってしまったのか」

 田内は腰ベルトにひっかけてあったピストルを握りしめると、前に立つ男たちの肩の隙間から構えた。遠い距離ではなかった。静まり返った群衆が気づくことはなかった。

「手遅れではないはずだ…、遅すぎることなんてないはずなんだ、いつだってこの国はやり直せる。河が国土を浸食しようとも、人種を越えて一人一人の力が大きな知恵となるはずだ。そして、これから生まれてくる子供たちが十分な教育を受けられ、一人たりとも犯罪で命を落とすことなく、全ての者がやりがいのある仕事に就くことができる未来を作れるはずなんだ…」

ペドロは一人一人の顔を確認するようにゆっくりと見渡した。

「遅くはないはずなんだ。もう一度、我々は、この国にチャンスを与えられないだろうか。もう一度、この国の未来を我々の手で作れないだろうか」

 照準を定めた。ペドロのエメラルドグリーンの瞳から涙が流れていた。田内は引き金に指をかけた。

「未来を壊そうとするのはおまえたち移民だろう」

 そう呟いた時、何者かが銃身を掴んだ。青い瞳の背の高い移民の少年がこちらを見ていた。

「やめろ」

 少年は田内の銃をそのまま掴むと、強い力で銃口を下げた。

「彼は今大事なことを言っている。くだらないことをするな」

 目を見開いた。少年は何事もなかったかのように前を向き、首相補佐官の姿を瞬きもせずに見ていた。手の平に視線を落とした。指先が強ばり、微かに震えていた。父親の遺品のカフスに触れた。震えは止まらないまま、再びペドロの姿を見上げた。田内の手元から銃が滑り落ちていった。

「大和の少年の言葉を聞いたか。彼は言った。すべての者が意志を持ち、すべての者が平和に幸せに暮らしていける世を作りたい、と。彼の言っていることは絵空事か?綺麗事なのだろうか。そうだとするなら、なぜ彼の言葉は、これほどまでに我々の心を突くのか。それは、我々自身が諦めたくないからだろう。この国の未来を諦めたくはない。怒りは新しい国を作る原動力へと変えられる。手を貸してほしい。我々が必要とするのは内戦ではない。分断では、決してない。お願いだ。新しい国の形を共に考えてほしい。彼の言う通り、我々の未来はまだこの先に、あるはずだ!」

カルロスは陽光にあたって一瞬反射した銃の存在に気づいたが、その気配もいつの間にか消えていったのを確認した。小柄で何の力も持ち得ないように見える首相補佐官こそが、この歴史的な日において、全ての者の心に、この国に必要であったものを誰よりも納得のいく言葉で伝えたことにじんわりとした心地よい痛みが広がっていくのが分かった。

銃口の放つ一瞬の鋭い光が消えたのも、ペドロの言葉が持つ希望を全ての者が感じ取ったからだった。

「大和軍よ、そしてすべての大和の民よ。私がこの場で、責任を持って決定する。ハルモニアによる爆撃は、中止することを、ここに宣言する。いかなる報復も我々は望まない。直ちにけが人を救助するのみ。治安維持局は発射準備をただちに解除し、現場から離れ、救助作業のみに従事せよ!勿論、移民、大和人関係なく少しでも多くの命を救ってほしい。これが、ジョシュ・ラモス首相の最後の命令だ!」

 一人が手を叩いた。静寂は破られた。後から後から手を叩くものが増えていった。歓声が挙がった。カルロスは光に包まれた広場を信じられない面持ちで眺めた。深い溜め息をつくと、目尻に指をあてがった。温かい涙が知らぬ間に滲んでいた。

 拍手の渦がすべての空間を取り巻き、それまではちきれそうに膨張していた怒りの声が歓声に取って代わった。ペドロは目を瞑った。田積の真っ直ぐな薄茶色の瞳が浮かんだ。穏やかで懐かしい匂いの潮騒が、首相官邸を包み込んでいくようだった。

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