【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン12話

(12)望遠鏡
    一晩たっても帰らない弟を待つ浅海の背中に、ジルマは腕組みして眉を顰めた。硬いベッドでリアが鼾をかきながら眠っている。雨でぼやけた窓の外をずっと見つめたまま何も話さなかった。気温が一気に下がったからか撃たれた傷口がずきずきと痛む。眠れないのは浅海の目障りな様子だけが理由ではなかった。

 汚い宿だった。カーペットの端々に茶色い染みが浮き出てスリッパも履き古されたものを渡された。未来都市では最低辺のホテル。その日暮らしの労働者たちが仮住まいとしていくつもの部屋を占拠していた。部屋に入る前に、隣の部屋の初老の移民がドアを開いて生ゴミを包んだ袋を綺麗に並べているのを見た。日に焼けた深い皺の刻まれた男。神経の病に冒されているのか、見えない人物と会話しながらご機嫌の様子だった。

 田積が姿を消してから浅海は随分と長い間、リアとジルマを置いたまま、あちこちを探し回っていた。リアがべそをかいたところでようやく安宿に入ったが、浅海はジルマの存在に気づいていないくらいに憔悴しきっていた。

 部屋の中は薄暗かったが、浅海の茶色いタンクトップは、深海に舞う得体のしれない魚のようにしっかりと浮かび上がっていた。長い髪が背中を這うように流れていた。

「どうするのさ、この先」

ジルマの低い声に、浅海はゆっくりと振り返った。

「まだ起きてたの」

「あんたのその暗いオーラで眠れやしないよ。ガキの寝言も大きいしさ」

ジルマはリアを挟んで浅海に背中を向けて腰を下ろした。

「傷は?」

「おかげさまで痛むよ」

「ごめんなさい」

「ふんっ、お前らを殺そうとしたんだから仕方ないかもしれないね」

 深海に沈んだような陰鬱な部屋には2人の長い影がぼんやりと浮かんでいた。双子を追って随分故郷から離れたところまで来た。今ここで、殺そうとしていた女と、素性も知らない移民の少女といることに現実味がなかった。砂で汚れた壁のあちこちに雨漏りの跡が見て取れた。

「明日、私とリアはこの街を出るわ。あなたももう自分の家に帰った方がいい」

「馬鹿言わないでよ。帰る家なんてないさ。弟はどうするんだい」

「置いていく」

「なんでだよ」

ジルマは予想もしない浅海の答えに声をひっくり返した。

「この街のこと、あなたはどう思う?」

「この街ってここのこと?まあなんだかでっかい街だけど、落ち着かない。最初すごいと思ったけど、今はあんまり好きじゃない。ちゃらちゃらしてて」

「確かに問題に目を瞑って、今を楽しんでいる人たちが多いかもしれない。でも、実はこれこそがあるべき国の姿なのかもしれない。ここでは移民と大和人との違いがあまりないわ。仕事もあるし、皆が生き生きしている。もっと長い時間かけてここにいれば、その素晴らしさが分かるんじゃないかしら」

ジルマは目を細め、ため息をつくと、リアの傍らに体を横たえた。

「何が言いたい。それが弟を置いていく理由?」

「彼が苦しみながら旅をする理由はないわ。この街なら、好きなことを見つけて、短い人生を存分に謳歌できる。人を殺したり、自分も命を狙われながら逃げ回ったりするのは酷だわ」

「それで?」

「危ないことに巻き込みたくない。せっかく生まれてきたんだから」

「随分弟想いだこと」

 浅海はもう何も言わなかった。朝の陽光が差し込むまで、ずっとベッドの隅に座っていた。ジルマは眠りの淵につくまで浅海の背中を見つめていた。堺の街に留まろうと思えば留まれるのは浅海も一緒だ。そしてジルマ自身も、少しの勇気と決意を持ってそうすれば、新しい世界でやり直すこともできた。

「だけどそれはただの幻の世界なのよ」

ジルマは自分に言い聞かせるように呟き、目を閉じた。


                                  *    

「その昔、王は移民によるクーデターで殺された。そのニュースは世界中を駆け巡り、移民を受け入れていた国々は、明日は我が身かと震え上がった。現に、当時徹底的に大和人を迫害するという意見も出ていた。いわゆる民族浄化だ。一人残さず種を残すなという通達が発出されようとしていた。しかし、クーデターを起こした連中と一線を画していた我がハルモニア党の当時の党首が、あらゆる手を尽くしてそれを食い止めた。そんなことをすれば大和という国は完全に消滅し、そして移民政策を推進していた他国にも示しがつかぬ。大和人が人口調整手段であったとしても、行き場所のなかった我々の祖先を受け入れてくれた恩もあったのだろう。当時の党首が考えたように、大和と移民とは共存していく道があるはずなのだ。有用な道がいまだはっきりと示されていないとしても」

ラモスは耳を傾ける党員の前で厳しい口調で語りかけた。最大与党のハルモニア党は移民で構成されている。

「大和と移民とは決して相容れぬものであってはいけない。そうは思わないか。決して憎しみ合うものであってはいけない。彼らを尊重し、一緒に生きていくべきなのだ。そう、この黄色い河が勢力を増して国土を浸食している以上。力を合わせて、この自然の脅威と戦っていかねばならぬ段階なのだ。彼らには私たち以上の知恵がある。この国に暮らしてきた、知識を持っている。河を浄化するには協力していかねばならないはずだ」

ラモスは壇上で唸り声を上げた。

「なのに、耳に入ったところによると…それをよく思わない党員もいるというではないか。それでも与党として国の形を作る者と言えるのだろうか。仲違いをしている暇なんぞないのは分かっているはずだ!」 

 盛大な拍手が起きた。ラモスの熱のこもった演説はいつものことだが、最近は先の総選挙を見越したパフォーマンスと揶揄する者も出てきた。現に、同じ党員ながら拍手をしていない者もちらほらいた。ペドロは横目でその憎悪を隠さぬ議員をチェックしてはメモに残していた。河の毒はなぜか大和人にだけ影響を与えている。移民はそれを知っていた。黄色い河が浄化されれば、これまでの主権は覆されるかもしれない。短絡的な思考に陥る者もいるのも分かっていた。

 ラモスはペドロが仕えた中で、最も信頼の置ける主だ。自信に満ちあふれ、国を少しでも良い方向へと導こうと不断の努力を続けてきた。大和人とのあいのこ、と揶揄されながらもその立場を時に利用して政治を動かした。彼はこの国の希望だ。ペドロはラモスに初めて会った時からそう直感していた。

 双子が追う黒い石が、本当にあの荒れ狂った化け物に効果があるというのか、半信半疑だった。なのに今や多くの者が黒い石の力を過剰に信じ、そして畏れ始めている。

「どういうことなんだ」

 ラモスの演説を思い返しながら、ペドロはGPSと睨めっこのまま、堺の街中で立ち尽くしていた。あの双子にまかれてから3日が経過していた。ラモスに報告する気力もなく、砂漠に置いてきたGPSをジープで探しに行った。ようやくセスナに辿り着き車内のGPSを取り戻したものの、肝心のエンジンは砂礫の仕業か、稼働することはなかった。さらにジープの車輪がパンクしていることが判明し、仕方なくヒッチハイクで堺に戻ったのは3日後のことだった。

 田積のIDの居場所は近くの単身者が住むマンションを指していた。浅海とジルマたちのものは、街の外れを示したが、彼女たちはIDを捨ててどこか遠くへ行ってしまったようだった。勘の良い少女だ。ペドロが追えた理由もIDと悟って煙の向こうへと消えてしまった。

 衝撃だったのは弟のほうだ。1時間前からペドロはその場に固まって動けずにいた。というのも、あの弟が高層マンションで女性といるらしいことが分かったからだ。

「はて、なぜこんなところに」

ペドロが望遠鏡で10階建てのマンションを見上げると、お目当ての部屋のベランダに干してあるものが目に飛び込んできた。

「ありゃりゃ」

ブラジャーとTバックが風にはためいている。隣に田積の物と思われる麻のシャツが綺麗に干されていた。

「これはどうしたものか…」

 想像しなかった事態に、何が起きているのか分からずただ立ち尽くして1時間が経過していたのだった。

 ペドロは行き交う街の人々に目をやった。田舎町にはいないような美しい男女が、上質な服に身を包んで闊歩している。堺の街は何回来ても好きになれない。賑やかだが、虚構のような世界に違和感があった。ここではラモスが言う大和人と移民との共生が自然に存在している。一見、寛容で素晴らしい未来都市だ。だがその実、彼らは国の未来なんぞに1ミリも興味を持っていない。他人に関心がないのだ。だから憎しみも抱かないし、嫉妬もない。彼らの心ははりぼてだ。美しく、桃源郷のような町に暮らす人々は、自分が1番大切で、自分しか見えていない。誰がどう生きようと興味がないのだ。40年、50年の間の自分の人生さえ、楽しくあれば。

 弟がベランダに出てきたのをペドロは煙草をくわえながら見守った。「まるで探偵だな」

吸い殻をアスファルトの上で揉み消すと、清掃員が睨みつけ、これ見よがしにちりとりの中へと押し込んだ。初老の男に頭を下げて再びベランダに目を遣ると、ペドロは息をのんだ。

 田積、と呼ばれていた少年は、不意に長い華奢な腕に包まれた。美しい髪の長い大和人の女が少年を抱きしめた。目を細め、頬を少年の背中にすり付けた。それから何の表情もない少年の唇に口づけをした。頭を抱え込み、田積の首筋、鎖骨、胸板に唇を押しつけた。田積もそれに応えるように、女の豊満な胸の間に手を差し込んだ。今度は田積が女の口に舌を入れているのが見えた。

2人は部屋の中へと消えていった。

 ペドロは白目を剥いた。

「なんてこった」

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