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【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン17話

(17)青い炎

 日明はしばらく目を覚まさない大和人の女の額に手をあてた。緩やかなカーブを描く眉毛の下に大きな瞳があり、長い睫がのびていた。小さい寝息を立てていた。美しい女だった。夫は怒りと絶望に狂い、響子の手についに落ちたことに哀れみを感じた。

「もう囚われの身はいやですよ」

立ち上がりかけたところで、小夜の声が不意に肩を叩いた。振り返ると、大きな瞳をこちらに向けていた。

「起きていたのですか」

「ええ、あなたが私の寝顔を眺めている時から」

小夜が体を起こすと、日明は台所の脇にある戸棚から急須を取り出した。

「まあ、ここはどこですか」

辺りを見回すと、大和人が愛用していた霧箪笥や小上がりにある掛け軸、壷、障子窓と小夜の家によく似た造りの部屋だった。

「ここは私の家です」

綺麗に洗濯されたベッドカバーの匂いを嗅ぐと、シャボンの香りがほんのりした。

「何を嗅いでいるんです」

「いえ、何だかあなたが洗濯している姿が思い浮かばなくて」

「変なお方ですね」

小夜は心臓の音が早まるのを感じた。日明は目を細めて笑っていた。すぐ側にある窓の外を眺めると、洒落た造りの町並みで、煉瓦の上を何人かが叫びながら歩いているのを見つけた。二重ガラスになっているのか、何を話しているかまでは聞こえない。

「ここは、何て町ですの。高柳から遠く離れてしまいましたか」

「東京に戻って参りました。ここは七ツ堀です。移民の割合は多いですが、比較的治安の良い場所です。政府関係者も多く住んでいます。ただ、最近はデモ隊があちこちに現れては我々大和人を目の敵にして暴行を働いていると聞きます。あなたも絶対に家の外に出てはいけません」

「そうですか」

「まだ首相は正式に認めていませんが、移民側は、爆撃は大和軍によるものと断定しています。内戦がいつ始まるか分からない状態です」

小夜ははっとした。

「藤本は」

日明は湯飲みに昆布茶を注ぐと、サイドテーブルに置いた。

「温まりますよ。近頃冷えてきましたからね」

「ありがとう。藤本はどこへ」

小夜は、日明の兎によく似た瞳に自分の少し痩せた姿が写り込んでいるのに気づいた。

「彼は軍の大事な任務を担っています。しばらくは帰ることはかないません。ご理解を」

「そうですか。まあ、分かってはいますが」

日明は視線を落とした。

「寂しいのですか」

熱いお茶を啜っていた小夜は、日明の単刀直入な質問に少し驚きを覚えた。

「それは。あら、人の気持ちに寄り添ってくれるようになったのですか」

「何とも」

「そうね、あなたも所帯があるのでしたっけ。こんなところに私なんかを置いて、大丈夫なのですか。奥様はそういえばどちらに」

日明は麻のシャツの襟を正した。初めて見る私服姿に違和感があったが、シンプルで上質なデザインが日明の涼しげな目元を際立たせていた。

「妻も子も、もうこの世にはおりません」

湯飲みから立ち上る湯気の向こう側に、何の感情も持ち合わせていないような日明の白い顔が浮かんだ。

「亡くなったのですか」

「ええ」

「そうですか」

日明は小夜の瞳が潤むのを見た。黒い真っ直ぐな髪が胸元で扇のように均等に広がっていた。徐々に潤いは瞳に広がってついには溢れ出した。白黒の自動幻画を見ているようだった。

「だから、あなたはいつも寂しそうな目をしているのですね」

小夜は日明の頭を不意に撫でた。しっとりとした柔らかい手の平は耳を撫で、頬を優しくさすった。日明は自分の頬に熱が入っていくのを感じた。

「かわいそうに」

小夜は涙をこぼすと、日明の胸元に額を埋めた。

         *

 この村にはビスケットが割れたようなひびの入ったコンクリートが所々残っていたが、大方は舗装されていない道だった。永遠と続く草原を駆けると、踏みならされたすすきの軽い綿毛が、浅海たちの足下まで、羽のついたエルフのように舞い上がった。靄がかった空気が浅海の真っ直ぐな長い睫に絡みついた。もう秋だというのに、雲の多い空から少しだけ顔を出した太陽がじんわりと2人の肌を照らした。馨は前に座る浅海が落馬しないかひやひやしていたが、少し一緒に走れば馬に乗り慣れていると分かった。風が少女の長い髪を飛ばし、浮遊する髪の先が馨の頬をくすぐった。

 馨は顔を赤くした。それまで手綱を掴んでいた浅海が、馨の昼間は何の変哲もない健康的な手をそっと包み込むように掴んだ。 

 馨はぎょっとしたが、浅海はちらりと見ると笑みを浮かべ、首を横に振った。

「触らないほうがいい」

馨は何でもないようなふりをして言ったが、浅海はさらにどうってことのないというばかりに髪をかきあげた。小さな耳に青い石のピアスが張り付いていた。白い肌に良く似合っていた。

「大丈夫よ」

「何も知らないだろう」

「もうそろそろ、教えてほしいわ。この手の秘密を」

「秘密は秘密さ」

浅海は馨の手の甲を強く握った。白馬は甘い香りをかき分けるように疾走し続けた。玉葱畑に日が降り注ぎ、靄がかった光があちらこちらで反射した。浅海は目を細めた。美しい光景にいつまでも身を置いておきたい鈍い痛みが心を蝕んだ。馨の甘酸っぱい汗の匂いが心地よかった。

 木々が遠くに見え始めた頃、ようやく遊園地の廃墟の一片が現れた。足を止めた。相変わらずふらふらと観覧車の籠が見えない力に揺れ動いている。今日は青空の下で少しだけ退廃的な雰囲気が薄まっていた。

「藍に会ったか」

「ええ」

「藍は太陽の光が駄目だ。傘をささないとすぐに肌がやられる。目も弱いから、あまり日中は出歩かないようにしてるんだ」

馨は白馬をゆっくりと進ませた。石が転がる地面を慎重に進んでいく。ヒビの入ったコーヒーカップは傾き、入り口のドアが水滴を垂らしたようにだらしなく地面に張り付いていた。

「先天性の遺伝子疾患だ」

浅海は何も言わずに、まだ何も見えない馨の手の甲をそっと見つめた。

「俺たちの先祖は王族殺しの罪を被せられてこの島へやってきた。元々住んでいた人たちと平穏に暮らしていたが、しばらくして頭を抱える事態が起きた」

「なに」

「子供だ」

「子供?」

半身の欠けた天使の大きな像が現れた。

「ここが賑わってた時があったんだよな。今では誰も近寄らない廃墟だ」

「遊園地、懐かしい気持ちになるわね」

「そうだな、一度も行ったことないから分からないけれど。なんだか不思議だ」

馨は馬の鬣を丁寧に撫でた。

「この島で生まれてきた子供は、先天性の病気を持っていることが多くて、生後まもなく命を落とすことも珍しくなかった。近親で子を為していたわけじゃない。理由がよく分からなかった。無事成長しても、よく分からない病気にかかって死ぬ者も多かった。ここには昔から医者が一人しかいない。村医者みたいなものだから、理由も突き止めようがなかったし、外部から情報も遮断されていた」

浅海は馨の顔をまじまじと見つめた。

「俺たちは大和人の血も混じっているから、黄色い河の影響で寿命は縮まっている。でもそれだけじゃない。大体は40になる前にちょっとした風邪にかかって死んでしまう。女はそんなことはないんだけれど。今でもこの村に暮らす男たちはその前触れのない突然の寿命に怯えてる。なぜか分からなかった。これまでは」

「理由は」

馨は昨夜、近づいた切り立った崖を遠くに見やった。浅海は息をのんだ。馨の両手を掴んだ。

「まさか…、その危険性はいつ、分かったの」

「浅海たちが来る前だ」

「どうして、なんで今まで」

「俺たちをこの土地に縛り付けている約束があった。だから、体に少しの異常があったとしても簡単に発掘を止めるわけにいかなかった」

浅海は馨の肩を掴んだ。

「どういうこと?発掘?約束って誰と?」

「見ただろう。村の畑を。玉葱だけで生きていけるか?自給自足でやっていけるか?俺たちは、やつらに指示された石を発掘する見返りに、金やら食糧やらを受け取ってきたんだよ」

「だからって、そんな」

「夜になると、村の男たちの体はほんの少しだけ、青白く光る。それがなんでなのか分からなかった。俺たちは誰も気にも止めなかった。でも最初から、ここに俺らの祖先を送り込んだ時から、やつらは分かってたんだ」

馨は青白く発光し出した両手を固く握った。

「いったい、誰がそんなことを」

浅海の悲痛な問いには答えなかった。

            *

 ラモス首相が大和軍の一つの拠点である富士山麓の地下に足を運ぶ様子は、どこから情報が漏れたのか、経営能力を失っていたはずのテレビ局がこぞって生中継で配信し始めていた。歴史の遺物のように飾り物となっていたテレビにかじり付くようにして、誰もがその様子を見守った。ペドロも大勢の民衆と同じように家電店に並ぶテレビの前で足を止めていた。

 歴史が変わろうとしている。突風に吹かれるかのように事態は急速に進んでいる。首相の側近として、あちこちに足を運んだはずだった。片時も離れず、ラモスの側で様々な荒波を乗り越えてきたはずだった。今、その尊敬する主は再び大和人と移民との関係を構築し直そうと歴史的な訪問をしていた。

「俺はここで何をしてるんだか」

 ペドロは唇を舐めた。隣の褐色の肌の女が、画面が見えづらいのか肘で押しやってくる。何度体の位置を変えてやっても納得していないようだった。元来汗っかきなペドロの額からは滝のように緊張の汗が流れ落ちていた。それも女は気に入らないようだ。

 しばらくは砂嵐の画面だったが、ラモスがセスナから降りる姿に切り替わった。タラップを威風堂々と降りる姿に懐かしさで一杯になった。少しやつれたようだ。だが、緑色の瞳の輝きとローマ帝国の賢人のような眼差しは以前と何も変わってはいなかった。

 ラモスが進んでいく背景に、まだ色濃く残る雑木林が流れていく。しばらく進んでいけば、大和軍の科学者たちが小屋の前で出迎えていた。一番背の高い軍服を着た神経質そうな青白い顔の男が、敬礼をした後に英語で答えた。

「ようこそ、我が軍の中枢へ」

その瞬間、テレビの前に集まった群衆からブーイングと野次がわき起こった。

「ジョシュ・ラモスだ。この度は突然の訪問の申し出に応えてくれてありがとう」

ラモスはしっかりとその男と握手を交わした。少しの違和感やボタンの掛け違いがあれば、これまでにない国事に繋がる。ペドロは完璧な身のこなしを見せるラモスに心の内で舌を巻いた。

「早くやっちゃいな!この人殺しをさあ!」

隣の女がそう声をあげたものだから、あちこちで同調する野次が吹きすさむのをペドロは指笛を吹いて鎮めた。

「静かにしろ、聞こえないだろうが」

そう怒鳴ると、今度は女の肘がしっかりとペドロの胸元を突いたので、痛みに顔をしかめた。

 ラモスを含めた要人たちが、鬼沢と呼ばれる軍人の後について質素な小屋の中へ入って行くのまでをテレビ中継は正確に伝えた。

 しばらく何の動きもなかった、カメラは小屋の扉を映し続けた。30分はそのまま画面が静止しているようにも思えた。

 あちこちで勝手な話し合いが始まった。喧噪に包まれる中、少し気を緩めた頃合いに画面に映し出された光景に目を疑った。黒髪の背の高い筋肉質の男――ぼろぼろの軍服を着た若い男が、きつい薬をやっているようなおぼつかない足取りで画面に現れた。

 そしておもむろに銃を構えると、小屋の警備にあたる大和軍の兵士を撃った。

         * 

コーヒーの香りに包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。クラシック音楽に合わせて瞼の裏で木陰がゆらゆら揺れていた。涼風が鼻の先を掠めていった。

「柏原くん、いいかね」

メイドが扉を開ける前に、開智裕次郎がノックもせずに慌てた様子で入ってきた。いつもはオールバックに撫でつけている髪がやや乱れている。かなり急いでいたのか、護衛もつけずに一人で車を飛ばしてやってきたようだ。 

「これはこれは。どうしたのですか、突然こんな休日の昼下がりに」

柏原勢司は机の上に置かれた水たばこのパイプを口元に含むと、非難じみた視線が向けられているのを感じた。

「何か」

「葵党とハルモニア党の密談の席を用意すると、あちらから通告があった」

「まあ、よかったではないですか。内戦をくい止める術ができたのですから」

開智は顔色一つ変えない柏原を見て、ため息をついた。

「やはり、君が何かしらかんでいるのか」

柏原はちらりと一瞥すると再び目を閉じた。

「私は一介の科学者です。そんな手のこんだことはできませんよ」

「まあ、そうかもしれないな。それにしても、我々としては民の象徴である王族を殺されたのだ。それについて、君の言う通り、何のお咎めもなくとはいかなかった。あちらから譲歩の手段が示されそうだ」

「ほお」

柏原は丸眼鏡を外してワイシャツの胸ポケットにしまった。天井を向いていまだ緊張感を見せないこの男に開智は困惑した。同期として入隊し、心の内は滅多に見せなかったものの、確かな知識と人徳で尊敬の念さえ抱かせる男だった。なのに、今回の大和の最大の岐路であるクーデターについては無関心に見える。家庭教師として王女とも親交があったはずだが、最近はその話さえするのを嫌がった。それとも、王女の死を間近に見て心が壊れたのか。開智は顎をしゃくった。

「君も同席するか。体系隊の将校とも話はついている」

「私が行って何になります。遠慮しますよ、そんなお偉方の密談」

「そんなことはない。今後の大和の指針を決める重要な話し合いになる。君はこれからこの国を背負っていく一人になるだろう」

出窓から吹き荒れるようにやってきた風がカーテンを飛ばした。柏原の細い喉元が安らかに眠るように穏やかに上下していた。

「この国の未来に、私はなんの意見を述べればよいのでしょう」

「どういう意味だ」

「あの時、移民の流入を許したのは確かに大和人です。労働力として移民を歓迎し、雇い、そして使い捨てのように扱ってきたのは大和人です。そして利用するだけ利用して、移民との溝を生んだのも大和人だ。どんどん膨張する移民たちの規制を後回しにして、自国民の人口回復に何の策も取らなかったのも大和人だ。そうして王族が殺されたとあっても、何もやり返すことなく平和に解決しようとするのが、腑抜けた、我ら大和の民族だ。こんな腰抜け国家に今更未来を与えてあげる必要はあるのでしょうかね」

開智は口をつぐんだ。柏原は一見眠りながら答えているようだった。

「平和的解決には反対なのか。我々に移民と対峙しろということか」

「いいえ、そんなことは言っていません。ただ」

柏原は目を開くと、丸眼鏡をかけ直した。女性のような瓜実顔がはっきりと輪郭を持った。

「王族を殺した移民どもは決して許されることはない。ですが、その後の大和のことなんぞ、私は、何もかんも、どうでもいいのですよ」

柏原はにっこりと笑うと、子守歌に包まれるように籠椅子に身を預けた。

                      *

 何が起きたか、誰にも分からなかった。前のめりに倒れる兵士の体が地面に接触する音までを生々しく音声が拾った。カメラを向けていた者も動揺したのか、画面が小刻みに揺れている。

「誰だ…」

 男は真っ直ぐに小屋へと歩いていくと、扉を開けた。何発かの発砲音が響いた。悲鳴が微かに聞こえた。

「どういうことだ」

「今のは誰だ」

「銃撃の音が聞こえたぞ」

「あの大和人は、誰だ」

 街角に寒風が吹き荒れたが、騒ぎは一向に収まらなかった。小屋の扉が開け放され、先程の男が拳銃を片手にふらふらと足下のおぼつかないまま出てきた。その後ろをSPに抱えられるようにしてラモス首相が現れた。軍服の男は不意に気を失ったようにその場に倒れ込んだ。再び民衆の間に悲鳴が響いた。

「総理!」

ペドロは、背の高い移民の肩に手をかけて伸び上がり、咄嗟に叫んだ。

 薄暗い小屋の中にカメラがズームした。額から血を流した鬼沢と呼ばれる男が床に倒れていた。焦点の合わない目に、瞼を痙攣させながら、何かを小屋の外に向けているのが見てとれた。ペドロは背中に冷たい汗が流れ落ちるのを感じ取った。

「総理!後ろ!後ろだ!」

ペドロは力の限り叫び続けた。

 一つの鉛の球が飛んだ。スローモーションのように見えた。軌道に乗って飛んでいく弾が一コマ一コマ、映画のようにペドロの瞳の中を移動していった。

 固い鉛はラモス首相の背中を撃ち抜いた。血飛沫が細かく、冷たい空気へと飛散していった。そうして次に画面に現れたのは、SPの叫びと共に倒れ込んだラモスの姿だった。

「わあああああああああああッ」

ペドロは口元を抑えて叫んだ。力の限り叫んだ。だが、それを打ち消す程に割れんばかりの怒声が沸き起こった。ペドロは地面に向かって叫んだ。

 喉の奥が切れて唾液に血が混じる。それでも叫ばずにはいられなかった。ラモスの笑顔が浮かんだ。いつも眉間を寄せてじっくりと書類を読み込む主を思い出した。地面に突っ伏した。興奮した群衆に囲まれ、ペドロは土に顔を埋めた。

 テレビの中継はそこで途切れた。ブラウン管を砂嵐が再び占拠した。静寂が訪れた。ペドロは瞬きができなかった。目の前に起きたことを反芻してみたが、今見た映像を正常には処理できなかった。そうして回らない頭で、微かに生まれた不安が徐々に鮮明にその輪郭を表し始めた。

 ペドロが頭を抱えて倒れ込んでいる横で、興奮し切った群衆たちは、ついにこの国の真実を見つけたとばかりに、我先にと家電店の前から駆け出していった。あちこちで物が壊れる音が響いた。ペドロは涙の溢れた瞳で、土埃にまみれた、均衡の取れているように見えていた張りぼての町を見た。町はあっという間に壊されていった。車は横転し、興奮した人々は罪のない人を引っ張り出した。街路樹や植え込みの植物に火がつけられた。悲鳴があちこちで響いた。大和人と思われる男性が殴られているのを視線の端で見た。群衆はあてもなく走った。壊せるものを見つけては所構わず力の限りに破壊し続けた。

 ペドロは唇を噛みしめた。

 消えていく。七色に彩られた桃源郷が、容赦ない熱を浴びて飴のように溶けていく。全てが何事もなかったかのように、融和なんぞ初めから幻想だったかのように消えていった。

 ペドロは右手を伸ばした。やめろ、といくら言おうとしても、掠れて何の言葉も出なかった。四つん這いになりながら、体を引きずるようにして前に進んでは倒れ込んだ。それでも右手を必死に伸ばした。

 移民の走り出していく背中とは反対向きにこちらを見ている者がいた。ペドロは言葉をしばらく失った後、嗚咽を漏らした。音が消えた。爆竹の音が周囲の全てを消し去ったのかと錯覚したが、そうではなかった。ペドロは涙でぐちゃぐちゃになった自分の顔を確かめるように触った。

 力の限り叫んだ。

「すべてがっ、すべてが、これまでのすべてが無駄だったというのか!」

涎を垂らし、再び叫んだ。

「俺たちのやってきたことは、すべてが消えてしまったのか!首相がやってきた融和というものは、意味のなかったものなのか!誰もが望む平和な国家は幻だったのか!」

ペドロは涙と鼻水で汚れた顔を歪ませた。

「答えてくれ、どうか…、答えてくれ!」

地面に涙が吸い込まれていった。後から後から、途切れることなく土に色を与えていった。

 長い真っ直ぐな四肢の、砂の城から出てきた少年はこちらを見つめていた。ペドロは見覚えのある美しい切れ長の瞳を見上げた。少年は何も言わなかった。

            *

 外気はいつにもまして臭気が強かった。響子は風に飛ばされた藍色のガウンを拾い上げた。黄色い河は荒れ狂い、意志を持った化け物のようにうねり、膨張し、轟音を立てながら下流へと流れていった。河の音は凶暴な人魚の薄気味悪い笑い声にも聞こえた。近づく人間を誘い、ようやく海中に引きずり込んだ時に歌う歓喜の歌だ。

 合那があの狭く黴の臭いが漂う小さな部屋にやってきたのは、響子が4歳の頃だった。

35だった合那には、婚約者がいた。だが柏原公正の熱烈な希望で、一人娘の響子の教育と世話を頼まれて一人でやってきたという。どこでどう彼女を見つけてきたのかはついぞ父親は教えなかったが、合那は長い時間をウサギ小屋のような部屋で響子と過ごし、母が亡くなってからは母親代わりとなった。月に何回か、地上へ出る日は、怖がる響子をガウンで隠して「大丈夫ですよ」と背中を優しく叩いた。

 合那はここから身を投げた。それが本当かは分からない。ただ、守衛の者が立ち尽くす合那の姿を見た、という情報があっただけだ。

 もしかしたら荒い波に恐怖を感じてそっとこの場を離れたかもしれない。そして随分前に別れた会いたい人の元へと行ったのかもしれない。

 合那は時代が変わることを恐れた。見せかけであったとしても、平和な大和であることを願い続けた。だから柏原公正のような穏健派が掲げる融和を誰よりも望んだ。今のこの世を見て、年老いた合那はどう思うだろう。移民との決裂は決定的なものになった。暴力の炎はこの国のあらゆる所で燃え始めている。鬼沢のようなナショナリストが望む世界へと変貌しつつある今に、合那は失望しているのだろうか。

「いいえ、ただ私は響子様だけが心配なのですよ」

振り返った。黄色い泡の花の中に合那がいた。響子の手にあったはずの藍色のガウンを羽織り、背筋を伸ばして立っていた。

「何を言う」

「響子様、何を考えておられます」

「考えるのは、大和の行く末だ」

「いいえ、あなたはいつも我慢しているだけですよ」

響子は随分顔を会わせていなかった合那の姿に、不思議な感情がわき起こるのを感じた。

「何を我慢しているんだ」

「あなたは、どうしたいのです」

「どういうことだ」

「あなたは、この国をどうしたいのですか」

響子は背を向けて笑った。

「こんな弱り切った国であり続けるわけにはいかない。資本、軍事力、競争力、すべての面で外国とも渡り合えるような、かつての名実共に大国と呼ばれた時代へと戻さなければならない」

「違いますよ」

「何がだ」

苛ついた声を投げかけると、合那はいつものように微笑んでいた。

「あなたは、この国の民のために何をするのです。いいえ、何ができるのですか」

「国力を戻し、完全なる大和人だけで作り上げる桃源郷を目指す」

「あなたは、それで救えると思いますか」

合那は唇に手をあててくすくすとおもしろおかしそうに笑った。

「響子様、少なくとも、私は救われませんよ」

その瞬間に強い風が吹くと、野原に咲いていた花が空に舞い上がるように、合那の体も跡形もなく消え去った。黄色い花びらが2、3枚、空中に飛び上がった後、響子の手の平へと舞い落ちた。

 黄色い河を振り返った。


                                    *

「気づいたか」

 馨の目の下にはうっすらとクマができていた。疲れが滲んでいた。浅海は胃の痛みに歯を食いしばった。

「あら、私…、どうしたのかしら」

「何日も眠りから覚めなかった」

「リアとジルマは」

馨はゆっくり頷いた。

「ずっとつきっきりで浅海から離れないものだから、交代した。母屋にいるよ」

カレンダーの日付がいつの間にか進んでいた。数日間、何も食べずに眠っていたようだ。空っぽの胃がきりきりと痛む。突然食べ物を入れれば拒否反応を示すだろうが、とりあえず水を飲みたかった。そんな浅海の気持ちが分かっているかのように、馨は慣れた手つきで浅海の体を支えると、スプーンで掬った少量の水で唇を濡らした。

「まず舐めるんだ」

浅海の舌の上に水の玉が転がり込むと、じんわりと唾液が口内の奥から滲んだ。馨は浅海の様子を見守りながら、今度はスプーン1杯の水を含ませた。

「大分眠っていたみたいね」

「いつも眠ってるあんたを介抱している気がするよ」

「馨」

「なんだよ」

浅海は青年の長い指を包み込んだ。

「ありがとう」

「別に何もしてないよ。お礼言われるようなこと」

しばらく浅海は何も言わずに馨の少し赤い顔を見つめた。この青年は一見ぶっきらぼうに見えても心優しい純朴な性格であるのは分かっていた。

「私たちが石を求めてやってきたとしても追い返さずにいてくれて、ありがとう」

「浅海、石は諦めたほうがいい」

馨は今度はしっかりと浅海の瞳を見つめた。薄茶色の目の中に自分が映っているのを見つけると何とも言えない気持ちになった。

「どうして」浅海は静かに尋ねた。

「この村の者は、もう誰にも石を渡さないさ」

「馨。馬に乗りたいわ」

突然の申し出に馨は面食らった。

「目覚めたばかりだ。馬になんて乗れるわけないだろう」

「あなたが乗せてくれないなら、歩いていくわ」

「前から思っていたけど、いつも強引だな」

「そんなことないわ、あなたたちが言いたがらないことを知りたいからよ」

馨はため息をついた。浅海は痛む体を無理に起こそうとしたが、力が入らずに倒れ込んだ。

「ほら言わんこっちゃない」

馨は浅海の肩を掴んで起こすと、そのまま軽々と抱き上げた。


 真夜中だった。小雨が降っていた。浅海はフード付きのガウンを着て、馨の青白く発光する右手に手の平を重ねた。馨の若者特有の甘酸っぱさと雨の匂いとが、道ばたに咲く野の花のようにほのかに香った。

 ロンド、と名付けられた白馬は主人の頼みなら夜中であっても目的地まで飛ばした。蹄が大地を踏みしめる音が心地よかった。雨は眼球に飛び込んで視界を湿らせた。大きい石を飛び越える度に馨の息が少し荒くなる。浅海はあまり力の入らない体をしっかりと預けるようにして馨の鼓動を聞いた。体中に血を巡らせる健康的な音が耳の奥底で響いた。浅海は馨の手綱を引く手を力を込めて握った。馨はそれに気づいていても、浅海の手の力を緩めるようにとは言わなかった。

 浅海は少しだけ馨の方を振り返った。馨は困惑した顔を見せた後、視線を巡らせて正面の景色へと目を遣った。浅海は馨の赤い顔を見て、すぐに顔を正面に戻した。

「なんで私を無理矢理追い出さないの」

「なんでって、そんなの母さんに聞いてくれよ」

「そうね。なぜあなたは何も聞かないの」

「何って何さ」

「私の体のことよ」

 馨は口を噤んだ。真っ暗な草原を走っても、ロンドの目にはしっかりと全てが見えているようだった。霧に包まれた真っ平らな地面を走り続けても、目的地を見失うことはなかった。

「俺の手だって他の人から見れば化け物だろう」そこまで言って馨は慌ててつけ加えた。

「いや、浅海がそうだって言っているわけじゃなくてさ」

「大丈夫よ、気にしないで」

ロンドは遊園地の廃墟を通過して、すぐにスピードを上げた。浅海の体が馨の胸元に押しつけられた。

「浅海がここに来たのは、石を探しに来た、それだけのことじゃないのは何となく分かってるからかもしれない」

「私は石を探しにきただけよ」

「背中に地図を彫ってまで、ね。石を何に使うんだ」

浅海は再び馨の鼓動を聞いた。先程より落ち着いているようだった。

「河を元に戻すのよ」

浅海は馨を振り返った。何か別のものを浅海の顔から読みとっているようだった。澄み切った瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。浅海は思わず視線を反らそうとしたが、馨のあまりに真剣な眼差しに目を離すことができなくなった。

「どうしてそんな目で見るの」

馨は何も答えなかった。浅海から視線をようやく外し、うっすらと輪郭を表した岩場に注意を向けた。

「会った時からそうだったわ。あなたは不思議な顔でいつも私を見るのね。そうね、まるで私が異世界から来たような」

「違うの?」

浅海は馨のとぼけた返事に笑った。

「違うわ。私は大和人よ」

「浅海、君のことをよく知らない。だけど、なんだか、昔から君のことを知っているような気持ちになるんだ。なんでかよく分からない。むしろ教えてほしいくらいだ」

「私とあなたは会ったことなんてないわ」

「そうだと思うんだけど、いくら何かを思い出そうとしても、思い出せない。そんな気持ちなんだ」

馨はそう言って無邪気に笑った。初めてそんな無防備な表情を見たような気がして、浅海もつられて笑顔になった。

「どうして人間って、説明できないような気持ちになる時があるんだろう」

「そうね」

浅海はまっさらな心を持った青年の手の温度が心地よかった。切り立った崖が眼前に迫ってきた頃、馨は浅海の手を逆に握り返した。

 暗闇に佇む灰色の巨塔は数日前に来た頃よりも陰鬱な空気を纏っていた。美しい白い狐が変化したようにも見えた。柔らかい毛の広がった尻尾が巨塔の周りを強固に取り巻いていた。2人がロンドの背から降りると、ちょっとした運動をしたと言わんばかりに白馬は体を震わせた。

「ここで、旅は終わるはずだった」

浅海は崖の前に手を翳した。左手に田積の指が絡みついた。咄嗟に弟の名前を呼んだ。

「眠っている間、ずっとタツミ、という名前を呼んでいたよ」

浅海は翳していた手をゆっくりと下ろした。自分とそっくりな顔の造作でいつも憂鬱な表情をしていた田積の姿が浮かんだ。

「ずっと、一緒にいたの。田積という名の弟と。2人でこの大和を縦断してここまで命からがらたどり着いた。私にとって、大切な唯一の家族だった。何にも代え難い大切な人だった。けれど、私たちは離ればなれになった。でも願いは同じよ。ずっとずっと願ってきた。石を探し出し、全てを壊した黄色いあの河を浄化し、そして昔の通りに美しい青い海に戻すことを」

「もし、石にそんな力がなかったとしたら?」

浅海は馨の顔を見上げた。馨は目を細めて浅海の呆然とした顔を見つめ返した。

「どうしてそんなことを言うの」

「浅海、この石の成分がどんなものか分かるか」

浅海は馨の左手をふりほどこうとしたが、馨は決して離そうとしなかった。

「入るよ」

馨は浅海の手首を掴み、強引に足を前に進めていった。丘の上から崖の麓へ降りる時に、浅海が何度か足をとられかけたが、しっかりと支えになって、浅海の体が転げることはなかった。崖の外側から見えない岩場の陰になった所に、ぽっかりと人一人入れるくらいの穴が開いていた。

「君の旅の終点であるかもしれないし、そうではないかもしれない。でも、どちらにしても、浅海がこの石を見るのは必然なのかもしれない。俺はそう思ったからこそ、浅海たちを無碍に追い出すことはできなかった」

馨はそう言うと、一度浅海の手を離して穴へ吸い込まれていった。浅海の手の平が汗で濡れていた。こんなことは初めてだった。喉の乾きが今頃になって気になり始めた。浅海は髪をかきあげた。田積の顔が浮かんだ。だがそれも一瞬のことで、彼は何も言わずに浅海の目の前で跡形もなく消えていった。

 穴の中は漆黒の闇だった。手探りで10分ほど歩いた頃、足下が段々と明るい光に照らし出された。馨は随分前に行ってしまったようで、背中を見つけることができなかった。

 浅海のむき出しの脚が変色し始めた。岩場に反射した光が白い脚に当たっていた。浅海はその美しい光の束に心臓の鼓動が速まっていくのを感じた。

「浅海!」

不意に前方から声がした。

「馨!もうすぐそちらへ行くわ」

浅海は走り出した。そうしなければ、鼓動がものすごいスピードで耳の奥でこだまし始めて、どうにも収まりそうになかった。前へ前へと足を交互に動かし続けても鳥肌が収まらなかった。

「浅海、ゆっくりでいい」

そう呟いたばかりの馨に追いついた浅海は、背中に隠れるようにしてぽっかりと拓けた小宇宙のような煌びやかな光線が入り乱れた空間へ、足を踏み入れた。

 息を呑んだ。浅海は頭の奥を撃ち抜かれるような感覚に陥った。

 夢幻の世界だった。四方すべてにびっしりと埋め尽くされた鉱石の輝きに馨は目を細めた。青い光が乱れ、反射して真っ直ぐに伸びた光の筋が入り乱れて重なり合った。正視している間に目の奥がちかちかと点滅し、交差しているような錯覚を見た。

「浅海、これが君が探していたものなのか」

真っ青に染まった馨の横顔を浅海は呆然と見つめた。背中の傷跡が鈍く痛んだ。真っ暗な夜の闇の中で強い光を発し続けるこの鉱石が、幻の石であるかどうかを浅海は答えることはできなかった。

         *

 藤本は虚ろな目を町に向けた。あちこちで煙や炎が上がっている。夜明けが近いというのに、治安維持局のサイレンは一向に鳴り止まなかった。喧噪と悲鳴とがこの10階の雑居ビルの屋上まで上がってきた。デモ隊のシュプレヒコールも風に乗って微かに聞こえてきた。

「鬼沢はまだ生きている」

響子がいつの間にか藤本の後ろへ立っていた。

「仕留め損なったな。お陰でこの有様だ。ジョシュ・ラモスも命拾いしたようだが意識は戻っていない。防衛相が首相代行として執り仕切っている。早ければ週明けに緊急事態宣言が発せられ、実質、大和軍への宣戦布告がされるということだ」

藤本は破壊されていく町並みを見ても何の感慨も沸かないような目を向けていた。

「おまえたちが望んだ通りに進んでいるな」

「私の命令を待たずに鬼沢が独断でやらかしたことだ」

「大和軍もおまえらのいいなりだ」

同期で一番骨のある男と認めていた有本雅英も、もはや希望を失って自ら軍を辞めていったと聞いた。

「そこまでして、なぜこの平和を崩す」

響子は藤本の横に立って錆び付いた手すりに身を傾けた。まだかろうじて正常に機能している信号機が点滅していた。少しずつ空が白ばみ始めた。それに呼応するように町のあちこちに散らばった灯りが目立たなくなっていった。

「我々が息を潜めるように生きていくのが平和だったというのか」

「それも一つの平和だったはずだ」

藤本は響子に向き合った。軍服姿の坊主頭の女は瞼を閉じて外気に身を委ねていた。冬が近づいている。冷気の粒が体中を取り囲んでいるようだった。

「私は、平和なんぞ望んでいないと言ったらどうする」

藤本は顔を顰めた。

「もしそう思っているのなら今すぐこの国から消えるんだな」

「おまえだって今回のことで分かっただろう」

響子は藤本に歩み寄った。

「いかに自分が無力で、何もできず、時代の流れを堰止める小さな石にさえなれないことを」

藤本は力なく響子の灰色に濁った瞳を見返した。

「そうだな、我々は無力だ」

風が吹き抜けた。藤本は遠くの町並みを見つめた。小さな頃、ブランコに乗って揺れ動く隣の町を眺めて、一体どんな人が住んでいるのかと考えるだけで胸が躍った。高く、高く、空を突き上げるように両足を放り出した。この世のすべてが、自分の手中にあると思っていた。

 小夜はそんな若い藤本を諫めるように小言が多かった。

「一人一人が持つ力なんぞ、ちっぽけなものなのですよ」

小夜の言葉は正しかったのかもしれない。自らを突き動かしてきたマグマの塊のような熱はすっかりどこかへ行ってしまった。

「妻を守れなかった者が一体全体、これから何を守るのか」

響子の乾いた笑い声が青白い空へと浮かんだ。うっすらと姿を見せている雲に一筋の光線があたってそこだけきらきらと光っている。藤本は小夜の小さな耳を思い出した。

「愛していたならなぜ軽んじた」

「任務があった」

「言い訳だ。おまえは初めから妻を愛しているようには見えなかった。本当に大切なら放っておかない。取るに足らない存在だったということだ」

藤本はため息をついて空を見上げた。

「何が分かる。おまえこそ、人を愛したことがあるのか」

藤本は何も言わない響子の顔を見た。藤本の幼い頃のように、遠くに浮かぶ蜃気楼のような町の風景を表情なく眺めているだけだった。

        *

 浅海は拳に力を込めた。

「ただの鉱石じゃない。俺たちの体が光る理由がすべてここにある」

 馨は力なく笑って足下に転がっていた石の欠片を拾い上げた。

「これはラジウムが含まれる新種の放射性鉱物だ」

浅海は声を張り上げた。

「なんですって」

鉱石が埋もれた凹凸の激しい壁にこだまして悲痛な叫びは何重にも増えていった。

「紛れもなく人体に悪影響な物質、放射性物質を出し続けている石だ。俺たちは何も知らされず、放射性鉱物をほとんど素手で採掘してきたんだ」

馨はいつの間にか浅海の頬に伝っていた涙をそっと拭った。

「なぜ泣くんだい。これが、本当に君が探していた石なのか」

「どうして」

馨は目を細めた。目の前の少女が泣いていると、胸の奥がしくしくと痛んだ。後から後から涙が出てくる浅海の首元に両手を添えた。

「浅海、君は一体、何者なんだ」

浅海の首に手をかけた馨は、ゆっくりと力を込めた。馨は浅海の崩れていく表情を目を細めて見守った。緑色の瞳が青と混ざってエメラルドグリーンに変わっていた。

「私は、ただ」

「君は黄色い河を忌み憎んでる。俺たちだってそうだ。幻の石があるというならば、この濁りきった河を浄化できるのならそうしてほしい。でも分かっただろう。そんな石なんてないんだ。ここの石は浄化の石なんかじゃない。俺たちの祖先はずっとこの石に縛られて生きてきた。王族殺しのレッテルを張られ、人体に有害な石を発掘させられ、そうしてその石は海へ大量に投入された。それでも、海の色は変わることはなかった。誰がそんなこと俺たちにさせたのか」

「そんな…、そんな」

「紛れもなく大和人だ」

「分からないわ、あなたが何を言っているのか」

「俺だって分からなかったさ!生まれる前から決まっていたことさ!」

「馨、私には分からない、あなたの言っていることは本当に真実なの、これは私が探し続けた石ではないということなの?じゃあ、石は?河を浄化する本当の石は一体どこへあるというの!」

 馨は力を込めた。首を締められた浅海の視界はだんだんと霞んでいった。目の前の男がなぜか田積に変貌していくような感覚へと陥った。馨の顔の右半分が青い光に照らされた。これだけ明るい青の炎に照らし出されながら、真っ暗な闇へ真っ逆さまに落ちていくようだった。

「なぜこのでたらめの石を探しに来た」

「馨」

「兄は石を探す者が来たら迷うことなく殺すように言った」

「兄?」

「石を探しに来たと見せかけて、この国を滅ぼそうとする大和人を殺せ、と。そして我々を苦しみに突き落とした者どもを生きて帰すな、と。分かるだろう。僕の兄は――」

浅海の鼻先に馨は顔を近づけた。浅海は涙を流しながら、ぼんやりとした意識の中で馨の宝石のような瞳を見た。馨は言葉の先を言おうとしたが、再び口を噤んだ。

「あなたは間違ってるわ」

 掠れた声が途切れ途切れに聞こえた。馨ははっとして浅海の首から手を離した。浅海はやせ細った体を折り曲げて咳き込み、鉱石の散らばる床へ転がり落ちた。今まで少女の首を締め上げていた両手を信じられないように見た。震えは収まらなかった。馨は唇を噛みしめた。

「この石は、ウランから放射壊変したラジウムだ。それだけじゃない。まだ解明されていない放射性物質が幾つも混じり合ってできている。そんなものが海を浄化するはずがないんだ!」

浅海は半身を起きあがらせた。口の中で血の味がした。吐き出すと、黒い煤が青い光をそこだけ打ち消した。馨は屈み込み、浅海を起こそうと手を差し伸べたが、不意に足下にあった黒い血の水たまりに手の平を入れた。馨は自分の指先をそっと舐めた。

「浅海」

指先がまだ微かに震えていた。血が蛇のように絡まり、まとわりつきながら落ちていった。

「君は、一体、誰なんだ」

馨がもう一度尋ねた時、浅海は銃口を青年の額へと構えていた。

           *

 地下の一室に鬼沢が運ばれてきたのは昨日の深夜だった。移民たちがいつ場所を特定して攻撃をしてくるか分からない、と化学隊の要請で富士の兵器工場から都内の地下施設へと病床ごと運び込まれた。物々しい警備に囲まれてやってきた鬼沢の顔は白いのっぺりとした表情の病人へと変貌していたが、響子を認めるといつものように唇の端を上げて笑った。包帯で巻かれた胸元に浮き上がったあばら骨が、今回ばかりは鬼沢の強靱な肉体をもってしても大きなダメージを与えたことを示していた。響子は横たわったまま運ばれていく鬼沢に敬礼した。

 藤本は鬼沢と入れ替わるように姿を消した。ふらふらと紐の切れた風船のようになってしまった男からは何の気概も感じられることはなかった。

 響子が鬼沢の運び込まれた小部屋に足を踏み入れると、すでに体を起こして茶を啜っていた。

「ジョシュ・ラモスは生きているのですね」

「そうだ。お前と同じように半死したが」

「まあ、それはそうでしょう。急所は外しましたから」

響子は声を立てずに笑った。鬼沢は茶飲みを置くと、眼鏡をかけて、女の表情を観察するように細い目を向けた。

「響子様、私を殺そうとしても無駄ですよ」

響子は帽子を脱ぎ、机の上の書類に被せた。ベッドの端に座り、下から睨みつけるように頬のこけた男を見た。鬼沢も表情を全く動かさなかった。

「藤本が勝手にやったことだ。女房を殺された怒りに突き動かされてな」

「ほお、頭の悪いあの男らしい、と言うとでも」

「勘繰りすぎだ」

「まあ、よいでしょう。大和の奥底に眠る巨大な龍たちはすべて配備が完了しています。あとはあなたのご判断のみ。これで全ての歯車が正常に回り始めた。移民たちは怒り狂い、対大和人の姿勢を鮮明にしている。件のものが我々の思い描く桃源郷へと一歩近づけてくれるでしょう」

響子はひとしきり笑うと、鬼沢の顔に唾を吐きかけた。鬼沢は鼻孔から唇にまで垂れたものを舐め上げた。鬼沢の腹に銃口が向けられていた。

「あの男は何者だ」

「あの男とは」

「今ここで殺されたいか。お前は何か企んでいる」

鬼沢は一瞬微笑むように表情を緩めると、響子の体に覆い被さった。乾いた発砲音と共に拳銃が床へと落ちていった。鬼沢は響子の顎を掴んで顔を近づけると、唇を力強く吸った。蛇のように長い舌が差し込まれると、乱暴に口の中をかき回した。響子は自分の体に欲情する男の所業を冷静に見つめていた。鬼沢はそれに気づくと、響子のブラウスのボタンを引きちぎり、小さな胸を捻るように鷲掴みにした。

「力も賢さも何も、男には適わない女だということを忘れるほど愚かだったのですか。あなたはただの操り人形だ。黙って私たちの言うことを聞けばよいのです」

そう言って胸の先を吸うと、鬼沢は怒張した男性器を響子の足の付け根に押しつけた。

「この馬鹿女が」

鬼沢に殴られた響子は、綿人形のように頭から床に叩きつけられた。上半身だけベッドからずり落ちた半裸の女は、微かに痙攣するとぐったりと力を失った。白い胸には赤い痣が浮かび上がった。鬼沢はペニスを下着から取り出すと、手で荒々しくしごいた。すぐに快感がわき上がってくると、呻き声と共に響子のむき出しになった腹に射精した。電球に照らされて濁った光を放ち、白い腹の上で呼吸に応じて動いた。

「このくそ女、売女がっ。ふざけやがって」

鬼沢はベッドに残っていた響子の下半身を蹴り落とすと、もつれる指先を何とか動かし、床に落ちた拳銃を拾い上げた。

「お前はもう不要だ」

響子の美しい面長の顔に向けて、トリガーを引いた。


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