【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン16話

        

(16)青い鳥

 河の上に浮かぶ湯気のような蒸気が風でかき消された頃合いに、巨大な神殿が現れた。雲の立ちこめる薄暗い空の下に真っ直ぐに伸びた柱がいくつも立ちならび、彫刻が施された三角形のペディメントが佇んでいた。洪水で流出してしまったパルテノン神殿に模した彫刻もしっかりと再現されていたが、近づくと、あちこちに亀裂が入り、今にも朽ち果てそうな巨大な張りぼてと気づいた。

 浅海は轟音を立て続ける黄色い河を渡りきろうとするリアの手を離し、後ろを歩いていたジルマの背中を見送った。2人は突然立ち止まった浅海を不思議そうな顔で振り返った。河の飛沫が浅海の長い髪にまとわりつき、黄色い花飾りのような泡を残した。夜の静寂に包まれた島を前に、浅海は目を瞑った。両腕を広げた。泡が浅海の周りを舞い、そうして風に乗って空へと吸い込まれていった。ジルマは空を見上げた。雲の切れ間に数え切れないくらいの星が横たわっていた。

「なにやってるんだい、河に引き込まれるよっ」

 ジルマは不気味な海の妖怪の唸り声をかき消すように怒鳴った。

「ようやく着いたんだわ…」

 浅海は緑に溢れた島を前に深呼吸をした。浅海が橋を渡り切ろうと足を進めると、腕に鎌鼬の跡のような切り傷が生じた。ジルマはすかさず銃を暗闇に向けた。リアは微かな銃声を聞いたのか、ジルマに駆け寄ってショートパンツの裾を掴むと辺りをきょろきょろ見回している。

 浅海は目を細めた。泡にまみれた視界の真ん中に、確かに銃らしきものを構えている人物の姿を認めた。オールバックに撫でつけた髪に麻のシャツ姿で、闇に浮かぶ陶磁器のような艶やかな肌の細面の男がこちらに照準を定めているようだった。

「何だい、いきなり」

ジルマが叫ぶと、男は少し高い声で叫んだ。

「お前さんたちこそこんな夜になんだ、ここから先は島外の者は入れないことになっている。回れ右して橋の向こうへ帰るんだ」

浅海は首を横に振った。

「あんた、何者よ!」ジルマが金切り声を出すと、「このきゃんきゃんうるさい女を黙らせてくれ、間違えて撃ってしまいそうなくらいかんに障る」と苛立った声が返ってきた。

「なんですって!」

ジルマは怒りに声を震わせた。

 この幽霊橋が何十年も人を渡らせてこなかったように、津名の民と外部との接触は途絶えていた。かつて観光地として栄えていた島は、闇に紛れて陰鬱な雰囲気を醸し出していた。

 浅海は腕の立ちそうな男に銃を向けた。

「私たちは用があって来たの。決して回れ右をしてすごすごと帰れるような決意で来たわけじゃないわ。話を聞いてちょうだい」

「どんな理由があろうとも、食料やら日用品を運ぶ以外にはここ何十年、誰も渡らせちゃあいない。銃を俺に向けたって通せないものは通せないさ」

男は髪を撫でつけると、前触れもなく、浅海の頬を掠める角度に発砲した。

「帰れ。ここは渡れない」

「大切なものを探しに来たの。お願い、ここを通して話を聞いてほしい」

男の表情は闇にまみれて分かりにくかった。ただ浅海の言葉に反応して銃口を下げたのはシルエットで見て取れた。

「大切なものってなんだ」

浅海の方をジルマとリアが一斉に見た。不安の入り交じった顔でリアは唇を静かに噛んでいた。この小さな少女は、浅海が探し続けてきたものが何なのかを知らないようだった。

浅海は潮騒に負けぬように声を張り上げた。

「石を探しにきたのよ」

男は浅海の力強い声を合図にするように、躊躇いなくリアの額を撃ち抜いた。浅海が悲鳴をあげる間もなく、男はジルマの胸を撃ち、縮れ毛のジルマが地面に倒れる前に浅海の腹も撃ち抜かれた。3人は何が起きたか分からないまま、橋の袂に横たわった。男は腰に拳銃を刺すと、轟く黄色い河の泡を避けるようにして、浅海に近づいていった。

          *

 雨雲が立ち込める昼下がりだった。首相官邸の周囲はデモ隊の喧噪と怒声に包まれた。ラモスの顔写真に大きなバツを書き込んだプラカードを持ち上げる移民たちは、口々に現政権の退陣を求める声を上げた。首相の国防力の欠如が死者200人を超える大惨事を引き起こした。どこからミサイルが飛んできたのかをいまだに発表しない政権への不信感は最高潮まで達していた。ぽつりぽつりと雨雲から粒が落ち始めた頃、デモ隊は真相解明を求めるシュプレヒコールの唱和を続けた。午後4時からは首相の会見が予定されているが、国民の疑念は渦巻き段々と肥大していった。黒い雨傘を取り出した市民たちは現政権を批判するように官邸前の広場に腰を下ろした。墨で塗ったように黒く染まったその光景を窓から見ていたラモスは腕組みを崩さぬまま、カルロス防衛相に向かい合った。

「会見まで小一時間。腹を括るしかありません」

カルロスのその低い声にラモスは部屋の端に視線をずらした。

「ミサイルの発射元は間違いなく、あの富士山麓の大和の基地だ。だが大和軍は正式に発射を否定する声明を出してきている」

「他国からのものとしたとして、国民の怒りを外へそらすのは得策ではありません。隣国にも不快感を与えますぞ」

ラモスは唇を舐めた。経験したことのない大惨事に官邸は上へ下への大騒ぎだ。市民の救出は大体終えたものの、死者はこれからも増えるだろう。大和軍が移民が多い高柳を狙ったのも、もちろん分かってのことだ。

「大和軍がミサイルを否定したということは、こちらが大和軍の仕業と断定すればこれは」

カルロスは首を素早く横に振った。

「何らかの制裁を加えなければ、国民も黙ってはいない。あの議員の質問から時も経っていない。どこの誰の仕業か、分かっている者の方が多いでしょう」

しばらく使っていなかったガラス製の灰皿を机に置くと、ラモスは煙草を口にくわえた。なかなかジッポに火が灯らない。3日3晩寝ていない首相の目の下に色濃いクマができているのをカルロスは気付いていた。オールバックに撫でつけられた髪はところどころ乱れて額にかかっている。

「…首相。一つの判断、いいえ、一つの言葉でさえ今は民の心を左右するものです。慎重に現状を伝え、そして」

ラモスは鋭い目つきでカルロスを睨みつけた。

「そして、何だ。報復を扇動するということか」

カルロスは一瞬躊躇したように見えたが、深く頷いた。

「移民が何百人と殺されたのです。平和に解決できる話ではありません」

「分かっているな?それは内戦になるということなんだぞ!」

カルロスは憤然と立ち上がったラモスの赤い顔を冷静に見上げた。

「それは避けられません。あちらはミサイル発射を否定している。ですがこちらは大和軍が発射したと断定できていますし、真実に則った声明をこれから国民へ向けて出すわけです。それは大和軍への宣戦布告となるのは必至。あちらもそれを見越しての行動でしょう。その後元通りの平和な状態に戻るはずがありません。鎮まるわけがないのですから。民の怒りが」

ラモスは、感情を表に滅多に出さない目の前の男の瞳に怒りが浮かんでいるのを見て取った。

「とりわけ我々移民の怒りは」

時計の針は午後3時半を指していた。丸い縁取りのされた時計盤の上に、真っ白な羽に黄色い嘴の鳩が現れ、1度だけくぐもった声で鳴くとすぐに元いた小部屋へと引っ込んだ。ラモスは秘書官が持ってきた原稿に目を落とした。あと30分後に国民へ向けて発声する予定の、つまりは大和の未来を握る重要な原稿がラモスの手元にあった。紙の端を持った自分の手が震えているのが分かった。

「首相」

カルロスの低い声に顔を上げた。

「この会見は首相の信頼を得るにも大切な場面です」

「どういう意味だ」

親がラモスの父親と同じ、ブルーナ共和国からの移民という40代のカルロスは、俳優のように整った顔立ちをこちらに向けていた。真っ黒な縮れ毛を大きな手で撫でつけた。

「あいのこ、と呼ばれてもよいのですか。大和贔屓とも」

ラモスは力なく椅子に腰を下ろした。

「おまえは、あいのこ、という言葉が蔑称だと思っているのか」

「少なくとも、良い言葉ではありません。首相の行動一つで国民がそのような蔑称を声高らかに主張し出す可能性はあります。それは退陣を求める第一声です」

窓の外のシュプレヒコールは途切れなく続いていた。雨が本降りになってからもそれは衰えることはなかった。

「私は、あいのこという言葉はむしろ自分の存在意義を確認できるようで嫌いではない。首相の任に着いたのも、真に大和人と移民との融和を目指すためだった。その任務を果たすに、私のような存在が必要だという自負を持ってやってきた」

「その融和のために、死んだ移民たちを見殺しにすると?」

ラモスは灰皿に置いた、まだ火のついた煙草を握り潰した。カルロスは驚いたように首相の手の中を見守り、それから恐る恐る若き指導者の表情を窺った。

「私は、憎しみを何にも代えるつもりはない」

ラモスは狼狽するカルロスを置いて部屋を出て行こうとした。「首相、どこへ」

「少し早いが会見を行う。セッティングしてくれ」

カルロスが慌てて立ち上がるのを気にもせず、ラモスは木製の重厚な扉を開け放った。握り潰された原稿が、机の上で無惨な姿を見せていた。


 日明は自我を失った藤本を担ぎながら広場へ足を踏み入れた。何万人もの移民たちの声に包まれた。黒い傘が真っ暗な天へ向けて突き上げられる。雨粒が頬を打つ。首相退陣の声をあげる者たちは、気絶したように見える男を抱えた正体不明の大和人らしき男を認めると、その異様な光景に道を開けた。

 日明の前には一筋の道ができた。藤本を抱えながら、真っ白な石畳の道を踏みしめ、100年前に建てられたツタが這う重厚な造りの首相官邸を見上げた。2人の男は降りしきる雨で全身が濡れていたが、大和人に傘を差し出す者は一人もいなかった。英語で罵る声があちこちから浴びせられたが、日明は真っ直ぐに首相官邸を見つめた。

 

 どことなく自分たちに似た風貌のラモス首相がショッピングセンターの大型モニターに映し出された。傘をさした秘書官に導かれ、抗議の声をあげ続ける群衆の前へとしっかりとした足取りで現れた。ライトに照らし出された首相の表情は固い決意に満ちているようだった。

 ラモス首相は傘を閉じるように秘書官に命じたようだった。髪から雨粒が滴ったが、意に介さずマイクの前に立った。手の内に原稿はなかった。

 あれだけ騒々しかった広場は静寂に満ちた。誰一人喋らず、黒い傘で埋め尽くされたデモ隊は、首相の発声を聞き漏らさぬように集中していた。

「今回、爆撃によって命を落とした国民に改めてお悔やみを申し上げる。罪のない者が命を落とすことはあってはならない。そして、過去にも例をみないこの突然のミサイル着弾に深く遺憾の意を表する」

 マイクが広場のあちこちに反響して2重の音声を拾った。田積とさくらは一つの傘をさして、黒い雲の下で発光するモニターから一時も視線を外さなかった。今日は何人かが首相の姿を物珍しそうに見守っていた。

「この爆撃で200人以上の市民が亡くなった。けが人、とりわけ重傷者は55人。中には子供も含まれている。こんなことがあってはいけない。絶対にあってはいけない。すべての遺族、関係者に心のケアも含めて支援を行っていくつもりだ」

群衆からついに不満の声が漏れた。ラモスは真っ直ぐにカメラを見つめながら頷いた。

「ミサイルの発射元は、国内ではないことを特定した」  

田積は息を呑んだ。静寂の後にモニターから一斉に漏れ出した怒号、ブーイングにさくらは眉を顰めた。

「発射元はかなり遠くの海外からということを解析できている。ただ、事前に着弾の連絡も兆候もこちらは掴んでいない。奇襲を仕掛けてくる国があったという情報も得ていない。現に、3日経っても外国諸国のどこからも宣戦布告はない。これは何を示しているかというと、誤射、である可能性が高いということだ」

怒声が響きわたった。群衆は再び傘を突き上げ、抗議の声を天へ向かって吐き出した。

 田積は足が震えるのが分かった。群衆の抗議の声に驚いたように、先程より多くの市民

がモニターの前で足を止めていた。田積は繋いでいたさくらの手を離した。さくらは傘から手を離し、田積の肩を抱いた。傘が音もなく水溜まりに落ちた。ふと見上げた田積の顔を見てはっとした。モニターの中の首相を睨みつけるようにして唇を噛んでいた。さくらは田積の肩からそっと手を離した。


 首相はブーイングの声をものともせずに淡々と話し続けた。

「誤射であれば、大和国としてできることは、他国を非難することではなく、けが人に出来得る限りの医療を提供して回復を目指すことだ。そして一刻も早い復興の道を目指さねばならない」

日明は表情を変えずに、少し意識を取り戻した藤本に気付きながら首相の会見を聞いた。隣にいた年配の移民の女が英語で怒りをぶつけた。藤本はうっすらと瞼を開けてラモス首相の言葉を耳に入れているようだった。

「嘘をつくなっ!なんでそんな嘘をつけるんだっ!大和人がやったってみんな分かっているんだ!」たどたどしい大和語で、群衆から怒りの声があがった。

「私たちが力を合わせてすべてを解決に導くほか、道はない。どこからミサイルが発射されたかということを闇雲に探るより、今苦しんでいる被害者の方々の支援を第一に考える。以上だ」

 ラモスは一息置くと、踵を返して官邸の奥へと戻っていった。記者たちにあっという間に取り囲まれたが、質問が聞き取れない程の喧噪に再び広場は包まれた。護衛団は、首相と記者陣を官邸へ押し込めるように包囲した。

 日明は微笑みを浮かべると、しばらくして元来た道を引き返した。2人が大和人であると認めたデモ隊は、日明と藤本に石を投げ始めた。日明は微笑みを消さなかったが、藤本の腰から日本刀を抜いた。悲鳴と共に周囲から蜘蛛の子を散らしたように人が去っていった。日明は頬を擦った。石が当たっても痛みを覚えることはなかった。


「どうしてここまで嘘を貫き通すんだ」

「仕方ないことよ。もし、大和人の仕業となれば内戦になるわ。苦渋の決断よ」

さくらは苦笑いを浮かべた。だが田積は首を横に振った。

「人が死んだんだ」

「それは分かってるわ、でも首相だって」

「罪のない人が死んだんだ。嘘をついてまで、その人たちを冒涜する必要はあるのか」

「仕方ないわ、だってここでこう言わなければ、大和人は今度こそ根こそぎ殺されるわよ。そんな地獄が待っていていいと思うの?あなたは大和人が滅んでもいいというわけね?」

田積はさくらの声に顔をあげた。通りすがりの大和人も面食らったようにこちらを見た。雨がさくらの長い髪を真っ黒に濡らした。毛先から滴る水が後から後から地面へと吸い込まれて足下の水溜まりに波紋を残した。田積は姉の腕から次から次へと吹き出していく血を連想した。

「命は平等だ。真実を隠しちゃだめだ」

「真実を認めてどうなるの?優先して守られるべきなのは、私たちのはずよ。私たち大和人が守られなくてこの国は成り立つの?元々この国に平和に暮らしていた大和人が消えてしまうかもしれないのよ。国を乗っ取られて、命まで奪われて、絶滅させられるの?私たちの国よ、ここは。もう我慢するのはたくさん。ここは私たちの国なのよ!」

田積はさくらの次第に激しさを増していく口調に口を閉ざした。雨音が激しくなっていた。目の前の涙を流してこちらを見る女性が一瞬、浅海の面影と重なった。決して取り乱さない浅海に。

「守られるべきは大和人のはず、田積だってそう思わないの?いいえ、どうしてそう考えてくれないの」

「今この国で生きて、暮らしている人たちは大和人だけじゃない。真実を闇に葬ってまで僕たちだけ守られればいいのか?」

さくらは涙を含ませた唇を固く結んだ。田積は絡みついた髪をさくらの口元から剥がした。

「結局、人種に振り回されているのは僕たちじゃないのか。人種の括りでは区別できない、今、ここに、大和にいる人たちが大和人なんじゃないのか。その大和人が何百人も死んだんだ、それをすべて否定するのはできないんじゃないか」

「あなたの言っていることは偽善よ、ただの偽善なのよっ」

田積は怒りに涙を流したさくらと向き合った。

「なぜあなたはそこまで移民の肩をもつの」

「肩をもつとか、そういう問題じゃない。僕だって今、ここでこうしている大和人の一人に過ぎない。その一人としてどうすべきか考えてるだけだ。真実を明らかにした後の結果は、内戦という道だけじゃない」

「それしか未来は見えないわ」

「いや、必ず、別の道があるはずだ」

2人は対峙した。

「分からず屋。だからあなたはまだ子供なのよ」

さくらの言葉に田積は眉を顰めた。突き放すような鋭い眼光に鈍い痛みを覚えた。

「確かに、僕はまだ子供だ。まるで実現できないような絵空事を唱えて駄々をこねる子供のようなものかもしれない。でも、だからこそ分かる。今、大和が向かっている正しい結末というものが全く正しくないって」

「無駄な血を流すわけにはいかないわ。ましてや私たちは殺されるのかもしれないのよ。あなたはっ…私が殺されてもいいの?移民がこの平和な町に押し掛けてきて、そして私の体を裂いて殺そうとしてもいいっていうの」

田積は咄嗟に叫んだ。

「そんなことは言ってない!僕が一番大切なのは」

田積は顔を覆った。目の前のさくらの混乱した瞳を見るのがつらかった。徐々に開いた手の平を力なく下ろした。前を向いた。

「決して、内戦という一番下劣で多くの犠牲を払う恐ろしい結果にしてはいけない。いや、僕がそうはさせない。この国に昔から住み続けてきた大和人と移民とを引き裂くきっかけにしてはいけない」

「あなたにできるの?子供のあなたに」

「できるさ!」

「あなたはもう、この国がどうなってもいいんじゃないの」

「そんなことあるわけないじゃないか!さくらが生まれて、生活して、笑って、これまで暮らしてきた国なんだ!必ずこの先もさくらがたくさん笑って、死ぬことなんかに怯えないで幸せに暮らしていける国にしてみせる」

田積はさくらの肩を両手で掴んだ。

「守る。僕が守る。絶対にやってみせる。何があろうとも、必ずこの国を守ってみせる。不幸な目をした人たちばかりのこの国を変えてみせる。そして人種なんて関係なく幸せに暮らしていける国にしてみせる。それが、それこそが…僕の役割だ」

田積は目を見開いた。

2人はしばらく口を開かなかった。スコールのように激しい雨が吹き荒れた。さくらの花柄のロングスカートが水を吸って重いはずなのに、風に吹かれて舞い上がった。

「田積」

さくらは顔を歪ませると、田積の頭を抱えるように抱き締めた。雨粒が口の中に入って苦い味を残した。

「わざと、僕に」

さくらは首を横に振った。涙はどこかへ吹き飛んでしまった。花びらが河の流れに乗ってどこか霞へと消えていくように。人が行き交う街中で出会った女性を思い出した。目が合った瞬間のことを覚えている。毎晩、忘れることはなかった。さくらはいつも夜の闇に光る宝石のように美しく、そして儚い霞のような存在だった。

「見つけたじゃない、あなたが」

田積は力強くさくらを抱き締めた。

「あなたがあなたでいることの意味」

田積は目を閉じた。

音もなく逆流してやってきた黄色い河があっという間に2人を取り巻いた。高層ビルの10階、20階を生き物のように這って覆い尽くし、街灯、煉瓦造りの歩道、嬌声を上げて笑い転げる通行人、発光するモニター、空を浮かぶ玩具のような飛行船、この宇宙都市のすべてを飲み込み、四方に泡を散らした。

 田積が夢にまで見た、世界が河に支配された最期の光景だった。さくらと共に河に飲み込まれ、浸食されて海底へと沈み込んでいった。苦しくはなかった。田積の指にさくらの長い髪の先が巻き付き、2人はその小さな繋がりに安心するように強く抱き合った。

 もう怖くはなかった。

 田積はさくらの気道に息を吹き込むように唇を重ねた。さくらは泡を吐き出し、愛おしそうに目を細め、長い永遠に続くキスをした。田積は泡にまみれたさくらの体を抱き寄せた。ジャスミンの花の香りが漂った。


そっと田積の体から身を離した。

「津名に行って。お姉さんが待っているわ」

「今、なんて」

狼狽する田積の手をそっと握った。

「あの日、私たちの前にいきなり現れて弟がこの街で暮らせるようにと頼んだのはあなたのお姉さんよ。あの夜、私と佐藤があなたに話しかけたのはただの偶然じゃないの」

「なんだって」

潮が引いていった。黄色い化け物があっという間に街から消えていった。さくらの体中についた泡も跡形もなく幻のように弾けていった。

「あなたを愛していたから、お姉さんはあなたをここに置いていこうとしたのね。でも私に最後、そっと津名に行くことを伝えたの。何でだと思う?」

田積は混乱した頭で必死に浅海の面影を探った。いつも、涼しげな目で自分を見守っていた。

「それはお姉さんにも分からないんじゃない?ただ、どうしても切れない最後の糸というものがあって、それだけは言い残していったんじゃないかしら。言葉では説明できないあなたへの思いね」

さくらは空を仰いだ。

「田積、黙っていてごめんなさい」

「さくら、僕は」

「探しに行くのよ」

田積は手を伸ばしたが、さくらはすり抜けるように身を交わした。

「そうね、あなたが探しに行くのは石でも、お姉さんでもない」

「さくら」

「早く行くのよ。一刻も早く。もう振り返らないで」

「僕は」

「私はここにいる。あなたはここから発つ。それでもあなたは、私の運命の人に変わりないわ。いつまでも、いつまでも。私の命が尽きるまで」

 さくらは真っ直ぐに前を向いて笑ってみせた。

 田積は唇を噛みしめた。いつの間にか固い雨は小雨へと変わっていた。涙が溢れた。小さな子供のように顔を歪ませた。息が詰まる。黄色い河はもうどこにも見えない。涙を拭った。拭っても涙は止まらなかった。さくらに背を向けた。会ってから初めて背を向けたことに気が付いた。

 田積は一歩を踏んだ。もう一歩を踏み出し、さらにもう一歩目を進もうとして後ろを振り返ろうとしたが、思い止まった。そうして突き動かされるように走った。桃源郷の煉瓦造りの歩道を駆け続けた。

 さくらは顔を上げた。ビル風が吹き抜けた。見たことのない大きな黄色い泡の飛沫が2つ地上に降り立つと、2匹の狐に変化してこちらを窺うように顔を向けていた。狐たちはじゃれ合いながらまた人混みへと走り去っていった。後に残った無邪気な笑い声と共に、少年の姿は跡形もなく消えていた。

             *

 10頭の馬が風に靡く緑の中を駆け抜けていった。屋根瓦のある大和風の家屋から浅海は首だけを出して、気持ち良さそうに大地を踏みしめる白い馬たちの表情を眺めていた。ほんのりと甘いねぎの花の香りが室内に流れてきた。

 ジルマはまだベッドの上で眠ったままだった。無理もない。痲酔銃をまともに食らった挙げ句、これまでの長旅の疲労も溜まっている。小さな体のリアは、すっかり目を覚まして外で馬とじゃれ合って楽しそうな笑い声を立てていた。

 部屋の扉がノックされた。浅海が返答すると、真っ白な髪色の若く美しい女がおずおずと入ってきた。肌も虹彩の色も雪を溶かしたように真っ白だった。高い鼻梁とアーモンド型の大きな瞳を持つ彫刻のような造作の女だった。齢は20くらいだろうか。

「ゆっくり休めましたか」

「おかげさまで」

「ごめんなさいね。兄が手荒な真似をして。私は藍と申します。馨の妹です。ここは津名の唯一の集落です」

とりわけ体格の良い白馬に乗った青年が、昨夜3人を痲酔銃で撃った馨という男だった。昨夜は闇に紛れて見えなかったが、浅海は陽光の下ではっきりと浮かび上がった男の顔にはっとした。

 藍はその表情に気づいたのか、そそくさと扉の方へ寄ると「ついてきてください」と小さな声で言った。浅海は窓枠の桟にもたれ掛かっていた体を起こした。「どこへ」

「村長の元へお通しします」


 浅海は日傘をさすアルビノの体質を持っているのであろう藍の後ろをついて行った。秋晴れだった。青い空が目に染みるように眩しかった。大和の今年の夏は雨ばかりだったので気分が少しだけ晴れるような気がして太陽の心地よい熱に手の平を向けた。

 大きなひび割れに浸食されたアスファルトを歩いていくうちにジープの往来が2、3あったがもちろん地元の住民のようだった。少し暑いくらいの陽光に照らされ、藍の後ろについて黙々と30分程歩き続けた。砂漠ばかりの大和で、山間の緑に覆われた景色はしばらく見ない美しい光景だった。民家はその間に一つもなかったが、時折ぽっかりと広がった広場に収穫された玉葱が積み上げられていた。

 富士山麓以外にも美しい自然が残っていた。浅海はこの島の奇跡に胸がいっぱいになった。

 着いた家には「津名自治会」という木製の看板が門口に掛けられていた。先程の若者たちの家より一回り大きい、やはり緑の屋根瓦の大和風建築だった。引き戸から藍が村長に挨拶をすると、奥から低い男の声が聞こえた。道中何も話さなかった藍は、「どうぞ」と浅海を家の中へと誘った。

 狭い薄暗い廊下を抜けた突き当たりに「集会場」と書かれた部屋があり、藍は扉を開けると一つため息をついた後に浅海を通した。

 20畳ほどの昔の道場部屋のような広い空間に、村長と見られる30代ほどの男、その両脇にやはり同世代くらいの5人の男たちがあぐらをかいて憮然とした表情で座っていた。腕組みをした男たちは、浅海の様子を黙って見守った。杏色の座布団が2つ用意されていて、藍はそのうちの奥の座布団を指さすと「そちらへどうぞ」と穏やかに微笑んだ。少しでもこの緊迫した空気を解そうとしているようだった。

 浅海は一言も喋らない男たちに正座で向き合った。浅海があちこち汚れた麻のシャツを着ているのに対して、6人の男たちは折り目のついたシャツ姿で腕組みをしていた。藍は「こちらが昨夜村を訪れた女性になります」と涼やかな声で伝えた。

 浅海は躊躇なく立ち上がった。深々と頭を下げた。「浅海と申します。突然村にやってきて驚かせてしまい、申し訳ありませんでした。一緒に来た2人は私の親しき者たちです」

村長らしき男の横にいたオールバックの男が座れ、というジェスチャーを交えて低い声で返した。

「我々が必要最低限しか外部との交わりを持っていないのを知っているか」

浅海はしばらく考えた後、首を横に振った。

「ごめんなさい。知っていました」

「それで、用件は何か」

藍は不穏な空気を和らげるように「まあまあ、まず皆様、お茶でも飲んで気を和らげてくださいな」と部屋の一角にある剥き出しの台所へ向かおうと中腰になった。浅海は立ったまま、男たちの顔を見下ろした。

「単刀直入に申し上げましょう。一刻も早く、黒い石が欲しいのです。河を鎮める石を手に入れるために黒後からやって参りました」

藍は立ち上がりかけていた半身を再び座布団に沈めた。力強い声が道場の隅々にまで響いた。

 村長は腕組みを解いた。たっぷりとした顎の肉を触った。そのまま黒い短髪を撫でつけるようにして手の平を後頭部にまでずらした。相変わらず表情は読み取れなかった。檜の匂いが立ちこめた。

「私たちの顔を見て違和感がなかったか」

浅海は何かを言い掛けたが、一度言葉を押し込めるように黙った。

「移民でも大和人でもない」

藍に促されて再び座布団の上に座った浅海に、村長は厳しい眼光を向けた。

「つまり、俗に言うあいのこだ」

「確かにハーフはあまり大和本土で見かけません。先程何人かお会いしました島の住民全員がそうであるのは少し驚きがあります」

村長は恰幅の良い体躯ではあるものの、魅力的な顔立ちだった。本土では、移民と大和人との間に生まれた子供は忌み嫌われていたが美しい風貌の者が多い。村長の脇に構えている男たちも黒髪に掘りの深い顔立ちながらどこか甘さの加わった麗人が揃っていた。

「その昔に我々の祖先は強制的にこの島に送り込まれ、外部との接触を禁じられた。そして地元の大和人の島民と子を為した。血は混じるほかなかった。外部との関係性については変わらず受け継がれている。島外に働きに行くことも許されていない。移動の自由は奪われている。聞いただろう。あのぼろぼろの橋を月に1度、物資配達の者がやってくるだけだ。基本的には自給自足で全員が農業に従事している。よほどのことがない限りは島外から人は来ない。皆事情を知っているからな。つまり」

村長は睨みつけるようにして少女を見た。

「ここは見捨てられた島だ」

藍が視線を落としたのが分かった。板張りの木目が人の目に変わって一斉にこちらを攻撃しているようだった。

「なぜです。あなた方が望んだことではないでしょう」

「君は知らなかっただろう。我々のような者がいたことを」

村長は立ち上がると、床の間に飾られていた桐箱を持ち込んだ。脇にいた男が蓋を開けると、和紙に墨字で「封」と大きく書かれていた。その紙をよけると、古びた回転式の小型拳銃が収まっていた。「これは、何ですか」

藍が微かに呻いたのが聞き取れた。白い睫を簾のように下にして今にも目を閉じてしまいそうだった。

「これは、我々の呪縛の元凶だ」

村長は桐箱を床に置いた。銀色に底光りする銃を持ち上げた。

「君が黒い石を探しに来た、ということは、言い伝えに間違いはなかったということなのだろう。ある意味で、私たちは君を待っていた。長い年月を。だが、そう簡単には石を渡すわけにはいかない。我々の呪縛が解けない内には」

「どういうことですか。私を待っていた?この銃は何に使われたのです、これは誰のものですか」

浅海が矢継ぎ早に質問するのを藍は心配そうに見ていた。村長は首を横に振った。脇にいる男たちは相変わらず眼光鋭く浅海の様子を窺っていた。村長は鼻の上に皺を寄せて銃を憎々しげに見つめた。

「これは、100年前、我々の祖先が王女を射殺した時に使った拳銃だ」

村長は銃を力なく握った。「我々はクーデターを企てた罪人たちの子孫としてこの島に閉じこめられている。魂もろとも」

         

 平屋建ての民家に戻ると、ジルマがようやく目を覚ましてベッドの端に腰を下ろしてぼんやりと窓の外を眺めていた。馬に乗せてもらっているリアの無邪気な笑い声が響いた。浅海の顔を見ると、ほんの少しほっとした表情で顔を緩めた。

「私たち、生きてたのか」

「そうね。長い間眠っていただけだったようね」「ここは一体どこだい」

浅海はジルマの使っていたブランケットを畳み直した。シーツのあちこちに砂粒が落ちている。河の飛沫や土埃にまみれて辿り着いたことを思い出した。体力的に過酷であっただろうリアがもう駆け回っている姿を見ると、子供の回復力の速さには驚かされた。

「津名島の唯一の集落よ」

「あいつらは?大和人か?」

浅海は馬を操る無邪気な笑顔の若者たちに目を遣った。その中に物静かな藍の姿はなかった。

「大和人と移民との血が混じっているわ」

「へえ」

ジルマは珍しそうにまた窓の外に視線を移した。「一応大和人との婚姻は制限されているんじゃないの」

浅海はシーツを畳む手を止めた。壁に掛かった年季の入った古い鳩時計が正午を合図にボーンボーンと鳴った。ジルマのお腹が最後の鐘を聞き終わる前に小さく鳴った。

「ここは危険だわ。村を抜けて橋の向こうへ帰ったほうがいいわ。あなたの身の軽さなら闇に紛れて逃げ出せるはずよ」

「そりゃあ危険だろうさ。いきなり痲酔銃で撃ってくるようなやつらだし。で、あんたは私が逃げたとしてその後どうするんだい」

 ジルマは浅海の顔も見ずに首をぐるぐる回し始めた。縮れ毛の頭が上下する度に細い肩がぽきぽきと鳴った。 

「私はまだいるわ。リアも連れて行って欲しい」

「なあにを馬鹿なこと言ってるんだい。あのガキを連れて帰るほどお人好しじゃあないよ。しかもなんでここまであんたについてきたか分かってるのかい。まだあんたの寝首をかく機会を狙ってるんだから」

浅海はため息をついた。

「そんなこと言ってられないわ。私たちは捕虜になったのよ」

「ん?どういう意味だい」

 ジルマが浅海を振り返ると、扉が勢いよく開いた。浅海は眉根を顰めた。橋の袂で銃撃してきた青年が立っていた。ジルマが驚いて声を失うのが分かった。

          *

 藤本がようやくはっきりと意識を取り戻したのは、崩落した高柳の町で移民からの暴行に遭ってから3日後のことだった。頭を強く殴られたことはうっすらと覚えてはいるが、その後は記憶が曖昧だ。ジョシュ・ラモスの演説する低い声も聞いたような覚えがある。ベッドで目を覚ますと、机で書類に目を通す響子の後ろ姿が現れた。

「気がついたか」

振り返りもせずに響子は頭を包帯でぐるぐる巻きにされた男に投げかけた。

「なぜここにいるんだ」

「日明が運んできた」

藤本は慌てて起きあがろうとしたが、全身に鈍い痛みが走り、呻き声と共にベッドに上半身を伏せた。

「小夜は今、どこへ」

響子はようやく顔を見せると、にやりと笑って情けない姿の将校を見下ろした。山奥の神社に籠もった世を儚む尼のように頭髪は綺麗に剃り上げられていた。

「お前には守れなかった、とだけ」

「何を言ってるんだ、どこへやった」

響子は軽蔑するように目を細めて高笑いした。部屋の隅にかかった蜘蛛の巣が振動するようだった。

「お前はミサイルの照準が高柳という情報も知らなかった。お前の大切な奥方は瓦礫に埋もれて移民と共に死んでいるところを発見された」

「なんだって」

「仕方がない。事前情報もなく逃げられるものではない」

「嘘だ」

「さて、信じるかはお前次第だ」

「お前らが…撃ったのか」

藤本は怒りで目の前が真っ赤に染まっていくのを感じた。司令官を語るこの女を殺してやりたかった。

「私ではない。鬼沢だ」

よろよろと立ち上がり、響子に掴みかかろうとしたが、しばらく歩いていない脚は言うことを聞かずに床に崩れ落ちた。

「このやろうが、殺してやる」

響子は床に這い蹲る哀れな男の側に屈み込んだ。頬をつけた木の床から、昔、藤本の母が正月に箪笥から出す着物の匂いが漂った。

「もうお前に家族を語る資格はない。鬼沢の奇襲にも対応できないのだからな。同じ軍の者がやらかしたことにも気づくことのできなかった愚か者だ。正義を語ることもできない。家族さえ守れないのだから」

「なんだと」

響子は藤本の肩を掴んで半身を起こした。怒りで肩が震えていたが、それを封じるように強く握った。

「妻は死んだ。お前の軍人としての地位も私の手中にある。さて、ここで質問だ。お前がずっと守ってきた正義やら大和への思いとやらはまだ、しかと、残っているのか?」

無機質な声が鼻の先を突いた。小夜が死んだことは信じられなかった。賢く強い女だ。もしかしたら響子が藤本を欺くための嘘をついているかもしれないと考えたが、小夜が死んだ光景が目の前に一度浮かぶと、歯車が一つ欠けたかのように思考がうまく回らなくなっていた。

「俺は」

「鬼沢を殺せ」

響子は藤本の手の平に布に包まれた小さな瓶を握らせた。

「今回の件は鬼沢の独断だ。私のことを無視した越権行為だ。あの男は危険だ。お前の妻を殺したのもあいつだ。仇を取るつもりなら殺せ」

 紫のビロード地の布を開くと、藤本は小さな声を上げた。血にまみれた眼球が一つ、瓶の中からこちらを覗いていた。震える指で眼前に持ち上げると、藤本は地の底を這うような長い唸り声を立てた。

 瓶が手の内から転がり落ちた。その弾みで蓋が開き、飛散した血が古びた木板の間に滑り込んでいった。橙色の透き通るような虹彩の中に所々、黄色い向日葵の花びらのような筋が見えた。

 いつも藤本の帰りが遅いとふてくされたように顔を覗き込んできた妻のものだった。意にそぐわないことがあると、虹彩の中に混じった黄色が強く発色する。今、床に静かに横たわるこの丸い塊は、妻の美しい瞳に間違いなかった。

 藤本は耐えきれなくなって部屋の隅に吐瀉物をぶちまけた。

「鬼沢を殺せ。私を許せないなら、その後に殺しにくればよい。心臓を握りつぶすなり、な」

いつの間にか部屋に現れた日明は、藤本の嘔吐し続ける背中を見ていた。日明は床に転げた美しい水晶のような眼球を拾い上げ、大切な物を扱うように胸元にしまった。

          *

 国会では連日葵党へミサイルの質問の矛先が向かっていたが、知らぬ存ぜぬの対応に批判の声が飛び交った。首相に追求する姿勢はなく、外国からの誤射と断定するだけで主張を変えようとしない。大和軍の仕業と声高に主張するサイクロプスを筆頭に、時に乱闘騒ぎになる中、国会周辺をデモ隊が取り巻いていた。

 導火線に火を付けるのは簡単だった。それまでは黒い傘を片手にシュプレヒコールをあげていたが、群衆の中の一人が国会を警備する治安維持隊へ向けて火炎瓶を投げ込んだ。火はすぐに消し止められたが、興奮した群衆は次々に投石を始めた。動転した治安維持隊の兵士が、空へ向かって威嚇射撃をしたのを皮切りに、デモ隊は最終手段である暴力的抗議へと舵を切った。

 町中では大和人に対する暴行事件が頻発した。男は殴られ、女は髪や服を切られる被害が続出した。そういった報告をカルロスの口から聞かされる度、ラモスの表情は日々険しくなっていった。政府は、しばらく大和人の外出を控えるように呼び掛けた。日頃からマイノリティとして息を潜めるように生活していた大和人からは、何の抗議もなかったが悲痛な叫びは伝わってきた。

「これが憎悪の連鎖だ」

カルロスは苦い顔でニュースを見つめた。

「ここに来て、経営不振で撤退していたはずのテレビ局が戻ってきて盛んに国内の実状を報じている。事は大きくなるばかりです。まあ、こんな大惨事をなかったことにしようとしているのですから、当たり前の展開ではありますが」

ラモスは昼夜問わず響くデモ隊の声に慣れたように髪をかきあげた。

「内戦になるよりはましだ」

「もはや民の勢いは止まりません。内戦は避けられないのではないでしょうか」

「そんなにお前は戦争したいのか。そうして、この国の民も戦争を選ぼうとしているというのか」

ラモスはそう言って皮肉めいた笑みを浮かべた。

「出掛けるぞ」

「どこへ」

秋晴れの薄水色の空が広がる昼下がりだった。視界は良好なのに、この国の未来の一寸先は闇であることが不思議だった。

「私が当選して総理大臣になってから、確かにこの国では融和の機運が高まっていたはずだ」

「…はい。歴史的な変革でした」 

「やり遂げなくてはならない時がある」

カルロスは、首相が突然立ち上がって部屋を出て行く背中を見守った。「首相」と呼び掛けて、ふと、いつも傍らにいたあの男を唐突に思い出した。情に厚く、首相からかわいがられていたが少し間抜けなところもあるペドロという補佐官だった。理由のよく分からない出張に行ってから帰ってこない。

「あいつ、どこ行ったんだ」

 考えを巡らせている内に、首相がセスナを手配する怒鳴り声がなだれ込んできた。

          *

 緑色の瞳に黒い巻き髪、狭い額の下に真っ直ぐで形の良い鼻梁、しっかりとした造りの彫刻のような顔立ち。人を斜め下から見上げるような斜に構えた眼差しが印象的だった。ジルマが、浅海と全く同じ理由で唾を飲み込んだのを横目で見た。

「おい。お前ら、いつまでここにいるんだ。早く出て行け」

ジルマは手元にあった麦の殻が入った枕を投げつけた。突然の反撃に驚いた青年は素っ頓狂な声で「なんだ!」と叫んだ。

「勝手に痲酔銃で眠らせて連れてきたのはおまえらだろうが!何が出て行けだか」

馨を突き飛ばすように、初老の恰幅の良い女性が部屋の中に入ると、サイドテーブルに麦茶の入ったコップを3つ置いた。

「馨、何の説明もしないでそんなこと言ったって、分からないだろう。ごめんなさいね。馨の母の時子です」

頬の横に刻まれた皺は見えるが、美しい顔立ちの母親だった。緑色の瞳の形は馨に似ていた。

「ありがとうございます」

浅海は肘掛けいすに腰掛けると、瑠璃色のガラスコップに入った冷たい麦茶を流し込んだ。喉がからからに乾いていたことに気づいた。リアはまだ白馬と戯れて遊んでいる。こう見ると、年相応の無邪気な子供だ。

「疲れは取れたかい。手荒な真似をして申し訳なかったね。何しろ外部から人が来ることに、男たちは戦々恐々としている」

「手荒な真似って。俺はあの日、見張り番だっただけだ」

馨の母は息子を諫めるように右手を上下に動かした。20そこそこの若者は口を尖らせてベッドの脇に腰を下ろした。

「毎晩見張りを立てているのか。何にそんなに怯えているんだ」

ジルマは馨に歯を剥き出しにした後、昨日の恐怖を打ち消すように腕を組んだ。

「見たところ、あんたは移民だね。このお嬢さんとどういう関係だい。あの女の子も」

ジルマは浅海の顔をちらりと見ると、「ただの行きずりよ。強いて言えば、監視人?みたいな」と早口でまくし立てたが、馨の母は首を傾げた。

「まあ、いい。村長たちから話は聞いてきただろう。私たちの祖先がこの土地に住み着いてからずっと、石を託すべき者について伝承されてきた。託すべき者とは、つまりはあなたたち、王族の関係者の末裔だね。ずっと待っていたはずだったんだけど」

浅海は小さく頷いた。この島の違和感も肌で感じ取っていた。ジルマの表情が固いのも、島民が決して歓迎していないことを分かっているからだ。

「けれども、私たちに石を渡すわけにはいかない、ということですね」

時子は、真っ直ぐな浅海の視線から逃れるように目を伏せた。

「私に石を渡せば呪縛は解けるはずです。どこの誰とどういう約束をしているか分かりませんが、石を渡せばあなたたちは自由になるんじゃないのですか」

馨は黙りこくった母に代わって体を乗り出した。ジルマは苛立ちを隠せずに側にあった麦茶を一気に飲み干すと、盛大にため息をついた。

「そうはいかない状況になっているんだ。とにかく、今夜ここから出て行け」

ジルマは首をぐるぐると回して軟骨を鳴らした。馨が眉を顰めると、口笛を吹いて脚を組んでみせた。

「ばっかじゃないの。浅海、こんな時までいい子ちゃんでいてどうすんのよ」

「ジルマ、言葉に気を付けて」

「はっきり言ってやるわよ。あんたたち、何かを隠してるわね?この浅海って奴はね、命がけで世代またいでまで石を探してるわけよ。なのに石は渡せませんってどんな意地悪?その石でこの化け物みたいに膨張していってる河を鎮めるんじゃないの?私の認識違いかしら。誰か不幸になるのかしら」

ジルマが一気にまくし立てると、馨は不快そうに鼻の上に皺を寄せた。

「お前は黙ってろよ。ただの移民だろうが」

時子が慌てて立ち上がるより前に、ジルマは自分よりずいぶん上背のある馨の胸ぐらを掴んでいた。

「ただの移民ってなんだよ、ただのって。移民は何も語っちゃいけないっていうこと?あんたこそただのあいのこだろうが」

「あいのこって言い方、やめてくれないか。不快だ」

「何度でも言ってやるわ。このあいのこが」

「私たちは、どうしたら石を渡してもらえるの」

浅海の悲痛な声にジルマは馨の掴んでいたシャツを離した。馨は胸元を直すと、床に視線を落とす浅海を見た。リアの笑い声が遠くで響いた。

「村長たちは少なくとも石を渡すつもりはない。だって俺たちの呪縛は解けないんだから」

「呪縛、という言葉は先程も言っていたわ。それはどんな呪縛なの?どうすればそれが解けるわけ?」

馨は、詰め寄ってきた浅海の美しい涼し気な瞳に、顔を赤くしてそっぽを向いた。

「あんたには解けないよ」

「なぜ」

「魔法が使えるか?使えないだろう。あんたは魔法使いじゃない」

ジルマはその不思議な言葉に、咄嗟に浅海の顔を見た。

         

 島に渡ってくる時に見たのは、遊園地の廃墟だったようだ。巨大な神殿の柱が闇に紛れて不気味なモニュメントに変わっていた。蔦が巻き付いて長年人の手が入らないまま放置されていたのが分かる。翼を広げた天使の彫刻があちこちに倒れていたが、風雨にさらされてどこかしらが欠けていた。

 その脇には鉄錆びが目立つ観覧車が空を突き抜けるように立っていた。扉は外れて中の座席が剥き出しになっている。強い風が吹くと、提灯のように籠が一斉にふらふらと揺れた。幽霊たちが乗り込んで夜の遊園地を楽しんでいるようにも見えた。

 浅海はその遙か先に見える荒い河をぼんやりと眺めていた。しばらくしてから遊園地を通り過ぎ、歩みを進めた。空が高かった。いつか駿河で見た時よりずっとたくさんの星が瞬いていた。黄色い河を見るより心は安らいだ。浅海はTシャツを捲り上げると、腕を後ろに回して背中にある溝をなぞった。もう痛みはなかった。線と線が繋がり、曲線と点が目の前に広がる土地の地図へと浮かび上がっていく。目を瞑り、母が託した地図を指で読み解きながら、前へと進んだ。浅海はシャツを脱ぎ捨てた。

 遊園地を抜けると、一面の玉葱畑に出た。緑に塗られた畑を踏みしめ、久々に感じる土の感触に目を閉じた。優しい手に包まれていくようだった。月明かりが瞼の裏をぼんやりとオレンジ色に染めてくれていた。露の匂いが鼻をついた。自然の香りだった。

 30分程畑の先を進むと、大きな切りっぱなしの石があちこちに転がる平野に出た。浅海は目を開けた。100メートル先に馨がポケットに手を突っ込んだまま立っていた。

「やっぱり来たか」

浅海は歩みを止めた。当たり前のように青年は浅海を待っていた。

「なんで服、着てないんだよ」

馨は大和人の少女から顔を背けたが、ゆっくりと浅海の背中へと回った。

「これは、なんだ」

「地図よ」

黒い線が背中一面に這うようにして広がっていた。薫は思わず眉を顰めた。ひどい傷だったが、よく見れば確かにナイフで刻まれた地図だった。

「なんてことするんだよ」

馨はふとその傷に触れてみたいと思ったが、我に返ってすぐに指を引っ込めた。唇を噛みしめた。

「もういいから服を着てくれ」

馨はぶっきらぼうに自分のTシャツを脱ぐと浅海に投げてよこした。

「ありがとう」

首を通すと、馨の甘酸っぱい汗の匂いがほのかにした。サイズは大きかったが、夜風のひんやりとした冷たさから肌を守ってくれた。

 浅海は馨の視線の先にあるものを見た。灰色の石灰岩でできた崖がそびえ立っていた。馨は足を前に出そうとしたが、躊躇した末に浅海に向き直った。

「やっぱりやめよう」

浅海は静かに首を横に振った。夜の闇の中で見る馨の顔は、子供っぽさは消えて大人びた精悍な青年に見えた。

「やめたほうがいい。やっぱり、島から出て行った方がいい。石は諦めるんだ。理由を教えてあげようか。ここには猛獣が住んでる。みんなが言いたくない恐ろしい獣が住んでるんだよ。だから誰も中には入れない」

浅海は再び首を横に振った。不意に、ポケットの中に収められた馨の両手を引っ張り出そうとした。手に力を込めたが遅かった。浅海は背中に回った馨の両手を掴もうとしたが、すり抜けていった。馨は頑なに首を横に振った。

 浅海は突然馨の胸ぐらを押した。思いがけない力に馨はバランスを失い、2人は石があちこちに転がる固い地面に倒れ込んだ。

「いってえ」

馨は背中に当たった石をのけようとしたが、馬乗りになった浅海に両手首を掴まれた。

 手の平が浅海の眼前に突き出された。指の隙間から浅海が目を見開くのが分かった。馨は額の汗が眼球に流れ込むのを抗えなかった。

「分かっただろう」

馨は浅海を真っ直ぐに見た。手首からそっと指が離れるのを感じた。浅海の薄茶色の瞳が水鏡のように変化して炎が映り込んでいた。

「これが、理由だ」

馨の両手は狐火のように、美しい青い炎が燃え上がるように、闇の中で確かに発光していた。


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