【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン13話

(13)秘密
   藤本は気を失った響子の傍らで頭を抱えた。我を忘れて怒りをぶつけるべきではなかった。あのまま力を込めて喉仏の骨を折っていたら大変なことになっていた。

 気道を確保するため、横たわる響子のシャツの胸元を開けると、骨ばった肩甲骨が再び目についた。小夜のような女性らしい柔らかさや膨らみが全くない、無駄なものをすべてそげ落とした貧相な体だった。何も知らず、ただ悪魔の囁きを吹き込まれただけのかわいそうな人形だ。頬に涙の跡が見て取れる。

「お父さん」

藤本は驚いて手を止めた。

「いいの」

寝ぼけているようだった。眼球は瞼の下でゆっくりと左右に動き続けている。響子はいつもの険のある表情を柔らかに崩し、小さな子供が甘えるように唇を尖らせていた。

「お父さん、撫でて」

藤本は硬直していた手をゆっくりと響子の頭に滑らせた。額と頬を撫でて、先程いたぶった首元を癒すように念入りに擦った。響子は藤本の手を握り、包容を乞うように両手を広げた。藤本は困惑したが、しっかりと哀れな女の体を抱き締めた。響子は夢の底で怯えながら泣いているようだった。

「入れて」

藤本は不思議なその囁きに動じず、ただしっかりと枯れ枝のような女を包み込んだ。響子は冷たい体とは裏腹な熱い舌を藤本の口元に忍ばせた。目を見開いた。すぐに体を離そうとしたが、響子は強い力で藤本の頭を抑えていた。「口の中へ」

藤本は響子の言葉の意味に考えを巡らせ、ようやく体の底から震えがわき起こるのを感じた。響子の舌を押しやった。目の前の女は目を開いた。

「誰だ」

響子は愕然としたように目を見開いた。

「お前、何を…」

藤本が目を合わさないようにしているのを見て、響子は両手を振り上げた。「なぜこの部屋にいる。何を聞いた」

声が震えていた。

「何も、聞いてない」

響子は口元を抑え、傍らにあったゴミ箱に吐瀉物をぶちまけた。何度も続く嘔吐に藤本も知らぬ振りはできなくなり、響子の痙攣する背中をさすった。

「やめろっ」

「落ち着け。本当に何も聞いていない。取り乱すな」

「ふざけるなっ、この覗き見趣味の変態がっ。私に何をした」

「何もしていない、ただ、苦しそうだったから介抱しただけだ」

響子は再びゴミ箱に嘔吐し続けた。吐くものがないのか黄色い胃液が垂れた。藤本は肩を上下する響子の背中をさすった。

「触るな、触ったら殺すぞ」

「落ち着け。今のおまえには銃も握れやしない。それより胃が吐き癖をつけちまってる。とにかく気持ちを落ち着かせろ。痙攣が収まらんぞ」

響子は眉間に皺を寄せ、胃からわき起こる収縮が去っていくのを静かに待った。ナイフで刺されたように腹が痛い。部屋の中が靄がかって見える。目の前のものが異様に大きく見える。

「この、できそこないが」

「しゃべるな」

藤本は痙攣の収まらない響子の肩を抱き締めた。

「胃痙攣だ。安静にしないと痛みが増すぞ」

脂汗が出る痛みが全身を貫いた。微かに唸り声が出せるくらいだ。誰の手であろうとも今は背中を摩る力が少しの安らぎとなった。「痛いだろう、俺も入隊してすぐに一度、なったことがある。痛みが来たら手を握れ。力一杯握っていいから」

 男の温かい手を汗で濡らした。痛みがやってくるとスポンジのように弾力のある手の平に爪を立てて堪えた。藤本は真っ青な響子の横顔を見つめた。頼りないか細い肩を上下して、痛みに耐えるように唇を噛んだ。筋張った手の甲に右手を重ねた。藤本は上着を脱ぎ、響子の肩を覆うようにかけるとそのままゆっくりと抱き締めた。自分の行為を司ることができないような不思議な感覚に陥った。すぐに小夜の目の奥にある挑戦的な光が浮かんだ。手を止めたが、自制がきかない両腕が響子の細い首筋を包んだ。

 胃液の酸の臭いが微かに鼻をつく。意地も忘れて涙を流し、意識を失いかけるほどに藤本の腕の中で弱り切っていた。

「おまえは」

うっすらと目を開けた。真っ白な顔に所々赤い斑点が浮き上がった。

「私を哀れだと思っているのだろう」

藤本は響子の首筋に力を込めた。「それはない」

「ではなぜ抱いている」

「ただこうしていないと」

「なんだ」

瞼を閉じた。「分からない。喋るな」

「ただの胃痙攣だ」

「黙っていろ。今のお前はただこの痛みに耐えるだけだ」

自分を抱く男を突き飛ばそうにも、猫より小さな力しか出なかった。

                                    *

 首相官邸の最奥にあるラモスの部屋に来たのは、ペドロが以前に目をつけていた、まだ28歳の新進のハルモニア党員、サイクロプスだった。

「どうした。秘書もつけずに来るのは珍しいな」

 小さな巨人の異名を取るこの男は、南米からの移民一家の長男で、狡猾なところもあるが頭が切れる。移民には珍しい涼しげな目元で、時には熱く明快な政策を述べるその姿に支持者も増えていた。

 第一党のハルモニアに入党したものの、最近はラモスらとは一線を画する独自の政策を提唱し始めていた。近々離党するという噂も流れている。

「何の用かね」

「いかにも、何か用があってきたわけです」

「もったいぶるな、何だ」

「大和人の不穏な動きは耳に入っていますかな」

「なんのことだ」

「葵党員は水面下で地下にある幻の軍とつながりがあるのも分かっていらっしゃるはずです」

ラモスは動きを止めると万年筆を書類の脇に力なく下ろした。サイクロプスの血走った眼を正面から見ると、眼球を覆う膜に水分が満ちて潤んでいるように見えた。

「もう一度聞く。何の話だ」

「富士山麓にある軍の施設もご存知のはずだ」

ラモスは力強い目線をサイクロプスから気まぐれのように逸らした。「知らない。君はそんなでたらめをどこから」

「僕を若人と思って馬鹿にしていらっしゃるか」

「君はそれを突き止めてどうしたいというのだ」

「単刀直入に言いましょう。これ以上、大和人の好きなようにはさせない。奴らはどでかいブツを隠し持っている。狙いは一つ、政権転覆、クーデターだ。その昔、米国の属国であった時代に世界最強の軍隊から技術も材料も受け継いできたはずです。BUY THE AMERICANと言われれば愚直に米国の兵器を買い付けるための軍事予算を計上していたくらいだ」

ラモスはため息をついた。

「それを国会で主張するのか、君は。葵党はもはや風前の灯火。彼らにそんな力はない。君の主張する軍隊とやらは、どうやって実体を解明するのだね」

「分かっているはずだ、ええ、首相はすべてを把握してるはずです」

サイクロプスは漆喰で赤く底光りする桐箪笥に拳を打ち付けた。赤い縮れ毛が勢いよく額を叩いた。スペイン語が強烈なアクセントで流水のように繋がっていく。ラモスは再び顔を上げて怒り狂う若者に目をやった。

「何が融和だっ。首相、そんな戯言が僕に通じますかっ」

「落ち着くんだ。私たちの血には冷静という言葉がないのだろうか」

「ごまかさないでください。我々は大和の愚民に首を取られようとしているんですぞ」

冷静沈着な男だとばかり思っていたが、他と違わぬ激情型だ。間の抜けたペドロのほうがよほど肝が座っている。

「よかろう。正直なところ、富士の兵器については耳に入っている。ただ、あれはあくまで防衛のものだ。我々も監視はしている。特にどうこうしようという話にはなっていないはずだ」

「彼らは何を開発しているのですか。そこまで掴んでいるというのですか」

「もちろん分かってはいる。それを踏まえて今ここで君に話をしている」

サイクロプスは胸元のネクタイを緩めるとスチールに腰を下ろした。

ラモスは興奮する男の横顔に目を細めた。

「人間は、同じ間違いを繰り返す」

肩を上下させながらサイクロプスは顔を上げた。

「人種というただのDNAの違いに振り回され、苛まれてきた。差別が生まれ、憎しみ合い、殺し合う要因になった。この大和の場合、多民族国家になったのは、長い地球の歴史から見ればつい最近のことだ。遠くの国からやってきた移民が大量に住み着き、あっという間に大和人のシェアを奪った。政治も文化も教育も経済でさえ。彼らは苦しんだだろう。そして黄色い河の影響で健康も蝕まれ、人口もさらに落ち込んでいった。私たちは寄生虫のように彼らの国土を奪い、ついに乗っ取ろうとしている。彼らが人種というものをこれほどまでに憎いと思ったことはあっただろうか」

「首相はそのような考えを」

ラモスは首を横に振った。

「という考え方もあるということだ。私はそこまで自虐的に移民を定義づけようとは思っていない。大和人でそう思う者がいてもおかしくないということだ。ただ、そこで内乱を起こすべきなのか。憎しみ合い、我々が大和人を駆逐するか、大和人がその兵器とやらで政権転覆をねらうのか。そこに何が生まれる」

「秩序を保つには血を流すことも必要な時があります」

「甘い」

サイクロプスは目を丸くして首相を見た。

「そんな内輪揉めをしてどうする。海の向こうには何がある」

サイクロプスは高い鼻梁の先を摘んだ。

「外国です」

「黄色い河は君たちが思っているよりずっと、ずっと速いスピードで世界中を蝕もうとしている。世界の国々もそれを知っている。世界中で研究が進んでいるんだ。人類にとってどれほどの脅威なのかどの国も分かっている」

「まずは内政に目を向けるべきでしょう。現に武装している他民族がいるのですから」

「それは私にたいする意見か?」

ラモスは立ち上がった。書院造りの窓には防弾ガラスがはめ込まれている。3階から見下ろすとおもちゃの兵隊のような警備隊が首相官邸を取り巻いている。

「真に、手を取り合わねばならない時期に来ている。我々は悠長にやりすぎた」

「それは、いかにも、どういう意味ですか」

「黄色い河がある限り、壮絶な食糧の奪い合いが10年以内に勃発するだろう、その前に少しでも国土を増やしておきたいという思惑がある国も多い。大和のように荒れ果てた土地といえどもな。大和の何倍もの人口の隣国のミサイルがこちらを狙っているのを傍受している。昔のような子供脅しではない」

「隣国の脅威ももちろん分かっています…ですが」

サイクロプスは言葉に震えを隠せなかった。

「我々が持つ迎撃ミサイルでは太刀打ちができない代物だ。そう、つまり、そういうことだ」

「だからと言って、すぐに攻撃を受けるわけではないでしょう。富士山麓の兵器への対処が先だ」

「真の融和の意味を考えるべきということだ」

          *

 大系隊大将の粛正は公然の事実となった。高橋六郎の遺骨が見つかったという一報は瞬く間に軍部の隅々にまで知れ渡った。遺骨は昔から自死の場として選ばれる富士の樹海の入り口に散乱していた。行方を捜していた部下が側に畳んであった高橋の軍服を認めたのだった。鬼沢泰介を軍の裁判にかける声も挙がったが、過激派が多数を占める今の状況では手を出せるはずもなかった。

 藤本は尊敬する高橋六郎の死を知った日、切れ味の良い家宝の日本刀を腰に下げ、富士にいる鬼沢の元へと列車で向かった。いつの間にか、藤本の前には何食わぬ顔の日明が平然と座っていた。

「今度こそ邪魔したら叩き切るぞ」

藤本の底から響くような声に、近くにいた移民が席を離れていった。日明は鼻で笑った。

「返り討ちにあうのが想像できないのですか」

「俺の上司が殺されたのだ。黙って見ているわけにはいかぬ」

「いつの時代の考え方ですか。侍文化は終わったはずだ」

藤本は首を回すと、鞘から日本刀を取り出し、日明の鼻先に突きつけた。顔色を変えない男に藤本は眉を顰めた。

「お前らは何者だ」

「お前ら、とは」

藤本は唸り声をあげた。

「あの非力な女を担ぎ出して、侵略計画を宣言した。山麓では、あんなものも作っている。だが分かっているはずだ。そんな計画、簡単にいくはずがない」

日明は目を細め、長い髪をかきあげた。

「まずその凶器を鞘に収めていただけませんか」

「答えろ」

「あなたは分かっていない。奥方は手中にあると何度伝えましたか」

「そんな脅しは効かん」

列車はつなぎ目の粗い線路の上をしがみつくように走る。気温の寒暖差で間があいた箇所に差し掛かると、乗客の体を大きく揺さぶった。日明は薄ら笑いを浮かべて挑戦的な瞳を向けていた。

「脅しではありません」

「お前らの真の狙いはなんだ」

「言えることは、富士で見た兵器は同時にいくつもの街を吹き飛ばせるということ。そして決して私たちは鬼沢氏と共にあるわけではないということです」

「他国への侵略という点では同じだろう」

日明は刃先をぺろりと舐め上げた。舌から細い黒い筋が現れた。

「いつか分かる時が来ます。ただ、あなたは鬼沢氏に対抗すべきではない。多分、殺されます」

「本望だ。大将を殺されたんだ。仇は討つ」

「では代わりに私があなたの同僚も皆殺しにしましょう」

「なんだと」

「あなたはもはや軍の誰からも信頼を得ていない。鬼沢氏と同じ括りとして見られている。裏切り者、と。そんな輩は不快でしょう。消してさしあげましょう。あなたが仇を取っている間に」

日明は頬杖をついて哀れむような眼差しを向けた。

「ついでに奥方も」

「お前は何者なんだ」

藤本は日明の胸ぐらを掴んだが、目の前の男は薄ら笑いを浮かべるばかりだった。

「俺は何がなんでも行くぞ」

「ではあなたの奥方を慰め者にしようとも」

藤本は眉間に皺を寄せ、刀を下ろすと渾身の力で日明を殴りつけた。遠くに座っていた移民の親子が悲鳴を上げた。

「あいつはそんなに弱い女ではない。お前ごときの脅しに誰が引っかかるか、うつけが」

日明は唾を拭い、焦点の定まらぬ視点を正すと再び笑みを浮かべた。

「行きたいなら行けばよい。大切なものを捨て、自分の激情に振り回されてな。そうして失って気付けばよい。お前のような馬鹿はいくらでも見てきた」

藤本は刀を振り上げた。すんでのところで身を交わした日明は、窓の外に身を投じた。

「お前に何が分かるっ」

窓から身を乗り出した藤本を見上げた。車体は轟音を立てながら黄泉の世界へと滑り込んでいく。日明は線路脇に佇みながら、遠方に見える黄色い河を見遣った。

「罪深い」

 飛び交う細かな泡に囲まれ、地平線にあるべとついた忌まわしき河を見つめた。

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