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安土城天主復元研究の過程と考察④(本論・結論)

◯天守復元の先行研究の考察と類似性(特に天守地上3階を例に)

 安土城天守は、多くの研究者の方々によって、現在までに合わせて約25〜30もの復元案が作成されてきたようである。長年の研究の中で蓄積されてきた復元の叡智は非常に洗練されたものであると言え、これから筆者が安土城天守を復元していくにあたっては、先行研究の成果を取り入れることが、復元の深化につながると考えた。
 そこで今回は、天守3階を例に挙げて先行研究を振り返る中で、現在までに公表されたうちのいくつかの3階復元平面図における構造の特徴や共通性を確認し、復元の参考としていきたい。

(森先生の復元平面図は 『城郭史研究』21号「再読『安土日記』安土城天主に関する一考察」 森俊弘 東京堂出版所収の図による)
(宮上先生の復元平面図は、『国華』998・999号「安土城天守の復原とその史料に就いて」宮上茂隆 1977年 国華社所収の図による)
(佐藤先生の復元平面図は『史学研究』255号「安土城天主の平面復元に関する試案」佐藤大規 広島史学研究会所収の図による)

 天守3階は、『安土日記』や『信長公記』の記録から明らかなように、部屋の総数が下層階よりもやや少ない。そのため、3階は復元方法が幾分限定的であり、それぞれの復元平面図には、共通点が顕著にあらわれる傾向がある。 
 例えば森俊弘先生、宮上茂隆先生、及び佐藤大規先生の作成された復元平面図(上図)を比較すると、天守3階の平面規模は、南北・東西どちらを長辺とするかは別として等しく8×10間であり、その範囲内の周囲2間幅で水色、青、黄緑に着色した部屋が直線的に並び、中心部には3×4間の規模を持つ部屋が並列する(赤に着色した部分)という共通点が存在する。
 先行研究に見受けられるこのような共通の構造は、それが部屋の収まりを あることを示唆し、天守の本来の平面構造を知る手がかりとなる可能性が見込まれる。
 もちろん、3階の部屋割の復元方法はこの限りではなく、その他に存在する20数案の復元案もそれぞれ信憑性の高さが窺えることから、今後の研究の中で参考にしていきたい。

◯「天守指図」の基本構造

 ここからは、「天守指図」に記された平面構造を1階から3階の範囲に限定して確認する。
 今回の研究ではすでに、「天守指図」は安土城天守の完全に真性な平面図ではないことを明らかにした一方で、一部の線に限っては信憑性が高いことを確認した。それでは、「天守指図」のうち信頼することができる部分はどこであろうか。
 「天守指図」の諸要素のうち、問題点が少なくとも1箇所以上に見受けられるのは、書き込まれた文字、部屋の規模(両者とも『安土日記』や『信長公記』と一致しない箇所が存在する)、窓(開けられた場所に偏りがある)、破風(不自然な位置に配置されていることがある)、階段(上下階との接続に問題があることがある)、吹き抜け(記録にない以上に、本柱が意味をなさないことなど、構造的に欠陥が存在する)等である。まずはこれらの要素を信憑性が見込まれないとして一旦除外する。
 そして、この他にもしも「天守指図」に信憑性の高い要素が含まれているとするなら、それは各階ごとに加筆された情報を除外した部分であると思われる。則ち、各階ごとに異なる要素(=加筆部分)を捨象し、共通部分を抽象したことによって得られる要素は、後世の根拠のない加筆によるものではない可能性を高めると思われる。(勿論、各階は完全に同形ではないない以上、細部では真性であっても捨象されてしまう部分があると思われるが、各階のいずれかの要素の真性を確認し、それを元にして復元をしていく際、適宜「天守指図」に立ち戻って参考資料とすることで解決することができる。)

「天守指図」(右から順に1階(二重目)2階(三重目)3階(四重目)であり、西が上となる。)


共通する要素

 「天守指図」の図中1階〜3階部分を観察すると、先ほど先行研究から見出したものと等しい平面構造が各階共通していることが発見される。即ち、(南北)10間(東西)8間の平面構造をもち、中心を除いた周囲は2間幅で部屋が巡り、中心部(「天守指図」で言うところの吹き抜け空間)は6間×4間である(これは3×4間の部屋が2部屋並んだものと等しい)といった共通性である。
(なお、「天守指図」3階の北側(「天守指図」では右側が北となる)の部屋は、幅が特異的に1間分広くなっているが、これは後世になって「天守指図」を創作する際、1階・2階の部屋割を参考にしながら3階の部屋を推定的に配置していったが、それでは全ての部屋をうまく収め切ることが出来ず、やむなくその部分を3間幅にせざるを得なかったといった背景があったと思われる。)

「天守指図」より抽出した各階平面の基本構造

 このように、「天守指図」図中から、各階に共通した基本の平面構造を見出すことができたが、それを図として表すと上のようになる。この構造は、先程確認したように、いくつかの先行研究においても共通することが確認される点で、普遍性が高いと思われる。
 したがって、安土城天守の復元をする際に、この構造を取り入れることで、復元過程での筆者の恣意的解釈や根拠に乏しい推定を可能な限り排除することができる。
 そして、その基本構造に基づいた復元結果に、何らかの妥当性や合理性といったものを見出すことができるならば、それは「天守指図」に記された各階の部分的な真性を裏付ける根拠となりうる。
 そこで、今回の復元では、上図のような基本の平面構造(見た目が漢字の「回」のようであることから、ここからは便宜的に「回の字構造」と呼ぶこととする)を元にして、そこへ『安土日記』や『信長公記』に記録された部屋を当てはめるといった復元方法を取ることにする。

天守平面構造の基本単位としての「マス目」

 なお、そのような「回の字構造」は2間を基本単位として構成されていることに注目すると、上図のように、2間四方の「マス目」を南北5マス東西4マス分連ねたものであるとも見立てることができ、

名古屋城天守2階平面模式図

名古屋城を初めとして、大和郡山城、彦根城などの諸天守、さらには、先ほど挙げた安土城天守3階平面復元図にも見られるように、身屋(名古屋城天守の場合は特に中心部の大きな部屋)は2等分されていることからも、安土城天守の当該箇所もおそらく同様の構造であったということが考えられ、これら2つの観点を「回の字構造」に追加することでより具体化すると、下図のようになる。

「回の字構造」をより具体化した図

 さらに、このような構造を取り入れることで、安土城天守の断面の柱筋は均整が取れたものとなり(下図)、姫路城など初期の天守によく見られる、柱筋が上下階で整った断面的特徴を満たすこととなった。なお、このような均整のとれた断面構造は宮上茂隆先生や中村泰朗先生の復元断面図にも見受けられる。

安土城天守断面概略図
東西は全て2間間隔、南北は2・3・3・2間間隔で柱筋が通ることになる。なお、階高は便宜的に各階14尺として作図しているが、本柱の長さや天守の高さ、及び6寸勾配程度の屋根を設ける場合などを考慮して勘案すると、実際は地階12尺、1階14尺、2階12尺、3階17尺程度であったと思われる。

◯天守台の構造

安土城天守台実測図
※石垣に法勾配が付けられているため、石垣天端推定ラインには留意が必要である。
(内藤晶『国華』第987・988号「安土城の研究」附録・安土城天主復原図より引用。以降も同様であるが、筆者の加筆がある。)
安土城天守台復元図
(内藤晶先生天守台実測図や、滋賀県による平成の天守台発掘調査に基づく実測図を元に筆者作成。なお、天守台東側の虎口周辺は石垣の石が比較的小さいことや、残存天端の高さに問題があることなどから、いくらか後世に手が加えられたと思われるため、構造にやや変更を加えた。)

 安土城天守台の平面形状は、不整形の7角形であり、岡山城天守台を除き、その他全ての城の天守台には類例を見ることのできない特異的な形状である。
 安土城天守台は伝本丸と伝二の丸・天守取付台の境目上に位置し、天守台の形状は、北西・南東が鋭角の、南北に長い平行四辺形から、北西・北東・南東隅を切り取ったものに近い。南側の石垣の方が北側と比べてやや高いのは、大手道からの天守台の見栄えを意識したものであると思われる。また、南西部が鈍角となっているのは、二の丸東溜りから見える天守台石垣の迫力を強調する効果があったと思われる。
 天守台の隅が切り取られていることについては、いくつかの理由が考えられる。例えば、
・地山の起伏形状に依存したものであるから
・高層建築を建造することができる程度の強度が確保された天守台を建設する必要があったから
(実際、より崩壊の危険性が高い鋭角の北西・南東隅は、鈍角の北東隅に比べて大きく切り取られていることからも、強度を高める目的を読み取ることができると思われる。)
・天守台が、伝二の丸・三の丸と同様、1つの曲輪として定義され、天守の形状通り整形されることが目指されなかったから
といった所であろう。
 地階については、天守台と同様、北西・北東が鋭角となる平行四辺形から、強度確保のためか北西隅と南東隅を切り取ったような形状をしており、概ね天守台の形状に相似する。
 なお、地階の範囲は、天守台の強度を増すため、天守台天端から2〜3間程度の余地を周囲に設けることを意識して設定されたと思われる。事実、地階中心点となる本柱抜痕を基準にすると、地階南側が北側と比べて1間分短縮されていたり(下図の縦の青線参照)、余地が狭くなる地階の北西・南東隅の部分が切り取られていることからも推察できる。

 続いて、天守台に先ほど提示した「回の字構造」を当てはめた場合を検証する。
 本柱抜痕を中心に定め(図中青線参照)、「回の字構造」を重ね合わせ、周囲に1間幅の入側を設けたものが下図黄線である。その結果、黄線が丁度大ぶりな地階礎石(上図赤丸)に重なる様子が見られた。また、天守台西部や北部、東部には広い空地が生じていることから、そこには付櫓が設けられていた可能性が見出される。

◯『安土日記』や『信長公記』から見る部屋割の規則性

 ここからは、『安土日記』・『信長公記』に記録された部屋の情報から、規則性や特徴を確認する。
 下図は、便宜的に『信長公記』から、各階の部屋の広さの合計を畳数に統一して、それを方角ごとに分類したものである。
 ここから読みとることができることとして、東側・西側の部屋の総面積の方が南側・北側の部屋の総面積より広くなること(各階の東側と西側の部屋の面積の合計は248畳であり、その面積は、各階の南側と北側の部屋の面積の合計166畳の約1.5倍である)や、1階の西側・北側・東側の部屋面積の値が2階・3階と比較して大きいことが挙げられる。
 この点から、天守平面は南北方向に長く(ただし、天守台の礎石の長軸が南北方向にあることから、天守の大棟が東西方向であったことを考察された研究例(インターネットブログ「Goodfield Design」「安土日記等を設計条件とする安土城天主の復元」天主礎石から見える事より 2022/10/28筆者閲覧)があり、天守は南北方向ではなく東西方向に長い可能性も高いと思われる)、1階の西側・東側・北側に付櫓やそれに相当する構造物が存在していた可能性を指摘することができる。
 しかし、下図のように、各階それぞれの方角ごとの部屋の総面積は統一性がないことから、復元にあたっては、状況に応じて適切な部屋の配置方法を考察することが重要になると思われる。

 また、部屋の規模に関しては、以下の内容をご覧いただきたい。

【1階】
でう敷あり
東は(十二畳敷 次に三でう布) その次にでう敷 御膳拵え申す所なり 又其の次畳敷 是れ又御膳拵え申す所なり
【2階】
東は麝香の間 畳敷 (十二でう敷 御門の上) 次でう敷 呂洞賓と申す仙人并にふえつの図あり
【3階】
東は畳敷 桐に鳳凰かゝせらる 次畳敷 きょゆう耳をあらへばそうほ牛を牽いて帰る所・両人の出でたる故郷の体 次に御小座敷畳敷(※棚を加えて8畳敷に相当する) でいばかりにて御絵はなし

『信長公記』安土山御天主の次第

 これは『信長公記』において東と指定された部屋の記録箇所を抜粋した部分であるが、1階・2階で途中に12畳の部屋(付櫓部に位置する部屋か)を含むものの、各階で8畳敷の座敷が2〜3連続する傾向が存在する。
 すなわち、安土城天守の各階の部屋割は幾分類似したものである可能性があり、復元の際には上下階の構造に留意する必要があると思われる。

◯地上3階の復元

四重め ①西十二間に岩に色々木を遊ばされ 則ち岩の間と申すなり ②次西八畳敷に龍虎の戦ひあり 
③南十二間 竹色々かゝせられ 竹の間と申す ④次に十二間に松ばかりを色々遊ばされ 則ち松の間と申す 
⑤東は八畳敷 桐に鳳凰かゝせらる ⑥次八畳敷 きよゆう耳をあらへばそうほ牛を牽いて帰る所 両人の出でたる故郷の体 ⑦次に御小座敷七畳敷 でいばかりにて御絵はなし 
⑧北は十二畳敷これには御絵はなし ⑨次に十二でう敷 此の内西二間の所にてまりの木遊ばさる ⑩次に八畳敷 庭子の景気 則ち御鷹の間と申すなり
  
 『信長公記』安土山御天主の次第(割り当てた番号は筆者加筆、以下も同)
 
 先程提示した各階の「回の字構造」を基本方針として、そこへ『安土日記』・『信長公記』に記録された部屋を組み込むことで、部屋割の復元を行っていく。
 なお、それぞれの部屋の使用用途についての詳細な考察については今回は省略し、また、『安土日記』と『信長公記』に記録の相違がある箇所は、適宜取り上げて錯誤と考えられる箇所を訂正することとする。

(『信長公記』本文中、各部屋ごとに順番に割り当てた番号は、これ以降、それぞれの図に記された部屋の番号と対応する。)

 部屋1・2はそれぞれが「西」と指定されている。この箇所だけ例外的に方角が2回連続して指定されていることについては、当初、部屋2は部屋1のさらに西側にあり、部屋2は出窓として1間幅で張り出す形をとっていたことを表すと推定していた。もちろん、そのような構造を設けることは、3階の柱数を『安土日記』に記録された通りに合わせることを可能にしたり、長さ4間分の壁面に、龍虎図を一直線上に屈折せずに描くことに適していたりする点で妥当であるとも考えていたが、そもそもそのような出窓が存在したことを裏付ける明確な根拠が存在しないので、現時点ではマス目に従い、上図のように南北に並列的する形で配置した。なお、正方形の部屋(=部屋2)が隅の部分に配置されたことで、部屋の収まりが整然とする。

 部屋3と部屋4については「回の字構造」の内側、則ち南北6間×東西4間の部分に両方を配置する方法と、上図のような形で配置する方法の、2つの配置方法が考えられる。ただし、下の階からの階段と望楼部への階段を付設するために「回の字構造」の内側のいずれかに階段室を加える必要が生じるため、今回は後者の配置方法を採用し、上図のように復元した。

 「東」と指定された部屋5・6・7は、上図のように、マス目に従って南北方向に連なるように配置する。なお、部屋7(「でい」ばかりとは、金「泥」ではなく、むしろ土壁のことを表すと解釈するならば、この部屋は茶室であったのだろうか、ただし真偽未確定)は7畳と記録にあるが、およそ1畳分の掛軸を飾る床を加えて、実質8畳の広さの部屋と解釈される。

 最後に「北」と指定された部屋8・9・10を北側に東西方向に連なるように配置する。なお、部屋8と9の境(上図赤線)は、例外的にマス目から逸脱した位置にある。ただし、後に明らかになることであるが、これは1〜3階の同位置でも共通する現象であるため、問題はないと考えられる。

 残りの空白部に階段を配置する。なお、階段が3階の中心部に位置し、そこは窓からの明かりが差しにくい暗所であるため、階段を設けるには不都合であるようにも思われるが、望楼部の真下に階段を設け、望楼部へ登る利便性を考慮したことを考慮すると、さほど問題はなかろう。
 また、3階の部屋割は、結果として森俊弘先生の復元と等しいものとなった。

◯天守地上2階の復元

三重め ①十二畳敷 花鳥の御絵あり 則ち花鳥の間と申すなり ②別に一段四畳敷の御座の間あり 同花鳥の御絵あり 
③次南八畳敷 賢人の間にひょうたんより駒の出でたる所あり 
④東は麝香の間八畳敷 ⑤十二でう敷 御門の上 ⑥次八でう敷 呂洞賓と申す仙人并にふえつの図あり
⑦北廿畳敷 駒の牧の御絵あり ⑧次に十二でう敷 西王母の御絵あり
西御絵はなし 御縁二段広縁なり ⑨廿四でう敷の御南戸あり ⑩口に八でう敷の御座敷これあり

『信長公記』安土山御天主の次第

 まず、部屋1・2・3について考える。部屋3は「南」と指定されているが、それに続く部屋が記されておらず、すぐ後には「東」と指定された部屋4が記録されている。ここで重要となるのは部屋1・2である。両部屋は画題の一致や部屋の広さの関係からして、部屋2を上段、部屋1を下段とした対面所であると思われる。この対面所は、位置する方角の指定がないため、他の各階で西側の部屋から記録がなされているのと同様に、西側に存在したと推定することもできる。しかし、西側には「西」の広縁やそれに続く24畳・8畳の部屋が配置されることになっているため、そこにはこれ以上多くの部屋を配置することができない。そのため、対面所は南側に存在したと推定することができる。
 なお、方角が部屋3になるまで記されなかったのは、拝見時、まず最初に2階の部屋の中で最も重要である部屋1及び部屋2を確認し、その後、部屋2(上段の間)の背後は襖ではなく壁であるため、一旦回り込んで部屋3を確認し、そこで初めて一連の部屋1・2・3を「南」に位置すると理解し、方角を記録した(そして、その後再び東側の部屋の拝見をしていった)という拝見ルートの反映であると思われる。

 次に部屋4が続くが、その前に御門の上にある部屋5について考える。
 「御門」とは、天守台石垣東側に位置する地階入り口への門のことであると考えられる。
 また、「天守指図」には1・2階の東側に付櫓が記されており、このような付櫓が設けられることで、部屋5を御門の上に配置することが可能である。「天守指図」の当該箇所の真偽は未確定であるため、指図を参考に、付櫓を推定的に仮設し、そこに部屋5を配置する。(なお、結果として付櫓を設けることで2階の部屋を無理なく充足させることが可能になったことからも、付櫓は存在したと考えて問題はないと思われる。)

 部屋4と部屋6については、部屋4の南に1階からの階段室を設けるための空白(2間四方)を作り、上図のように配置する。
 なお、部屋4〜6までは一見不自然な配置方法をとっているようにも見えるが、天守拝見時、部屋4を記録した後、部屋5に一旦立ち寄り、その後部屋6とそれに続く部屋を記録していった、という拝見ルートを推察すれば、自然であると思われる。

 部屋7であるが、『安土日記』にはその部屋が「絵のふりたる所」であると記録されている。このことについて森俊弘先生は、「部屋の収まり上「ふり=振り」である如く屈曲している配置と想定される」(「再読『安土日記』ー安土城天主に関する一考察ー」『城郭史研究』21号 2001年より引用)と指摘なされている。
 実際、今回の復元においては、「回の字構造」の内側(南北6間東西4間)の部分を除いた周囲の幅2間部分に沿って部屋を配置してきたが、これに従うと、部屋7は必然的に南西部が欠けた形で配置されることになる。
 そしてこの形状は、3階と共通の特異的な位置の柱筋(赤線)に適合し、さらに部屋7は上半分(12畳分)と下半分(8畳分)が結合した部屋として仮に考え、そのように分割的に考えるならば、東側は2階は3階と等しく8畳の部屋が3連続し、北側も同様、12畳の部屋が2連続するという共通構造を持つと考えることができる。

 部屋8を上図のように配置した後であるが、部屋8の西側は空白のまま、「西」と指定された2段広縁の記録が先になされている。これはもしかすると、部屋8の西側には床の間が存在したため、一旦広縁に出て、続いて空白部に存在した部屋に戻ったという拝見ルートによるものかもしれないが、その不自然さの原因は不明である。

 部屋9・部屋10は、上図のように、順序を逆転させて配置したが、これは3階の同じ部分の部屋割を参考にしたという以上に、2段広縁を北側から南側へと進みつつ、伝二の丸方面の風景を眺めた後に、残りの西側の部屋の記録を南から北へと戻るように記録したと推定したからである。
 なお、部屋10は「口」とあるが、これは、階段口、または出窓や破風への入り口に隣接する部屋であるという意味であるのだろうか。もし、それが階段口のことであるならば、1階の西六畳敷の東側の空間(次章を参照)と階段で接続すると思われる。

◯天守地上1階の復元

①西十二畳敷 墨絵に梅の御絵を狩野永徳に仰せつけられかゝせられ候 (何れも下より上まで御座敷の内御絵所悉く金なり)同間の内に御書院あり 是れには遠寺晩鐘の景気かゝせられ候 其の前にぼんさんををかせられ ②次の四でう敷 御棚に鳩の御絵をかゝせられ候 ③又十二畳敷 鵝をかゝせられ 則ち鵝の間と申すなり ④又其の次八畳敷 (②奥四でう敷に雉の子を愛する所あり)(筆者注:『安土日記』の記録から鑑みるに、この部屋は②の部屋と等しいものであると思われる)
⑤南に又十二畳布唐の儒者達をかゝせられ
(筆者注:この画題は『安土日記』の通り、1つ前の部屋(則ち④の部屋)の画題であると思われる) ⑥又八でう敷あり
⑦東は十二畳敷 
(筆者注:『安土日記』には、ここに⑧御縁六てう敷とある)⑨次に三でう布 ⑩その次に八でう敷 御膳拵え申す所なり 又其の次に八畳敷 是れ又御膳拵え申す所なり 六でう敷 御南戸 又六畳敷 何れも御絵所金なり
北の方に御土蔵あり 其の次御座敷廿六でう敷 御納南戸なり
西は六でう敷 次十でう敷 又其の次十でう敷 (同十二畳敷)
(御南戸の数七つあり 是の下に金灯爐置かせ
(筆者注:「を架せ」の可能性がある)られたり)
『信長公記』安土山御天主の次第

 1階は他の階と比較して部屋の総数がやや多いため、完全に正確な復元を行うのは非常に困難である。筆者はこれまで数十回試作平面図を作成してきたが、未だに復元を明確に定めることが出来なかった。ここでは現時点の復元の到達点をご覧いただきたい。

 「西」と指定がある、部屋1(信長の常座所)を配置し、その南側に続けて部屋2(対面所上段)と部屋3(対面所下段)を並列するように配置していくのだが、部屋1〜3の南北方向の長さは7間であり、「回の字構造」のマス目(6間)にうまく適合させることができない。部屋2を部屋3の東側に配置すればその問題は解決できるが、その場合部屋2は、書院造の構造的に帳台の間に相当するものになってしまうと思われ、現時点では上図のように復元する。
 続いて部屋4を南西隅に配置するが、正方形という部屋の形状を考えると、合理的な位置に配置されていると思われる。そして「南」と指定がある通り、南側に部屋5を配置する。(なお、「奥四でう敷」が南十二畳の「奥」のことであると解釈すると、1階の部屋割が整然として、なおかつ2階と構造が近しいものとなるが、この解釈方法はやや恣意性が強いと思われる。)

 続いて部屋6であるが、地階・2階と関連して、部屋5の東側南北2間東西3間の部分を階段室とするため、上図の位置に配置することになる。「東」と指定のある部屋7は、2階と同様、「天守指図」を参考に東付櫓に配置し、続けてその外周の廊下のいずれかの位置に「御縁」の8(『信長公記』には記録されていないが、『安土日記』には記録されている)・縁9を配置する。なお、上図の縁8・縁9の位置は便宜的なものである。部屋9は3畳と中途半端な規模であるが、それは階段が近くに隣接していたからであろうか。

 続いて部屋10・11をマス目に従って配置する。その結果、東側に部屋6・10・11と8畳の部屋が3連続し、この構造は1階から3階まで共通することとなった。そして、部屋12・13を上図のように配置すると、赤線部の特異的柱筋も各階共通することとなった。

 蔵14であるが、その位置が「北の方」と指定されていること(曖昧な方角の記述は、離れた場所にある蔵を拝見者がその存在を遠まきに眺めたのみであったことを示すものであろう。)や、中村泰朗先生の研究において、「穴蔵を除けば身舎の内部に土蔵を設けた例はない」(「安土城天主に関する復元的考察(その1)一階から三階までの部屋割り」『建築史学』建築史学会 2021年より引用)と明らかにされていること、そして、天守台北側はその他と比較して天守台上部の空地がやや広いこと、さらに、天守台北部はその東西の両方が斜めに切り取られて幅が狭められていることなどから推定するに、「天守指図」に記されているような付櫓のような蔵が接続していたか、天守とは独立した蔵が存在したか、あるいは天守台の形状に概ね相似した多角形の1階平面によって生じた北部の広い廊下のスペースに蔵が設けられたかのいずれかであろう。蔵の構造を明らかにする資料に乏しいため、今回は「天守指図」を参考にして、天守台に幅1間弱の犬走を設けられる規模の付櫓(南北3間東西6間)を便宜的に設けたが、あくまでその規模は仮定的なものであり、空地に大量の雨水が流れ込むという欠陥的側面も存在し、問題点が残る部分であるとも言える。
 部屋15については、26畳という規模からして、いずれかの角が入隅状であったと思われる。26畳のことを20畳と6畳の部屋が個別に存在したと解釈するなら、現状の復元図に適当に配置することができるのだが、その読み取り方には論理的必然性がなく、恣意的であるため、そのまま26畳として解釈する。結果として、上図のような形状で配置することになったが、不自然さが残るように思われる。
 部屋16は「西」と指定されているが、「西」は部屋1に続いて2回目のことであるから、部屋16・17・18は、部屋1〜4の部屋のさらに西側に存在したと思われる。今回は「天守指図」を参考に上図のように配置し、部屋16の東側の空間には階段が存在したと推定した。(なお、『安土日記』においては部屋17が「十七」てうとされているが、これは「七」を「て」と誤読したたこと起因する誤記であろう。)
 また、部屋18の次に「同12畳敷」の部屋が記録されているが、その部屋は部屋17と「同」規模ではないことから、部屋18の次に、すでに拝見した「同じ」部屋(おそらく部屋3のことか)に到達したことをもって1階を拝見し終えたことを示したのであろう。
 また、「御南戸の数七つあり」と最後に記されているが、これは通常、1階の納戸数の合計を示したと解釈されるが、一方で、ここまでの記録には示されてこなかった望楼部以外の各階の納戸の総数を記したものとも解釈できるように思われる。またその場合、納戸のもとには金灯籠が存在していたことから、それらは比較的暗所に存在したと推定することができる。
 したがって、ここまでの復元の過程で、部屋が配置されずに空白となっている「回の字構造」の内側の部分に、地階から3階まで計7つの納戸(下図い〜と)が存在したと考える。

◯天守台・地階の復元

 『安土日記』や『信長公記』に、地階は土蔵として用いられているということのみ記録されており、詳細な構造が不明である。そのため、復元は非常に推定的なものにならざるを得ない。
 これまでに行われてきた天守台の発掘によって、地階の内部は中心の本柱の部分以外1間おきに大ぶりの礎石が配置され、礎石に付着した柱痕から、礎石の上に柱が直立していたことが明らかとなっている。
 つまり、ほぼ全ての礎石の上に直接柱が立ち並び、その上である程度の規模ごとに部屋が区切られていたと思われる。(なお、「天守指図」地階(石くら)部分を確認すると、地階西側と北側は全て2間四方の部屋で区切られているように見え、もしかしたら当時の安土城の地階もそれに近しい構造をしていたかもしれない。)
 地階の高さについてであるが、『安土日記』や『信長公記』に「石くらの高さ十二間余りなり」とある点に注目し、石蔵(天守台全体というよりは、石垣で囲まれた地階内の空間を指すと思われる。)の高さ12間余(→12尺余の誤記か)と解釈し、地階地表面(礎石の厚み分を含む)から地階石垣天端までを12尺余と決定する。また、12尺という高さは諸天守の地階の高さと比較して平均的であり、地上3階までを貫く本柱の長さを考慮しても適切であろう。
 天守台の石垣については、天正期の石垣の特徴として、ほぼ法勾配のない極めて直線的な石垣であったと思われる。また、滋賀県による天守台の発掘調査の報告書によると、伝本丸と伝二ノ丸・天守取付台の高さの差は、ちょうど2間程度である。このことから、天守台の高さも比較的整った値の高さであったと思われる。このことから、今回天守台は、2間を基本単位として、北側高さ4間、南側高さ6間であると推定した。その結果、天守台上部の広さは「天守指図」に記されたものと概ね等しいものとなった。
 ここで、天守台石垣天端と地階石垣天端の高さの間には僅かな差が生じるが、その高さ分、天守1階の形状通りの低い石壇が存在したことが推定される。「天守指図」地上1階の平面図には階段が多く記されているが、それらの階段の一部は、1階から天守の空地へと行き来するためのものであるかもしれない。(また、地階周囲の石垣は不整形な多角形であるのに対し、天守石壇は天守の形状通りであるというところに問題があると考えられるかもしれないが、12尺もの深さのある地階は天守台の強度確保のため天守台の形状に影響を受けざるを得ない一方、天守2、3尺程度の高さしかない石壇は天守台の形状による影響や制約がなかったと考えれば、問題はないと思われる。)
 なお、『信長公記』に記された天守1階の柱数が他の階と比べてかなり多いことについては、さまざまな解釈方法が存在するが、ここでは天守台周囲の塀や空中廊下、天守台南西の寄せかけ建築物の柱数を含んだものであるとする可能性を一つの仮説として提示する。
(また、天守台南西部石垣のやや高い位置には模様積が見られ、その部分の寄せかけ建築物と関係性が高いと思われる。) 

◯天守の各階の基本構造の類似性

 このような考察の結果、天守復元平面図を作成することができたが、平面図を詳しく観察すると、各階の部屋割に共通性が見られることが明らかになる。

左から3階、2階、1階
左から3階、2階、1階
上から3階、2階、1階
上から3階、2階、1階

  上の4つの図をご覧いただきたい。これらの図は、それぞれ「回の字構造」の周囲2間幅の部分にある部屋を方角ごとに分けて各階並べたものである。
 東については、南北2間東西3間の部屋を北に、その南側に2間四方の部屋が3連続するといった、ほぼ共通の構造が見出される。
 西についても、1階がやや変則的であるが、北端と南端が2間四方の部屋で、その間に比較的規模の大きい部屋が存在する共通構造、北は1階がやや変則的だが、西に2間四方、その東側に南北2間東西3間の部屋が2連続するといった共通構造が見出される。
 このように「回の字構造」を基幹として部屋を充足させた結果、各階で共通する部屋割の規則性が明らかとなり、それは偶然ではなく必然であると捉えるならば、実際の安土城天守においても、1階から3階までの部屋割が非常に近似的であったことを示唆するものになると思われる。
 また、見方を変えれば、そのような整然とした部屋の配置方法の発見は、「回の字構造」が安土城の本来の平面構造として妥当な構造であることを示し、「天守指図」に記された「回の字構造」の真性を帰納的に裏付ける根拠になったと思われる。さらにそれは、「天守指図」には地階に加えて1階から3階にも少なからず断片的な真性資料が含まれていることを示唆する根拠となった。

◯結論

 今回の安土城の天守復元では、近年における「天守指図」の新たな解釈方法の登場から着想し、「天守指図」を改めて観察する中で、地階の一部の線の真性を発見した。そこで「天守指図」の部分的真性が他の階に適合するのかを検証するため、「天守指図」から「回の字構造」を抽出し、先行研究からその構造の普遍性を確認した上で、『安土日記』や『信長公記』に記録された部屋を適切に組み込んだ。その結果、各階の部屋割には偶然とは思われない共通性が見られたことから、その平面構造は実際の安土城天守に取り入れられていたものであると考えられ、帰納的に「天守指図」の「回の字構造」の真性を裏付けることとなった。さらにそれによって、「天守指図」の部分的真性が見込まれる範囲を拡大した。
 このように、「天守指図」肯定派と否定派との中立的立場から、いくつかの先行研究やその知見を取り入れて統合することで、なるべく筆者の恣意性や独自性を排除した復元を試みた。
 もちろん、ここまでの復元方法は、見方によっては、先行研究の範囲に留まっていたり、合理的根拠の希薄な推定箇所が存在したり、個別の問題点が少なからず存在したりすると捉えることもできる点で、完全なる安土城天守復元案とは程遠いと思われるが、今回の研究結果の問題点が、後の研究者の方々による安土城天守復元の益々の発展の一助となることで、安土城天守の実像がより一層明らかになっていき、天守の発祥とその発展過程を照らすものとなることを期待する。

◯安土城天守推定復元平面図(3階〜1階)

(以下の平面図は、現時点では様々な用途で使用フリーといたします。)

3階復元平面図(北が上)
2階復元平面図(北が上)
1階復元平面図(北が上)
天守3階 151分の1復元模型(北側から)
天守3階 151分の1復元模型(南側から)

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