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家業を継ぐことに決めた理由

すべてはタイミング

家業を継承し事業再生を行うことに決めたのは、長らくの野望でもきまぐれでもありません。
「今ならできるかも」と思うタイミングが節々であったと表現すると正しいと思います。
今振り返ってみれば、5つの大きなタイミングがあったと思い起します。

私にとって、タイミングこそすべてが始まるきっかけだったのでしょう。

①こうちゃんと出会って

「私、お寺の娘なんです。」
この言葉は、決して人に言いたくない言葉でした。
きっと、お寺の娘なら誰しも1度は抱いたことのある感情でしょう。

お寺の娘であり三人姉妹の長女である私は、実家を継がなくてはならない義務を昔からうっすらと感じていました。
分かってはいつつも、幼いころから海外への憧れは決して止むことなく、今も世界で活躍する日本人になりたいと本気で思っているほど、未来へのギャップに悩まされ続けてきました。

このやり場のない気持ちは、最愛の彼(通称:こうちゃん)と出会って次第に和らぎ変化していきました。

「20歳の記念に地元で手筒花火を挙げるから見に来てほしい。」
この言葉が始まり。
初めて家族に会わすことで気持ちがいっぱいいっぱいだった私は、肝心な実家がお寺という事実を伝えることをすっかりと忘れていて、彼が来る当日の朝にハッとそのことに気がついた。
「彼に嫌な顔されたらどうしよう、結婚は視野に入れれないと言われたらどうしよう」と不安で気持ちが落ち着かない間に彼が駅に到着し、恐る恐る迎えに行ったことを1年半たった今でも鮮明に覚えている。
海岸沿いに続く駅から家までの道のりの間に、何気なく下向きにその事実を私は告げた。
すると彼は「だからか。納得したよ。たえちゃんは人とは違う優しさを持ってる人だからずっとその理由が気になっていた。」と口にした。
私が一番嫌いだった部分を、彼は私の良さとして捉えてくれていることに嬉しさがこみ上げてきたと同時に、この人と出会えてよかったと改めて思った瞬間だった。
よく話を聞いてみると、彼は前から宗教に関心があり3年前にはタイにモンクの修行へ行っているほどの勉強家だった。そんな共通点もこのタイミングで知ることができ、互いへの理解が急速に深まっていった。

この出来事は、人生のハイライトとして消えない思い出となりました。

そんなこんなでいつの間にか家族とも仲良くなり、父の「うちを継ぐ気持ちはあるか」などの強烈パンチにも強い気持ちで答えてくれて、二人の未来予想図が一気に明確化していったのでした。

『彼と描いている未来にとてもワクワクした。
家族と仲良く暮らせる未来にとてもワクワクした。』

そう感じたのが、家業を継ぎたいと思ったはじめのきっかけでした。

②林先生に背中を押されて

林先生は大学のゼミの先生です。先生との出会いは、オープンキャンパスそして大学推薦入試において面接試験官と受験生だった時のことでした。


大学入試における私のイチオシキーワードは「自坊を再生したい」これ1本。
今だからこそ言えることですが、独創性のあるウケがいいことだけを勝負に出すことにして、海外で活躍したい気持ちは隠す戦略で挑んだ試みがありました(笑)。
なかなかこんな夢を持つ大学生はいないせいか、オープンキャンパスで様々な教授と話をしましたが、どの教授ものめり込んで話を聞いてくれました。その中でも、自分の知りたい事をとことん学べ、とことん応援してくれそうな先生が林先生でした。

入学したはいいものの、林先生のゼミに入ったはいいものの、この夢をいつ実現させるかは未定のままトキが過ぎさり、ほんの5ヶ月前まで就活をするか否か迷いながら過ごしていました。
ちょうどそんな時に、こうちゃん(彼)との未来計画が具体的になっていて、先生にそのことを相談すると熱い声援をプレゼントしてくれたことが大きな後押しとなりました。

林先生の後押しが、始めていた就活にピリオドを打ち、心機一転して取り組むことに決める第二のきっかけです。

③違和感しかない就活

就活は1社だけ受けました。たまたま何となく面白そうな会社を見つけ、詳細を調べてみたらほんとに面白そうだったから受けてみたという単純明快な動機です。ちなみに、結果は落ちました(笑)。
言い訳みたいで嫌ですが、就活には最初からあまり気が乗らなかった理由があります。

大学生の間に、長期のインターンシップを2回経験。
1回目は、大学1年生の春にインドネシアのバリ島で1ヶ月リゾートホテルのフロントスタッフ。2回目は、大学3年生の夏に名古屋のIT系スタートアップ企業で3ヶ月長期インターン生として働いていました。
国内・海外問わず2種の業種を体験したことで学ぶことはたっくさんありました。
しかし、1度も仕事自体が楽しいと思ったことがないことが気がかりで「私には一生天職なんて見つからない。社会不適合者だ…」という絶望感を感じていたのも本音です。


そんな想いを抱いていた時に「リモートワークには挑戦したことがないな」とふと思い、トラベルライターとして働き始めてみました。
その経験が意外にも、初めて仕事が楽しいと思った仕事だったんです。

『自分の好きなことを仕事にし、働く時間や場所は自分で決められる。一緒に仕事したいと思う人と仕事ができる。』


自分にとっては、この価値観こそ仕事を選ぶ上で欠かせない点だと気が付いたのです。
だから、自分で自分の仕事をつくることは最善な気が直感的にしていました。

④抽象的な私の夢

話はさかのぼり、中学1年生の夏休み。
単身でアメリカに1ヶ月のホームスティへ行きました。
この経験を通して感じたことの1つに『人と出会うことの楽しさ』を実感したことがあります。
この経験を機に、私は人と出会うこと・交流することに没頭し、これまでの人生の間に様々な人と積極的に出会ってきました。
国籍・年齢・性別・レッテル・肩書など何にも捉われず、人と人とが対等な立場で出会うことのファンタスティックさを体感し、自らがその場や空間を創ろう人となりたいという大きな夢をいつからか抱き続けてきました。
その夢を叶える手段として、ブローカーという仕事や人材派遣会社、イベントプランナー、オリエンタルランドなど様々な職種や会社を視野に入れて就活を考えていましたが、どの選択肢を考えても、なぜか違うと感じていました。その共通した相違点は「対象者(ターゲット)が限られる」といった理由でした。


私が描いていることは『誰もが対等に交流できる、誰もが対等に出会える』ということ。
この理想を叶えるには、自分で新しい仕事を生み出すしか術がないと、ようやく気付いたのがここ最近のことです。

きっと、これまでにあった3つのタイミングが絶妙に重なったからこそ、家業を継ぐという選択に気持ちが固まったのだと思います。

※自分のやりたい仕事を家業で実現できる理由については、別の記事で詳しく書きたいと思います。

⑤最後のひと押し

絶対に避けては通れないのは、もちろんのごとく、家族の許可です。
元々、家族には昔からなんでも話す仲なので、こうちゃんと出会い変化してきた心境や林先生との関係性、就活や日々の生活で起こることもすべて話していました。
状況を理解してくれていることもあって、私が就活をせずに家業を継ごうと思っていることはお見通しで、すぐさま応援してくれました。

ぶっきらぼうに走り続けてきた私のそばで、後ろを向けばいつでも仁王立ちして見守ってくれている両親の存在に心から感謝しています。


今回のこの大きな決断も、確信して踏み切ることができたのは最後の最後に受けた、両親の熱い声援のおかげです。

ぽちゃれない家業

ということで、こんな5つのタイミングが重なったことが私が家業を継ぐことに決めた理由となります。

家業を継ぐという選択が生まれてから決心するまで、およそ1年。短いような長いような不思議な感覚です。

再度思うのは、このタイミングが重ならなければ確信をもって今の選択をチョイスできなかったということ。

チャンスや希望なんていくらでも転がっている時代。「自分はどのチャンスを掴みどんな希望をもって挑むのか」が重要であると再び大事なことに気づかされました。

もう後戻りできない。

諦めてしまえば、応援してくれている人を裏切ることになる。
失敗すれば、家族全員お寺を出ていかなければいけない。今までの住まいも暮らしもなくなる。

決めた覚悟を胸に、一生懸命頑張ります。

ぽちゃれない家業で生きていく。