吐露。
今日もお疲れ様でした!
自分自身が発達障害であるということも随分受け止められるようになってきたので、このタイミングで自身の「障害者」に対する意識について書いてみます。
そして、なかなか大人のいうことを聴かないある問題児の内面についても、少し振り返ってみようと思います。
ただし、今日の記事にある過去の意識は、決して許されない、誤った見方であったことを予め宣言します。
そもそも、私にとっての障害者のイメージは、決して良いものではありませんでした。それは小学校の頃に遡ります。
ちょうどインクルーシブ教育などが叫ばれ始めた時代だったせいか、今から考えてもやたらと関わり合いを大切にする学校だったと思います。
私たちのクラスには、特別支援学級に所属するダウン症の子が給食の時間をはじめ、たびたび授業に参加していました。
そして、これは今でも鮮烈に覚えていることですが、ある時私はその子にツバを吐かれたのです。別に私が悪さをしたわけでなく、その子にとってそれがマイブームだったようで、他の子にもそういうことをしていました。
他にも、いつも鼻水を垂らしていたり、それを周りにぬさくり歩いたり。
端的に、汚らしい。それが、純粋な幼心に抱いた感想です。
さらに、その子が周りや私にしたことで何か「叱られる」ということはありませんでした。むしろ、常にかばわれていたのです。私が同じことを誰かにすれば教師は絶対に私を叱るだろうに、なぜその子が特別扱いされているのか、理解できませんでした。
それ以来、私にとって障害者とは「汚いもの、ズルいもの。」という印象になりました。何かの授業で、「私はいくら混んでても決して優先座席には座りません」と言うと大層感心されましたが、それは高邁な道徳心からでなく、単純に優先座席は汚い人が座るところであるから、そんなところに座れば汚れるという発想があったためです。
もちろん、この認識は差別主義として厳に戒められるべきものですし、今は当然そのような考えを持っていません。ただ、あくまで小学生の低学年が抱いたトラウマということで、そういう風に捉える子もいるということだけを伝えたいのです。ある意味では、発達障害による歪んだ認知で、その子がダウン症であるという背景をすっ飛ばして、「ツバを吐かれた」という歴然たる事実のみが強調された結果なのかもしれません。
そういう理由で、以後教師はじめ塾の先生からすら発達障害を疑われることがあっても、それは「人を障害者扱いしあがって」という強烈な敵愾心にしか結びつきませんでした。なまじっか親も私の「個性」を尊重してくれたために、早期の治療には結びつかなかったのです。
当時の考え方としては、
1, 私の主張と相手の主張は食い違っている
2, 相手の主張が多数派である
3, しかし、「多数派が正しい」と結論することは誤っている
4, すると、私の主張に対しロクに議論せず、人を障害者扱いして感情的に話を終わらせようとしている相手の主張は、その点で異常である
というものでした。
私の主張と相手の主張、どちらか正しいかわからないことを私は認識しているが、相手は自分の主張が正しいことを疑わず、あまつさえ人を障害者扱いするのだから、その点で相手の主張よりかは私の主張の方がもっともらしい (議論において”誠実である”) というのが、一応私の中で筋の通った理屈だったのです。
この理屈は、自身の発達障害の治療を23歳にまで遅らせましたし、あらゆる大人たちの説得を無効にしてしまったので、今から思えば恐ろしい呪いでした。
教師が憎くて憎くて仕方なく、「あなたのためを思って」というような情緒に訴えるような説教も、「ルールに従えなければ退学せよ」という極めてドライで合理的な説教も、私をますます先鋭化させるだけでした。
この考え方は反抗期の頃には激烈な反応をもたらしましたが、それを過ぎると、ある意味での周囲に対する冷笑に変化しました。
つまりは、何ら本質的なことを追究しようとせず、周りと同じように行動して、それを疑わず、まして周りと同じであることをもって自分は間違っていないと安心している様は、大変滑稽に映っていたのです。
教員免許の取得に必要な科目が大学の講義にあるのですが、たまたま自身の興味と被ったのでその授業に参加したことがありました。
部屋いっぱいに聴講する学生が入っていて、おそらくその多くは教員免許の取得が目的なのですが、モチベーションもなく、スマホゲームで遊んでいたり、寝ていたり、そんな「愚か者」が後々教職に就くとなると、ああこれは愚か者の再生産だなと確信したものです。
イヴァン・イリイチも読みました。とにかく、教師というもの、学校というものが大嫌いでした。
自分が年を取ればとるほど、小さい頃は大人に見えていた教師たちも、たかが20台の人間であるとわかってきます。教壇で声高に理想を叫び、時に偉そうに叱りつけていた彼らの実像は、そんなものだったのです。
「ああ、私は間違っていなかった。彼らに迎合しなくてよかった」と思ったのです。
とはいえ、付き合いのある同級生たちにはなぜか教職志望が多く、特に初恋の人が小学校の先生を目指していたために、この強烈な教職に対する侮蔑と、友人たちへのリスペクトが自身の内側で激しく軋り合いました。
そうこうしているうちに月日は流れ、気が付けば「私は ”間違っていない” 」という確信だけを持っているクズとなり果てていたのです。
確かに、外形はきちんとしているでしょう。学歴としては、悪くはないと思いますし、成績は、数字上は優秀でした。 そうはいっても研究室でまったくダメダメだったのは、以前の note で記した通りです。
友人たちは、もう立派に独り立ちして教師となり、各地で教鞭をふるっています。一方私は働きもせず、勉学の道も立ち行かず、どうしようもない引きこもりです。その初恋の人とも未だに親交はありますが、ある時「私のような生徒がいれば苦労するだろうね」と言うと、「それはそうだけど、そういう子を決して見捨てたくない」と言っていたために、結局、私は何が正しくて何が間違っていたのか分からなくなりました。
そうやって、ついにこれまで掲げていた旗は折れ、ただただ周りに迷惑をかけているという実感が自身を蹂躙し、すべてが申し訳なくなって、これまで強硬に拒絶してきた発達障害の診療を受診するに至りました。
結果、私はADHDの診断を受け、手帳も申請書を出せば取得出来うる状態になったわけです。
かつて汚らしいものと軽蔑した立場に自分が立っているのは、なんとも因果なものです。まして、後天的に障害を抱えたわけでなく、軽蔑したその時点で既に障害を抱えているわけですから。
さて、私が note であれこれもっともらしいことを言っても、所詮それはポジショントークに過ぎないのかもしれません。
いくら遠い昔のトラウマなんだと弁明しても、私が障害者という存在を内心で蔑んできたことは事実なのです。
そのようなことを自覚しているだけに、今障害者という立場にあって、周囲からの無理解をひしひしと実感しているのは、自分に課せられた宿命なのだと認識しています。
こういう昏い感情の吐露をネットでたまに見ることがありますが、かつての自分を見ている気がして、なんとも言えない気持ちになります。
何が正しくて、何が間違っているか。
もちろん、それはある場面では大変に重要なことに違いありません。
しかし、すべての場面で一律にそういうことを考慮に入れる必要は、必ずしもないのです。
そして、仮に誰かと議論することがあったとしても、そこに上下関係や偏見は関係なく、決して勝敗を決するようなものではないということも強調しておくべきことでしょう。
相手を「論破」すればよいものではありません。
議論は、双方にとってより良い結論を導くための手段であって、一方が知識をひけらかしたり、一方が不当に利益を誘導するためのテクニックでは無いのです。
そして最後に、これは私がいつも書いていることなのですが、簡単な話、まわりも私も幸せなら、そこに問題は無いはずです。
軽蔑や冷笑、陰口・・・。
こういう負の感情に振り回される不毛な時間を過ごすくらいなら、より自身が幸せになれるよう一生懸命になった方がよいと、今更ながら気づいたのでした。
この記事は、もしかすると人によってはまったく理解してもらえず、私が最低なやつだということだけを伝えるものになるかもしれません。ただ、どちらかというと、私はそういう人にこそ読んでもらえてよかったと思います。
かつての私は、学校の教師たちと意思疎通が出来ませんでした。
教師だけでなく、私の教育に関わったすべての大人が一様に大変苦労したことでしょう。
そのため、どうかそういう理解不能なめちゃくちゃなやつの内面はそういうものだということを、理解せずとも知っておいてもらえれば嬉しいのです。
きっと当時の私は、何かを押し付けたり、ひたすら合理的に話をするのではなく、ただじっくりと私の話を聴いてもらえれば、それで凄く安心できたろうなと思います。
会話が成り立たなくとも、その不整合さに呆れず、根気強く寄り添い続けてくれるような、見捨てないような、そういう大人が一人でもいれば、違ったのかもしれません。
親はある意味で理解がありましたが、別の意味で頼りになりませんでした。それはまたの機会に書きましょう。
ひとまず、私とはこういう人間なのです。
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