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仕事で
曲作りを20年ほどやったが、
前提として、僕には曲作りの才能はない。
長年訓練してようやくコツのようなものを自分なりにつかんで、
それを仕事や遊びで利用してたに過ぎない。
湧き出るメロディーや満ち溢れる和音感というものは、
きっと天才らに比べて圧倒的に少ないし、
実にチープなモノなんだと思う。
ただ個人的に作曲することはとても楽しいと感じている。
僕の事で恐縮だが
子供のころはとにかく屋外で遊ぶのが大好きで、
母曰く、歩いているところを見たことがないという。
赤信号やトイレなどで仕方なく苛立ちながら立ち止まっているか、
何かから解き放たれる様に止めどなく走っているかだったらしい。
遠い記憶にもそういった自覚は確かにある。
食事もめんどくさいし、トイレもなるべく早く終わらせたい。
風呂なんてもし可能であるなら一生入らなくても良いと思っていた。
そんな感じなので椅子に座って何かをすることが苦手で、
勉強は家では当然のこと、
学校の席では耐えられないほどの苦痛を感じていた。
それは勉強に限らず、本や漫画を読むことも同様で、
テレビを観る事さえも最小限にしたいと思っていたほどだ。
そんなガキがまさか楽器を持ってじっとしていられるはずもなく、
我が家はピアノを習うような境遇にはなかったので、
音楽とは大した縁もなく過ごした子供時代だった。
中学の時
分かりやすくBeatlesにハマった。
こんな自分が音楽にハマれた事に当時から少々驚きを感じたが、
なるほどこうやって人は大人になっていくのだなと思ったものだ。
Beatlesは当然ながら英語の歌詞なので、
何を歌っているのかはさっぱり分からなかったのだが、
どれも聞き覚えがあるようなメロディーと、
その声は歌詞を知らずとも勝手にいろんなイメージを与えてくれた。
そして何よりアレンジの多彩さに大きく魅力を感じたものだ。
いや、その頃はその良さを言語化できず、
漠然と何だか分からないがとにかくいい感じ、
と思っていたに過ぎなかったろう。
とにかくBeatlesの楽曲にあこがれていた中学生期だった。
そうなると
自分でも何か音を出したくなってくる。
楽器なんてほとんど触ったことがないが、
体力だけには自信があった。
ギターやベース、まして鍵盤なんてできる気がしない。
という事でドラムをすることにした。
あれならきっと全身を使うっぽいので自分に向いてると思ったのだ。
こうしてバンドをするようになった。
しかし音楽をするというより、
メンバーは皆あこがれのBeatlesに成りきろうとする感じで、
各パートはそれぞれのパートを真似する形でコピーが成り立っていた。
今思えばそれはそれですごいことだと思う。
僕はドラムなので好む好まざるに関わりなくリンゴスターに、
ベースはポールに成りきるのだ。
しかしギターの二人は両方ともジョンに成ろうとしていたかもしれない。
歌やコーラスもそれぞれがやるべきことはレコードにあった。
単純なコード以外譜面なんか読めやしないのだが、
次はChicket to rideを演ろうと決めたら、
誰が何をするかなど事前に事細かに決めなくても、
翌週の練習時には演奏はおろか、
歌もばっちりハモってしまうという感じだった。
それが良かったのか悪かったのかは分からないが、
なーんだバンドなんて簡単じゃんと、
その頃の僕は音楽をかなり舐めていたと思う。
高校生になり
メンバーやバンド名を変えつつ、
少しずつだがテクニックも自信もつき、
挫折や敗北感も少しずつ感じながら、
オリジナルをやろうという事になった。
バンドで一大決心をして始めたというより、
密かに個人でそれぞれが作って隠し持っていた曲を、
バンドでやってみたくなったのだと思う。
ラジカセを前にギターを持って歌った様なものをマスターにして、
バンドアレンジをしなくてはならない。
これまでの「世界の一流が作ったレコード音源をコピー」
するのとは大違いだ。
この拙いマスター音源をどうやってバンドで演奏するのか困った。
やってみるとなるほどつまらないものが出来上がる。
ベースはルート音を弾き、ギターはコードをかき鳴らすだけだ。
そうじゃない。
なので分からないなりにここはこーして、
そこはあーしてとメンバーに指示を出す。
これがバンド内で亀裂を生み出す原因の火種になる。
偉そうに指示なんかしてくるんじゃねえよ!とか、
そんなつまらんアイデアよりこっちのアイデアの方がいい!とか、
無知で経験不足なくせに、若いエネルギーだけはほとばしる。
そのうち他のバンドや他所のライブなどに、
個人で呼ばれるやつが出てくる。
呼ばれた者はお声がかかって意気揚々と罪悪感なしに引き受ける。
呼ばれなかったその他のメンバーは当然面白くない。
練習の都合がそいつの、ましてそれ都合になったりすると、
それじゃあもうやめてもらおう、とか揉め始めるのだ。
そんなこんなで
若いころの僕は、
バンド活動にあまりいいイメージを持ってなかった。
演奏も飛びぬけて上手いわけじゃなかったし、
僕の中でプレイヤー(演奏技術)にこだわる理由がなかった。
しかし誰にどう言われようが作曲は楽しかった。
ギター1本よりバンドで出した音の方が曲も輝いたので、
そういう意味ではバンドもいいなとは思っていたが、
でもなんかかっこ悪いなとも思っていた。
アレンジを勉強しなきゃと思った最初かもしれない。
でも勉強の仕方が分からないしそもそも勉強は苦手だ。
本屋さんで楽典の本を立ち読みしてみた。
さっぱり分からない上に今思えば見当違いもいいところだ。
しばらくは完全に頭打ちしていたが、
ある時練習を見に来た後輩が(女子)が、
オリジナル曲やるなんてすごい!と言ってくれた。
嘘のように一気に憂さが晴れる。
こういう単純さは高校生だからじゃない。
今だって女子に褒められたら有頂天になれる。
ともあれ、
そうかオリジナルをやるだけで頭一つ抜け出られるのか、
と思ってしまった次第。
バンド黎明期には有りがちだが、
「女子に褒められたい」は物凄いモチベーションになった。
これは自己満足なんだと割り切ってからは益々楽になった。
ちょうどその頃高校を卒業した。
東京でバイトをしながら多重録音の機材やギター、ベース、シンセなど、
ローンでかたっぱしに購入して部屋に籠った。
完全な1曲になってない曲や、フレーズだけのもの、
まだ歌詞がなかったり、
最初からインストルメンタルのつもりだったり、
時にはラジオ番組のようなものも作った。
とにかくそれらの機材を駆使して何かが出来上がる快感に浸った。
どれひとつとってもその頃作ったものに名作なんてない。
人さまには聴かせられないダサすぎる作品らだが、
当時僕個人はその制作過程にすっかり惚れ込み、
入れ込んでいた。
東京に来て
部屋に籠り続けてあっという間に数年が経った。
音楽を作るその過程では、メロディーや歌詞もだが、
どうしてもアレンジを施さねば作品にはならない。
そういう意識で世に流れる流行歌や世界のヒット曲を聴くと、
その緻密に計算された各楽器の音が衝撃的に迫って来て、
もうとても自分の力量ではコントロールできる代物には思えず、
作曲に対してなんだか気持ちがとても萎えてしまった時期があった。
こんな事が自分にできるはずがないと。
部屋に籠っていたのでモチベの元となるべく女子との縁もない。
ちょうどその頃、
そんな僕のネガティブな感情をポキっと折ってくれた人がいた。
その人は当時日本で一番売れていた作詞家のひとりなのだが、
売れる前から知っていた人だったので気安く連絡したりしていた。
ピカピカな用賀のデザイナーズマンションに住んでいたが、
広いリビングの真ん中に2人用ぐらいの小さなこたつを置いて、
そこに2人足を突っ込み向き合って飲んでいた。
その時歌詞の制作について色々話を聞かせてくれた。
歌のほとんどは要するに愛していると歌ってるのだけど、
それをどんな角度から「愛してる」と聴者へ伝えるか、
それが今やってる作詞の世界だ、と言う。
それを「これまで世界になかった真新しい歌詞を作るのだ!」と考えるか、
「今自分の中にあるだけのものを伝えられたら十分」とするかで、
作詞するモチベーションは大きく変わって来る、
とこの人は言った。
最初から大そうなモノをぶちかもそうとするとしんどい。
でも感じる範囲で、しっかり思いを込められたらそれでいいと思う、
というようなことを酔いに任せて語ってくれた。
モチベの元は少なくても女子の誉め言葉だけではない事を知った。
この人は売れないバンドから数年で売れっ子の大作詞家になったばかりで、
この頃事務所やレコード会社、
スポンサーなどの大きな期待を背負っていたはずだ。
きっとその重圧はほぼ脅迫としか感じられなかっただろうと思う。
ヒットしてもしなくても下手すれば1曲で何億ものお金が動く世界は、
一枚足元の薄紙をめくれば奈落が見える確証のない世界でもあり、
あたかも君の作品次第だと言わんばかりのプレッシャーは想像を絶する。
ヒットを逃した作家は手のひらを返したような周りの態度に震えただろう。
作家にあれこれ要求する事務所、レコード会社、代理店などは、
もしコイツがダメでも候補はいくらでも居るのだと使い捨て前提なのだ。
この業界は何故かヒット作品にぶら下がって生きている連中の方が、
安定して長生きできるような仕組み、プラットフォームになっている。
売れたらチヤホヤもされ大金も掴める作家稼業だが、
どこか腑に落ちない気持ちも否めない。
この翌日から
僕は再び精力的に作曲を始めた。
もしカケラでもあるのなら、自分の才能を信じるしかない。
世間をあまり気にするのはやめることにした。
街で流れる立派な音楽もできる限り聴かないようにした。
この直後、また新たに録音機材を買ったのを覚えている。
当然ローンで購入する。
安くはない機材なので数年間は縛られることになる。
ぐずぐずつまらない事を考えられるユルい状況をぶっ壊して、
制作の箱庭へ自分を追いやったのだ。
するとなんだか気分だけは少し楽になったような気がした。
反面世の中の流行りがわからなくなった。
26歳の時、カラオケを作る仕事が入ってきた。
音楽の業界で仕事するのは初めてではなかった。
しかし今回作曲とまではいかなかったが、
この手の仕事をもらった最初だったように思う。
僕のように一人で部屋にこもって音楽する人間には、
こういった仕事をもらえるのは有難かった。
別な仕事やバンドで忙しかったらきっと断っていたか、
またはこなす数をぐっと減らさねばならなかっただろう。
高校時代同様、掛け持ちというのはいつも危険と表裏一体なのだ。
ふと思えばこの頃の僕は子供時代から真反対な人間になっている。
じっと座っていることができなかったあの子供が成長し、
青年期には誰よりも動かない人になっていたのだから、
一生で消費する人の動きというのは決まってるのかと思った。
そしてカラオケ作りはますます僕を椅子に縛り付けた。
しかしこのカラオケ作りはとても勉強になった。
制作する楽曲はこちらでは選べない。
制作事務所が毎月CDやMDなどで数曲送り付けてくる。
これを聴いて楽器ごとのフレーズを聴き取っていく。
演歌、歌謡曲、ポップス、ジャズ、ロック・・・。
ジャニーズの様に4~50程の楽器が鳴ってる場合もあれば、
演歌のように5つ程度しか楽器がない場合もある。
1曲は1曲なのでギャラはどちらも1曲分なのだが、
時々洋楽もあったりするとそのアレンジに舌を巻いたりするのだ。
僕にとってこの時期お金をもらって勉強できるという意味では、
カラオケ制作の仕事は最高だったのだと思う。
単純計算すると400曲以上カラオケを作ったかもしれない。
お陰で
アレンジのいろんな技術を知ることができた。
ポップスに最低限必要な音楽理論や譜面の書き方など、
現場の楽曲制作時必要なことを習得し応用したが、
それは仕事の時がメインで、この知り得たアレンジ方法を、
自分のオリジナル曲には最低限以上あまり使う気がしなかった。
なぜなら自分から湧き出てきたものではないから、
と言うと随分カッコいいのだが、
アレンジの場合どうしてもその元曲のイメージに引っ張られて、
まるでインスパイアされてるかパクったみたいになるのが嫌だったのだ。
とは言っても世界でまだどこでも聴いたこともない様な、
全く新しい画期的なアレンジをするつもりもなく、
その時の思い付きが記録されたらいいかな、
という程度のアレンジをオリジナル曲にはするようになった。
今でもそうやっている。
どう頑張っても天才的な作曲やアレンジなんて自分には無理なのは、
もうこの当時からよく知っていた。
が僕自身はソングライターであろうとしていた。
しかし僕をよく使ってくれた制作会社は、
僕の事をソングライターと言うより、
アレンジャーと位置付けていたようだった。
僕本人はアレンジは作曲に付随するものという認識で、
少々不満であった。
各種
ラジオやTV/CM、劇伴やPVの挿入歌など、
ありとあらゆる注文を受けた。
イメージされる楽曲の雰囲気も様々で、
それはカラオケで身に着けた技術でどんどんこなしていった。
自分の評判を特に聞いたことはなかったが、
仕事はどんどん増えていくし過不足なくこなして来たかなと思っている。
当然リテイクもあったが、それらは何となく織り込み済みで、
リテイクが来たらこっちのイメージでという別テイクが常にあった。
なのでリテイクは苦ではなかった。
こういう仕事が向いていると自分でも思っていた。
しかし1度だけ欲を出したことがあった。
大きなスポンサーのTV/CMで、
完成すれば他の仕事同様各局ゴールデンタイムに全国放送される。
いつも通りCM作家の説明を聞きながら絵コンテを見ていた。
この作家さんとは何度もお仕事をしていて、
この人のツボというのを分かった気になっていた。
作家さんが、
「我慢して我慢して最後にポンと解放されるような、
なので前半から中盤までは淡々としてる感じの楽曲がいいかな」
と言うのを僕は「淡々として」と彼が言ったくだりを無視した。
絵コンテを見つつ説明を聞きながら閃いてしまったのだ。
もう既にこの時点で頭の中で音は鳴っていた。
そして賑々しくアレンジし、オリジナリティーを前面に出したのだ。
閃いて聞こえてしまったものは仕方がない。
きっとこっちの方がCMとしても良くなるに違いないと確信していた。
そうして出来上がった曲は音楽的にもイメージ的にも、
自分的にとても満足ができるものに仕上がったと思った。
針で突く穴もない完璧でハイクオリティーなものだったので、
いつものようにリテイクの準備などしてなかった程だ。
しかし実際はリテイクさえでもなく、ボツになってしまったのだ。
僕はこの仕事から外され、
完成したCMはテレビの放映で見ることになった。
代わりに付けられた音はなんとSE(サウンドエフェクト)で、
シュッ!とかチリチリと言った効果音だけ。
それは音楽でもなかった。
ギャラは約束通り振り込まれたが、
とても屈辱的で悔しい思い出になった。
オリジナリティー。
個性。
これに触れると必ず痛い思いをしてきたように思う。
僕がいいと思うものは世間的にはダメなものなのだろうか。
感覚的に社会とのズレや乖離があるからこそ、
本物のオリジナリティーなのだと思っているが、
それが受け入れられないのでは意味をなさない。
とはいうものの、僕のオリジナリティーなんて本当にたかが知れている。
そんなに突飛なアレンジをするわけでもないし、
無理してもそれを持続継続させる自信など全くない。
僕の中にあるのは「今まで聴いたことのない真新しい次世代音楽だ!」
というのでは全然なくて、
ただ少しだけその時代時代のセオリー的なステレオタイプを、
ちょっと脱線したに過ぎない程度のものと思っている。
そういう意味でのオリジナリティある楽曲とは何か、
という命題がいつも頭の隅にあった様な気がする。
その頃
阪神大震災の年、本拠地を京都に移した。
インターネットが一般にも普及し始めたため、
データでの納品が可能になったというのも理由の一つだ。
なにも東京に縛られている必要なんてない。
しかし音楽の中心地から外れる様な、
正直そんな不安もあったし名残惜しくもあったが、
家族の体調の関係もあったので決断した。
京都での生活は快適だった。
日常に自然が溢れ、町の人々は気さくだ。
仕事も順調になって40歳を過ぎたころ、
20年ぶりにバンドをやることになった。
今度はドラムではなくギターとボーカルを担当した。
僕が今のバンド形態を始めたのはこの時からだった。
長年に渡り
曲を作っていると僕のような凡人でも、
調子がいいときは次から次へとアレンジや歌詞が湧き出てくる時がある。
これまではそれに忠実に音作りをしていれば良かったのだが、
バンドで再現できる曲となるとそうはいかない。
バンドなのでライブをしなくてはならない。
ギター2人とベース、リズムは打ち込みという、
シンプル且つ変則編成バンドだったので、
鍵盤でのアレンジはぐっと減らした。
CDにはブラスセクションやストリングス、
オルガンやシンセなどを載せた曲も多く入れたが、
ライブ用にそれら無しの別アレンジも作るようにした。
バンドメンバーの1人も東京で仕事をしていた作家であり、
ボーカリスト、アレンジャーでもあったヤツなので、
このバンドの楽曲のクオリティーは高かったと思うのだが、
なんせベースは初めてバンドをやるやつだったし、
僕はギターで初めて人前に立って演奏し歌うのだ。
ライブによる演奏力は当初他のバンドより劣ると言っていいだろう。
そこで我々は小難しい演奏をしなくていいように、
バンドの位置付けをパンクロックバンドとした。
どんな曲もアレンジはパンクなのだ。
アレンジすれば楽曲なんてどうにでもなる。
僕らは
結局パンクバンドとして数年の間に3枚のCDを制作し販売した。
タイアップもスポンサーもなければ当然売れるはずもなく、
ライブの際に数枚売れるのが関の山だった。
勿論そうなることは織り込み済みだったが、
金にならないので世に溢れる赤字バンドのひとつだった。
それでも京都のFM番組にゲスト出演させてもらったり、
地方のフェスに呼んでもらったり、
東京や福岡を中心にライブツアーをしたりした。
ほんの少人数ではあるがファンなんかもできた。
しかし時代は進んでも経済は低迷を続け、
生活を支えていた仕事もぐっと数を減らしていた。
どうやら我が家に貧乏神が居座ったようで経済的に窮し始め、
売れないバンドをやっている場合ではなくなった。
ある時
広島福山の地元でライブハウスを運営しないかと言う話があった。
僕はもうそれに乗るほか手立てがなかったので、
急きょ17年快適に過ごした京都を離れる決断をした。
ところがライブハウスはたった2年しか続かなかった。
貧乏神は京都から広島までついてきたのだ。
暇な店ではギター片手に曲を何曲か作ることができたが、
そんなことをしてる場合ではなかったはずだ。
貧乏神の責任だけではなく、
店商売なんてしたことがなかったせいもあると思うが、
30年以上ぶりに帰ってきた地元はもう知人も少なく、
景色から全くと言っていいくらい知らない街だった。
ツテもほとんどなく、店を畳もうと決めてから忙しくなった。
この頃やっと貧乏神がどこかに行ったのだ。
しかし次の職を決めていたので店は閉じた。
50歳を過ぎて生まれて初めてサラリーマンというものになった。
この歳でちゃんと正社員として雇ってくれたのだ。
すると薄給ではあるが生活のペースをつかみさえすれば、
辞めない限りしばらく路頭に迷う心配はなくなった。
ライブハウスで知り合った地元の人に声をかけて、
再びバンドを始めた。
と言ってもやることと言えばリハーサルという名目の音出しと、
地元でのライブだけなのだが、
割と頻繁に集まるようになっていった。
これまでの楽曲や新曲を織り交ぜて、
そのバンドのレベルに合ったアレンジを少しずつ施していく。
この少しずつというのがツボだと考えている。
なんせメンバーは全員地元のアマチュアなのだ。
僕にとっては初めてのアレンジ環境だった。
これまではプロがコチラの要求を形にしてくれたし、
楽器を弾きながら「こんなのはどう?」と、
良いアイデアもどんどん投げかけてくれたりした。
僕は素晴らしい環境で音楽していた事に今更ながら感謝した。
そして今後はそうはいかない、
僕も含めメンバーは全員アマチュアだと肝に銘じた。
今のメンバーに何かアイデアを募っても何も出てこないだろう。
譜面も読めないし、イメージを注文してもその通りには絶対できない。
又は譜面が読めたり、ある角度だけプロ並みに上手かったとしても、
何を求められているかが全く分からない人たちである。
歌に寄り添うという意味は理屈では分かりにくい。
長い経験が感覚的に醸成してくれる。
しかしだからダメだと言ってる訳ではない。
今の環境で出来ることを十分にやるという精神は、
若いころに作詞家の知り合いに教わった教訓だ。
それでいいのだと思っているし、
何より仕事ではないノンプレッシャーな新たな環境で、
仲間らと楽しくバンドができている事に感謝している。
この様にお陰で今は楽しいバンド生活を送っていられる。
60を過ぎても会社は雇ってくれている。
生活もあと5年弱は安泰だろう。
その間に次の食い扶持は探さねばならないが、
バンドぐらいは楽しくやっていきたい。
ここではオリジナリティーなど意識する必要がない。
皆が出来ることを探してやるだけなのだ。
振り返って
1998年と言うから僕が京都に行って3年目の年、
宇多田ヒカルがオートマチックでデビューする。
時期を少しずらしファーストラブもヒットした。
僕はこれを聴いてとてもショックを受けた。
これまで日本人が書いていた楽曲からかけ離れていたからだ。
聞けばこの当時宇多田は15歳だったと言うから、
僕は益々ショックだった。
こういう若者が出てこられてしまうと、
もう僕ら年寄りの出番はなくなる一方だと愕然としたのだ。
良く調べるとどうやらあの藤圭子の娘だと言うではないか。
宇多田はアメリカで生まれアメリカで育ち、
アメリカ文化の中で藤圭子による音楽の英才教育を受けて育ったらしい。
そうと知って僕は少し安心した。
日本人の血は流れているが、文化的素養は完全にアメリカ人だからだ。
ならば日本人離れした曲を書けるのも納得がいく。
それにしても弱冠15歳でホントにいい曲を書いたものだ。
その後も海外の音楽にかぶれたような人がわんさか出てるが、
これほどの才能が現れたことはなかったと思っていた。
ところが2019年か20年だったか、
サビで "もうええわ" と歌う日本人が現れる。
しかもどうやらその歌詞は広島か岡山の方言で歌われているようだった。
洗練された楽曲に僕の地元近辺の方言を使って歌っている。
宇多田の様に海外で英才教育されたわけではなさそうだと思った。
その後 "死ぬのがいいわ" などの楽曲を耳にするたび、
もう完全に僕の手の届かないところへと、
この時代の音楽は遠のいてしまったと感じた。
それでも藤井風の曲を選んでは何度も聴いたりした。
何度聴いてもこいつは本物の天才だと思った。
天才というのは
やはり流星のごとく現れるのだ。
風は2023年でまだ26歳だという。
宇多田が例の曲をヒットさせたころに生まれたことになる。
この若さでこの水も漏らさぬ楽曲の出来映えといったら、
いったいなんと言ったらいいのだろう。
初めて聴いた時は歌詞に気を取られたが、
この彼の独特な和音構成と歌い回しのセンスなど、
もう脱帽するほかないのだ。
恐らく彼はこれを自然にやっている。
意図的または作為的技巧を持ってやっているのではない。
その純潔さがちゃんと録音された音に染み出ている。
歌にしても無理せず歌っている様子はとても好感が持てるし、
下手すれば歌ではなく語っているようにさえも聞こえてくる。
日本人が日本で育っても遂に本物が出て来る時代なのだと思うほかない。
今時は歌う人を簡単にアーティストと言ってしまっているようだが、
本当のアーティストというのはこういう人だけを指すのだ。
僕らのようなアーティストでもなく作家風情の端っこにいた人間には、
風が作り上げる音楽に対してただただ憧れひれ伏す他ないのだ。
自分のオリジナリティーが‥、などと考えていた自分がとても恥ずかしい。
風を知ったのは2019年か20年と言った。
僕は運悪くその頃ちょうど初のソロアルバムを出したころだった。
聴き比べてしまうとそのたびに死にたくなる。
何十年もかけ、のべ何百人にも迷惑をかけて、
この程度しかできない自分の音楽を本当に残念に思う。
天才ではないことはずいぶん前から知ってはいたし、
残念がることさえも恥ずかしいことだと感じてはいるものの、
この無力感というか、糠に釘感というか、どうしたらいいのだろう。
かといって金輪際作曲することを禁じられる訳ではない。
才能なんてかけらもない我々はとにかく努力して知り得た情報や技術を、
気にせずどんどんオリジナル曲に取り入れればいいはずだ。
昔アマデウスという長編映画を観た。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの物語を描いた作品だ。
このくらい飛び抜けた歴史上の偉人になった天才を見るのは楽しい。
観た人は皆さんはモーツァルト目線であの映画を鑑賞するのだと思う。
僕も何度も観たが、どうしてもモーツァルト目線にはなれなかった。
映画はサリエリという同年代の作曲家目線で書かれているが、
僕はその目線でも鑑賞することができない。
サリエリはモーツァルトを一方的にライバル視し、
嫉妬心も手伝ってその才能を次第に憎み始めるのだが、
僕にはその類のモチベーションが少ないと気付いた。
ひょっとすると若いころは多分にあったかもしれないが、
部分的にであっても今や才能ある人に敵対しようとは思わない。
サリエリは当時十分に重宝された立派なミュージシャンだった。
しかしモーツァルトと比べればやはり劣っただろう。
でもサリエリは現代にも残る名曲を何曲も残している。
僕から見れば十分彼も天才だったと思う。
あくまでフィクション映画なので、
サリエリが本当にそう思っていたかどうかも分からないのだが。
サリエリの作曲能力は本物だと言える。
将来僕の曲はまずこの世から雲散霧消してるだろう。
カラオケ制作
で覚えたアレンジ技術と同様に、
どこかに天才がいるのならその力をお借りしたい。
僕のバンドでは今僕が歌っている。
常日頃言っているのだが、
本当はもっと上手に歌える人に歌ってほしいのだ。
プロデューサーぶってるのではないし、
まして他の才能と喧嘩して張り合おうなんていう気など全くない。
才能ある部分を是非お借りしたいと思うのだ。
言うならばその声はアレンジの一つであり、
シンセサイザーのプログラム音色を選ぶのにも似ている。
そう言うと失礼に当たるのかもしれないが、
感覚的にはそう説明するのが一番近しいのだ。
しかし風は違う。
出端のデビュー曲から、
「その歯にはさがった青さ粉」
「先駆けてワシが言うたが」
「なんじゃったん?」
「ヤバめ x4」
「肥溜めへとダイブ」
僕にはこんな歌詞は書けない。
ところが曲はめちゃ洒落乙ときている。
しかも彼の場合は一人で全部完結できる才能である。
もちろんギターを入れるなら本人よりギタリストを呼ぶだろうが、
ギターなしでも十分その楽曲は光ることができるのではないかと思う。
宇多田の場合は作曲能力と歌詞、それと歌唱力が断トツだったが、
果たして演奏となると彼女はほかの才能を必要とするのだ。
一人では完結できない。
しかしそれを否定してるわけではなく、
彼女は僕が思う近代稀有な天才の一人だ。
録音作業や技術に関しては風であっても一人では無理だろう。
それをも含めて音楽制作だと言うのであれば、
今後そういう才能も包含した天才がいずれ現れるのかもしれない。
時代は進む。
良し悪し考える間もなくどんどん進む。
そのように老兵は自問自答しながら、
世の中の端っこに追いやられていくのだ。
それでいい。
そうでなければ宇多田も風も生まれなかった。
次の天才を見るのが楽しみだ。
それまでもう少し音楽で遊んでいられるのなら、
そうしようと思う。
自分が生きてる間ぐらいは。