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自分の境界線

【2970文字】

一般的な解釈では、人間には足があって手があって胴体、頭があって、その表面には皮膚が貼り付いている。
人ひとりの単位というのはこの皮膚を境にして「1人」と言っている。
皮膚の内側が人で外側はその人ではないという解釈。

ところが実はそうじゃないんだよ、という話。

さて、冒頭から話は逸れる。
2022年現在、国際宇宙ステーション(ISS)は今日も健在である。
本当は15年程度のミッションだったが既に24年間も飛び続けている。
このISSを思う時、人類はすごい事をするもんだと感心仕切りである。

なんせ相手は宇宙なのだ。
地球環境とは全く違うのだから、綿密なシミュレーションと設計、超緻密な製造が要求される。
しかも製造時に試運転してみるチャンスが地球上にはほぼないと言っていい。

なのにサッカー場と同じ大きさの420トンもあるものを地上400km上空へ打ち上げ時速22,700km(秒速7.7km)の速度で飛ばしているのだ。
凄いとしか言いようがない。

ISSを飛ばす前に先ずは宇宙を知らねばならない。
ご存知の通り宇宙には空気がない。
場所にもよるが重力も地上と比べ100万分の1と非常に希薄だ。
この事がどんな事かを知る人は案外少ない。
宇宙に放り出された人間は単に息が出来ずふわふわ浮くんじゃないか、程度にしか考えてないだろうか。

宇宙には太陽風と呼ばれる有害な宇宙線(放射線)が普通に飛び交っている。
国際放射線防護委員会(ICRP)の2007年(福島以前)勧告では、 一般公衆の実効線量限度は年間1ミリシーベルトと定められているが、ISSの乗組員は年間ではなく毎日1ミリシーベルト程被ばくしているという。

この放射線から地上の我々を守っているのは大気である。
宇宙にはその大気がないので当然大気圧もない。
地上なら畳半畳の広さには10トン程圧力がかかっているが、それが宇宙にはない。
富士山山頂の気圧は地上の64%程度しかない。
リュックに入れておいたポテチの袋がことごとく爆発するか、またはパンパンに膨れる。
人間を宇宙に持って行けば上下左右から押さえられていた大気圧を失い尋常ではない良からぬことになる。

気圧が下がるとお湯の沸点も下がる。
富士山山頂なら88℃で沸騰する。
エベレストなら50℃だ。
気圧のない宇宙空間では血液の様な水分は瞬時に沸騰し蒸発してしまう。
その他にも宇宙ではISSの機体は太陽の日陰では-150℃まで下がるが、直射日光を浴びる箇所は120℃程になる。
生身の人間はひとたまりもない。

しかし宇宙空間に人間が浮いている映像を見た事がある人もあるだろう。
宇宙飛行士の星出彰彦さんはISSで28時間以上の船外活動をしている。
彼らがこの危険な宇宙空間で船外活動出が来るのも宇宙服のお陰である。
宇宙服は宇宙環境を遮断する服と言える。
要するに宇宙服とは地球環境を切り取ったカプセルなのだ。

宇宙服内部にかかる10トンの気圧に耐え、有害な宇宙線や太陽光から人間を守る1着のお値段は10.5億円である。
人ひとりの為に地球環境を保つのにそのくらいかかるという事だ。
世界の人口は79億人に達する。
地球が壊れても恐らくあなたの手元に宇宙服は回ってこない。

人間は地球環境下でなければ生きられないという事だが、人間環境下でなければ生きて行けない生物の存在もある。
腸内や皮膚表面などに内在する菌類など、彼らもまた人間環境でしか生きられない生き物のひとつだ。
赤血球白血球、マクロファージ、キラーT細胞などもまた個別の生命と言えるが、その人間が死ねば内在するすべての生物も死滅する。
人体は宇宙だと言われる所以かも知れない。

この人体の宇宙を保つために人間は食事をする。
この食事が栄養やエネルギーとなり人間の体を保っている。
人間の細胞は60兆個あって、場所によっては数日、遅くても4~5年で人一人の細胞は脳と心筋以外全部入れ替わると言われている。

ドイツ生まれの米国人科学者、ルドルフ・シェーンハイマーという人が以前面白い実験をした。
分かりやすく説明すると、食物の細胞に退色しない色を付け、それをマウスに食べさせた時、着色した食物の細胞がどうなるかを見たのだ。
予想では多くの細胞はエネルギーとして燃えるか排泄されるだろうと思われていたが驚くべき結果が出た。

着色された食物の6割以上が体内に入ると元々あったネズミの細胞と入れ替わり蓄積されていった。
これを繰り返している内にネズミの細胞はすっかり着色された細胞に取って代わられた。
この時体重は最初と全く変わってなかったという。

これは長い時間軸で観た時、食物細胞がネズミの体を通り抜けているとも言えるわけだ。
分子生物学の福岡伸一博士はこれを動的平衡と表現した。
人の体はその外の世界の大きな流れの中にありながら混然一体として存在しているという。
体と世界はつながっている、または境目のないひとつのモノとして解釈できるのだ。

心臓を摘出すれば人は生きていられない。
心臓は人の生命に関わる重要な機能を果たす臓器であると誰もが知っている。
しかし人工心肺機能を施せば生命を維持することは出来る。
宇宙に於いて宇宙服を剥がされれば人は生きていられない。
宇宙服は人の生命に関わる重要な機能を果たしているからだ。
この場合宇宙服は人工生命維持機能装置と言える。

人工心肺機能装置は心臓の代わりをしたが、宇宙服は何の代わりをしたかというと、既出の通りやはりこれは地球の代わりをしたと言っていい。
人から心臓を取り除くのと同様に、人から地球環境を取り除くという事は、つまり死である。
取り除かれて死んでしまうのであれば、それらも含めてひとつの生命体という事が出来まいか。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
で始まる方丈記は鴨長明が感覚的に知っていたであろう世界感を表現した言葉だ。
川はいつもそこにあり、ひとつの名を持った固有の存在に思えるが、その流れは一度たりとも同じ水を流さない流体であり、多くの支流を集め、その先は地下水や雪解け水、雨水、雨雲、水蒸気、海水となって、このどれかを外してしまうと流れが止まるのであれば、一連のサイクルは全て川であるとも言え、また同時にこれは川ではなく海であるとも雲であるとも言える。

人間もまたもし皮膚1枚外側が全く自分と無関係な世界であったとしたなら、何故人は他人の言葉で傷ついたり幸せになったりするのだろうか。
壮大な山や広大な海、緑深い森、群生し咲きほころぶ花、愛らしい動物たち、鳥の声や湧き立つ雲、それらを見て心動かされる意味などあるだろうか。
そんな外側のことなど遮断して、内側の自分だけを温存する事に集中した方が生命体としては得策だろうが、実際はそうではない。
誰かの気持ちを酌み涙し、物言わぬ大自然に心を洗われ、小さな子供や生き物に微笑み、愛する人を見つめていたいと思うのは、つまりそれは皮膚の外側も遠く自分の一部であり、愛おしく痛みを享受出来得るからだという推論は成り立たないだろうか。

自然保護、CO2削減、SDGs、多様性認識、はたまた各紛争や民族問題などなど、それぞれをそれぞれの立場で訴えるのもいいが、人類が共通して身近に感じ得る「自分の境界線」を知るだけでこれらは一気に意識改革できるようにも思うが、きっと筆者の考えは甘いのだろう。