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意識とは 違和感とは 信じるとは

【4550文字】

個人の考えである

夢も希望もない言い方かもしれないが
魂とか前世とか来世とか
ましてや地獄とか天国とか
真剣にあると思っているその感覚に
どうしても違和感を感じる
そういったものはありえないと思っている
なので当然幽霊とか呪いとか
運勢とか占いの類も信じていない
科学的根拠のない予知や
もっと言えば宗教なども
個人的にはどうしても
受け入れる事が出来ない
これらは全部
個人的には違和感である

と言いながら

宗教信者らが結果として
その教えによってモラルが保たれ
2世3世も含めて
幸せな気分でいられるのであれば
それはそれでい良い事だとも思う
我々を勧誘などせず
内々でご機嫌にやっていて欲しい
一方仏教などは調べれば調べるほど
その教義は宗教というよりは哲学であり
人間の心理を希求する学問とも言える
個人的にその学問や姿勢については
大いに賛同しているが
その宗教に染まるつもりはない
恐らく日本ではそういう人らが
マジョリティーであろう

さて

哲学的学問と
非科学的なオカルトは
何が違うのかというと
実は大して変わらない
どちらも決着のない疑問や課題に満ち溢れ
全ての論説は想定や仮定に満ち溢れる
幽霊や呪いや地獄を語った論説と
仏教の「空」や「縁起」や禅の教えは
所詮どちらも例え話でしかない
どちらであれ
腑に落ちた例え話を信じればいい
理解できない事は信じるに足りない
つまりこれは
宗教やオカルト側の問題ではなく
受け取る側の問題なのだ
それだけの事なのだろう

信じる

という行動は
いかにも人間らしいと感じる
人間以外の動物は本人の意思で
能動的に何かを信じようとする感じがしない
基本は疑いと警戒の鎧で身を守る
違和感のあるものは全て
信じるに値しない敵なのではないか
確かに用心するに越したことはない
ではその鎧の内側にあるものを
信じているのかと言うと
やはり信じるという能動的なものではなく
信頼しているという一段上の
自然発生的な感情に近い安堵感なのではないか
信頼感は恣意的に得られるものではない
人間にも信頼感という感情は備わっている
よほどでない限り身内は信頼するだろうし
それは動物も同じだ
それは何よりも固い絆になるだろう

しかし

信じるという行動はそうではない
自己の感覚だけで決定したのではなく
他の要因に引っ張られる形で
意識し意図的に信じるようにした
もしくは疑似的に信頼した形を模した
という所がある
それは一縷の危うさの様なものを内包する
兄を信頼している というのと
兄を信じている というのでは
ニュアンスが変わって来る
お化けを信じる とは言うが
お化けを信頼する とは言わない
また信じたからと言って
安心してるわけではない
ところが信頼は安心とワンセットである
疑いもなければ警戒もしない
信じるという行為は
意識的に少々無理して
そして少々期待を込めてなされる行為
そんな感じがする
動物の鎧の内側は
信頼で出来ているように思う
人間の意識は無理をしているのだ
人間は何故動物の様に無理せず
信頼だけする事が出来ないのだろうか
そしてなぜ信じるという事をするのか

意識は何のため

にあるのだろうか
なぜ幽霊や前世を信じてしまうのか
なぜ2千年も前の教えにすがるのか
動物にはオカルトも宗教もない
いったい人の意識は何がしたいのだろうか
意識が無いように見える草花は
遥か太古から脈々と命をつないできた
そんな点からも
生きる上で意識は本当に必要なのか
そんな疑問が浮かぶ
意識は人には必ず備わってる機能の一つだが
どんな必要性があったのだろうか
先ず我々それぞれの意識はいつ生まれたのか
その点を考えてみる

AIが

将来的に独自に意識を持つのか
その点は分からないので
少なくても今現在においては
肉体がなければ意識は存在できない
という論旨で考える
DNAの指し示す細胞分裂の結果
肉体ある生命は誕生する
哺乳類の場合
誕生した生命には意識が伴う
恐らく魚類や爬虫類にも
意識と言っていいものはあるだろう
しかしそれは人間のものとは
随分違うものではないかと思う
無脊椎動物の一部や単細胞
あるいは植物はどうだろうか
意識はあるのだろうか
外見ではあるようには見えないが
確定的に証明されたわけではない
しかし彼らもDNAの誘導で
細胞を分裂させ生命として生まれた
植物に骨はないが
人間には花が咲かない
そういった種族の違いの一つに
意識もあるのかもしれない

さてこの

意識とは何か
科学はこれにまだ答えを出せていない
意識の定義も色々あると思うが
ここでは我々が感じているこの意識を
健康な状態で保持しているもの
として話を進める

意識は少なくても
身体が作られる過程で生まれる
では人間はいつからを人間と言うのか
これも倫理的な見地で
世界中で議論がされているところだが
精子だけや卵子だけを指して
それを人間とは言わない
精子が卵子に結合した瞬間
受精卵になった時
人間だと言えるのは
おそらくそれ以降が対象だろう
つまり細胞の結合や分裂が
ひとつの筐体の中で行われる
その筐体の事を一人の人間と言う
ここではそういう風に考える

受精卵

はその後同時発生的に骨や皮膚
臓器や神経細胞などを形成し始める
このどの時点で意識が作られるのか
それは他の臓器などと同様
はっきりとした点はないと言っていい
しかしどこかの時点で
意識は必ず作られる
意識という臓器はない
物理的には存在しないが
意識は必ずあると確信できる
意識は何かの複合効果による
化学反応的な成果物なのかもしれない
しかし実態がない
実態がないので生まれたばかりの意識は
それが自分の意識だとはまだ認識できない
ある時自分という存在に気付く
その時準備がほぼ万全に整い
意識が意識として使えるようになるのだろう

人間には

自分と自分以外のその他があって
意識はその両方を常に比較している
他人が居るので自意識は育つことが出来る
自分があるからこそ他人を意識できる
言い換えれば
自分と比較すべきその他がなければ
意識自体の存在意義がなくなる
孤独とは意識の破綻という
重篤な状態が差し迫る状況を言うのだ
自分の意識とはつまり
自分自身を他と区別し
他を認識し違いを認めるという
とても重要なな役目を果たしている
意識する事は健康的な事なのだ

生まれる前の

赤ちゃんは
意識の芽はあっても
ほとんど自分以外がないので
まだ不完全な意識しか持てていない
そして生まれたばかりの赤ちゃんは
これまでずっと聞こえていた
母親の心音が消え
不安に駆られ泣くという
音が聞こえたり触感や空腹感は感じても
それが何だかは分かっていない
この時点ではまだ
それらは全部自分自身だとそう思いつつ
拭い難い違和感を感じている
いずれ目が開いて自分の手を確認したり
一心同体だった母親を見たりして
実際に一心同体であったわけで
この母は自分自身だったはずだが
などと思う
しかし生誕後に母親と自分の間に
何か大きな違和感を感じ始める
どんなに念じても願ってみても
母親の手は思う通りには動いてくれないが
しかしこの小さな手は
いとも簡単にコントロールできる
そういった事を逐一経験していき
母親は自分ではない
母親と自分は違うものなのだと気付くのだ

意識する

ということは
意識したものの見え方や感じ方が変わる
という事でもある
それはつまり違和感なのだ
自分と違うものは違和感が知らせてくれる
この違和感は何だろう?と思う
違和感を解決するため人は考える
そのうち違和感は
いろんなものを理解するための
きっかけの役を果たすようになる
母親と自分は違うのだと知った赤ちゃんは
未熟ではあるがごく初期の意識を獲得する
この意識がもたらす違和感の作用は
思春期頃に大暴れし
その後も疑問符と共に出現し続ける
生きている間は休まずずっと続く
これは迷惑な事と規定するものではない
違和感は危険も多く知らせてくれる
初恋や恋愛も連れて来る
時にアインシュタインは
光の速さについて違和感を持ち
特殊相対性理論を発表するに至る

この様に

意識は違和感の解決のため
その違和感の実態を観察し確認し
あらゆる知識をつけて解決しようとする
つまり意識は知識探求の源泉でもあり
意識というエネルギーであるとも言える
算数でも社会でもなんでも
どうなっているんだという
そんな違和感をまず感じる事が重要だ
違和感は解決を連れて来る
知らなければ違和感は生まれない
違和感のないところに解決はあり得ない
しかしこの作業はまるで自らの身を
切り分けているようなものだ
今までは自分の世界の一部
何も違和感を感じていなかった
そう思っていた事やものが
突如異質な違和感に包まれ
それを己の世界から切り離し
別物と認定していく作業だからだ
母親と幼児の様に
妊娠中は違和感なく
一体に過ごせていたものが
急に別人として切り分けられる
意識し違和感を持ち知るという事と
別れとは同義語なのかもしれない
意識が育ち知識も身体も育ち
しかしその都度何かしらと別れて行く
そういう悲しい性質が
人間の意識にはついて回るのかもしれない
人間に意識がある限り別れは付きまとうのだ
そして人生最後の別れの時
人間は意識も同時に失い死を迎える
意識と別れは決して分かつことは
出来ないのだ

そう言えば

子供の頃を思い返してみてほしい
世界の全ては自分自身と一体だった
何も違和感のない世界が広がっていた
ところがある日
これまで当たり前だったものが
突然不思議なものに感じてしまう
そしてそれが何なのかを探っていく
その違和感の謎が解けて来ると
例えば虫や川や風の謎が解けて来ると
もうそれは自分の一部ではなく
自然科学や物理学 哲学という
別の世界のものになってしまうのだ
意識が育つと知識もつくが
その度別れが訪れ
あんなに世界と一体で
何ひとつ不安がなかった自分は
実のところとてもか細く
ひ弱い存在だったんだと気が付くのだ

だから

人間は成長に伴い
分厚い鎧で身を固め始める
鎧の外が怖いのではない
鎧の中に自信がないのだ
自信が持てない事に気付く
ひとつ知れば2つ未知が生じる
経験を積み知識が付けば付くほど
違和感は益々増える一方である
自分の世界を切り取り
自分の世界はどんどん小さくなっていくが
自分以外の世界はどんどん膨らんでいく
もしこの外の世界全てが敵であるとしたら
到底勝ち目はない
だから人は鎧の外側を
単に敵視するのではなく
恐る恐るでも
一旦信じてみようと試みるのではないか
より多くの経験や知識を持つ者ほど
自分の弱さを知ることになる
人を信じようとしている人は
その分だけ己の弱さを知っている人なのだ
だから意識して意図的に
何かを信じてみようとする行動は
動物にはできない
信頼するもの以外は敵とみなすのだ
つまり信じるという行為は
人間特有な行動だと言っていい

意識し違和感を感じ

そして知識をつけ別れていく中で
人は他人も同じことをしていると気付く
誰しも鎧を身に着けるが
その中身は実のところ
皆ひ弱い存在なんだと気付く
皆大きな違いはないと気付く
そんな中により意識する人物が現れる
それはより強い違和感かも知れない
違和感はその人の事を知ろうとし
相手の弱さに触れた時
同じ弱さだと知り互いの弱さを認め合う
そういう相手は信じているというより
もう少し進んだ仲のように思う
信頼と信じるの中間
親友でもいい
パートナーでもいい
拠り所とでも言う感じだろうか
そうやって意識する人が増える
人間は一人ではない
そして皆弱い
意識し認め合い信じあって
つながることが出来る生き物でもある
意識は外側と共存するためにある
そう言い換えても良いかも知れない
得体の知れない外側を信じてみるのは
自分だけの為ではない
この意識は
自分だけの為にあるわけではない