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エッセイ 人生について色々と画策する

ノリスケ氏はこのまま順調に行くと、シャカイという訳の分からないヘンテコなところに出ることになる。漢字に起こすと「社会」であるが、ヘンテコさを残したいのでシャカイと銘記する。

シャカイというのは大変なところらしい。シャカイが嫌で右往左往する大学生などをモラトリアムと表現する時点で、色々と推察することができる。また、ストロングゼロという「飲む麻薬」がこの日本社会の現状を物語っているとも言える。

ただ、ノリスケ氏自身はそこまで、働くことに対して嫌悪感は無い。むしろ、人と何か協力して物事を達成することは面白いと感じている。そう思う参考資料は、大学生活までにしか無いが。

1番の問題は人間関係にあるだろう。ノリスケ氏はコミュニケーション能力に少々難がある。

同氏は自分のことを指差してこう言う。

「オレは食べ物に例えると鰹節っすね」

どういう意味かと言うと、鰹節の第一印象は薄い。ペラペラである。新卒らしい華やかさは無く、弱々しく見える。あまつさえ、ぶっきらぼうでもある。どれだけ積み重なっても、一旦風が吹けば飛んでいきそうである。

しかし、それが素麺のつゆや湯豆腐の上に乗っかるとどうだろう。味わい深くなる。芳醇な香りをもたらしてくれる。

これらを人間性に置き換えると、「一見地味だが、何かと合わさるとじわじわと味を出す人間」ということになる。

「味を出すってホント?」と意地悪なことを聞く人もおるやもしれぬ。それについては否定できない。なぜなら、鰹節をケーキにかけても、美味しくはならないからだ。「限界はある」とノリスケは言う。

同時にこうとも言う。「自分を食べ物に例えてカッコよく見せたい」

したがって、コミュニケーション能力の観点からすると、鰹節であるノリスケ氏に対する第一印象は良くはないはず。「なんだ、コイツ」と思われても仕方ないだろう。試験で苦労した点はここにある。

シャカイに出るノリスケ氏の唯一の懸念は、この鰹節に関心を持ってくれる人がいるかどうかにある。もちろん、同氏も努力せねばなるまい。待ちかまえるのは、バレンタインデーの男子高校生だけで充分である。きちんと、アピールをしなければならない。

つまり、鰹節の存在を認めてくれる人を探して、シャカイを渡り歩く必要があるということだ。そういう人はノリスケ氏にとっても、尊敬できるに違いない。しかし、そういう人が皆無であった場合、ノリスケ氏には残念だが、シャカイの船出の場所が悪かったと言うほかないだろう。

そもそも、ノリスケ氏はなぜシャカイに出るのだろうか。答えは抽象的だが明解である。

「自分という人間が何なのか知りたい」

からである。

もちろん、自分の好きなことややりたいことや、逆に自分の嫌なことについても、今まで吟味してきたつもりではある。(全国転勤は嫌なので、特定のフィールドをぐるぐるするシステムを選んだなど)ただ、今のノリスケ氏にはあまりにも自身の人間性を言い表すためのエビデンスが少なすぎる。鰹節という自己表現も上部の霞に過ぎない。

大学生の中には己の人生を見つめ直すため、敢えて休学する傑物もいるが、ノリスケ氏にはそれができないという。「たぶん家でずっとYouTubeしか見ないと思う」これが現状であろう。

よく言われる、「シャカイの役に立ちたい」とか、「セカイで活躍したい」という夢や希望はあまりノリスケ氏の好みとするところではない。なぜなら、そう口にする人たちは本当に自分という人間を理解しているのか、疑問だからである。

したがって、ノリスケ氏は、自己認識のために、シャカイに出るということになる。
「シャカイは自分を見つめ直せるほど、甘くねぇゾ」と怒られるかもしれないが、ノリスケ氏も「ウルサイ、馬鹿野郎」と言い返す。

「オレはまだシャカイを知らんのだ」

好き勝手言って何が悪いというスタンスである。

とりあえず、ノリスケ氏はシャカイに出るらしい。

さらに一言付け加える。
「老後は山小屋を作って、伴侶そろってのうのうと暮らす」

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