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謙虚さと怒りと悲しみをーベトナム戦争証跡博物館にて

ベトナムという国を訪れたら、必ず「戦争証跡博物館」は訪れておくべきだと思っている。その国の悲しい歴史をきちんと目にしておくことは、必要であるような気がしている。

僕は「人は個人として尊重される」という個人主義の考え方が基本的に好きだ。もちろん、人間が10人いれば10通りの物の考え方があるから、「そんなアメリカナイズ」された考え方は好きではない、という人の考えも理解はできる。でも、少し立ち止まって考えてみると、個人主義という考え方は、本当にアメリカナイズされた考え方なのだろうか?アメリカという国の考え方や在り方にそぐわない国や地域やいろんな手段を使って攻撃をされている現実がある中で、多様性を受け入れているようで実質的に見て、そうではない国が本当の意味で「個人主義」なのかどうかがそもそも疑わしいのだから、それをアメリカナイズされていると考えるのはあまりに形式主義的に過ぎるのではないか、というのが僕の率直な感想である。

それから、保守派の人たちは「個人主義」というものが、我が国の衰退に導いた諸悪の根源であるかのごとく語る人もいる。個人を尊重するばかりに、人は身勝手になり他者を顧みず悲惨な犯罪が起きるようになってしまったのだと。これについても、一見、因果関係のあるようなもっともらしい主張だけれど、「個人主義」と「身勝手(自分勝手)」というのは、似て非なるものだ。それぞれ個々人がそれぞれに尊重される、ということは、それぞれの個々人が他者を個々人として尊重しなければ成り立たない考え方である。自身を尊重して欲しければ、他者を尊重する。「個」が「個」として尊重されるのは、理屈としてそんなにシンプルなものではない。だからこそ、いろんなところで様々な議論が起きるのだろうし、いまだに誤った(ある意味では論理破綻した)論調で、個人主義が批判される。でも、それを批判する人だって、個人として尊重されなくなってしまえば、個人としての意見を主張しづらい(できない)状況にだってなりかねないのだから、そこまで想定しての批判なのかどうかは少し疑問があるところだ。

国家論ということを考えた際も、僕自身は国家は国民(個人)の暮らし、生活、大きく言えば人生に資するための「システム」に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもないと考えている。だから、例えば、国家の都合で(政治家の都合で)、戦争が起きてしまうということが仮にあれば、全国民が国家の構成員として戦争に参加しなければならないという理屈は成り立たないと思っている。国家は国民に資するためのシステムに過ぎず、国民の利益に資するためだけの存在するものであって、国民の不利益を与えるようなシステムであるのならそのシステムがもはや破綻していると考えるからだ。国家は国民のためにあるのであって、その逆はありえない。これが僕の基本的な考え方だ。もちろん、日の丸を背負うとか、国を思うとか、そういう物の考え方を尊重する人のことだって理解ができる。でも、「国」と一口に言っても、それがCountryを指すのか、Govermentを指すのか、Statesを指すのか、ここの違いでやはり物の考え方の出発点は異なってくるように思う。

世界的疫病のあと、我が国の国家システムからもどんどん膿が表面化されつつある。それ自体は、とても良いことだと思う。その一方で、どこか政治なんてそんなものだろうという「諦め」のような冷めた空気感がこの国民の間に蔓延していることを感じることもまた少しの危惧感を持つところだ。

「権力は暴走する。」

これは世界的にも、歴史的にも何度もも繰り返されてきている「事実」だと思う。なぜ、繰り返すのか?なぜ繰り返してしまうのか?




その要因のひとつはやはり権力を監視する私たち国民の「隙」にあるような気がする。それが国家の「国民にはどうせ気付かれない」という国家の怠慢というか傲り高ぶった気持ちを増長させ、行き着くところまで行ってしまうのではないかと考えている。そして、行き着く場所というのは、歴史的に見ても「凄惨な現場」でしかなく、そういう場所に立って人はやっと「反省」を促されるのだ。多くの人の無駄で無意味な「死」の上に。僕は、あえて「無駄」「無意味」であるという単語を用いたいと思う。もちろん、戦禍の中で苦しみ、悲惨な死を迎えた一般国民の方々、そしてもちろん国家側の構成員の方々には、心の底から哀悼の意を表したいと思う。けれど、そこに無理やり意味を見いだすことが、そこで感じた悲しみや怒りや憤りを薄れさせしまい、やがては忘れ去らせてしまうことの大いなる要因になりかねないと思っているし、もしかしたら実際にそういう部分が歴史上ありうるのかもしれないと感じている。

悲しみを悲しみのままに、心に置き留めておく。

どんな人間も総じて、基本的には「愚かなことをしでかしてしまう」ものだ、という謙虚さを持ち続けることが大切なことなのだと思う。

そして、同じ人間が同じ人間にしてしまった事実を事実として、怒り憎むこと。特定の誰かを憎むのではなく、それを起こってしまった事実として心の底からの怒りと憎しみを持って対峙する。

人の命がひとつ失われてしまうと、それに伴う悲しみは何倍にも膨れ上がる。その人にも、家族がいて、友人がいて、様々な仲間たちがいるからだ。

数字は無機質だ。戦争が何年続き、何人の人が投入され、何人の人が死んだ。けれど、その数字の羅列の向こうに、そして目の前に展示されているたくさんの凄惨な写真の向こうに、数のしれない多くの具体的な悲しみを想うといまだ戦禍の絶えない世界に、ただただ祈りたくなる。

「権力は暴走する。」

その事実を、今一度再認識しなければならない、と思う。
我が国は、再び訪れる悲劇の前夜にいるかもしれないのだから。



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