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梟と天狗

小学生の時に、ほぼ毎年、長期休みにはその都度2、3回、キャンプに参加させられていました。

小学生時代の私は、大人に囲まれて育って社交性にかけていたせいか、母方家族はなんとか集団生活を経験させたかったようです。

当時、幽霊らしきものが見えてしまうこともあり、かまってちゃん的な発言が多かった私でしたが、初めて会う方たちには流石に猫を被って、おとなしくしていました。

その効果と、父方の血筋なのか生来の口の旨さのおかげで、その場でも友達ができ、楽しいキャンプを過ごしていたのです。

それは、何回か参加していた団体のキャンプでのことでした。

その団体のキャンプは、山登り好きの主催者さんの意向で、昼の山登りまたは川遊び、夜は花火がメインの活動をしていました。

そのときは、青梅の奥のキャンプ場に出かけたと記憶しています。

昼の山登りの時点で、変なソワソワ感を感じていました。
でも、キャンプ場に何かいるわけではありません。

それがなんなのかわからないけれど、山登りの楽しさもあり、子供同士の絡みの楽しさもあり、さほど気にはならなかったのです。

けれど、夜になると、得体の知れない恐怖感を感じることになりました。

誰かが見ている。
どこかわからないけれど、私を見ている。
炊事場で夕食の片付けをしている時点で、何かがいるのを感じていました。

でも、どこにもいないのです。バンガローの周りも、トイレ周辺も確認しました。
どこにも何もいないのです。
でも、視線を感じます。それも、とても強い、『叱られる』と感じる視線でした。

その時の夜レクは、花火ではなく、キャンプファイヤーをやることになっていました。

キャンプファイヤーができる広場は、バンガローのある場所から少し森に入ったところにありました。

友達がバンガローから出るのに、私は出れません。
バンガローの中、建物の中にいる間は、敵意の視線を感じなかったからです。
1人でそこに残った方が、絶対に安全だと思いました。

でも、そんなこと、大人が許してくれません。

なぜ、キャンプファイヤーに参加しないのかと叱られましたが、正直に「誰かが見ているから怖い」と伝えても、通じるわけがありません。

私は引きずられるようにして、キャンプファイヤー場までつれて行かれました。

行くまでの道中、本の2、3分のことなのに、全身に鳥肌が立っていたような記憶があります。

私についていた職員さんに、私は、誰かが見ている、でも幽霊がどこにもいない、と繰り返し伝えました。
「幽霊が居ないなら、怖くないじゃない。」とその方が言った気がします。

でも、違います、いつもならいるはずの幽霊が一体も見えないのは異常だったんです。

私は完全に泣き出していたと思います。

そして、キャンプファイヤー場についた時です。

キャンプファイヤー場は、森の中にぽっかり空いたように円形に切り取られていました。高い木が周りを包むように広がっています。

中央には、まだ火の付いていない組み木の台がありました。
その周りに真円に線が描かれていました。
児童たちが綺麗に火を囲めるように、との配慮だったのでしょう。
その意図の通り、線に並んで、小学生の児童達が組み木の台を囲んでいるのです。

高い木々、子供たちの円、組み木。
そして、舞台照明のような月明かり。

怖い、怖い、怖い

お膳立てされた儀式のようで、私はパニックになりかけていました。

その時に、ひどく不機嫌な、怒りのような視線を感じました。
今までとは競べようもない、強い視線でした。

辺りをキョロキョロ見渡して、どこからということに、やっと気づきました。

頭上です。

慌てて上を見上げれば、夜空がぽっかりと円形に切り取られています。
木々の枝葉が、額のように円を縁取っていました。
中心から下にずれた位置に、綺麗な月がありました。

そして、中央に大きな猛禽類の二つの目がありました。

あの時、死ぬんだ、と思いました。
私たちは今からこれに食われるんだと思いました。
あれだけ怖くて涙が滲んでいたのに、涙が止まりました。

生贄なのだから、もうどうしようもない。
幼心に、命を悟ったのだと思います。

私は上を見ないようにして輪に入り、キャンプファイヤーに参加しました。

ずっと視線は感じていましたが、夜会は滞りなく進みました。
生け贄に捧げられることも、キャンプファイヤーの火が燃え移るなどの事故もなく無事に終了し、それぞれがバンガローに戻りました。
恐怖のわりには拍子抜けするほど呆気なく一日が終わり、私は眠りにつきました。

次の日、キャンプ場から帰りのバスに乗って何事もなく地元に帰り、集会場だった他校の小学校から家に戻りました。

家について、仏壇を見て気づきました。

何も見えない。
何も聞こえない。

私の周りでピカピカしていた小さい虫の様なもの、高かったり低かったりする小さな音のサイレン、モヤモヤする影、話し声……

私が今まで感じていたものは全て失くなっていました。


そのおかげか、中学、高校と、私は大きな霊体験をすることなく、一応友達も出来て、平和な思春期を送ることができました。

その頃、高校時代の友達と話したときに、その子が
「高尾山にいる天狗に会ったことがある。天狗は赤い顔ではなく、修験者のような普通の顔だったけど、顔だけがどーんと大きく空に浮かんでいた。」
と話してくれたのが、何となく心に残りました。

果たして、あの目は何だったのか。
私には分かりませんが、一時的に見えなくなったことで得られたものも有りますので、きっと意味のある経験だったのだと思っています。





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