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カンボジアのプレゼンテーションのこと

カンボジア人のプレゼンテーションは、とても躍動感があります。上手。身振り手振り、それからパワーポイントのデザインも豪快。
いちばん尊敬するのが、英語が下手でも、文法がめちゃくちゃでも、堂々と声に出すこと。日本人ってば萎縮している場合じゃないなって。

個人よりグループワーク重視

大学院での2年間は、グループワークとプレゼンテーションまみれでした。20年も前に日本で教育を終えたわたしとしては、何でもかんでもグループ単位であるやり方にややカルチャーショックを受けつつ。成績評価においても、”ひとりでNo.1を取るのではなく、グループで取り組んでみんなで成功したい”、というカンボジア人の土壌に馴染むと、気持ちが良くて楽しくて、逆に学びがスーッと入ってくることを感じました。例えば、先生によっては個人への課題を課す人もいますが、クラスのメッセンジャーに”answer sharing”という悪魔のグループがあって、そこにできる人が答えを公開するんですよ。これもカルチャーなので、個人への課題ってのがあまり好まれないのかもしれないです。ただし、ここにはフリーライダー問題が潜んでいますが、それはまた別の機会に。

文字まみれのプレゼンテーション

さて、そんなカンボジア人のプレゼンに、冒頭で、あんなに褒めちぎっておきながらひじょうに不満な点があります。
スライドが、文字だらけであるということ。
とにかく情報を入れられるだけすべてスライドに盛り込んで、それを全部読む。それがプレゼンの極意、だそうです。そこにはどうしても納得いかない外人がここにひとり。

グループのメンバーがどう言おうが、わたしは、絵、写真、グラフ、あと少しのキーワードを入れて、原稿を持ってプレゼンをするというスタイルを貫きました。郷に従うのと迎合も違うかなと思って。
当初、わたしのプレーンなパワーポイントを見て、目を丸くして、「こいつ時間がなかったのか?」というニヤニヤ顔でわたしを見ていたクラスメイトも、賛同してくれるようになり、2年目には、どうやったらおもろいプレゼン資料になるかを一緒に考える輩もでてきて、グループワークがあると「一緒にやろう!」と真っ先に声をかけてくれるもの好きも現れました。こうして2年でクラスメイトとはねっちょりとした関係が築けたと思っています。

参考資料としてのプレゼン

先日、仕事で、カンボジアの教員養成大学の教官向けのトレーニングに関わりました。日本人の教授が作成したパワーポイントの資料をクメール語に翻訳してもらい、日本人の教授の講義を当日通訳がクメール語にして行うというもの。講義用の資料はあらかじめ参加者全員にデータで配布しておきました。
トレーニングが終わった後、質疑応答の時間にこのような意見が出ました。
「もらった資料と講義の内容が違う。講義内容の方が量が多い。資料だけでは情報が不足している」
・・・わたしにとっては、それは当たり前のことでした。講師が提示するプレゼン資料を見ながら、講師が話す内容を自分の資料に書き込んで、資料を仕上げればいいんじゃないかと。
でも、これ、例のカルチャーだったんです。考えてみたら、カンボジアの教育機関には十分な文献がない場合も多い。だから、ワークショップやトレーニングは参考資料を手に入れる貴重な場で、そこでの資料にはすべて盛り込んであってほしい、という。

そもそもの講義資料に対しての捉え方が違ったんです。「文字だらけのプレゼンなんておっかしいよ」と嘯いていたわたしですが、考えを改めました。日本人の常識を振りかざしてはならない。次回のトレーニングでは、最初に話さなくてはならない、「講義で提示する資料以上のお話をするので、みなさん聞き逃さずメモってくださいね」と。

カンボジアで見たことがカンボジアの仕事で生きる

カンボジアで仕事をしていく上で、プノンペン大学で学んだことが生きるなぁと感じることが多々あります。いまだに「カンボジアなんかで大学院に行ったって」って言う日本人がいて、個人的にもいろいろ言われますが、わたしは、潜入してカンボジア人と並んで学んで、本当によかった、と堂々と言えます。そもそも修士号を取ってどうこうしようというわけでもないので、結果じゃなくて課程が大事だったんです。
勉強の中身はともかく、バイアスをかけず生の教育現場を見せてくれた先生とクラスメイトには感謝しかありません。

さて、いまだ終わらぬ修士論文をなんとかせねばであります。

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