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現場主義をつらぬくということ

「事件は現場で起こっている」とはよく言ったもので、日本に本部があるプロジェクトの現地オフィスで働く人間としては、この言葉にいつもうなづくのだけど。いま3週間ほど日本に出張して現場を離れて仕事をしてみて、あらためて現場について考えてみました。

考えが人からのコピペではなく自分の言葉になる

カンボジアで仕事をしていて気になることがあります。それは「カンボジア人ってこういう人」「カンボジアの政府はこういう性格」と決めつけて話す外国人(とくに日本人)がわりと多いこと。そこにくっついてくるのが「だからやっても無駄だよ」というご提案。この断定を好ましくないと感じてしまうのです。結局その通りだとしても、わたしは本当にそうなのか見たいし聞きたいし、体験したい、そう思うから現場で働いているワケで。体験した結果、その通りだったら「あ、本当にそうですねぇ」と深く納得して、自分の中にストンと落ちる。さらに、その考えが人からのコピペではなく自分の言葉になる。
たとえば、仕事ではなく、教育や子育てに当てはめてみて、子どもがやってみる前に、「それはやっても無駄だよ」とか「それをやったらこうなるよ」と大人が言ったら、子どもは自分で体験して成功したり失敗したりするチャンスを逃すし、育とうとする探究心もつぶれてしまいます。失敗をしないように最初からやらせないことで、失敗したときのリカバリーの仕方がわからない人間を育てる。研究やプロジェクトも一緒じゃないかな、と思うのです。

結果より課程に得るものがある

わたしがカンボジアの大学院で勉強したときも、「こんな国で勉強しても無駄」「プノンペン大学で取った修士号なんて世界で通用しない」と日本人から陰で言われたものです。でも、放っておいてほしいのです。だって、陰口を叩く人とは目的も違うし、世界で通用するため、履歴書や名刺に書くために勉強したのではないからです。今後もカンボジアで仕事をすると決めていたので、カンボジアの教育の「現場」が見たくて、見るために手っ取り早いのは、自分も「現場の一員」としてカンボジア人と一緒に教育を受けることだったので、日本でもイギリスでもオーストラリアでもなく、カンボジアのプノンペンで開発学の勉強をしました。
で、そこから得たものは? 恥ずかしながら、修士論文のデキがすこぶる悪いわたしには、いい結果とは言えませんが、その課程で得たものはそれなりにありました。大学院の詳しいことはこれまで書いてきたので割愛しますが、カンボジアで生生しく生きているカンボジア人の友人たちができたこともそうです。これは外側から見ていては絶対に得られないものでした。

現場、現場、現場。

ちょうど、日本にいて現場から離れているときに、敬愛するしいたけさんの2023年上半期しいたけ占いを読みまして、まぁ、びっくり。記述されていたのが、「現場」の文字。「周りを巻き込み、また、巻き込まれながら、達成や発展へと向かっていく現場」という文章に胸を撃ち抜かれました。2023年上半期は、巻き込むけれども、いろんな人に巻き込まれながら、それをいい方向へと導けるように舵をとることを、プロジェクトコーディネーターとしての目標とします(という勝手な宣言)。
ちょうど日本の大学の先生から「カンボジアの僻地の教員養成校や政府のモデル校の視察をしたいのだけど、NGOの人からはそんなところを見てもしょうがない、どうせ何もできてないって言われてしまったんですよねぇ」と相談を受けました。ほれきた!「しょうがない」とか「どうせ何もできていない」というのは、そのNGOの人の判断で、先生が見たら違うものが見えるかもしれない。もしくは(たぶんおそらく)、そ人の言う通りかもしれない。けど、ここはひとつ、「先生、行ってみましょう! 一緒に見てきましょう! 」と提案。研究に役立つなら体験していただくこと、プロジェクトコーディネーターとしての大事なお仕事なのです。

「現場」のプロフェッショナルになる

わたしには専門性がないので、何かを極めるということがとても難しいのですが。「自分のやりたいことを、誰かがもうすでに言っている“綺麗な文面”のコピペではなくて、自分の言葉で誠心誠意説明していくこと」としいたけさんに言われているし、求められてくると思います。となったら、もう、「現場」のプロフェッショナルになる、と答えるしかないかなと思っています。逆に専門性をもっていたら、その分野だけに肩入れしたり、色眼鏡で見てしまうだろうと思うからそれでいいような気もしてきました、えこひいき的わたしの性格からして。

日本は安全だし綺麗だし食事もおいしいけど、早く現場に戻りたくなっているわたしでした。


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