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フィリップ・グラスを聴きながら、メガネを外して散歩するとトリップする。

★フィリップ・グラスと散歩

フィリップ・グラスは現代を代表するアメリカの作曲家だ。

グラスというとミニマル・ミュージック代名詞のような存在。彼はその呼び名を歓迎していないみたいだけど、ミニマル・ミュージックとは、ひとつのパターン化されたシンプルな音形を反復させる音楽。グラスの音楽は、ひとつの音形が反復されるが、複雑に広がっていくからミニマルの枠を超えている。オペラからダンスミュージック、映画音楽、交響曲と様々なジャンルの音楽を作曲してきた。

そんな、フィリップ・グラスが、なぜだか急に気になったので、自宅から札幌駅へと散歩しながら彼の交響曲を聴いてみた。

交響曲8番、10番、6番と続けて聴いてみる。

ひとつの音形が繰り返されながら拡大してしていく音楽を聴いて、一定のテンポで歩いていると瞑想状態に入っていく。

別世界に入っていく感覚がする。
この世とあの世の境がわからなくなる不思議な感覚だ。

僕は、交響曲第6番を聴いているあたりで、札幌駅を通り越し、赤レンガ旧道庁の前を歩いていた。

どこを歩いていて、どこに向かっているのか。

そんなことはあまり重要ではない感覚になる。

★30年ぶりに眼鏡を外して街を歩いて見えた世界

グラスの音楽と現実の世界が混ざりあって、ふあふあしながら歩いている。

突然、眼鏡がじゃまになってきたので外してみる。

裸眼で視力は、おそらく0.03くらい、だからメガネを外すなんてことはおそらくここ30年くらいやったことがない。

ほぼ見えないからね。

しかしこの日は、どうしてもメガネを外して歩いてみたかった。

じっさいにやってみると、視界から入る3次元的情報が遮断された。
そして僕の意識は、さらに異次元に飛んでしまった。

道を行き交う車も人もぼやけた。ぼやけたものが動いている。

車の赤いテールランプや信号機の赤色が、強度の乱視がもたらす効果で3重くらいに見える。それがとても美しい。

天気がよくて、太陽の光を反射するビルのタイルも、輝きが2重3重になってキラキラと宝石のように見える。

人も、顔もまったくぼやけて見えないけれど、その人の発するエネルギーを感じられて、なんだか生命の美しさが見えた気がした。

★印象派のモネの観た世界に近いのかなと思う

そこでふと思ったのは、印象派のモネの感覚はこんな感じなのかもしれないということ。

違うかもしれないけれど・・・。

僕が画家としての技術訓練を数十年していて、今見えている世界を描き出せたとしたら、さぞ素晴らしい作品が出来るのではないかと妄想してしまう。

そんなことを思いながら、一体僕は何をしているんだろうと、なかば自分自身に呆れながら、それでも、朝からフィリップ・グラスを聴き、メガネを外して徘徊している自分の魂の自由さに感動をした。

大通公園のベンチに座って休憩しながら、フィリップ・グラスについてネットで調べてみた。

それほど自分のほしい情報は得ることができなかった。

僕としては、交響曲を作曲した意図みたいな、作曲者自身による解説を知りたかったんだけどネット上にはない。たぶん英語で調べればあるかもしれないと思いつつ、そこまで労力はかけたくはなかった。

★交響曲第9番を作曲すると死んでしまうというジンクス

それから交響曲第9番を聴いた。

素晴らしい完成度に感激、とくに第2楽章は、悲しく美しい。

歴史に名を残した作曲家は、交響曲9番を作曲すると死ぬというジンクスがある。

ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー、入れるべきか迷うけれど一応シューベルトも、彼らに共通するのは、交響曲第9番を書いたあとに死んだことだ。

フィリップ・グラスも9番のジンクスを気にしていたみたいで、これに抗うように、9番の作曲と同時進行で10番を作曲し、2012年に9番、10番と続けて発表して、見事、この死のジンクスを乗り切ったようだ。

2016年には、11年ぶりに日本に来日し、現在は80歳を超えてもなお精力的に活動している。

そうだ、そういえば彼の本が出ていたんじゃないかな、と思いつく。

★緑の路面電車に載って札幌中央図書館へ

本屋に行くか迷ったけれど、今日の気分は図書館だ。

札幌中央図書館へ行くことにした。

中央図書館は、まったく札幌の中央にはなくて、路面電車に乗って、20分以上かかるハズレの場所にある。不便でしょうがないが、路面電車にとても乗りたい気分だったので行くこととする。

札幌市電は、2015年12月20日にループ化された。
「西4丁目」と「すすきの」停留所の間、約400mを路線でつなげられ、それによって山手線みたいにくるくるとまわることができるようになった。

市電に乗ると
「僕はグラスの音楽を聞きながら、この電車に乗って永遠にループし続けたい」という奥底から強い感情がわきあがった。

電車だって、終電があって永遠に動き続けることはないし、音楽も電池がきれれば止まる。
僕の肉体もいつか滅びてしまうから、永遠なんてことはないけれど、僕の魂は永遠性をもっている。

そんなことをグルグルと考えながら、中央図書館前で降りて、目当てのフィリップ・グラス「自伝・音楽のない言葉」を借りた。

★一人の音楽家を追求した知的幸福な一日

単純な音形が繰り返されるミニマル・ミュージックの中に、心を込めたメロディーを乗せたフィリップ・グラスは、仏教で言うところの「諸行無常」から「涅槃寂静」の境地を音楽を通して追求しているのかもしれない。

朝から夕方まで、フィリップ・グラスづけの一日だった。

まるで、グラスの心の中を泳いでいるような感覚だった。

一人の作曲家が生涯をかけてやってきた仕事を体験しながら、探求して僕なりの深い理解を得ることが出来て、知的幸福に満たされた最高の一日だったと思った。

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