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君がいた夏 2 (短編小説)



 それから毎年、僕が海を訪れると、君は光の反対側にいる影のようにそっと姿を現して、その度に僕を慰めてくれた。
「今年も綺麗だったね。ここの夕日は別格だよ」
 君は毎年そんなことを言って、スッと消えていく。その度に僕は胸が締め付けられて、また夏が終わる。
 そんな生活が続いて九年。君は初めて事実を告げた。
「私、どうして剛くんと手を繋げないの?」
 君があの言葉を放ってから一年。今年は君の生命が絶たれてから十年が経つ。僕も君も、いい加減前へ進まないといけない。お互いが諦めないといけない時期に差し掛かっている。
 エンジン音を響かせながら、僕は君に向ける最期の言葉を頭の中で反芻する。悲しみの果てに何があるか、解答集に乗っているような安易なものは望んでいない。僕らにしか描けないような、美しい終焉を迎えたい。
 パーキングに車を止めて、海辺へ舞い降りる。さざめく白い波の音と、終わりを匂わすような灰色の砂浜がフュージョンして、僕の気持ちを引き締めた。
 髪をたなびかせている君は、マネキンのように動かずに海の方向に視線を向けている。僕はその隣に立って、大海原のずっと遠くを見る。
「空、晴れるかな?」
 君はそっと呟く。海風が吹雪いて、思わず目を細める。しかし、今日の空は息苦しいほど曇っている。
「晴れるよ、きっと」
 十年目の夕日は、僕らを祝福してくれないのかもしれない。寒々しさに潰える、愛。
「ねえ、私たちはどうして手を繋げないのかな?」
 君の唇は少し震えていて、出る声も弱々しく萎んでいる。
「それは、その……」
 答えははっきりとしている。生身の僕の手を、仏になった君の手が触れることはできない。だけど、薄化粧をした君は、その事実を受け入れられずにいる。だから毎年、僕の目の前に現れてしまうのだろう。未練なんて爆弾を抱えているせいで、君はずっと苦しんでいるのだろう。
「君はもう、この世にはいない」
 僕ははっきりとした声で、君を突き放す。怒りと悲しみと虚しさをひっくるめて、君の聴覚に訴える。
「私、やっぱり死んだの?」
 君は朧げな表情で僕を見つめる。光が失われた視線が、僕をヘヴンへと引きずり込もうとする。
「やっぱり、死んじゃったんだ。だから手を繋ぐこともできないんだ。そっか」
 死を理解し、静かに鼻をすする音が僕のあらゆる感情を刺激してくる。いっそ泡沫のように簡単に弾けてしまいたい気分だった。
「薄々気がついていたけど、誰かに言われないと受け入れたくなかったんだ。よかったよ、はっきりと言ってもらえて」
 君はようやく自分の死と向き合い、頬を緩める。生と死。それは絶対に交わることができない、透明な壁で隔てられている。向こうの世界には、向こうの姿でしか行けない。僕は車の中で考えていた言葉など忘れて、君の元へ行きたいと願った。
「あのさ、僕もそっちの世界へ行くよ。そうしたら、また手を繋げるかもしれない。いつでも一緒に夕日を見ることができるかもしれない。だから……」
 でも、君は頑なに首を横に振った。
「だめだよ、そんなの」
 そして君は、感触のない手と手を僕の首に回し、「死んじゃだめ」と強く言った。
「私の分まで生きて。私の分まで、綺麗な夕日を見て。お願い」
 震えている無重力な君は、僕の腐りかけた心を一生懸命浄化しようとしてくれた。君と触れ合いたい。君を抱きしめたい。君とキスがしたい。だけど君は、僕に生きてほしいと願う。交わらない身体、すれ違う心。僕の欲望、君の願望。重なり合うことのない希望。紡がれていく絶望。それら全てを包み込んでいこうとする、無情な白波。
 そのとき、曇がかかっていた空から、一筋の光が差し込んできた。
「雲がだんだん消えていくね」
 君は悟るように言った。
「夕日、見えそうだね」
 僕と君は夕陽が見える方向へ視線を移し、時間など気にせずに空の成り行きを眺めていた。だんだんと晴れていく天は、僕らの終末を描くにはぴったりだった。太陽が完全に顔を出した頃には、お互いにお別れすることを認識していたかもしれない。視界は水面に映る姿のようにぼんやりとしか見えず、頬に違和感を感じたとき、ようやく自分が泣いていることに気が付いた。
「泣くなんて珍しいね。いつもは感動的な映画ですら無表情なのに」
 君は元の明るくて元気な性格を取り戻したように笑っている。
「泣いてないよ」
「嘘だ、目がウルウルしているよ」
 僕は目元を手の甲で拭い、「ほら、泣いてないじゃないか」と強がる。でも、君は「目、赤いよ」と指摘してまたも笑う。
「私、なんだかんだ幸せだったよ。最後に二人で夕日を見ることもできた。もう、悔いはないよ。ありがとう」
 日は一寸の狂いもなく地平線の向こうへと沈んでいく。
「僕も、君がいて幸せだった。ありがとう」
 抱きしめられるはずのない相手に、僕はそっと身体を寄せる。君も触ることができない僕の身体を抱きしめている。落日している太陽は、間も無く今日の役目を終える。
「もう、お別れだ」
「うん、そうだね」
 僕らは最後に見つめ合って、互いの唇に感触のないキスをした。
「さようなら」
 日が沈み、君は波と共に去っていく。ザアッと大きな音を立てたとき、君はたしかに旅立っていった。
「さようなら」
 暗闇に包まれた海は、エンドロールの背景のように真っ黒に染まっていた。


 君がいた夏。僕は今でも、その季節に起こった奇跡は誰にも言わず秘密にしている。これは僕と君だけの思い出にしたいからだ。
 公園にいた鳩が羽を広げて飛び去っていく。今日も空は晴れていて、あの場所からは綺麗な夕日を見ることができるだろう。
 いずれ僕の命が燃え尽きたら、また一緒に夕日を見よう。だからそれまで天国で待っていて。
 そんな淡い願いを君がいる天に向けて放ち、僕は今日も生きていく。


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