夜明けまで(4)
「私は愚者だ」
ピアニッシモの明かりは消えた。真っ暗な世界で聞こえるのは、いつも穏やかな波の音だけだ。そして猫は剥製になったのかと勘違いするほど動かず、静かだった。
「それにしても、猫が砂浜にいるなんて珍しい。そもそも、この辺に野良猫がいること自体知らなかった」
すると猫はたった一言「お前は無知だ」と呟いた。
「無知。それは間違いない」
しかし、と猫は波の音に調和する声で展開する。
「無知な人間は成長する。無知であることを認識していれば」
「それは、私を慰めているの?」
「解釈は自由だ」
猫は自身のお腹をけむくじゃらな手でなぞり、「タバコが吸いたい」とつぶやいた。今更だが、彼の声は戦中を生き抜いた兵士のように達観していた。
「猫がタバコを吸うなんて、あり得ない」
「しかし、この世は時折あり得ないことが起こる。お前はやはり、無知だ」
すると猫は「三秒間目を瞑ってくれ」と私に言った。私はとくに歯向かう理由もなく、言われた通りにした。
一、二、三。
再び目を開けたとき、私の隣にいたのは正人だった。
「正人?」
私は思い切り目を細めてみた。それから、グッと見開いてみた。頬を叩いて、つねって、擦ってみた。また、空を見上げて星を見てみた。しかし、この世は何も変わっていない。夢へダイブしたわけではなさそうだった。
「どういうこと?」
「俺は正人ではないが、正人の意識と繋がっている」
声は先ほどの猫と同じだった。ただ、どの角度から見ようが彼の姿は正人だった。
「正人の意識?」
「そうだ。今の彼は深い眠りについている。私は彼の意識の中に入り、彼とお前を繋ぐ役目をしている。お前が話せば、それは正人の意識に残る」
「なぜ、私の話が残るの?」
「お前は夢で見た景色を全て忘れるのか?」
猫が言いたいことはわかった。私の呼吸は自然と荒くなり、少々興奮していることがわかる。
「少しくらい、覚えているよ」
「なら、彼だって少しくらい覚えているだろう。何か言いたいことがあれば、ここで言うべきだ」
私は正人に対して何が言いたい?
もう一度一緒に寝たい。しかし、それは沙耶香を裏切ることになる。付き合ってほしい。キスしてほしい。抱きしめてほしい。交わってほしい。それもまた、精神的に沙耶香の存在を殺す行為になる。
そもそも、私は正人に対して性的行為を求めているのだろうか。私に快感を抱かせるための存在だろうか。
耳を澄ませ、波の声を聞く。波は一定の音を保ったまま砂浜を喰い、居場所に戻り、また喰う。それが癒しとなるのか、それとも戦慄させるのか、人が抱く感情はそれぞれだが、今の私には波の音が精神安定剤となった。
私は言葉を紡ぐ。
「私は、正人のそばにいたい」
正人は何も言わない。ただ真っ黒な海の水面を眺めているだけだ。
「私が求めているのは、温もりだから。でも、それは身体だけではなかった。むしろ正人の心なんだ、私が求めているのは」
正人はやはり何も言わない。
「私は居場所を求めているのかもしれない」
一度息をつき、瞬きしてから正人を見ると、沙耶香に変わっていた。
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