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短編小説 『沙代莉のラジオ』 8

 安藤光と小林沙代莉は、高校時代に運命的な出会いをした三ヶ月後に付き合い始めた。僕が知る限り二人の関係は良好で、仲睦まじいカップルとは二人のことをを指すのだと本気で感じ、多少羨望する気持ちさえあった。

 しかし、二人の中はジェンガの如く突然、いや、もしかすると僕が知らないどこかで傾き、揺らいでいたかもしれないが、沙代莉が妊娠したことで終わりを告げた。

 沙代莉は高校三年の夏に妊娠した。同じ学年の生徒は受験勉強に本腰を入れるタイミングで、青春真っ盛りだった子供から、大人の階段を登るための準備をしている最中だったが、沙代莉はいくつもの階段を飛び越えて、お腹に子を宿した。事実上、彼女は母のポジションになった。

 相手が安藤光であることは明白だった。しかし、彼は沙代莉が妊娠したことを知った夜、何処かへ逃げた。沙代莉に送られてきたメールには、『責任の重さに耐えられない』と綴られていたらしい。

 学校中が騒ぎになった。彼女と僕が幼なじみだと知っている連中は僕に情報を求めてきたが、正直二人の関係について知っていることなどほとんどなく、僕自身も一連の顛末があまりにも負の意味でドラマティックだったせいで傷心していたから、「僕は何も知らないが、安藤を殺したい」とだけ言った。

 沙代莉は両親の意見を尊重し、中絶を選んだ。手術自体は成功した。しかし、沙代莉は「人を殺した」と自責して、学校を辞めて家に引き篭もった。それが、彼女が殻に籠るきっかけだった。

 僕はしばらくの間、毎日彼女の家を尋ねては、「話がしたい」と言って会おうとした。それが幼なじみにできる精一杯の行動だった。

 そして半年後、すでに桜の木に蕾がつき始めた頃に彼女は僕の前に現れた。そこにいたのは、痩せこけて所々が白髪になった沙代莉だった。その姿を見て、僕は彼女の前で膝から崩れ落ちた。熱い涙が止まらなかった。怒りと、悲しみと、哀れみと、虚無。そして、幼なじみである自分自身が何もできなかったことへの絶望。僕は「ごめん」と謝り続けた。何もしてやれなくてごめん。本当にごめん。しかし、沙代莉は僕の謝罪を受け入れてくれなかった。「圭、あなたに謝られると、死にたくなっちゃう」。それが彼女が発した最初の言葉だった。

 それからまもなくして、僕は大学生になった。沙代莉は家に篭ったままだったが、休みの日には二人で会って、たわいもない話をした。沙代莉はだんだんと笑顔を取り戻していき、僕はそれが嬉しくて一生懸命喋り続けた。沙代莉は少しずつできることをこなすようになった。洗濯から掃除、料理、手芸、ギターなど、家でできることを積極的に行うことで、俯いていたメンタルを正常なポジションへと整えていった。

 あるとき、僕は沙代莉に一つの提案をした。あのときの僕は、ただただ沙代莉の過去を消す方法を考えていた。沙代莉は僕の前では笑顔になってくれるが、社会復帰できるほど回復していなかった。

「いろいろ調べて考えてみるね。ありがとう、私のこと真剣に考えてくれて」
 そして、沙代莉は今年の四月からラジオ配信を始めることになった。
「最近は便利な時代ね。携帯一つで録音して、それをアプリを通じて配信できる。全国どこに居ても聞くことができて、もちろん匿名だからバレることはないの。これなら、私でも安心してできる」

 無邪気に笑う子供っぽい沙代莉を見ていると、僕まで子供に戻った気分で、それは幸せ以外の何物でもなかった。

 僕は沙代莉に恋をしているわけではなかった。だけどその分、僕のなかで沙代莉がかけがえのない存在になっていることはたしかだった。恋愛などで括られないほど些細な日常を彩ってくれる、ありふれているけど特別な存在。まさに、沙代莉は僕の人生だった。

 だから、嘘をついてほしくなかった。そして、沙代莉には過去から抜け出すために理想を叶えてほしかった。沙代莉には、過去の呪縛から解放されて幸せになってもらいたかった。

 しかし、僕の願いさえも理想だと知ったとき、僕には手の施しようがないほどきつく結ばれた呪縛だと悟られたとき、中途半端な三郷市で暮らしている自分が大嫌いになった。

 だから僕は一つの決断をした。それは彼女の呪縛を解くためであり、僕自身の呪縛を解くためでもあった。


「ここへ来るのは、最後になると思う」

 僕はいつも通りアイスコーヒーを、沙代莉はアイスカフェラテを飲んでいる。楽天的な人が生み出したのか、愉快なリズムを刻むジャズが鳴り響くこのカフェは、いつもに増して明るい雰囲気に包まれている。

「どうして?」

 沙代莉はもちろん疑問を持つ。毎週通っていた僕が、突然終止符を打ったから。

「話がある」
「何? 今日は一段と難しい顔をしているね」
「僕も案外顔に出やすいタイプみたいだ」

 予想以上に自分が子供だったことを知って、思わず苦笑する。

「なあ、沙代莉。叶わぬ理想が存在する現実を、実のところ僕は嫌っているんだ。理想は実現するからこそ美しいし、価値がある。こう見えても僕はドリーマーなんだ。遥か彼方にある世界でも、たとえ君が描くラジオの世界でも、現実にしたいと思っている」
「気持ちはありがたいけど、やっぱり怖いから」
「僕と一緒なら?」

 ピタッと、沙代莉の顔が止まった。表情も、思考も、おそらく彼女の全てが止まった。よほど、予想外だったのだろうか。それはそれで、僕がいかに信用されていない無力な人間であるかを示されている気がして心が痛む。だけど、僕はもう前へ進むことを決断している。

「僕と一緒に、横浜に住もう」

 それは告白に似た、僕と沙代莉の関係でしか生まれない道標を灯した言葉だった。自分でも、はっきりと言えたことが奇跡だと思えて、少し恥ずかしくて、だけど後悔はなかった。

「圭くんと一緒に、横浜に住めるの?」
「もう、君に嘘をついてほしくない。理想ばかりのラジオなんて、聞きたくないんだ。きちんと沙代莉自身が経験した話をラジオで配信してほしい。幼馴染みとして、僕は君の理想を叶えたい。いや、僕自身の理想でもあるけど」

 それに、僕はやはりコーヒーではなくお冷やを飲んでから言った。

「過去は変えられないけど、過去から離れることはできる。僕はそう信じている。もう、沙代莉は前に進むべきだ。その歩みに、僕も一緒についていきたいんだ」

 僕の決心は、おそらく彼女を縛っていた過去の匂いがする呪いよりも固い。僕の願いはただ一つ、沙代莉に幸せになってほしい。それだけしかない。

「圭くん、あなたは大胆だよ」

 目を潤ませた沙代莉の顔は、小さい頃映画を見ていたときに感動して泣いてしまった沙代莉とそっくりだった。僕はその懐かしい顔に安心して、「君はまだ、子供でいてほしいな」と呟いてしまった。


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