スキン(短編小説)



 僕たちは、触れ合うことができない。こんな流行病が起きてしまったから、今はずっと離れている。静かに流れる川も、穏やかに鳴く鳥も、夢を持って走る子供も、仕事に疲れた大人も、みんなが異常事態に混乱しているように見えてしまう。上手に積まれてきた日常が、いつの間にか非日常に切り替わっていて、赤いランプが町中を賑わせている。
 テレビをつければいつも同じ話題で盛り上がっている。感染者数、イベント開催の是非、ワクチン接種。ネットを開いても似たような話題が両極端な意見でぶつかって、歪み合っている。激しい消耗戦を繰り返しているのを見て、僕は嫌気がさして逃げ出したくなる。
 冷蔵庫で冷えたビールを飲みながら、僕は無の空間で淋しいひとときを過ごしている。どうにもならないこの世界の戦争を、この家からずっと傍観者として眺めているだけだ。僕に何ができるわけではない。おそらく、できることは身近な人間を愛することくらいだろうか。
 触れたい。君に触れたい。
 だが、願っても願っても、この現実は味方をしてくれそうにない。


 どこにいても、対立した人間たちが刃を向け合って傷つけ合っている。もっと寛容になればいいのにと、側から見ている私は杞憂な感情を抱く。最近はこの流行病のせいで、世界が分断しつつある。片一方ともう一方のたった二つの意見が衝突し合い、怪我をする。
 私は昔から争いごとは嫌いだから、食べられないようになんとか逃げ続けてきた。とりあえず世間に合わせながら、ときに極端な意見を嫌いながら、異常事態の中にある日常を生き続けてきた。
 だけど、彼と会えないことで私の気持ちは全て泡になって、燻んだ空へと飛んでいく。
 会いたい。会いたい。触れ合いたい。
 私の周りにいる人々は、どこか距離を取りながら、顔の一部を隠しながら歩いている。本来の人間とはかけ離れた姿で、不安を抱えながら今日も生きている。
 私だってそうだ。だからこそ私の中のわだかまりを解消したいと願うことは、罪にはならない気がする。
 この足の歩みが、だんだんと彼の元へ近づいていっても、誰にも止める権利はない。


 日が暮れるにつれて、侘しさが募っていく。全身に溜まった疲れをほぐしながら、僕はまたビールを飲む。明日からまた退屈な日々が始まる。誰にも会わずに仕事をする。今までではあり得ないことも、もうすっかり常識として人間の脳内に刷り込まれている。社会は簡単にアップデートしていくが、きっと乗り遅れた人もいるだろう。
 煩わしいテレビをつけることもなく、鬱陶しいネットを見ることもなく、難しい活字を読む元気もない僕は、今日も退屈で何の価値もないこの日に、ゆっくりと終止符を打つことになるのだろう。
 そう思っていた矢先、家のチャイムが鳴った。ドアを開けると、柔らかい香りが僕の鼻を刺激した。
「ごめん、来ちゃった」
 半年ぶりに見た彼女の顔は、申し訳なさそうに目線を下に向けている。
「雅人に会いたくなっちゃって。もう、どうしようもなくて」
「明美……」
 泣き出す明美を、僕は部屋の中に入れて、とりあえず自分の部屋のベッドの上に座らせる。
「明美、元気だった?」
 久々に明美の姿を見た僕は、緊張してよそよそしいことしか聞けない。
「ううん。だから来たんじゃない」
 そう言って、明美が僕の身体に寄り添ってくる。僕はその体温を感じながら、この世界の視界を全てシャットアウトして、たった二人だけの世界にする。
「やっと、雅人と触れ合えたよ」
 僕はずっと、これを欲しがっていたに違いない。淀んだ川の色も、苦し紛れに叫ぶ鳥も、学校に来ることができなくなった子供も、ストレスに狂う大人も、みんな元に戻りたくて、何かに触れたくて生きている。


 雅人もずっと私のことを求めていてくれた。私はそのことが嬉しくて、ギュッと雅人の身体を抱きしめる。怖いものには蓋をして、今だけは理想郷の中で生きさせてと願う。
「明美。やっぱり離れ離れで暮らすのは寂しいよ。だから、これから一緒に暮さないか? そうすれば、こうやって触れ合うことだって許されるだろう。僕らは時代の流れには抗えない。それでも、愛し合うことはできると思う」
「雅人……」
 雅人によって、二つの唇はゆっくりと重なり合う。その瞬間、全ての負の感情が一瞬で吹っ飛ぶ。重苦しい現状も、暗くて見通しの悪い未来も、雅人とならきっと乗り越えていける。
「うん。そうしよう」


 今日も混沌とした社会がギシギシと嫌な音を立てながら時間を進めていく。悲しむ者、苦しむ者、萎える者。不満を抱えながら、ときにそれを吐き出しながら、それでも僕らは生きていかなければならない。
 だけど、僕には明美がいる。明美を守るために、明美を幸せにするために、僕は頑張っていく。
 青い空の下、僕らは手を繋いで東京の街を歩く。触れ合うことを許される、『家族』になって。


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