象と娘 (短編小説)



 岩と見間違えるほど、皮膚がザラザラとした巨大な生き物の前で、小さな女の子が不思議そうにその動物を眺めている。まるで自分とは見た目が異なる生き物を見て、恐れ慄いているのか、それともあまりにも珍奇なフォルムに惹かれているのだろうか。子供の感情は大人よりもわかりやすいと過去の体験は言っているが、僕の近くで鼻の長い生き物をじっと見る少女の感情など、まるで見当がつかなかった。
 平日の動物園は人も少なく、暇人か空いた時間を狙ってきた子連れがまばらにいる程度だった。だから余計に、この少女は目立ってしまった。親はいったいどこへ行ったのかを考えるよりも、目の前で動くインド象を食い入るように見つめていることの方が、僕には気になった。
「ねえ、お兄さん」
 少女が僕の方を見る。僕は一瞬辺りを見渡すが、僕以外に人はいなかった。
「どうしたの?」
「お兄さんは、人間でよかった?」
 抽象的で、子供らしくない質問。そして、真意を突く難解な問いに、僕は頭を悩ませるしかなかった。なんとも変わった雰囲気を纏った少女だったが、中身も裏切ることはなかったようだ。
「僕は、人間として楽しくやっているけど」
「そうなんだ。わたしは、楽しくないかな」
 灰色の象を見る少女の目が、象の色になっている。決して汚れているわけではない。だが、どこか空虚で彷徨っている色だった。
「どうして?」
 僕は自然な流れで聞いてみる。すると、少女は少しだけ俯いた。そして、小さな声で僕に答えを教えてくれた。
「人間は、感情を言葉にできるから」
 次に少女は、柵の中にいる象を指差す。
「象は、喋らないでしょう」
「それは、間違いないけど」
 最後に少女の視線が僕に移る。そこで、少女はとある事実を僕に教えてくれる。
「お父さんは、お母さんにひどい言葉を言う。お母さんは泣いちゃう。それなのに、お父さんはお母さんをいじめる。ボロボロになっても、いじめるの」
 その瞬間、僕は少女の言葉の本質を理解できた。
「だから、感情を言葉にする人間が醜いんだね」
 少女はコクリと一回うなずいた。
「それは、辛い思いをしたね」
 僕ができることは、ちっぽけな同情くらいしかなかった。それでも、少しでも少女の味方に立てると信じて。
「お母さん、かわいそう」
 少女は天を仰ぎ、浮かない晴天を見つめる。もしかすると、少女は一生懸命青空に救いを探しているのかもしれない。澄んだ空なら、淀みを消してくれると願いながら。
「今日は、お母さんと来ているの?」
「うん。でも、お母さんは今電話をしているの。おじいちゃんのところ」
「そっか」
 僕は視線に映る何頭かの象に、少女にとっての正解を求めようとする。だが、象は言葉など話せるわけもなく、ましてやテレパシーを送ることもできない。そもそも、象の感情などわかるわけがあるまい。
 象によって四方に壁を作られた僕は、可能性を探るために地から天へと見える世界を変えた。もちろん、空の感情も不明なままだ。
 象や空ではわからない、感情。伝えることができる言葉。人間であるが故の、本能。
「あのさ」
 僕は曖昧なまま、だが本能を信じて話し始める。
「うん」
 少女の目線は、のんびりとした象に向いている。
「僕は君の家庭環境を知っているわけでもない。だからこれは、一人のおじさんの独り言として聞いてほしい。たしかに、人間は感情を持つから争いごとをするし、誰かが傷つくこともある。逆に、誰かを傷つけることだってある。だけど、その分愛情も存在すると思うんだ。そして、人間はそれを言葉にすることができる生き物だ。自分が抱く愛しい感情を、言葉に変えて誰かに伝えることができる。それは素晴らしいことだって僕は思う。今の君にできることは、お母さんに愛を示すことじゃないかな。かわいそうだと思う気持ちを、ちょっとでも明るい言葉に変換させて、お母さんに愛情を伝える。それだけで、君のお母さんは喜ぶだろうし、君はお母さんの見方でいられる。君にはそれができると思うよ」
 脳内で次々と組み立てられていった言葉は、ようやくここで止まった。僕は軽く息を吐いて、また象を見る。象は今日も呑気に、のっそりと歩いては鼻を上げる仕草をする。僕はその行為が、正解を示した気がした。
「ありがとう、お兄さん」
 少女は先ほどよりもゆるやかな表情に変わっていた。目の色も、太陽の光みたいに輝いて見える。
「わたし、お母さんに好きって伝えるね」
「うん。それがいいよ」
 少女はクルッと回って、長い髪をたなびかせながら、どこかへ駆け去ってしまった。僕は一人、緩やかな動きを繰り返す象に「あの子、幸せになるといいな」と言った。
「パオーン」
 その鳴き声は、肯定的な音がした。


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