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短編小説 『沙代莉のラジオ』 2

 
 僕が住む埼玉県は、よく「海無し県」なんて呼び名で貶されている。もしくは「ダサイタマ」などと、もはや誹謗中傷気味な呼び方をする人もいる。たしかに千葉や東京、神奈川ほどの魅力がない県だが、さすがに二十年もこの街で暮らしていると、母親の愛情に似た親しみが湧いてくる。海が無くても、カッコよくなくても、埼玉は住みやすい。胸を張って誇るほどではないが、卑下するほど醜い県ではない。

 たとえば、僕はもうすぐ就活を始めるが、その際自然に「埼玉県出身です」と言えるだろう。それを聞いた相手側だって、「そうですか」で終わるはずだ。特段珍しい県でもないから、関心を抱くこともないだろう。もしかすると、面接官が同じ埼玉県出身であれば「どの辺りですか?」と聞いてくるかもしれないが、それ以上進展する可能性はほぼないと言い切れる。

 要するに、埼玉県出身だからといって、決して恥の感情を揺さぶられることはない。世間からすれば芸能人の不倫くらいどうでもいい話だ。少なくとも、僕はそう考えている。

 この街にいると、当然だが潮騒は聞こえない。代わりに聴こえてくるのは、朝から興奮しているオナガドリの鳴き声と、ゲームセンターみたいにうるさい子供たちの喋り声。息を吸えば、田植えされたばかりの稲の香りがする。少しばかり土砂を運ぶトラックから出る排気ガスの匂いも混じっているが、都市郊外と田舎が融合したこの街で磯の香りを嗅ごうとするのなら、おそらくスーパーの海産売り場に行かなければならない。

 そんな街、埼玉県三郷市にある個人経営のカフェで、僕は彼女と待ち合わせをしている。午後一時。僕はキューバで獲れたという豆を使用している香りが良いコーヒーを口にしながら、これから会う彼女の思考を勝手に潜水している。

 なぜ、彼女は嘘をつくのだろう。嘘とは基本的に誰かを騙すためにつくものだが、ならば彼女は誰を騙そうとしているのだろうか。そもそも、彼女は誰かを騙す必要があるだろうか。そこまでして世に発信することを、僕は無意味だと感じてしまう。

 彼女には、素直な生き様を話してほしいけど。

「お待たせ」

 一時五分。予定より少しだけ遅く来た彼女は、肩までかかる髪を後ろに結び、ミントグリーン色のロングカーディガンに、白色のチノパンツを履いている。初夏にぴったりな格好で、つい潮風に吹かれている姿を想像してしまう。存在しないはずの波が僕を攫おうとする。

「どうしたの、ぼうっとして」
「いや、別に」
「変なの。昔からだけど」

 彼女は座るなり、店員さんにアメリカンコーヒーを注文する。愛嬌の良い店員さんは「かしこまりました」と言ってゆっくりと去っていく。

「丁寧だよね、ここの接客」
「そうだね。僕はそういうところが気に入っているから、毎週土曜日になるとここへ来るようにしている」
「あなたほどじゃないけど、私も時々来るよ。というか、ここしかお洒落なカフェが無いからさ」
「三郷だからね。仕方がない」

 彼女のアメリカンコーヒーが運ばれてきて、彼女は紅色に染められた唇をグラスにつけて、ほんの少しだけ飲んだ。それからフッと短い息を吐いて、戸惑った視線を僕に向けた。

「急に呼び出されたから、ちょっと驚いた」
「そうだよね。いくら幼なじみでも、当日のお誘いは失礼だったかな」
「そうよ。もういきなり誘われて遊べる年齢じゃないの。私も立派な大人なんだから、外へ出るには色々と準備が必要なの」

 目元はラメで光っているから、それが証拠だろう。

「悪かったよ。でも、どうしても君に聞きたいことがあったんだ」

 僕はすぐに渇いてしまう喉を、コーヒーではなくお冷やで潤す。

「会わないといけないくらい、大事な話なの?」

 彼女の目は、二人がここへ集まる意味を問う目をしている。僕はうなずく。

「うん。少なくとも、僕にとっては大事な話かな」
「もしかして、今更恋愛関係になれませんか、なんて圭らしくない発言しないよね?」

 彼女があまりにも戯けたことを言うから、「それはないよ」と言って苦笑してみせた。

「僕は今でも、唯と良好な関係を築いている。それに、僕は浮気するほど浅はかな人間じゃないよ」
「それはごめんなさいね。それで、私に何の用があるの?」

 僕はもう一度水を飲んで、「冷たい水だ」とどうしようもない独り言を呟いてから彼女に言った。

「単刀直入に言うと、僕は紗代莉のやっているラジオが嫌いだ」

 僕はなるべく斬れるように、数ある言葉の中でも殺傷能力の高い言葉を選んだ。どうしても、彼女の真意が知りたかった。

「へえ、聞いてくれているんだ、私のラジオ」

 ただ、沙代莉は表情を変えず、僕の意地悪な言葉を平然と流した。

「聞いているよ。幼なじみが頑張って配信しているんだから、聞かない理由はないよ」
「頑張ってる?」

 怪訝な顔をする彼女は、少し大人っぽく見える。僕の知らない顔だった。

「うん。僕には沙代莉が頑張って喋っているように聞こえているよ。もっと適切な言葉を使うなら、沙代莉はあのラジオで無理をしている。自分を偽り続けているよね」

 僕はなるべく嘘をつきたくない人間だ。昔、母から「嘘つきは泥棒の始まりだよ」と教わったからだろうか。それとも、意外と真面目な性格をしているからだろうか。自分でもはっきりとした理由はわからないが、昔から嘘をつく人を見ると、どうしても感情がユラユラと大きく震えて落ち着かなくなってしまう性分だった。

「あれは、私なりに考えた末に生まれた正解だよ。実際、数十人だけど毎週聞いてくれる人たちがいるの。それに、私はあのラジオで求められる形を求めているだけなの。たしかに、それなりに頑張っているかもしれないけど、無理をしている感覚はないし、偽っているつもりも毛頭ないわ」

 沙代莉はそこまで話して、コーヒーを飲む。そして、また息を吐く。今度は長く、深い息だった。

「圭は昔から深く考えすぎなんだよ。思慮深い性格を否定はしないけど、少しは寛容に生きたらどう?」

 寛容。僕は首を傾げる。

「僕は至って寛容な性格じゃないかな。もちろん、現代社会にまとわりつく多様性は大事にしているわけで、決して沙代莉自身を否定することはしないよ。ただ、僕は気になるんだ。どうしてラジオで嘘をつく必要があるのか。偽りのエピソードを話しているのか、そこが知りたいだけなんだよ」
「嘘?」

 沙代莉はキョトンとした顔で僕を見た。それは、セックスを知らない子供と同じ目をしていて、先ほどとは違って立派な大人とは思えないほど無垢な色をしていた。だから僕は「沙代莉は泥棒だね」と苦笑まじりに言うしかなかった。

「いや、私万引きなんかしたことないけど。それにいきなり人を泥棒呼ばわりするなんて、酷いよ」

 沙代莉がようやくムッとした顔になって、僕は心底安心した。だから余計に真実を知りたくなった。

「沙代莉、君はどうして横浜市在住なんて大それた嘘をつくんだ? ここは埼玉県三郷市。横浜から離れた、東京にも、千葉にも、もちろん神奈川にも属していない、埼玉の郊外都市だ。もちろん海なんて無いから波の音は聞こえないし、汽笛を鳴らす船だって無い。そんな街に住む君が、ラジオの中で平然と海風を浴びて生きているなんて嘘をつく。昨日話していた、横浜市在住の大学生が友人とダイナーでハンバーガーを食べた話。あれはどこまでが本当なの? 僕には、全てが嘘にしか聞こえなかったけどね」

 僕はやはりコーヒーではなくてお冷やに手を出す。今は鼻を刺激する苦い飲み物を飲む気分ではなかった。

「それを聞いてどうするの? 私を馬鹿にするの?」
「馬鹿にする? どうして僕がそんな卑劣なことをする必要があるんだ? さっきも言ったけど、僕はただ真実が知りたいだけなんだ。幼なじみの沙代莉が一生懸命ラジオをやっている。しかし、肝心の内容には大きな嘘が混じっている。疑問を抱く方が自然だって僕は思うけど、君は客観的に聞いて何の疑問も抱かないの?」

 沙代莉は注がれたお冷やには手を出さず、やはりコーヒーを飲んだ。グラスを置いて、「はあ」と今度は声に出して息を吐き、アイラインの引かれた鋭い目で僕を睨んだ。だけど、僕は臆することもなく沙代莉の言葉を待った。

「見栄だよ」
「見栄?」
「それだけ」

 沙代莉はグラスに入ったコーヒーを全て飲み干して、千円札をテーブルに置いてから去っていった。少しだけ折れ曲がってしまった紙幣が傷心した沙代莉に見えて、僕はため息を吐いた。

「嘘つきの思考はよくわからないな」

 僕は沙代莉が手をつけなかったお冷やを飲み干して、名も知らないボサノバを聞きながらぼんやりと天を眺めてコーヒーを飲む気分に戻そうとしたが、良くも悪くも大人になってしまった幼なじみを目の当たりにしてしまったせいで追加のお冷やが欲しくなった。

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