転がる石 (短編小説)


 若かりしき頃は、誰かを傷つけていないと落ち着かなくて、尖った箇所で相手に切り傷をつけてばかりだった。相手が痛がっているところを見ると、妙にホッとしてしまう自分がいた。人の不幸が蜜の味どころか、極上のパフェくらいのご褒美感があって、わたしはそれで甘さを得ていた。
 真っ赤な林檎を貪るように、わたしはいつだって血を欲しがった。目でも、鼻でも、口でも、感覚でも。わたしの全てが人を闇を求め、滅する場面に歓喜し、悲しむ姿を望み続けてきた。
「君は、カラスだ」
 ある日、わたしと付き合っていた男である祐希が、わたしを嘲笑うようにしてそんなことを言った。
「狡猾な目をして、腐敗した獲物を探し続けて、見つければ真っ黒な羽を伸ばして一直線に飛んでいく。そして、君は躊躇うことなく喰らう。美味い、美味いと言いながら、喰らい続けるんだよ。周りから見れば、君は卑怯で醜くて、少しだけ恐ろしく見える。だけど、君はそれを望んでいる。だから僕のことだって見捨てるんだろう?」
 わたしは泥水みたいに苦いだけのコーヒーを飲んでから言った。
「そうだね。どうしてか、わたしは悪を纏っていないと、息苦しくなるの。この世界がハッピーであると、じぶんが惨めに思てしまうの」
「だからって、人を傷つけて笑うことはないだろうさ」
 迷宮入りしたわたしの正義も、愛も、どこかで腐敗して、カラスに喰われている。わたしは堕ちた人間。そこから這い上がる蜘蛛の糸など、とっくにちょん切られてしまっている。
「さようなら」
 祐希は呆気なくわたしの前から去っていった。わたしの心臓はヒクヒクと苦し紛れに動き続けるが、涙腺を刺激することはなかった。

 それから数年後。わたしにとって忘れられない出来事が起こった。祐希が、津波に飲まれて死んでしまったのだ。

 何も無くなった街。わたしは朝の日差しによってキラキラと光る海の水面を見つめ、穏やかに流れるはずのこの液体に、想像を拒否したくなる二面性があることを改めて知ってしまい、涙が溢れていた。わたしにも、微かだが人間の心が残っていたらしい。
「彼は、最後まで周りの人を助けてくれました」
 わたしの隣で説明してくれる女性、祐希にとって最後に愛した女性は、冷え切った手先をこすり合わせながら、こみ上げてくる感情をどうにか抑えようとしていた。
「祐希は、誰かのために生きることが何よりも大切だって言っていました」
 わたしが言うと、隣の女性は同意を表すように何度もうなずいていた。
「そうですね。だから、自分を犠牲にしてまで、誰かを助け続けたんですよ。声を出し続けて、一人でも多くの命を救う使命を背負っていたんですよ」
 女性は緩やかに微笑んだ。それは、祐希を大切にしてきたからこそ出てくる、温かみのある笑みだった。
「彼は、最後まで素敵な方でした」
 わたしは砂浜に転がっていた石を一つ摘んで、それを雲のない空にかざした。削られて、削られて、削られ続けて丸くなった、転がる石。
「そうですね。祐希は、わたしにとっても誇りです」
 神からも仏からも見捨てられたわたしが残されている道は、祐希のように生きること。闇夜でロンリーになって散歩するわけではなく、光の中で誰かと手をつなぐこと。
 わたしも、誰かを失ってしまう。簡単に失ってしまう。だから傷ついて、傷ついて、誰かを傷つけることが怖くなって、丸くなって、丸くなって、尖を無くして、眼球よりも丸っこい石になる。
「ここの鳥は、羽が綺麗ですね」
 わたしは自由な空を飛ぶ海鳥を見て言うと、一番最後まで祐希を愛してくれた女性は、「そうですね。まるで祐希みたいです」と言ってくれた。


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